元町の夕暮れ ~万年筆店店主のブログ~

Pen and message.店主吉宗史博の日常のこと。思ったことなど。

沈黙の美学

2015-05-31 | 仕事について

自分のやっていること、仕事などを声高にアピールするようなことが嫌いでした。黙々と形にして、出来上がったら黙って差し出す。

それが自分の美学だと言うと聞えはいいけれど、組織にいたとしたら上司はとても使いづらい人間だと思っただろう。

自分の仕事をもっとアピールするべきだと言われたこともあるけれど、それは美学に反していたし、それを拾い上げて活用するのが、上司の仕事だろうとさえ思っていました。

茶道のお点前では、なるべくさりげなく、こじんまりと所作を行うことが良しとされていると思っているし、お茶が点つと沈黙の中に敬意と優しさを込めて慎み深く差し出す。

けっして大げさなアクションでお茶を点てて「おいしいお茶が入りましたので、温かいうちにお召し上がり下さい」とは言わない。

そんな茶道の美意識のようなものが、私のモヤモヤと心の中にくすぶっていた考え方にピッタリと合い、気持ちの持ち方や態度を代弁してくれるものになっている。

千利休や古の人たちが大切にした、とても日本的な沈黙の中の相手への思いやりと優しさの示し方は、現代の日本においては理解されにくくなっているし、家庭の中でもはっきり言わないといけないという風潮になっているのではないだろうか。


国際競争に中でも、日本人の慎み深さが売り込みにおいて不利に働き、日本の企業は販売において苦戦が強いられていると聞いたことがあります。

しかし、それは本当に慎み深さのせいなのだろうか、もしかしたら反対で他国に惑わされて日本らしくない売り込み方をしているから苦戦しているのではないかと思うことがあります。

美学を捨ててまで売らないといけないものは、結局価値がなく、美学とともに黙って差し出されるものの中に価値のある本当にその人が伝えたいものがあると私は考えていて、時代遅れで多くの人から賛同を得られない考え方かもしれないけれど、たまには呟いておきたいと思っています。

 

 


勝手な印象

2015-05-26 | 実生活

私の非常に限られた範囲と中途半端な人生経験の結果で、独断と偏見の思い込みによるものなので、真に受けていただくと困ってしまいますが、一般的な男性と女性の印象について書かせていただきます。

男性の場合、初対面の印象がその人を物語っていることが非常に多いと思っています。

初対面の時の印象が、知り合ううちに変わっていったとしても、やはり初対面で感じた印象が合っていたということが当てはまることが多い。

女性の場合、ほとんどが逆であることが多く、気が強い人だと思っていたら、意外とそうでなかったり、その逆もあったりして、初対面で優しい女性には気を付けなさいという教訓がそこから感じ取れます。

ほとんどの場合、女性は私の逆をついてくるけれど、それは私の周りに女性が少なく、サンプル数が足りていないことも理由にあるのかもしれません。

逆をついてくると言えば、私がこっちだと思った方角は大抵逆で、いつから方向感覚が180度ズレてしまったのだろうか。

話を戻すと、モノの好みについては男性はなかなか、一筋縄ではいかない、二面性ともとれる奥の深さを見せてくれます。

上品な感じの人だからエレガントなものが好きかと思うと、素材感溢れるワイルドなものが好きだったり、ワイルドな感じの人がエレガントなものを好んだりして、男性の場合はここで逆をよく突かれます。

私より年上のオジサンが意外とロマンチックだったりするがよくあって、そんな時その人の意外な面を見ることができてよかったと思います。

私はテレビ番組でも音楽でも書物でもシリアスなものが好きで、書くこともなるべくシリアスに書きたいと思っていて、あまりお笑い的なものは好みません。
だからシリアスな人間かと言うと、真逆でシリアスになる努力が必要なほど。
だから笑いのセンスがあるかと言うと、笑いのセンスはそれを避けてきたためか全くダメで、ブログを書く関西人にあるまじき存在だと認めざるを得ない。

でも面白いことを書いている人はそれを書くために、悩み、苦しんでそれを生み出していると、ひがみ根性で思っている。

 

 


店主の見栄

2015-05-24 | 実生活

散髪に行った時に先客がいると1時間くらいは待たないといけないので、少しがっかりします。

私の前に待っている人までいたら、2時間近く待つことになり、それは私が行っている店が予約を受け付けていないから、ということも理由でもあるけれど、もう10年以上親子でそこに行っているので、今さら違うところに行くつもりもないけれど。

お客さんの待ちが出ている時、少しは焦る気持ちはあるかもしれませんが、待たされている私たちの気持ちに反して、マスターは嬉しそうに見えます。

やはり自分の店がヒマよりも忙しい方がいいに決まっていて、それが自分の生活の保証になります。

でも、お客の立場であったら店は空いている方がいいと思ってしまいます。

立場によって、混んでいる、空いているの感じ方は正反対で、例えばお客様が当店に来られて、「空いていてよかった」と言われても、私にとっては「空いていていいはずないやろ」ということになります。

もちろんそれを口には出さないけれど、「今日はヒマですね」(無邪気に)とか「珍しくゆっくりですね」(かなり気を使った言い方)と言われると、「いつもこの曜日はゆっくりで」とか「もう少し遅い時間からですかね」などと、そのヒマさが想定内であることを装います。

これは店主の強がりあるいは見栄なのだと思います。

それと同じような感覚で、「忙しいですか?」と聞かれたら、忙しくても「いやそうでもないですよ」と言い、けっして忙しいとは言わない。

忙しいことを認めないのも、強がりのような、見栄のような感覚で、お店をされている方は反射的にそう言った方がいいような気がするからなのだと思います。

「売れてますか?」「景気はどうですか?」と聞かれて、「ボチボチですね」と言うのも、本心や現状を悟られないようにする防衛本能と言うと大げさですが、忙しそうに見えても、ヒマそうに感じられても、お客様が離れたら困るという気持ちから出る言葉なのだと私は思っています。

 

 

 


プラチナ萬年筆工場見学

2015-05-19 | 仕事について

プラチナ萬年筆工場見学は、ペンランドカフェさん、ブングボックスさん、ペンズアレイタケウチさんの各代表、東海ペンクラブの皆様と参加しました。

当店からは現地駐在スタッフと言ってしまうけれど、ランティングラボのH房さんと大和出版印刷の多田さんが参加してくれました。

大宮駅の豆の木前という、大宮の待ち合わせの定番の場所で待ち合わせ、何でもできる頼れる人東海ペンクラブのK藤さんが運転するマイクロバスで越谷まで行きました。

工場は、郊外のもともと農村の集落だったようなところの中にあり、普通の住宅と隣接していました。

全体の広さは見ていませんが、かなりコンパクトな印象でした。

そういえばイタリアで見たオマスの工場も大きくはなかった。

工場ではペン先の製造過程を見学させていただきました。

ひとつひとつの工程が分かるように、その工程で何をしているかパネルを用意して下さっていて、ナビゲーターの女性がひとつひとつ説明をしてくれましたし、それぞれ作業をされている方に質問をすると、親切に教えてくれました。

ペン先の製造工程は、メーカーによってそんなに変わるものではないけれど、万年筆の命であるペン先が生まれるところを見るのは、何か意義深いことのように思いました。

万年筆のペン先は、人の目で確認し、人の手で作業しているためにどうしても個体差が出てしまいます。しかし、日本の万年筆は人間力によってそれが少ない。特にプラチナの万年筆には修正不可能な致命的なものはほとんどないと思っていましたが、今回の工場見学で1つ1つの工程ごとに入念にチェックされているところを見て、丁寧に行われる作業によってそれを実現しているのだと知りました。

工場で働いている人は、意外と若い人もおられて世代間の技術の継承も行われている様子。

黙々と自分が任されている作業をこなす人たちの背中を見て、名前はその製品に出ないけれど、ここにおられる工場の人たちの技術によって万年筆が生み出されているのだと、感慨深く思いました。

お仕事中に大人数で押しかけたにも関わらず、気持ちよく応対して下さった工場の方々や、サプライズで来て下さった中田社長に感謝して、工場を後にしました。

工場見学の後、南越谷駅前のお店で食事会、懇親会となりました。

ペンランドカフェの高木会長や荻店長とお会いして話すことができたり、ブングボックスの山岸店長とも楽しく話すことができて、横のつながりのようなものもできたプラチナ萬年筆工場見学ツアーで、今後も活動していけたらと、私も思っています。

 

 


東京

2015-05-17 | 実生活

東京のこと、そこで起こっていることは気になっていて、数年に1度は見に行きたいと思っています。

先日、プラチナ萬年筆さんの工場を見学するツアーに参加して、その流れで東京に行ってきました。

東京はいつも新しいものができていて、古い何かが壊されています。神戸にもそれはなくはないけれど、そのスピードが全然違います。

今日行列ができている店に、明日行列ができているわけではなく、違う店に行列ができているのかもしれません。

それほど東京は移り変わりが早く、物事がすごいスピードで進んで行く。
そのため自分の仕事が世に受け容れられていけるかどうかという、答えが出るのも早い。

当店の答えはまだ出ていないと思っているけれど、東京にいたとしたら答えはどのように出ていたのだろうか。

東京では、その時話題になっているお店をチェックしていて、なるべく見に行くようにしています。

そんなつもりもないですが、きっと東京で見たものをそのまま持って帰って真似ると上手くいかなくて、それらを見て自分はどうするのかを考える機会が東京での店舗視察だと思っています。

東京はもしかしたら、世界で一番たくさんのモノがある街のひとつで、東京にないものはないと断言できるほどだけど、東京のやり方はきっと東京でしか上手くいなかくて、神戸には神戸のやり方があると思うので、本当はこの街をお手本にしていても仕方ないことも分かっているけれど。

日本全体を見た時に、人もお金も東京にどんどん集中していく状況を、決して健全なことではないと思えて、地方でやっていくと思っている私は、それぞれの地方が持ち味を生かして日本の隅々まで活気に満ち溢れて欲しいと思っています。
そこに地元を離れることができない臆病さもあることは認めなくはないけれど。

田舎者のひがみですが、そんな狭い所に密集しなくてもいいのではないかと、東京に行くたびに思い、そこでの暮らしは余程タフでないとやっていけないように思っています。

東京の街や人々は、その過密さや移り変わりの早さをずっと受け容れてきていて、私たちのような地方に住む人間はその移り変わりについていけず、変わっていく新しいものが全てではないと、変わらないものを求め、探し続けているのかもしれません。

 

 


言葉のスピード

2015-05-12 | 実生活

 

5月14日(木)当店は臨時休業とさせていただきます。プラチナ萬年筆の工場見学、店舗視察に行ってきます。
ご来店を予定されおられた方、誠に申し訳ありません。お気を付け下さい。

 

何度か書いた話ではあるけれど、言葉や物事に対して咄嗟に言葉が出る人の反射神経の良さに敬服しているし、自分も言葉の早さを身に付けたいと常々思ってきました。

私の言葉の遅さは重症で、感情を害すべき言葉や物事に対して、その瞬間には何かモヤっと心の引っかかっても、それに対して怒りを覚えるべきか、そうでないのか考えているうちに時間が流れてしまう。

そんな時、後から考えて悔しい思いをしたり、腹が立ったりするけれど、その感情には臨場感はなく、風呂に入って寝て忘れるしかなくなっています。

そうやって考えると、言葉が遅いと書いたけれど、口がが遅いのではなく、頭の回転が遅いのかもしれないと、少し自分のことが心配になってきます。

40代も後半になって1年半が経ちとっくに四捨五入すると50歳になってしまっていて、そろそろ最後まで自分の足で立って、最後まで自分の頭で考えることができているだろうかということをリアリティを持って考えるようになってきました。

老人になっても、息子の世話にならないように生きていきたい、仮に一人になったら、山小屋で一人で生きていきたいといつも思っています。

脳トレのようなことはしていないけれど、人の名前などや単語をど忘れしても、なるべく思い出すようにしたり、無駄な努力はしているけれど、はじめに書いた言葉の反射神経は一向に良くならない。

瞬間、瞬間で面白いことや、切り返しができる人たちが周りにはたくさんいて、とても感心して見ているけれど、その人たちは考えているのではなく、脊髄反射で言葉が出てくるのだと言う。

きっと長年の訓練の賜だと思うと、私には無理かもしれないと諦めそうになります。

 


開店前の散歩

2015-05-10 | 実生活

朝店に来て、ブログを書こうかどうしようか一瞬迷いましたが、頭の中に考えの断片のようなものもなく、散歩に出ることにしました。

店から散歩に出る時、どうしても海側ではなく山側に行ってしまいます。

海側は観光客の人が多くおられて、楽しそうな雰囲気があり良いですが、私は山の緑に惹かれ、そういうところから町を見たりするのが好きなようです。

カメラを始めたばかりで、得意な被写体などはありませんが、こんなものが撮りたいというイメージはあって、直接的ではなく、人の営みのようなものを想像させるものをなるべく撮りたいと思っている。

写真を撮って、それが撮れていることはほとんどないけれど、でもたまたま撮れた中にまだマシかと思えるものがあれば、ブログに載せたいといつも思っています。

店から10分も山の方にいくと、山に入り、谷沿いにいくつもトレッキングコースがあります。頑張って急斜面を上がって行きましたが、革靴で歩いているのが恥ずかしくなって、店の開店時間も迫ってきましたので、帰ってきました。

次はせめてスニーカーで、もう少し早く出ようと思いました。


開店前

2015-05-05 | 実生活

1日おきに店の掃除をして、日曜日と火曜日にブログを更新して、金曜日には茶道教室に行く私の朝は意外と忙しい。

でもそんな毎日の中で、たまに写真を撮りに行っています。

特別な所に行くわけではなく、通勤途上途中下車して、次の駅まで歩いたり、店の周りをブラブラ歩きながら撮る程度だけど、気分が変わってなかなか楽しい。

完全に趣味でしていることなので、仕事にシワ寄せがあると嫌だし、長く続けられないと思うのでなるべく毎日の仕事に影響が及ばないようにしている。

そうやって撮るものは、本当に何でもない景色で、撮ろうと思わないと撮らないようなものばかりで、そういう日常の風景を写真にできる人に、私もなりたい。

そういう人たちが周りには結構おられて、心から尊敬している。

今日は三宮で降りて、北野周辺を歩いてから店にたどり着きました。


アラスカに出会って

2015-05-03 | 実生活

 

今まで何となく西洋文明への憧れがありました。

向こうの歴史的なもの、街並み、発信されるカルチャーなどに憧れて、自分の生活や仕事の参考にしたりすることもありました。

それはアジアなど自分たちの文化よりも美しく、洗練された、進んだものであるような気がしていました。

テレビなどメディアなどでも西洋文明への憧れや賞賛するものは多く見られ、まるで私たちは欧米をお手本にしないといけないように述べられることもあります。

でもちょっと違う、西洋文明はよそ行きの文化なのではないか、そして我々は本来生き方にも反映される精神性の文化を持っているのではないかと考えさせられ、今世界の本流になっている西洋志向に流されてはいけないと思うようになったのは、アラスカを撮り続けた写真家星野道夫氏の本を読むようになったこともひとつのきっかけです。

力づくでヨーロッパ以外の地域を支配しようとした国々の文化に何で染まらないといけないのか、自分たちの精神を失ってしまったら、国土を占領されているのと同じではないかと思い始めました。

自分たちが生きていくために、自然の恩恵である獲物を獲る。
そして、自分たち人間も、獲物たちと同じ自然の一部で、征服するのではなく共生する。
そして、文明は未来永劫残すのではなく、使われなくなったら朽ち果て、やがて自然の一部になっていき、人間も動物たちと同じように、命が無くなればまた自然に帰っていくというエスキモーやアサバスカンインディアンの考え方を知り、共感します。

人間は、この自然の中で生きていくために活動しているに過ぎないのではないかと思います。
ヒグマが冬眠の前に栄養のあるものをなるべく食べて腹を満たそうとするのも、長い冬の前に人間が暖炉にくべる薪をたくさん集めて備えるのも同じ生きるためで、それは仕事をしてお金を得ている我々の仕事と、何ら違いがないような気がしてきました。

自然の中で生きる人たちは自分たちに恩恵を与える自然を大切にし、畏怖の念を持ち続けている。
日本人にもそういう感覚は残っていて、よく理解できると思います。

人を呼ぶためにきれいに整えられた観光に力を入れている国で、犯罪に合わないように余程気を付けないといけないのはおかしいと思う。
それよりも美しい自然の中で、分をわきまえて暮らす人たちがいる土地への憧れが強くなっています。


本分とは関係ない、垂水漁港の風景。