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元町の夕暮れ ~万年筆店店主のブログ~

Pen and message.店主吉宗史博の日常のこと。思ったことなど。

垂水

2016-05-10 | 実生活

神戸市西部の垂水というところに住んでいます。

神戸に住んで、学校を出て、ずっと仕事をしてきたので神戸人だと言っているけれど、垂水の町の雰囲気は神戸とは違っている。

駅の南にすぐ漁港があって、淡路島が目の前に見える。

昔、塩谷からこちら(西)は播磨の国だったそうですが、そんな土地の雰囲気は簡単には拭い去ることはできず、住所が神戸になったところで昔からの西国の雰囲気は変わっていないのではないかと思います。

山がかなり迫っていた所だったので、町は谷沿いに山側へと拡大していき、山も切り拓かれました。JR垂水駅の乗降客は神戸市内では三ノ宮、神戸に次いで多いけれど、多くの人は切り拓かれた新興住宅街(と言っても20年以上は経っている)からバスで来ていると思われます。

私も毎朝垂水駅まで山陽バスに乗って出てきて、山陽バスに乗って帰ります。

20年くらい前までは私が乗る路線バスには、降りたい停留所を伝える降車ボタンがついていなかった。

今ではとても良い道になったけれど、以前商大筋は山道をそのまま舗装したような勾配がきつく、細く曲がりくねった道でした。

本来バスが通るような道ではなかったと思うけれど、山陽バスは走っていた。

その時のバスは今では考えられないけれど、車掌さんが乗っていて目視など運転の補助とお客のお世話をしていて、降りたい停留所の名前を車掌さんが言ったら、車掌さんに「降ります」と宣言してドアを開けてもらっていました。

中学、高校生くらいの頃、それが妙に照れ臭くて嫌だったけれど、今思うと何でもないことなのに。

バスに乗っていて、昔の山陽バスを映したポスターが目に入った。今年が創業80年記念とのことで、その写真ほど昔ではないけれど、そのポスターを見ていて昔のことを懐かしく思い出しました。


休暇

2016-05-08 | 実生活

連休最終日の夜の電車は人も少なく、休暇でなかった私でも寂しい気分になります。
それは連休というお祭りの終わりの雰囲気が漂っているからなのかもしれないと思ったりします。

ゴールデンウィークが終わろうとしている。今年は間に平日があって、連休感が少なかったという人もいるのではないかと思います。

でも長い人で10連休にもなり、それは月の3分の1にも及びます。

学校を卒業してからそこまで長い休みがあったことがなく、休みの少ない仕事人生を送ってきました。店で働いている以上仕方ないことで、店が多く休めばそれだけチャンスが減りますので、店が多く開いている限り店員の休みも少ないに決まっている。

サービス業の人はともかく、皆様はいつもより長く休まれたのではないかと思います。

皆さんの休日をいつも想像しています。

お子さんを連れて帰省される方、海外旅行に行かれた方など、皆さまがそれぞれの連休を満喫されたことと思います。

子供の頃、いろんなところに行った思い出がたくさんあるのは、父に休みがあったからだと今さらながらに思いました。

それでも当時普段の休みが日曜日だけというのが一般的だったので、普通の週末はきっとコンパクトに過ごしていたと思うけれど。

今の私は当時の父と同じ週1日の休みと夏と年末の長期休暇になっていて家族には不自由させているのかもしれない。

通常の休みが1日だけだと用事で終わってしまうし、3分の1日は書道で埋まっている。

でもそうしないと生きていけない仕事なのでどうすることもできないし、私自身は慣れてしまった。

 

最近ではそういう考えは少なくなったと思うし、当時も相当時代遅れだと思って見ていたけれど、休日出勤して仕事をすることが美徳のように思われていた。

上司や同僚たちが休日に出てきて仕事している姿を見て、周りの私たちも何となく心がザワついていたし、その姿を見て褒める上司もいた。本人たちは誇らしげに見えました。

休みは良い仕事をするためにあると思っていたし、特に店のように休みの時にお客様が来て下さる場所での仕事の場合、休みを他所で過ごさないと気付かないことがたくさんあると思うので、堂々と休んで、思い切り遊ぶべきだと思っていた。

休みは良い仕事をするためにあるという考え方自体がもしかしてズレているのかもしれないけれど、休みの中に仕事のヒントやお客様との雑談のネタがたくさんあって、自分を作っていると思っていて、休みが明けるたびに自分が変われているような気がしていました。


古いレンズ~味という曖昧な価値観~

2016-05-03 | 実生活

堀谷先生のペン習字教室のお仲間のSさんから、古いニコンのレンズを3本もいただいた。

最近お宅を建て替えられて、大量の段ボールがいつまでも開封できずに困っているSさんに、S糖さんがいらないレンズがあれば下さいと上手くねだった。私はそのおこぼれをいただいてしまった。

お礼も済まさないうちに早速ソニーα7にニコンのレンズを使えるようにするマウントアダプターを買いに行きました。

いつも使っているソニーのレンズよりも柔らかい、おおらかな感じの映りは古いレンズならではのものなのかもしれないと思っています。

ただ精度とか数値だけではない、味という曖昧なものが許される価値観が好きで、万年筆もそうだと思っている。

スペックだけではない、いろんな味わいがあり、使い手の好みがあるから私は万年筆とその世界に惹かれたのだと思います。

味わいというのはとても伝えにくく、誰もが同じように感じ取るものではないので、メーカーはスペックを追求してしまうのかもしれません。

他社が燃費に特化しているのなら、自社は燃費も努力するけれど違う魅力のある車を作るという発想があれば、いろんな悲劇は起こらなかったように思います。

話が反れてしまったけれど、万年筆はモノにはスペックで示すことができないいろんな味わいがあって、いろんな好みがあって、いろんな仕事の方法があるということを教えてくれるモノだと思っています。

 


物欲

2016-05-01 | 実生活


最近H田さんが買われた1Dと比べると自分のカメラがおもちゃのように思われる。物欲はこういう方向からも刺激される。しかし1Dは自分にはすご過ぎるけれど。

 

最も自分らしいものを厳選して、たくさん持たずにそのひとつをとことん使いこなすような、モノの少ない生活をしたいと思っていました。

自分にはこれがあるから大丈夫と、余計なモノを欲しないような生活が実際にも、精神的にも、片付いている理想的な美しい姿として憧れています。

しかし、実際の自分は写真を撮りに行く前と後には、必ず新しいレンズが欲しくなる。

今持っている24mm~70㎜のズームレンズで十分で、何の不満もないどころか使いこなしきれていないけれど、もっと寄れるレンズが欲しかったり、F1.2とか明るいレンズや通しで解放F2.8のズームレンズも使ってみたい。

靴は常に何らのものが欲しい。靴の良いものを知ると、もっと良いものが履きたくなって後戻りできなくなります。

自分の服装の中で他はあまりこだわりなく、気に入ったシャツなどは7着あって1週間同じ物を着れるようにしているほど、同じカッコでいたいけれど、靴だけはその時の気分でいろいろ選びたい。

鞄は季節が変わるたびに欲しくなる。そして万年筆は自分にとって一番重要な道具で、黒金の万年筆は何本でも欲しいけれど、もしかしたらこれは自分の仕事においての必要経費かもしれない。

それらをいちいち公表しないだけで、常に何か欲しいと思う気持ちが自分を動かしているのかとさえ思います。

でも物欲、何かを欲しいと思う気持ちは毎日を楽しくしてくれると思う。

それらを手に入れたらもっと楽しいし、欲しいと思ったら諦めずに手に入れたい。

必要最低限のモノだけ持って、余計なものを一切欲しない生活は美しいかもしれないけれど、きっと私には楽しくないだろうと思う。

私たちは欲しいと思う気持ちで生きている。


京都

2016-04-26 | 実生活

年に何度かは京都に行きます。

何年間かは年末年始を家族で京都で過ごすということをしていましたが、宿代が理不尽に高いような気がして止めました。

店に就職してからずっと、自分の仕事のヒントは京都にあるような気がして、京都を訪れては何か参考にできることはないかと思いながら歩いていました。

日本中で、これだけ世界中の人を惹きつける街は他にないと思いますし、庶民には理不尽に高いと思う宿代でも泊まりたいと思う人が後を絶たない理由が知りたいといつも思っていました。

豊富な観光資源がたくさんの人が訪れる理由だと思うけれど、この街に住む人たち、特に商売に携わる人たちの迷いのない態度は、使用人だったけれど商売に携わりながらもいつも迷っていた自分にはないもので、いつも気になっていました。

それだけ自分のしていることに自信がなかったのですが、自分の商売のヒントを得るため、自信を持ってできる商売のやり方を見つけるために、いつもシリアスな気分で京都の街を歩いていたような気がします。

前の休み、妻と写真を撮るために京都を訪れました。

京都の中で一番興味深いのは京都駅だと思っています。


たくさんの旅行者が電車を降りて、バスやタクシーでそれぞれの目的地に散って行くまさにターミナルで、世界中の人たちの幸せそうな笑顔を見ることができます。


岡崎から南禅寺、哲学の道という王道のルートを歩きました。

歩いていると暑くて、上着の存在が邪魔になって、もう季節は変わっているのだと実感します。


何かを学び取りたいという気持ちは今も変わらないけれど、暗い気分ではなくなっているし、写真を撮り始めるとそんなことも忘れてしまうけれど。


何のためにするのか

2016-04-24 | 実生活

何のために書いているのかということをいまだによく考えます。

考え込むのではなく、その都度電球が灯くように気付くことがあります。

以前、万年筆を使っていることを証明するため、書くことは楽しいということを訴求するためにブログを書いていると言ったけれど、それだけではなかった。


自分が若い時、人生の先輩たちは一体どういうことを考えて生きているのだろうと思っていました。

その人たちの考えを聞いて、参考にしたい、勉強したいと思っていました。

幸い私にはそういうことを話してくれる何人ものお客様方がいて、いろんなことを教えてもらって、何とかここに居ることができている。

その人たちの教えがなかったら、考え方の考えを知ることがなかったら、ボンクラな自分はきっと同じ場所で今も途方に暮れているか、何も知らずに幸せに暮らしていたのだと思います。

自分だけの考えではなかなか道は開けないので、何らかのヒントを探している人は若い人の中にはたくさんいて、私のようにラッキーな出会いに恵まれていない人もたくさんいるだろうと思っています。

私が書くことで、人生の先輩の考え方を聞く機会のない人が少しでも参考にできることがあればと思っています。

対象は若い頃の今よりさらにボンクラだった自分だった。

先輩の教えをそのまま鵜呑みにするのではなく、その考え方のみを大いに吸収するようにしたらいいと思います。

考え方を吸収して、行動を起こす時は自分の責任で動く。

そういえば私がこのブログや他のものを止めずに書き続けている一番の理由は、誰かにやらされたわけではなく、自分で始めたことだから何が何でもやらなければならないということで、もはや書く理由でも何でもなくなっているのだと気付きました。


お見舞い

2016-04-17 | 実生活

馬鹿でノロマで、困っている人、辛い想いをしている人に言葉をかけられない。

「大丈夫?」という自分の言葉が空々しく聞こえるのではないかと思うと、そして相手の辛さに対してその言葉があまりにも軽いと思うと何も言えなくなってしまいますので、自分の代わりに誰か他の人が声を掛けていることに、そして行動を起こしてくれていることに感謝しています。

九州には3回しか行ったことがないけれど、どれもとても楽しい思い出で、私には天国のような場所に思っていましたし、ぜひまた訪れたい場所でした。

中学校の修学旅行では島原から熊本までフェリーに乗って、熊本から阿蘇に行きました。

神戸とは全く違う大きな景色、いつ噴火してもおかしくないと思わせる煙のあがる火口に圧倒されました。

自分の立っている地面が大きく揺れるという、あの感覚を一度経験すると忘れることができないし、それは絶対に慣れることなどない。

あの恐怖の中、何日も外で過ごしている人の気持ちを考えると本当に何て言っていいのか言葉が見当たらない。

将来連鎖的に起こる大きな地震の心配を今はしてほしくないと思う。

今被災している人たちのこと、亡くなった人のことを想いたい。

 

 


マニアック神戸

2016-04-10 | 実生活

少し前の3月末定休日、布引ハーブ園に妻と写真を撮りに行きました。

街の方からハーブ園に上がるロープウェイをいつも見ていて、いつかあれに乗ってみたいと思っていましたが、そのままになっていました。

あまり遠くに行く時間がなかったけれど、せっかく書道教室がお休みなのでどこかに行って写真を撮りたいと思って思い付いたのがハーブ園でした。

新神戸のクラウンプラザホテル(旧オーパ)の裏からロープウェイは出ていました。

帰りはハーブ園を歩いて降りてくるからと、行きだけのチケットを買ってロープウェイに乗り込みました。

とてもきれいで、新しいロープウェイは快適に、街の景色を楽しませてくれながら山頂に連れて行ってくれました。

神戸は街と山がとても迫っていて、山中にトレッキングコースのようなものがありますが、どれも古くからある道のようです。
ハーブ園もそんなトレッキングコースのひとつを開拓したような、山道を広げたようなレイアウトになっています。

 

ハーブが植わっているだけなのでは?思っていましたが、なかなか楽しく、名も知らぬ植物の写真をたくさん撮りながら歩くことができました。

当然観光で来ている人が多く、外国の方も多かったけれど、皆楽しそうな観光地の雰囲気を私たちも味わうことができました。

私は勝手にハーブ園は街の手前まで続いているものだと思っていましたが、中間地点あたりで公園は終わってしまいました。

そこからは普通のトレッキングコースを降りて行く。

 

妻はスニーカーでしたが、私はそんなつもりではなかったので、ラバーソールではあったけれど革靴を履いてきてしまった。

かなりハードな山道を下りながら、予期しなかったちょっとしたアドベンチャーを楽しみました。

すぐに布引貯水池に着きました。

道はそこから渓流沿いに下っていきますが、途中何人もの人とすれ違う。それも観光で来ているような、外国の方が目立ちました。

舗装されていない山道でしたが、ヒールの女性もけっこうおられ、街からすぐに上がってくることができる、神戸の街ならでは光景かと思いました。

初めて布引の滝を見ました。

山を下りると新神戸駅に出ました。

街からすぐに上がって行くことができるとても行きやすいところにあるけれど、皆さんはガイドブックなどを見て、ここに行こうと思ったのだろうか。

35年以上神戸で生きている神戸人のつもりでいるけれど、まだまだ知らない場所はあることを改めて知りました。


心の余裕

2016-04-03 | 実生活

中学校前の角の桜が満開です。

 

久し振りに小説を読んだ。

最近映画化されて、私も観に行きたいと思っている「エベレスト~神々の山嶺~」です。

大変ぶ厚く、何か得した気分がしたくらいとても長い小説で、本当に読み切れるか少し心配でしたが、厚い方が少しでも時間があると読もうとするのか、かえって短時間で読むことができました。

もちろんストーリーは書かないけれど、私はエベレストとか、アラスカとか、むき出しの自然ととても寒い所に興味があるようです。

それらは自分の日常からかけ離れた所だと思っているからかもしれません。

実際にこういった小説から得られる知識とかノウハウは皆無だと思うので、テレビを観るのとそう変わりはないけれど、観たい時に好きなものを観ることができるのがテレビと違うところです。

こういう仕事と関係のない本を読むことは、時間や心にゆとりがないと読むことができないけれど、自分の仕事は遊び心が大切だと思っているのでなるべく読んだ方がいいと思いました。

でもどんな仕事でも「おもろい」と思う心がないと上手くいかないと思うし、これを読みたいという好奇心を排除していくと、私はどんどん面白くない人間になっていってしまうと思い始めました。

小説を読みたいと思った時、靴を磨いていないことに気付きました。

履いた後にブラシ掛けはしていたのでひどいことにはなっていなかったけれど、休みの日もそんな時間はないと、少しの傷や革のカサつきも見て見ぬふりをしていました。

好きで買った靴を磨くのは、自分にとって最も楽しい時間のはずでしたが、それに時間を割く心の余裕がなく、それによって心が癒されていたことを忘れていました。

文章を書くことは好きで、いろんな締め切りに追われながらも楽しく書いているけれど、おもろいと思う気持ちを補充しないと書けなくなるような気がします。

自分が最も楽しいと思うことをせずにいることは「おもろい仕事」ができなくなる要因だと思いました。

仕事とプライベートの時間をはっきりと分けて、仕事と全く関係のない趣味で気持ちをリフレッシュしたり、リセットしたりするためにしているわけではないし、趣味のために仕事をしているわけではない。

いい仕事をするために本を読む、靴を磨くということをする心と時間の余裕がいるのではないかと思いました。

年が変わったのに、気分は昨年をひきずったままであることに気付いて、4月から新たに2016年を始めたいと思いました。

 


2016-03-29 | 実生活

私が茶道とか、書道など、道のつくものに惹かれるのは、その背景にある生き方や美意識の教えがあるからです。

書道を習い始めたのは、ペン習字教室講師の堀谷先生の影響があったり、文字をきれいに書けるようになりたいという目的があったからですが、万年筆屋として書くことにこだわる生き方を提案しながら、書くことにこだわる道を説く書道をしていないことに後ろめたく思っていたからです。

書道をしていないことで、今まで肩身の狭い思いをしていましたが、やっと万年筆屋として堂々と名乗れる態勢に入ってきたと思っています。

道というのは、ただその行為を上手くできるだけではダメで、その行為に相応しい人格も形成しておかないと、その道を修めているとは言えません。

もしかしたら、道とつくものの多くが日本人の興味を引かなくなったのは生き方、身の処し方を習えなくなってきて、習い事になってしまったからなのかもしれないと思うことがあります。私の偏見だけど。

それぞれの道を通して生き方を学び、生きる上での道理や作法も学ぶ。

そういうことは家庭や学校ではなかなか難しいのかもしれません。

正しい、正しくないかではなく、その道に照らし合わせて恥ずかしいか、恥ずかしくないか、感心されるか軽蔑されるかのような、法律や慣習では判断できないような判断基準を知ることができるのが、道なのではないかと思います。

47歳にもなっていまだにそんなことを学ばなければいけないのは、とても頼りないことだけど、間違ったことをしていないからええやろと厚顔無恥に言うような人間にはなりたくないし、お客様方に感覚的に嫌だと思われたら、次は来ていただけないというのが店なので、道を知ることはとても大切なことだと思うのです。