日朝協会「京都府連合会」です。韓国・朝鮮との友好を進める、日本人の団体です。1カ月¥500 841-4316福谷気付

 世界の出来事から日本・韓国・朝鮮の未来を見る。
 皆さんの声を生かして活動を進めます。

6/14 ~ 15 千葉県内・日朝協会全国交流集会

2008-05-31 | 「協会」の公式見解・談話

 

  日朝協会・全国交流集会に参加しよう!

日 時 ・ 6月14日(土) 13時~15日(日)12時

場 所 ・ ウエルサンビア千葉  (千葉厚生年金休暇センター)

        千葉県千葉市中央区仁戸名町705 

          tel  043-265ー5000

参加費 ・ 18,000円 (一泊2食、懇親会費込み)

                  懇親会参加で宿泊しない場合は  7,000円

                  会議のみ参加の場合は   1日1,000円

全国交流集会3つの魅力

①、大いに学びましょう ②、全国の仲間との交流 ③、オプショナルツアー

 

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「赤旗」記事より

2008-05-29 | 投稿・投書・私の意見

 

日朝協会独自の問題ではありませんが

 

 後期高齢者医療 保険料調査

 

 負担増隠す手法   厚労省 偏る世帯設定


 後期高齢者医療制度をめぐって、厚生労働省が実施した「保険料額の変化に関する調査」の方法に、負担増の実態をおおい隠す手法が仕組まれていることが、日本共産党政策委員会の独自試算から判明しました。


 調査(十五―十九日実施)は、市区町村ごとの国民健康保険料(税)と後期高齢者医療制度保険料をモデル世帯にあてはめて計算し、比較したもの。都道府県から報告させ、現在、集計中です。

 しかし、この方法には(1)計算にあたって国保料の「資産割」を前提としているため、土地や家屋のない高齢者の国保料が実際より高額になる(2)モデルに設定した世帯構成から、最も負担増となる「ともに七十五歳以上の夫婦と子ども夫婦」などの世帯構成をあらかじめ除外している―という二つの大問題があります。政策委員会が独自試算を行ったところ、負担増になる人数の割合が実態に比べかなり低くなることがわかりました。

 このために、実際には、国保加入だった「後期高齢者」の多くが負担増になるにもかかわらず、調査では、「負担増になるのは三割程度」という結果が出されるおそれがあります。

 年金からの天引きが始まった四月十五日、舛添要一厚労相は「保険料は七―八割の人は下がる」と発言しましたが、その日のうちに「正確な数字はいえない」と撤回しました。今回の調査は世論の批判を受けて、あわてて実施し、近く公表するとしています。しかし、あらかじめ負担増の実態を隠す結果へ「誘導」する調査手法を採用した姿勢が問われます。



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雨森芳洲略年譜

2008-05-28 | 投稿・投書・私の意見

 

年表にしましたので参考にして頂ければ幸いです。

 

 西暦     年号   年齢  

1668年 寛文 8年  1才 5月17日高月町雨森に生まれる

1676年 延宝 4年  9才 詩を作る(寒到夜前雪・・・・・)

1679年 延宝 7年 12才 京都で伊勢の名医、高森氏に医を学ぶ 

1683年 天和 3年 17才 江戸に出て儒学者木下順庵の門に学

1689年 元禄 2年 22才 師の推挙により対馬侯に仕える 

1692年 元禄 5年 25才 唐音稽古のため長崎へ出向する

1693年 元禄 6年 26才 対馬へ赴任する(禄200石) 

1696年 元禄 9年 29才 再び長崎で唐音を学ぶ

1703年 元禄16年 36才 学文稽古のため朝鮮に渡る(前後3年)

1711年 正徳 1年 44才 通信使を護行して江戸へ行く 

                  日本国王の称号をめぐり白石に書簡を送る

1719年 亨保 4年 51才 通信使を護行して再び江戸へ行く

1724年 亨保 9年 57才 側用人を仰付けられる

1728年 亨保13年 61才 15年まで裁判役として朝鮮へ渡る

                  この頃著述に専念する。「交隣提醒」を著す

1729年 亨保14年 62才 「全一道人」を著す

1739年 元文 4年 72才 長男鵬海没す(42才)孫の教育に専念する

1747年 延亨 4年 80才 「橘窓茶話」成る

1748年 寛延 1年 81才 古今集千遍読み 和歌一万首を志す

                  嫡孫蓮太郎家督を継ぐ

1755年 宝暦 5年 88才 対馬にて没する

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今も生きる、芳洲の心、外交

2008-05-26 | 投稿・投書・私の意見

 

雨森芳洲庵を訪ねては、12回をもって終了ですが

1990年(平成2)5月、来日した当時の韓国の ノ ムヒ

ョン大統領は宮中晩餐会の答礼の挨拶の中で「270年

前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は誠意と信

義の外交を信条としたと伝えられます・・・・」と賞賛され

ました。

 また、2002(平成14)年3月に訪韓した小泉純一郎

首相は昼食会のスピーチで「誠信の交わり」の雨森芳

洲の言葉を紹介されました。(芳洲庵パンフより)

 このように雨森芳洲は、日韓両国の友好の灯火として

いまも輝いているのです。

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芳洲庵を訪ねて NO.12

2008-05-25 | 投稿・投書・私の意見

 

 NO.12  88才まで長生き  お墓は対馬に

  芳州は、晩年は「対馬という辺境に住んではいるが、衣食は足り、好き

な書をほしいままに読み、異国に遊んで親しくその風俗を見ることが出来

た。

  ついに海国に老ゆるも不幸にあらざる也。家の中はいたって平凡、無

事である。この楽しみはいかなる古人にも劣るものではない。

  ただ私にも四つの辛いことがある。

 一には、詩の下手なこと。  二には、碁に負けること。

 三には、身体の疼痛。    四つに、銭がないこと。これだけだ」と

随筆集「橘窓茶話」に記しています。

1755年(宝暦5)年、88才で対馬日吉の隠居所で亡くなりました。

 お墓は長寿院の山の上にあります。

 

 

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芳洲庵を訪ねて  NO.11

2008-05-25 | 投稿・投書・私の意見

 

 NO.11 80才から和歌づくり

 芳洲は、80才を過ぎてから、古今集を千編読み和歌一万首づくりをめざ

しました。そして歌集「芳洲詠草」に二万首近くの和歌を詠じょました。

 これらの和歌には、晩年の心境や長崎、江戸などを幾度となく旅したとき

の思いなどが表されています。

○ 八十路までなれし唐ことふりすてて たどるも迷うしきしまの道

○ 八十六きょうをめがねのはじめとす 口惜しかりきかけはすれども

○ たちばなの花さく里をすぎゆけば むかしのことのしのばれぞする

○ やつれても一本松の常磐にて 今まかわらぬ志賀のふるさと

 

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雨森芳洲庵を訪ねて NO.10

2008-05-24 | 投稿・投書・私の意見

 

NO.10 互いに欺かず争わず

  芳州は多くの著書を残しています。

その中でも61才のときに藩主である宗義誠に朝鮮との外交の心得を説いた

「交隣提醒」は、現代にも通じる名著と言われています。

 その第1条は、「朝鮮交接の儀は、第1に人情、時勢を知ることが肝要であ

る。・・・」と書き出しています。

 第11条では通詞(通訳)の大切さを、「通詞は言語さえ通じればよいというもので

はなく、人柄もよく、才覚があり、物事の道理、義務をわきまえ主上を大切にする者

でなくてはいけません・・・・」とのべています。

  最後の54条では、誠信外交について「誠信とは、互いに欺かず争わず、真実を

もって交わることである・・・・」と締めくくっています。

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芳洲庵を訪ねて NO.9

2008-05-23 | 投稿・投書・私の意見
 NO.9 朝鮮貿易や藩財政にも尽力

  鎖国の時代にあっても対馬は長崎や琉球とともに日本の窓口として産

業、文化の発展に貴重な役割を果たしてきました。対馬藩は、朝鮮貿易で

銀を輸出して人参や生糸、絹織物などを輸入していました。

  しかし、この貿易による対馬藩の財政は次第に先細りとなり財政状況

が大きな課題でした。芳州はこのような状況を「さざえ」の形にたとえ

「さざえぶく財政」と名付け藩の財政再建にも尽力しました。

  幕府の新井白石が銀の輸出制限を決めたときも、江戸に上り国際信義

や慣習について白石と何度も話し合い改善策を取り付けています。

朝鮮との信義を守り、対馬藩の財政の改善のため芳州は努力を惜しみま

せんでした。

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「族譜公演」 のあと 間に合います!

2008-05-22 | 投稿・投書・私の意見
 
  第12回沖縄連帯夏至まつり
 
 
6/21(土)18:30~ラボール京都2階ホールで行われます。
 
 
主催は、核も基地もない平和な沖縄をめざす京都の会(略称「沖縄の会」)
京都平和委員会連絡先℡075-811-3203Fax075-811-3213です。
 
 その件で代表者の呉屋さん(沖縄県人会常任理事もされている方)が訴えに来ます。急な案内で申し訳ありませんが、私だけ聞くのももったいないし、可能な方は一緒に聞いて頂きたいし、もしご意見をお聞かせ頂ければ嬉しいです。
 
 その時に短時間でも、戦争展(沖縄戦がテーマに決まっています)8/5~10での企画相談と、戦争展プレ企画7/7「沖縄戦」講演会(歴史学者林博史と大江岩波裁判の小牧事務局長の講演は確定、その他は未定)についても相談したいと思っています。許せる時間だけの参加も大歓迎です。
 
 
 中京民商には地下鉄では「丸太町」駅の南改札口(無人)から出て、ハートピアで地上に出る。電話231-0101)烏丸通竹屋町の信号を西(竹屋町通を西に行く)に渡って、一筋目(両替町通)を右(北)に上がると東側2軒目です。
 バスの場合は烏丸丸太町のバス停で降りて、丸太町通を西に行き、一筋目(両替町通)を左(南)に下がれば、次の通り(竹屋町通)の手前にあります。 以上です。
 
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雨森芳洲庵を訪ねて NO.8

2008-05-22 | 投稿・投書・私の意見

 

N0.8  新井白石との交友と論争

  江戸の木下順庵の同門であった新井白石とは、芳洲が11才年下にな

ります。

 生涯親しい関係を続けましたが、白石は幕府の儒者という立場になりま

したが芳州は対馬藩の儒者であり、立場の違いから論争に及ぶことがあり

ました。

  将軍の呼び名をめぐる「王号問題」では、芳州は白石に激しい抗議の書

簡を送りました。通信使との書簡をめぐる「国諱紛争」では共に苦労を重ね

二人で「覚え書」を残しています。

  銀の輸出制限では何回も話し合い芳州の主張を認めたり、通信使に

「耳塚」を見せないようにという芳洲の意見を聞き入れるようにするなど、お

互いを尊重し合い、庇い合うとともに私的に詩を送り合うなど、生涯の交際

を続けました。

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芳洲庵を訪ねて No.7

2008-05-20 | 投稿・投書・私の意見

NO.7享保の通信使と芳洲

  第9回1719(享保4)年の時2度目の通信使を護行して江戸まで行き来していま

す。この時芳洲は52才でした。将軍吉宗のお祝いの使節でした。

前回の改革が元に戻されたこともあって穏やかな交流が行われました。

  通信使は毎回、日本訪問の記録残しています。

この時の記録は、使節の中の製述官申維翰の紀行本「海遊録」に詳しく残されて

います。

  申維翰は芳洲のことを「雨森はすなわちかれらの中では傑出した人物である。

よく三国語に通じ、よく百家の書を弁じ・・・よく漢語に通じ、詩文を解し日東国の

ぎょう楚(抜群の人)である。」と賛辞を表しています。

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芳洲庵を訪ねて、 NO.6

2008-05-20 | 投稿・投書・私の意見

NO.6 正徳の通信使と芳洲

  第8回1711(正徳元)年の通信使のとき 芳洲は初めて真文役をつ務

めています。

 この時芳洲は、44才でした。将軍家宣の襲職を祝う使節でしたが、幕府

の中心で活躍することになった新井白石の提案で通信使の接遇などをめ

ぐる改革が行われいくつかのトラブルが生じました。

  中でも将軍の称号をめぐる問題や朝鮮国王と将軍の交わす書簡の中

の一文字をめぐって両国の間で紛争がありました。

  外交文書や応接について芳洲は、使節と幕府の間に入り、対馬藩の立

場を考えながら友好のため、激しい反論やねばり強い調整に務め、友好関

係を損ねることなくその職を勤めました。

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芳洲庵を訪ねて No.5 

2008-05-19 | 投稿・投書・私の意見

NO.5 朝鮮通信使と2度の交流

  江戸時代、「朝鮮通信使」といわれる文化・外交使節団が1618年から

1811年まで凡そ200年の間に12回、将軍のお祝いなどに日本を訪れ

ました。

 毎回400人~500人ほどの使節団が半年から1年近くかけて江戸まで

往来しました。このうち3回は日光まで行っています。

 一行は、漢城を出て釜山から対馬に渡り瀬戸内の港を辿り、東海道を進

み大変な歓迎を受け、交流が繰り広げられました。

  このうち、雨森芳洲が関わったのは第8回1711(正徳元)年と

第9回1719(享保4)年の2回で、真文役という外交文書の役と応接の職

務に当たりました。

 

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芳洲庵を訪ねて NO.4

2008-05-19 | 投稿・投書・私の意見

NO.4 対馬、朝鮮、江戸を舞台に活躍

  芳洲の仕えた対馬は、朝鮮との窓口であり朝鮮との貿易によって藩が

り立っていました。

このため釜山には、日本人町といわれる「和館」という10万坪の広さのあ

る在外公館があり、対馬の人達が常時4000人から5000人滞在していま

した。

  芳洲は何度もこの和館に出かけ、外交交渉や貿易に関わり、朝鮮語を

学び朝鮮の理解に努めました。

  また、幕府との協議や朝鮮通信使の同行、藩主の参勤のお供など幾度

となく江戸へ出かけ、中央からの視点も合わせ持っていました。

このような立場にあった芳洲は、対馬のためと、朝鮮と日本のために、対

馬、朝鮮、江戸を舞台に活躍した国際人でした。

 

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日本政府の動きが見えない?

2008-05-18 | 投稿・投書・私の意見

 

 

米 北朝鮮食糧支援を再

- 海外 ヤフーhp

 

 

 

 

5月17日(土)13時57分~16時10分
<米国>北朝鮮に食糧支援 6月から再開
  【ワシントン草野和彦】米国国際開発局(USAID)は16日、北朝鮮への食糧支援を6月から再開すると正式発表した。北朝鮮への食糧支援は05年以来で、今回は1年間で計50万トンが支援される。北朝鮮の核開発をめぐる6カ国協議について、中国、韓国サイドは近く再開の見通しを示しており、米国の食糧支援再開もこれと関連した動きとの見方もあるが、マコーマック米国務省報道官は「関係ない」と語り、人道的支援であることを強調した。(毎日新聞)

  • 米政府、北朝鮮に50万トンの食糧支援…来月から1年間 - 読売新聞
  • <6カ国協議>「6月上旬にも再開」韓国首席代表が見通し - 毎日新聞
  • 米下院 北朝鮮のテロ支援国家解除に条件 - 産経新聞(16日)
  • 北朝鮮、核冷却塔の爆破中継を計画 - 産経新聞(15日)

  • 食糧難で北朝鮮の人権状況が悪化、国連特別報告者 - YONHAP NEWS(4月10日)

  • 北朝鮮 | 北朝鮮への経済制裁問題 - Yahoo!トピックス
  • この記事を掲載したトピック - 北朝鮮核問題

      それぞれリンクしています。
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