日朝協会「京都府連合会」です。韓国・朝鮮との友好を進める、日本人の団体です。1カ月¥500 841-4316福谷気付

 世界の出来事から日本・韓国・朝鮮の未来を見る。
 皆さんの声を生かして活動を進めます。

10月25日、京都朝鮮第二初級学校創立50周年記念、公開授業参観に参加しました。

2015-10-26 | 日朝友好親善を!

 京都の文化を開いた秦氏ゆかりの松尾神社から桂川の橋を渡って目の前に京都朝鮮第二初級学校がある。50年の並々ならない努力で現在歴史がある。

いろいろ説明するよりも、百聞は一見に如かずといわれるように、みなさんも次の機会にはぜひご参加いただきたいものだ。11月15日にはこの初級学校で11時から「大祝祭」がおこなわれる。

学ぶ子供が元気!笑顔!先生が子供の目線で学習を援助する!さすが「勉強」のことを「工夫・コンブ」という国だ。

 日朝協会京都府連・大橋代表理事の挨拶。

京都朝鮮第二初級学校創立50周年記念おめでとうございます。

 私たちの日朝協会京都府連合会は、今年60周年を迎え、5月に畑田重夫、国際政治学者をお招きして記念講演とレセプションを開きました。そのとき朝鮮総連京都府本部から、柴松枝先生と金鐘現中京支部委員長が参加されご挨拶いただきました。

また、8月には、立命館大学平和ミュージアムで第35回京都平和のための戦争展という催しで、日朝協会の責任企画として、参加された方々に「在日朝鮮人の歴史と暮らし・民族教育を守る戦いの歴史を、柴松枝先生にご講演いただきました。そうして同じ日の昼休みコンサートに「京都朝鮮歌舞団」にご出演いただき、多くの日本人に民族教育の闘う歴史とすばらしい朝鮮の歌と踊りを紹介することができました。

この場をおかりして心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

 

 さて、子供たちへの民族教育はどの国にとっても大人の責任であると同時に外国で暮らす子供たちへの教育をその国の政府が援助するのは、世界の常識です。ところが日本政府は、在日朝鮮人の民族教育を敵視し、差別し、在特会の横暴を野放しにしており断じて許せない態度で到底認めることはできません。

私たちも、政府や外務省に抗議文を持って改善を申し入れていますが、その文書の中には次のことを書いています。

「日朝協会の会員であり、龍山墓地墓参団の団長をされた佐藤知也さんが出版された(光陽出版社)平壌で暮らした12年の日々」のなかに、平壌日本人人民学校の職員だった思い出が書かれています。日記の部分ですが

 1946年12月26日 日本人学校開校「平壌日本人人民学校」を再建し看板をたてた。

そのとき朝鮮当局は、机・椅子・黒板・オルガン・文房具類を十分そろえてくれたが、授業の方針とか内容には、全くタッチしてこなかった。(平壌・興南・カン興・清津4箇所に作る。)

平壌では、低学年30人、高学年30人、寄宿舎、若草寮20人、企業負担金月1500円、個人おやつ代300円、(子どもは日本語、朝鮮語、ロシア語を喋り親の通訳をした。)

1947年2月学校運営も軌道に乗る、   三・一記念日を祝った。

北朝鮮人民委員会は、「日本部」に支出したお金は、産業局から230万円。財政局から師弟教育費として200万円・金日成将軍の給料が4000円だった。1947年6月2日 中学校も開校することが出来た。

とかかれており、朝鮮民主主義人民共和国が建国される前の苦しい中でも、日本人の民族教育を援助してくれたのに、日本政府の態度は世界の非常識だ、直ちに改善せよと抗議しています。こんな非常識は何時までも続くはずはありません。世界の常識が通用する日本に早くかえていきたいと思います。

 

日本政府は、過去に大きな過ちをしているのに、心から反省することなく今また、アメリカの手下になって戦争法をつくり米日韓3国軍事同盟を強化して、 日朝韓とアジアと世界の人々に襲い掛かろうとしています。私たちは今まで以上に日・朝・韓とアジアの国民との友好親善を深めて、三国軍事同盟をやめさせ、日朝国交正常化を実現させ、38度休戦ラインを平和ラインにかえさせ、平和な北東アジアの建設のためにがんばっていきます。ともに頑張りましょう。

 

 

 

         

 




 


雄貴氏の「ルーツ探しの旅」(下) ■韓国語初級教本、遺品の秘密

2015-10-26 | ハンギョレ新聞社

[ルポ]済州島に来た父は韓国語を学ぶと言った(2)

登録 : 2015.10.24 04:20 修正 : 2015.10.24 06:04

 

雄貴氏の「ルーツ探しの旅」(下)

■韓国語初級教本、遺品の秘密

 

 2人の叔母から聞いた家の話をまとめると、こういうことだった。祖父のシン・ソクチュン氏は前妻との間に4兄妹(1男3女)を、日本で出会った後妻との 間に4兄妹(3男1女)をもうけた。しかし、シン氏は、済州に残した子供たちの面倒はあまり見なかったという。子供たちを一人で育てていた前妻は、解放前 後になくなり、4兄弟は自分たちの力で生き残らなければならなかった。なぜ祖父が韓国に残された子供たちの面倒を見なかったかは分からない。詳細を知る1 番上の叔母(長女)は、数年前にこの世を去った。叔母たちは父親を一生恨んでいた。

 

 シン・オクラン氏は親族に対する愛情が大きかった。日本に異母弟がいることを知り、同胞社会を探し回った末に、会いたい一心で訪ねたそうだ。雄貴氏が憶 えている「1997年秋の見知らぬおばさんの訪問」は、まさにシン・オクラン氏の突拍子もない訪問の結果だった。ただ肉親が恋しくて訪ねたが、苦労してた どり着いた弟は冷たかったし、シン氏はいまだその理由が理解できない様子だった。

 

 雄貴氏は母親から聞いた話をシン氏に伝えた。 「父は私たちが朝鮮人出身であるという事実に気づかないように育てようとしました。日本人として育たなければ、差別を受けずに成長できると思っていたよう です。ところが、叔母が突然現れて、父はびっくりして、子どもたちに何も気づかれないように、急いで帰したそうです。そのことで本当に胸を痛めていまし た」。雄貴氏は叔母たちに跪いて深々とお辞儀をしながら謝罪した。「本当にごめんなさい」

 

 翌日の昼、下の叔母宅に招かれた。前々日の夕方には緊張感でよく眠れなかったが、この日はリラックスした様子だった。言葉数も増えた。下の叔母宅に到着 すると、叔母のクムジャ氏は保管していた平山申)氏一族の族譜を取り出した。雄貴氏は平山申氏のシン・スンギョム将軍一族の36代目の孫で「シン・ウン グィ」という韓国式の名前で族譜に載せられていた。シン・スンギョム将軍は高麗の開国功臣で、太祖王建から平山申氏の本貫を与えられた人物だった。927 年、公山の戦いで王健の鎧を着て戦って戦死したという記録があった。「この私が武士の子孫だったのですか?」。彼の目が丸くなった。2番目の叔母は自分が 仕方なく族譜を保管していたのだと言い、族譜を雄貴氏に渡した。雄貴氏は族譜を日本に持ち帰ると答えた。

 

 下の叔母は、2000年に雄貴氏の父親が訪ねてきた時のように、アマダイ焼きを作ってくれた。「弟、たくさん食べなさいね」。雄貴氏は父親にかなり似て いる。下の叔母は甥をしばらく弟と勘違いしたように言った。「私たちがあれこれ見物をさせてあげても、あなたのお父さんはあまり喜ばなかったの。苦しそう に胸を叩くだけだった。韓国語が全く分からないから、『姉さん』という言葉だけ繰り返していた。今度韓国に来る時は、必ず韓国語を覚えてくると言っていた のに...」

 

 父親は朝鮮人を蔑みながら息子を育てた。勉強をしなかったり、父親の気に入らないことをした場合は、「この朝鮮人みたいな奴」と叱られた。それが何を意 味するのかよく分からなかったが、誰かを差別する言葉であるのは感じ取っていた。そんな父親が老年にこっそりと韓国語を学んでいたなんて…。「実は父の遺 品から韓国語初級教本が出てきました。なぜそのような本があるのか不思議でしたが、そんな事情があったんのすね」。雄貴氏は父親の最後の足跡を叔母から確 認して、気持ちが重くなった。

 

 家族とは、肉親とは、そして民族とは何なのか。疎通が断絶され、誤解が積り、わだかまりや不信が大きくなる。そうするうちにも会って話をすると凍り付い た壁は溶けて、対立していた2人はお互いを抱きしめる。頭の中は混乱していたが、胸は熱くなった。下の叔母は昨日とは違って、「どんなに苦労したことだろ う...」と雄貴氏の父親を恨まなかった。雄貴氏は「マシッソヨ(おいしいです)」を繰り返しながら、叔母が作ってくれた料理を平らげた。

 

 

雄貴氏が済州涯月邑近くの野山に作られた祖父の墓を訪れ、下の叔父の隣でお辞儀をする=ホ・ジェヒョン記者//ハンギョレ新聞社

 彼らはこの日の午後、雄貴氏の祖父の墓参りをした。済州市涯月(エウォル)邑の近くの小高い山に墓が建てられていた。韓国式で跪 いて2拝のお辞儀をしてから、立ち上がって深々と頭を下げた。叔母は甥が滞在しているゲストハウスを取り払い、済州市のホテルに部屋取ってくれた。夜遅く まで、彼らは食事を共にしながら楽しいひとときを過ごした。

 

■「在日朝鮮人」と呼んで欲しい

 

 夜遅くホテルに戻ってきた。 雄貴氏は「解放!」と言いながら笑った。 「こんな風に済州で見つかった家族といろいろと話ができてうれしいです。家族に対する文化が日本とは大きく異なるようですね。私は国籍の違いとか、そんな ことが気になって不安だったんですが、韓国の家族は『私たちは家族』としか言いません。ちょっと怖い顔をしていた下の叔母も1日で優しくなりましたし。た だ、私達の家族のストーリーが(4・3抗争や日本の強制移住などの)現代史の痛みを共有しているのかどうか、確認できなかったから、記者さんが失望したの ではないか心配ですね」

 

 とんでもない。彼の話は、韓国社会の多くの異邦人の子供たちに勇気を与えるだろう。韓国には日本社会の在日朝鮮人のように、言葉では言い表せない差別の 痛みを抱えて生きるマイノリティーがいる。解放以降の華僑の子供たちがそうだったし、米軍基地村のハーフの子供たちがそうだったし、東南アジアや朝鮮族の 親を持つ今の子供たちがそうだろう。彼らも子供を生んだら、多分、親世代のルーツを自分の子供たちに隠すかもしれない。それが子供のためだと思うかもしれ ない。韓国社会は在外同胞たちが経験する異邦人としての痛みに共感しながらも、私たちの中に別の異邦人を作り、彼らの傷には無関心だ。

 

 雄貴氏に韓国人たちに言いたいことがあるかと尋ねると、彼はにっこり笑った。「皆さんも戸籍をぜひ一度直接取り寄せてよく見てください。自分が知っていた事実と異なることがあるかもしれないから!」

 

 翌日の昼、雄貴氏は日本へ帰るために、済州空港の外国人の出入国審査台の前に立った。「日本にガールフレンドがいます。一緒に住みたいですが、ガールフ レンドの両親の許可を取らなければなりません。私が在日朝鮮人であることを説明しなければならないですが、その方たちがどう受け止めてくれるのか、分かり ません。私は『在日韓国人』や『在日同胞』と呼ばれたくないです。『在日朝鮮人』と呼んでほしいです。なぜなら『韓国』という言葉は国を意味しますが、 『朝鮮』は朝鮮半島に住んでいたその民族を言う言葉じゃないですか」

 

 彼は苦労して韓国の家族を見つけた。しかし、本当の困難な道のりは、日本で在日朝鮮人として生きていく、これからだろう。日本には在日同胞60万人が住んでいる。

 

済州/ホ・ジェヒョン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

 

韓国語原文入力:2015-10-23 19:52

http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/714278.html訳H.J


雄貴氏の「ルーツ探しの旅」(下)

2015-10-26 | ハンギョレ新聞社

[ルポ]済州島に来た父は韓国語を学ぶと言った(1)

登録 : 2015.10.24 04:16 修正 : 2015.10.24 07:52

 

雄貴氏の「ルーツ探しの旅」(下)

平山雄貴氏が2日、済州島に住む叔母シン・グムジャ氏(右)の家で上の叔母のシ ン・オクラン氏(中央)と共に平山申氏の族譜を見ている。雄貴氏は平山申氏の36代目の孫として「シン・ウングィ」という韓国式の名前で族譜に載せられて いた=ホ・ジェヒョン記者//ハンギョレ新聞社

ある日本人青年の「ルーツ探しの旅」の話を先週お伝えしました。韓国の読者たちから は、雄貴氏を応援するコメントがたくさん寄せられました。一方、ハンギョレ日本語版記事を見た日本の読者たちからは、冷たい視線が注がれたそうですね。今 日、2回目にお届けする話が、韓日両国の読者たちがお互いをより深く理解できるきっかけになれることを願っております。済州(ジェジュ)で叔母たちに出 会った青年は、号泣して日本に帰りましたが、彼に何があったのでしょうか。彼の旅を一緒に辿ってみます。

 

 (前回の要約:日本人の平山雄貴氏(34)は、自分が在日朝鮮人の子孫(3世)であることを3年前に知った。子供が差別されずに育つようにと願うばか り、親はこの事実を隠してきた。10年前に亡くなった父は、何の記録を残さなかった。雄貴氏は自分のルーツを正確に知りたかった。3年間、日本の外務省な どに通いながら、資料を集めた末、祖父の本籍が済州市翰林(ハンリム)邑帰徳(キドク)里ということを突き止めた。そして、先月末、韓国に住む自分の親戚 を見つけようと済州を訪ねた。それだけの手がかりで雄貴氏は果たして家族に会えるのだろうか。

 

 雄貴氏が先月30日の夕方、済州空港に到着した時、すでに空は暗くなり始めていた。台風が北上するという気象予報のせいか、強い風が吹き荒れていた。 風、女、石が多いと言われる済州島で、風だけはしっかり見物できそうだと冗談を交わした。彼はこの済州で必ず会わなければならない家族がいる。その人に出 会えるかどうか、確信できない雄貴氏の胸の中でも風が吹き付けていた。

 

 「済州に来たら黒豚を食べなきゃ」。済州空港を出た雄貴氏は、自分の“ルーツ探しの旅”に同行した同僚のホ・ミソン氏(39)と一緒に焼肉屋を訪れた。 雄貴氏は韓国語が全く話せない。ホ氏が通訳を務めてくれた。かなり大きくカットされた豚肉が鉄板でジュージュー音を立てていた。テーブルには、酸っぱい味 のキムチがおかずとして並べられていた。肉が焼き上がる前に、彼はキムチを一皿平らげた。

 

 「私はキムチが大好きです。小学校3年生の時、祖母の家に遊びに行ってキムチを初めて食べました。当然韓国料理であることは知らずに食べましたが、『世 の中にこんなに旨い食べ物があるなんて』と驚きました。すぐスーパーに行って、600グラム入りのキムチを買ってきて一人で全部食べました。喉が腫れまし たよ。病院に行ったら風邪ではなく、キムチの食べ過ぎだと、医師が説明してくれました。母にひどく怒られましたが、心の底では『息子に朝鮮人の血が流れて いる』と喜んだことを後になって聞きました」

 

暴風の中で帰徳里の路地を回りながら 
さまよっていたところ、役場職員の助けで 
済州市に住む叔母のアパートを見つける 
長い間連絡が途絶えたことを悲しんでいた叔母 
すぐに甥の雄貴氏を抱きしめてくれた 

大事にしてきた族譜を渡した叔母 
雄貴氏は「平山申」氏36代目の孫だった 
祖父のお墓参りをしてから再び日本へ 
日本のガールフレンドの親に 
自分の“ルーツ”を説明しなければならない

 

■「昨日夜の夢に、あなたの父親が現れた...」 

 

 まだ親戚についての情報がない。数日前に日本の叔母からもらった済州に住む叔母の写真が全てだ。済州に住んでいた父親の平山ひろし(1947年生まれ) の異母姉のシン・オクラン氏(77)の写真だ。1997年秋にシン氏は突然、大阪の弟の家を訪ねてきた。父は家族に何の説明もなく、シン氏と写真一枚だけ 撮って急いで彼女を帰した。幼い息子は、ぼんやりとその事件を覚えていた。

 

 翌日の日が明けるとすぐ翰林邑事務所を訪れた。役場職員は困り果てた。「持って来られた書類に書かれた『帰徳里1621番地』(祖父の本籍地)は、行政 区域改編で今正確にどこなのか分かりません」。そういいながらも、職員はシン・オクラン氏が生きているかもしれないから、一度生存しているかどうかを確認 してみると説明した。

 

 ただ待っているわけにはいかなかった。直接帰徳里一帯を歩きながら叔母を探し回ることにした。雨がしとしと降っていた。強い風が持っていた傘を激しく揺らしていた。

 

 「シン・オクランお婆さんという方をご存じないですか?カン・ビョンファさんという人と結婚して、ここに住んでいたと聞いていますが...」。小さな美 容室に集まっていた住民たちは、質問に首を横に振った。「向こうにあるのが女性老人会長の家よ。そこに行ってみてください」。帰徳里の女性老人会長のホン 氏(80)に会った。ホン氏も首を横に振った。「15年間ここの老人会長を務めているけど、そんな人は聞いたことがありません。シンという名字のお爺さん たちが何人かいたけど、今は皆亡くなりました」

 

 雄貴氏とホ・ミソン氏は数時間をさまよった末、再び翰林邑事務所に戻ってきていた。顔がますます暗くなっていった。「どうしよう?シン氏宗親会を訪ねて みましょうか?」。その時、翰林邑事務所の職員が訪ねてきた。「シン・オクラン氏は帰徳里ではなく、済州市内に住んでいます」。「生きてらっしゃるんです か!」。雄貴氏の大きな目から涙が零れ落ちた。

 

 雄貴氏は済州市に向かう車の窓から雨を降らしている済州の空を見つめていた。どのような出会いになるかまったく分からない。父と親戚の仲が良かったら幸 いだが、その保障もない。心を引き締めた。手に握られたショッピングバッグが、彼の落ち着かない心境を察したように、車の揺れに合わせて音を立てていた。

 

 職員が教えてくれた住所に訪ねてみると、小さくて古びたアパートが雄貴氏を迎えた。ドアを叩いた。返事がなかった。沈黙の中で緊張感が流れた。1分くら い経ったのだろうか。 「どなたですか?」と中から小さな声が聞こえて、鍵のかかっていた金属製の扉が開いた。やせ細った小柄のお婆さんだった。写真の中の叔母がもう少し年を 取った姿で雄貴氏の前に立っていた。

 

 シン・オクラン氏は甥であることをすぐに見抜き、雄貴氏の両手を握った。シン氏の4坪あまりの小さな部屋は、たちまち泣き声でいっぱいになった。「昨日 の夜、夢にお父さん(雄貴氏の祖父)が出たの。弟(雄貴氏の父親)に似た人が私を訪ねてきて指輪をはめてくれた」。叔母の夢は、甥の訪問を予感したのだろ うか。ホ氏の通訳を聞き、雄貴氏が目を見開いた。叔母は甥の手を握ってうつ伏せのまま、嗚咽した。

 

 「ところで、お父さんは?なぜあなただけが来たの?」「父は亡くなりました」。「いつ?」。「2005年に。自殺しました」。「アイゴ!どんなに苦労し たことだろう」。シン・オクラン氏の連絡を受けて、下の叔母であるクムジャ氏(74)が訪ねてきた。彼女の表情はオクラン氏ほど明るくなかった。雄貴氏は 父親が教えてくれなかった家の話を下の叔母から聞いた。

 

 「あなたのお父さんが2000年頃、こちらを訪ねてきたことがあるの。あなたと兄弟たちを申(シン)氏の族譜に載せて帰った。済州島に家族名義の土地が 少しあったけど、それも分配を受けた。それから、私たちが電話すると冷たくあしらったり、しばらくしてからはまったく電話に出なくなった。韓国語を覚えて 戻ってくると言っていたのに、何の連絡もなかったしね」。クムジャ氏の不満そうな顔は長くは続かなかった。「それでもこうして訪ねてきてくれたことは、言 葉で言い表せないほどありがたい」。2人の叔母は甥を抱きしめた。甥はずっとハンカチで涙を拭いていた。

 

済州/ホ・ジェヒョン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

 

韓国語原文入力:2015-10-23 19:52

http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/714278.html訳H.J


円安が長期化しているなか、近い日本でのショッピング旅行需要も大幅に増えるだろう

2015-10-26 | ソウル聯合ニュース

円安で訪日韓国人客が過去最多に 1~9月で285万人超

 

 【ソウル聯合ニュース】ウォン高・円安が続くなか、年初から9月までの訪日韓国人客数が過去最多を記録した。

 日本政府観光局と韓国観光公社の資料によると、9月に訪日した韓国人客は30万1700人で前年同月(21万7689人)に比べ38.6%増加した。

  1~9月の訪日韓国人客は285万5800人で前年同期(199万5804人)比43.1%増となり、すでに通年で過去最多だった昨年(275万5313 人)を上回った。訪日韓国人客が増加している背景には、100円=1000ウォンを下回るウォン高・円安傾向が続いていることや、外国人客の増加に向けた 日本政府による免税対象の拡大などがある。

 観光公社の関係者は「アベノミクス(安倍晋三政権の経済政策)などの影響で円安が長期化しているなか、近い日本でのショッピング旅行需要も大幅に増えるだろう」と述べ、日本を訪れる韓国人客は今後も増え続けるとの見方を示した。