自分のやっていること、仕事などを声高にアピールするようなことが嫌いでした。黙々と形にして、出来上がったら黙って差し出す。
それが自分の美学だと言うと聞えはいいけれど、組織にいたとしたら上司はとても使いづらい人間だと思っただろう。
自分の仕事をもっとアピールするべきだと言われたこともあるけれど、それは美学に反していたし、それを拾い上げて活用するのが、上司の仕事だろうとさえ思っていました。
茶道のお点前では、なるべくさりげなく、こじんまりと所作を行うことが良しとされていると思っているし、お茶が点つと沈黙の中に敬意と優しさを込めて慎み深く差し出す。
けっして大げさなアクションでお茶を点てて「おいしいお茶が入りましたので、温かいうちにお召し上がり下さい」とは言わない。
そんな茶道の美意識のようなものが、私のモヤモヤと心の中にくすぶっていた考え方にピッタリと合い、気持ちの持ち方や態度を代弁してくれるものになっている。
千利休や古の人たちが大切にした、とても日本的な沈黙の中の相手への思いやりと優しさの示し方は、現代の日本においては理解されにくくなっているし、家庭の中でもはっきり言わないといけないという風潮になっているのではないだろうか。
国際競争に中でも、日本人の慎み深さが売り込みにおいて不利に働き、日本の企業は販売において苦戦が強いられていると聞いたことがあります。
しかし、それは本当に慎み深さのせいなのだろうか、もしかしたら反対で他国に惑わされて日本らしくない売り込み方をしているから苦戦しているのではないかと思うことがあります。
美学を捨ててまで売らないといけないものは、結局価値がなく、美学とともに黙って差し出されるものの中に価値のある本当にその人が伝えたいものがあると私は考えていて、時代遅れで多くの人から賛同を得られない考え方かもしれないけれど、たまには呟いておきたいと思っています。