元町の夕暮れ ~万年筆店店主のブログ~

Pen and message.店主吉宗史博の日常のこと。思ったことなど。

仲間たち

2005-12-28 | 万年筆
万年筆の仕事に携わって6年くらい経ちますが、私なりに人脈というか社外に仲間と呼べる人たちができました。
どの人も私よりも意欲的でそれぞれ独特の世界を持っていますので、話していてとても勉強になります。
私と同じくらいの年齢でそれぞれ所属する会社ではとても重要な役割を持っている人たちばかりですが、なぜか私と付き合ってくれます。
彼らがよく言ってくれるのは、会社の看板は関係ないということです。
私も彼らには会社の看板など関係なしに、その人の魅力で付き合っています。
私はずっと店の中にいますので、外の世界で起こっていることにうとくなってしまいますが、彼らからいろいろな情報を教えてもらっています。
彼らとは休みの日に会って話したり、メールや電話で連絡を取るようにしていますが、エリートな彼らの知力とエネルギーに感心しています。

私を変えた旅

2005-12-25 | 万年筆
20代になったばかりの頃、アメリカに留学している友人の家に遊びに行きました。
軽い気持ちでアメリカに渡りましたが、そこで過ごした1ヶ月足らずの日々は私の心に革命を起こしました。
友人宅のあるアトランタからニューオーリンズへ旅し、ジャズクラブで生のジャズ演奏を見たり、フロリダでの冬の海水浴をしました。
その旅でロードムービーに出てくるようなドライブインのダイナミックなアメリカンブレックファストを食べたり、いかにもアメリカらしいまがい物の中華料理を食べたりしました。
友人と別れて、泊まる場所も決めずに一人ニューヨークに旅立ち、行く先々で身振り手振りと片言の英語でコミュニケーションし、そのまま数日かけてニューヨークの隅々までまわりました。
日本で私のことを心配している家族や彼女のことを全く忘れて、アメリカでの生活を満喫していたのでした。
それまで結構細かいことが気になる性格だったと思いますが、アメリカの旅を経験した後は大抵のことは何とかなると考えてしまう、超楽観主義者になってしまいました。

心の故郷

2005-12-23 | 万年筆
亡くなっていませんが母の実家が長野県の川上村というところにあります。
とても寂しい峠の村で山の向こうは埼玉県と群馬県との県境があり、標高も1000mを超えるところです。
夏でも朝晩は寒いくらいで、冬は-40℃にもなりますので、きっと今頃は村中氷ついていると思います。
そんな厳しい自然に向き合っている村が私の故郷です。
子供の時から1年に3,4回は帰っていて、本当にたくさんの思い出があり、今の私の人間形成にあの村が大きく働いているのではないかと思っています。
寂しい高原鉄道のローカル線の駅、見渡す限りのレタス畑、星がいっぱいの夜空、冷たい湧き水、そして大きくそびえる八ヶ岳。
そんな風景を見ながら、都会とのギャップを感じながらずっと育ってきました。
街の生活に疲れた時、心の中にいつもある故郷を特に思い出します。

千利休3 利休の最期

2005-12-21 | 万年筆
利休の最期は豊臣秀吉の怒りをかっての切腹でした。
その理由は天皇も秀吉も参る大徳寺山門上に自分の像を立てさせたからだとか、茶器などの売買で不当に高い値段を付けたからだとか言われていますが、これらの罪状のこじつけは天下一の偉大な茶頭にして大名たちの人望も厚かった利休のことを煙たく思っていた秀吉の側近たち、石田光成たちの企てが大いに働いていたようです。
秀吉は利休を茶頭を超えたブレーンとして信じていましたし、利休もこれに応えようと秀吉の横暴な行為にも怒りを表すことなく、耐えて仕えてきました。政治的な助言も秀吉に求められれば、利休なりの意見を言ってきました。
石田光成たちの讒言を聞き入れた秀吉は利休に切腹を命じます。
利休が命乞いをしていれば秀吉は許したのではないかと言われていますし、北政所、大政所、前田利家、細川忠興など秀吉の側近の中でも特に力のある人たちの助命運動や命乞いをするように利休を説得の働きかけがありましたが、利休は応じず切腹してしまいました。
雷鳴が轟き、雹が降るという大荒れの天気だったそうです。
きっと利休は茶の湯のセンスにおいて心の中で見下していた秀吉に平伏して従ってきた自分が嫌になったのだと思いました。
そして秀吉の今までの不条理な行いへの抗議もあったのでしょう。
最期に切腹することで、利休は何よりも大切な”誇り”を守ったのです。
自分の誇りを守るということは勇気が要り、エネルギーの要ることですが、大きな力に逆らって誇りを守った利休の潔い最期に、死ぬまでその茶の湯の精神を貫徹した姿を感じます。

土曜の午後の楽しみ

2005-12-19 | 万年筆
隔週土曜日に経営講座を受けに行っています。
中小企業診断士の方の講習を聞き、受け答えをしたり、理論的な企業分析を勉強したりと今までやったことのなかった勉強をしていますが、非常に楽しんでいます。
もともと理屈っぽいことが嫌いではなかったので、こういった理論も理解しようと努力していますし、自分から進んでこの講座に申し込んだためかどんなことでも吸収して、自分の役に立てようという意欲が湧いています。
この講座がいつ役に立つのか分かりませんが、今は勉強することが楽しいと感じています。

お茶

2005-12-15 | 万年筆
ちゃんとした作法は知りませんが、一人でお茶を立てて楽しんでいます。
茶道具というほどのものは持っていませんが、自己流で、でもこだわりを持って、気に入って揃えたささやかなコレクションです。
どんなものでも興味を持って見ているとそれなりに好みが出来てくるのは不思議ですね。
茶碗はたまに100均などにも良い風合いのものがあったりしますが、この茶碗は元町高架下の骨董屋さんで見つけたものです。
小さくて浅い茶碗に合わせて、野点用の茶筅を京都清水下の古道具、土産物屋さんで買いました。
お茶入れは桜の木の皮が張られたもので、私のコレクションの中で一番張り込んだ物です。
茶杓は煤竹ともう一人前の茶人気取りです。
どの道具にも手に入れた時の思い出があり、非常に大切にしています。
でもこういった自分の感性による道具のコーディネートはなかなか楽しいものです。

写真を撮る

2005-12-14 | 万年筆
絵を描いてみたいとずっと思っていましたが、絵心がなく、たまにキャラクターの絵を同僚に描かされることがありますが、いつも大笑いのネタになっています。
私はなるべく自分の頭の中にあるイメージに忠実に描いているつもりですが、絵心がないというのはそのイメージが捻じ曲がっているのかもしれません。
それでも文章以外に自分の頭の中にあるものや心に留めていることを表現できる方法はずっと手に入れたいと思っていました。
そんな時にデジタルカメラを手に入れました。
フィルムカメラと違い、撮り損じたらデータを消去してしまえば済みますし、拡大縮小も思いのまま、カラー写真をモノクロにすることもできます。
これは私のように写真のテクニックのない者の未熟さを補うことのできる魅力的なものだということをデジタルカメラを使い出して初めて知りました。
今では旅先の風景や日常でずっと気にしてきた風景などを撮っています。初めて趣味のようなものができた、それが写真を撮ることです。

”Be My Last" 2006年用のクォヴァディス

2005-12-10 | 万年筆
年が変わり、心機一転したいと思ったときに、手帳を今までと違うものにしようと思うのは誰もが同じだと思います。
私も来年の手帳として、クォヴァディスエグゼクティブノートを選び、日付が始まった12/5から使い出しています。
私はずっとバイブルサイズの薄いファイロファックスにノックスの片面1ヶ月のリフィルを入れて使っていました。
予定を時間で整理する必要があまりなかったのと、どちらかというと記録としてのメモを使うことの方が私の仕事内容として合っていたからです。
手帳を違うものにしたいと思った理由は、来年2006年が私の人生において、新しい展開を見せる年だと思ったからです。
エグゼクティブノートを選んだのは、フリーに書けるメモ欄が大きかったのと、手帳としては大きい、タテヨコ17cmという不思議な大きさがかっこいいんじゃないかと思ったからです。
使い出してみると、万年筆によく合う紙質やエレガントなフォントの形などなかなかセンスの良いてちょうだということが分かりました。
これなら大雑把な私も、この手帳にまめに書き込むでしょう。
そしていつまでもこの手帳を肌身離さず自分の傍らに置いていたいと思っています。

千利休2

2005-12-09 | 万年筆
利休が二人目の奥さんになる宗恩と出会ったのは30才になるかならないかの頃のことです。
その時宗恩は能楽者宮王三郎の妻で、後に千家を継ぐ少庵はすでに生まれていましたが10代後半でした。
出会った時から何かピンとくるものがあり、宗恩はずっと利休の心の中に住み続け、宗恩の心の中にも利休が住み続けたと考えると、その20数年後二人が再会した時にすぐに男と女の関係になってもおかしくないのかもしれません。
その恋を成就させた二人は二度と離れることはありませんでした。
こんなにも長い間お互いを想い続けていたというのは、女性に困ったことがないと言われている千利休にとって、宗恩という女性は余程特別な存在だったのでしょう。
常に複数の女性と関係を持ち続けていながら、彼女のことを忘れることなく運命に導かれるように恋を実らせるとは、茶道の祖、空間のアーティスト千利休はなかなか情熱的でロマンチックな人物だったようです。

初めての万年筆、初めての手紙

2005-12-05 | 実生活
今では万年筆をいくつも持っていて、それは彼の生活になくてはならないものになっているけれど、初めて使った万年筆のことはずっと忘れていた。
彼がその万年筆、プラチナプレピーのことを思い出したのは本当に最近のことだった。
小学校6年生の時、気まぐれで駅前の大きな文房具屋さんで緑のカートリッジインクと一緒に買った。
しばらく使っていたけれど、年賀状を書いたのを最後に使わなくなった。
中学校に上がるのと同時に転校しなければならなくなった彼は、大好きな彼女とも離れ離れになってしまい手紙を書く約束をして別れた。
中学生になったばかりの彼でも手紙は万年筆で書きたいと思ったようで、机の奥にしまってあったプレピーを引っ張り出して、彼女に手紙を書くようになった。
その文通は1年くらい続いたのかもしれない、プレピーはクラスメイトの女の子との交換日記にだけ使うようになってしまったけれど、遠くに住む彼女への気持ちや新しい土地での不安、クラブ活動のことなど様々なことを書きあったあの初めての手紙でのやり取りがあったから、彼は今万年筆を愛用しているのかもしれない。