日朝協会「京都府連合会」です。韓国・朝鮮との友好を進める、日本人の団体です。1カ月¥500 841-4316福谷気付

 世界の出来事から日本・韓国・朝鮮の未来を見る。
 皆さんの声を生かして活動を進めます。

来る!!高柳美知子さん

2006-09-30 | 韓国・朝鮮の旅

みなさま

11月26日(日)午後

    「冬のソナタから見えてくるもの」の著者

 高柳美知子さんをお招きすることになりました。

  この企画をどのようにするかを検討する

    第1回実行委員会を下記のように行います。

  
    10月10日(火)18:00~非核の政府事務所

    (教育文化センターの奥教育会館1階)


⑤ 志位さん・パキスタンへ 

2006-09-29 | 気になるマスコミの記事

 

 志位委員長の報告(大要)

  会談での政治的内容の特徴について

 つぎに一連の会談の政治的内容の特徴について報告いたします。一連の政治会談は、どれも充実した印象深いものでしたが、三つの点にしぼって紹介したいと思います。

アジズ首相との会談――世界の平和秩序、テロ根絶の方途、核兵器廃絶で一致

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(写真)会談と昼食会を終えスムロ上院議長(右)と握手する志位和夫委員長(左)=19日、イスラマバード

 第一は、九月十八日のアジズ首相との会談で、世界平和の基本にかかわる重要な問題での意見の一致が確認できたということであります。

 アジズ首相とは三回目の会談です。四年前にイスラマバードで初めて会談したさいに、アジズさんが、「私は、日本共産党を研究しました」と言ったことは、私の記憶に鮮明に焼きついています。相手もよく日本共産党の基本路線を知っています。だから私は、こちらも相手をよく研究しなければと考え、日本で取り寄せられるかぎりのアジズ首相の演説や論文などを読みました。そうしますと、よく一致する点、まだ一致がないと思われる点などが見えてきます。そのうえで、私たちは、会談で、世界政治の三つの基本問題についての意見交換をおこないました。

 第一の主題は、国連憲章を中心とした平和の国際秩序をつくることが重要だということ、とくに東南アジアでのASEAN、ユーラシア大陸を縦断する上海協力機構(SCO)など、平和の地域共同体をつくる動きが大切だということであります。これは、私が、アジア政党国際会議で発言した主題でもあります。この点では、アジズ首相と私の意見はまったく一致したと思います。

 アジズ首相は、私の意見に同意し、パキスタンは、南アジア地域協力連合(SAARC)、上海協力機構、中央アジアと中東が参加する経済協力機構(ECO)なども重視している、多国間主義を重視しているという立場を説明しました。

 私は、北東アジアでは六カ国協議の枠組みが大切であること、これを成功させて朝鮮半島の非核化を達成し、平和のための共同の機構に発展させることが大事だと考える日本共産党の立場を説明しました。

 アジアを大きくみてみますと、東南アジアのASEAN、ユーラシア大陸を縦断する上海協力機構(SCO)などで平和の共同体の流れが前進するもとで、紛争問題をかかえている不安定な地域は、北東アジア、南アジア、この二つの地域となっていると思います。ですから、この二つの地域の平和と安定がたしかなものになれば、文字どおり面をなす形で、アジアに平和の共同体が広がることになります。私は、それをめざして、それぞれの地域で、お互いがそれぞれの立場で努力し、アジアの平和のために力を合わせようということを話し、この点でまず一致しました。

 第二の主題は、テロ根絶の方途の問題です。パキスタンは、この問題でたいへんな苦労をしている国です。とくにこのところ米国による無法なイラク戦争がいよいよ破たんし、イラクは内戦寸前の状態に陥っています。アフガニスタンではタリバン勢力が復活してきています。そういうなかでパキスタンはテロとのたたかいの文字どおりの「最前線」に立たされています。パキスタンが、この問題で直面している課題はきわめて複雑です。ですから私は、現地の実情を知りうる立場にないわが党が、パキスタン政府がとっている個々の措置にたいして、あれこれと注文をつけたり、また支持したりすることは、適切なことではないと考えました。

 そこで私は、テロ問題については、テロ根絶のための原則的な立場について話し合おうと考えました。私は、日本共産党はテロ根絶のために、つぎの三つの原則が大切だと考えていると、アジズ首相に話しました。

 一つは、テロが生まれる根源を除去することです。すなわち貧困をなくし、地域紛争を平和的に解決することが必要だということです。

 二つ目は、テロを特定の宗教や文明と結び付けてはならないということです。テロとのたたかいを「イデオロギー闘争」と特徴づけた議論があります。しかし、テロとのたたかいは、特定の思想や価値観と呼べるものとのたたかいではなく、犯罪とのたたかいです。

 三つ目は、テロ根絶の方法は、国連中心に、国連憲章、国際法、国際人道法、基本的人権と両立する方法でおこなわれなければならないということです。そうでなければテロリストを喜ばせるだけのことになります。それはイラク戦争で証明されました。

 このことを私は、まとまってまず話しました。そうしますとアジズ首相は、私の言葉の一つひとつに、「まったくそのとおり」、「正しいことです」と言葉をはさみ、私が、話し終わりますと、「いまのべられた点は、たいへん重要な点です」として、つぎのように続けました。

 「テロの背後には、社会的疎外と結びついた根本的原因があります。それはきわめて重大で、民主主義や議会制度の破たんもあるし、紛争や人権、希望の喪失など、さまざまな形態があります。イラク、アフガニスタン、パレスチナなどで人々は世界から取り残され、見捨てられていると感じています。イスラムの思想は平和と調和です。イスラムはテロとは関係ありません。イスラムは平和の宗教です」。

 私は、この問題に関連して、「いま一番の問題はイラクです。パキスタン政府は、イラク戦争に反対し、軍隊を一兵も送りませんでした。困難な中で反対を貫いたパキスタン政府の態度を私はたたえたいと思います。いまイラクは内戦の瀬戸際にあります。期限を切った外国軍の撤退が必要です」、こうのべました。そうしますとアジズ首相は、「そのとおりです。米国はイラクからの出口戦略を持っていません」と応じました。世界にテロを拡散する根源となっているイラクに居座る米軍の撤退を求めることでも意見が一致したことも、たいへん重要なことだったと考えるものであります。(拍手

 第三の主題は、核兵器問題です。パキスタンは核兵器保有国です。パキスタン政府は、「インドへの対抗」をその理由としています。この問題では、会談のなかで、アジズ首相のほうからパキスタンが核兵器を持つにいたった経過の説明がありました。そこで私は、この問題での私たちの立場と要請を、正面からつぎのようにのべました。

 「私は、唯一の被爆国の政党の代表として率直に要請します。パキスタンがどういう論理で核兵器保有にいたったかについては認識しています。また私は、パキスタンに一方的に核兵器を放棄せよと求めているわけでもありません。それは非現実的でしょう。私が求めているのは、地球的規模での核兵器廃絶にむけて、核保有国として、また核保有国だからこそできるイニシアチブを、パキスタン政府が発揮してほしいということです。首相は、昨年、来日されたさい、長崎に原爆が投下された八月九日に演説し、被爆者への祈りをささげ、核兵器のない世界への誓いをのべられました。それは日本国民の心に響くものでした。パキスタンが、核兵器廃絶へのイニシアチブを発揮すれば、日本国民の信頼を高めることになるでしょう」。

 この問題では、両者にやりとりがありましたが、アジズ首相は、じっと私の話に耳を傾け、最後に、「わかりました。私はそうするでしょう。核兵器に対する日本国民の特別な感情は理解します」と答えました。

 パキスタン政府にとって、地球的規模の核兵器廃絶は、理屈ではわかっても、インドとの関係もあり難しい問題です。しかし、私たちも被爆国の政党として、この国に来たら、いわないで帰るわけにはいかない問題でした。アジズ首相は、私の提起を理解し、積極的な回答をしてくれました。

 会談の最後に、私は、「この会談で、世界とアジアの平和秩序、テロ根絶のとりくみ、地球規模での核兵器廃絶の三点で、意見の大きな一致ができたと思います」とのべますと、アジズ首相は、「われわれは、たいへんよく似た見解をもっています。志位委員長のパキスタン訪問に感謝します」と応じました。私は、「パキスタン外交の理性と世界的視野を認識しました。招待に感謝します」とのべ、五十分におよんだ会談は終わりました。

 つぎの日に、スムロ上院議長に会いますと、「アジズ首相から昨日の話を詳しく聞きました。たいへん楽しかったといっていました。会談も内容の濃いものだったと聞きました」といっていました。首相との会談に同席していたサイド上院外交委員長からも、「昨日の会談は、主題がはっきりしていて、内実があるものでした。首相は、会談を楽しんでいました」との感想を聞きました。

 アジズ首相と私との会談は、一言でいって相互理解の会談だったと思います。私はパキスタンの立場を理解しようと努め、研究してのぞみました。アジズ首相も、日本共産党を研究し、核兵器問題というパキスタンにとって難しい問題で、私の主張を理解してくれました。その両者の立場が共鳴しあった会談となりました。そのことを報告しておきたいと思います。(拍手

日本共産党の自主独立の立場への評価

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(写真)腕時計を自慢するサイド上院外交委員長=19日、イスラマバード

 第二は、日本共産党の自主独立の立場への共感が、両者の相互理解の根底にあるということが、一連の会談で強く感じられたということです。

 スムロ上院議長との会談は、実に楽しい会談となりました。私は、スムロ議長とは初対面なので、例によって日本共産党の自己紹介のリーフレットをお渡ししようと思いましたら、スムロ議長は、つぎのようにすらすらと、日本共産党の党史について語り始めました。議長がのべた通りのことを紹介します。

 「日本共産党について研究しました。一九二二年に創立されて以来、戦前の困難な時期、戦後の党内部分裂などをくぐり抜け、また二つの大きな共産党の干渉にもかかわらず、自主独立を維持してきました。チェコスロバキアとアフガニスタンへの侵略に対しても、自分の頭で考え、自らの路線を定めてきた政党だということを知っています。私は、あなたの党に最大の尊敬の念を抱いています」(拍手)。

 私は、あまりによく知っておられるので、「日本共産党についてそれほどの理解をしていただいているのは望外の喜びです。私たちは自己紹介の準備をしてきましたが、その必要はないようです」と応じると、一同爆笑となりました。

 上院外交委員長をつとめ、与党・ムスリム連盟の幹事長をつとめるサイドさんとの出会いも、強烈な印象を私たちに残しました。サイドさんは、二年前に北京で開かれたアジア政党国際会議に参加し、不破議長(当時)と会談し、両党の交流をすすめることで一致しています。今年一月にサイドさんが来日したさいには、緒方さんが会談しています。サイドさんは、私に会うなり、「私は、学生時代から共産主義運動にかかわってきました。ソ連、東欧、中国、北朝鮮を訪問して、現状を見てきました。日本共産党が、その中で自主独立の立場をとってきたこともよく知っています」と自己紹介しました。自己紹介なのか、日本共産党の紹介なのか(笑い)という話です。

 サイドさんとは、滞在中何度かお会いしましたが、何と日本共産党のマークの入った腕時計をいつもしているというのです(驚きの声)。あの「四つの旗」の赤いデザインが真ん中に入っているものです。これは緒方さんが、今年一月にサイドさんに会ったさいに、記念に渡したものですが、いつも大切につけているといいます。サイドさんは、この時計を私たちに会うなり見せるのです。そして同僚の閣僚たちにも見せて、この時計を「マルクス・ウオッチ」と呼んで、「実に正確で狂わない」(笑い)とほめてくれました。サイドさんは、アメリカ大使と会った時にもこの時計をつけていき、その説明までして(驚きの声)、相手が驚いたという話もしていました。私は、サイドさんのこの時計が、いつまでも正確に動きつづけることを願ってやみません。(笑い

 パキスタンは、一九七九年のソ連のアフガニスタン侵略で、甚大な被害を受けた国です。約十年におよぶ侵略で、アフガニスタンから大量の銃、麻薬、難民が流れ込みました。それだけにソ連の覇権主義とたたかった自主独立の党というと、それだけで信頼が生まれます。緒方さんがアフガニスタン侵略にさいして、命がけでカブールに入って侵略の証拠を突き止めたと言うと、それも大きな信頼の証しになります。

 私たちは、先輩たちが営々と築いてきたわが党の自主独立の歴史の生命力というものを、この地にきて感動をもって再発見した思いでありました。

異なる価値観をもった文明の相互理解と共存の重要性

 第三は、わが党が綱領にも明記した、異なる価値観をもった文明の相互理解と平和共存の重要性を、生きた交流を通じて実感したということであります。

 パキスタンなどイスラム社会では、「こんにちは」を、「アッサラーム・アライクム」というそうです。私もこの言葉だけは覚えました。これは直訳しますと、「あなた(がた)のうえに平和を」という意味だそうです。私は、上下両院議長などとの会談で、覚えたての「アッサラーム・アライクム」からあいさつを始めましたが、このあいさつをすると、とたんに相手の顔が明るくなります。

 スムロ上院議長との会談で、私が、「あいさつの言葉に『平和を』という言葉を使うのは、世界でも珍しいのではないでしょうか。このあいさつは、イスラムが平和を求めていることを象徴しているように思います」とのべますと、議長は「心のこもった美しい解釈に感激しました。これからはその表現を引用させてもらいたい。どうか著作権を主張しないでいただきたい」(笑い)と応じました。私は、「もちろんです」と言いましたが、そんなやりとりもありました。

 私は、スムロ議長との会談でさらに、イスラムと共産主義について、つぎのように話しました。

 「私は、イスラムの教えは、平和、寛容、平等にあると理解しています。これは共産主義の理念とも共通するものがあります。本来の共産主義はそうあるべきですが、スターリンはこれを根底からゆがめてしまいました。私たちは、それとたたかってきた政党です。この意味で、イスラムと共産主義には、ある共通の精神があると感じます。今度の訪問は、イスラム社会と、本来あるべき共産主義との新しい関係の第一歩になったように思います」。

 そうしましたら、スムロ議長は、「すばらしい表現をされました。イスラムは人権の尊重、個人の独立などを旨としていますが、なかでも平等を強力に支持しています。双方に共通性が自然に生まれたことを歓迎します。最終的に問題となるのは、人間性の尊重ということになります」と応じました。

 もちろん、宗教的世界観と、私たちの科学的社会主義の世界観は異なるものです。異なる価値観をもっています。しかし、イスラムが今日の世界で巨大な人々をとらえて発展しつつある背景には、この教えのもつ普遍的な価値があると思います。そしてそれは、共産主義とも響きあうものがあると思います。

 私たちは、綱領で、異なる価値観をもつ文明の相互理解と平和共存を掲げていますが、ここでいう「価値観の相互理解」のなかには、イスラムと共産主義の相互理解も含まれていると思います。それがパキスタンでの交流を通じて確認されたことは、私たちにとって新しい発見でありました。

 スムロ上院議長との会談には、サイド上院外交委員長も同席していました。十九日の夜、開かれたサイド上院外交委員長主催の歓迎晩餐会で、サイドさんは、私たちを熱烈に歓迎するスピーチの中で、日本共産党の党員数、草の根での国民との結びつきの強さなどを紹介したうえで、イスラムと共産主義についてこうのべました。

 「イスラムとマルクス主義には共通の基盤があります。『アッサラーム・アライクム』は平和と愛を意味しています。一方、マルクス主義は、肌の色、国籍、男女の違いを超えた平等を主張しています」。

 私は、晩餐会で答礼のスピーチを求められ、「アッサラーム・アライクム」というあいさつから始めて、サイドさんの歓迎の言葉に、つぎのように答えました。

 「私は、今回のパキスタン訪問の最初に、古代の遺跡タキシラを見学しました。ここでは紀元前二世紀に、ギリシャ文明と仏教文明が出会い、融合しました。異なる文明の出会いが仏像という新しい文化を生み出しました。今日においても、同じことが言えるのではないでしょうか。文明の衝突でなく、異なる文明の相互理解と共存を通じて、平和な二十一世紀をつくるために貢献したいと思います。今回の訪問による共産主義とイスラムとの出会いが、新しい世界への第一歩になることを願っています」。

二つの訪問を終わって――共通して感じた三つの点

 以上が、韓国とパキスタン訪問の概略の報告です。

 二つの訪問を終わり、こうして報告をまとめながら、双方の訪問で共通して重要だと感じたことが三点ほどあります。

 第一は、日本共産党の歴史と綱領のもつ生命力です。韓国での交流で、私たちへの信頼の最大の根拠となったのは、侵略戦争と植民地支配に命がけで反対してたたかい抜いたという動かせない歴史でした。パキスタンとの交流で、心が通い合う土台となったのは、いかなる大国の覇権主義にも屈しない自主独立の立場でありました。さらに、アジズ首相との会談で一致点となった国連憲章にもとづく平和秩序、テロ根絶の方途、核兵器廃絶は、綱領に明記されているわが党の外交政策の中心点です。異なる価値観をもつ文明の相互理解と平和共存も、新しい綱領に明記された命題ですが、これが遠くパキスタンで、このような形で生命力を発揮するとは、私たちにとっても驚きでした。わが党の歴史と綱領は、世界のどこにでも通用する、このことに確信をもってすすみたいと思います。(拍手

 第二は、ほんとうの外交とは何かということを、私たちは考えながら旅をしました。ほんとうの外交とは、お互いの立場に心を寄せ、理解しあうことだと、私たちは学びました。日本国民が韓国国民とほんとうの友人になろうとすれば、過去の歴史について理解しあうことが必要です。また韓国国民が民族の平和的統一への強い願いを持っていることを理解することが必要です。日本とパキスタンがほんとうの友人になるためには、パキスタンが置かれた困難な状況、イスラム社会についての理解が必要です。もちろん、すべての点での相互理解は、一挙には困難でしょう。しかし、相手を理解しようと努める姿勢を貫くことが、相手の信頼を生み出し、相手もこちらを理解してくれる。この響きあいがほんとうの外交ではないでしょうか。

 私は訪問を通じ、現在の日本外交には、この点が決定的に欠けているように思います。お金をばらまくことはやっても、相手の国の困難や複雑な状況に、ほとんど関心をもたず、その国の国民の思いを理解しようともしません。そういう中で、相手を深く理解しようとする姿勢をもつ政党が日本にあることが、相手に新鮮に響くのだと思います。私は、ここにわが党の野党外交が発展する大きな根拠があると考えるものであります。(拍手

 第三は、世界は変わりつつあるということです。今回訪問した韓国とパキスタンは、アジアの東と西で「親米国家」とみなされている国であります。二つの国とも、アメリカが戦争をすすめるための拠点にしようとしている国であります。そういう二つの国を訪問し、どちらの国でも、日本共産党が先方との間で、政治的内容の濃密な一致点を確認し、心通う交流がつくられます。ここには、わが党の綱領路線の生命力とともに、世界が変わりつつあることがしめされているのではないでしょうか。

 私たちは、韓国では、民衆のたたかいによって民主主義をかちとってきたたくましいエネルギーを感じました。パキスタンでは、複雑で困難な条件のもとで、自主性と誇りをもって国づくりを前進させようという気概を感じました。世界は変わりつつあります。この流れに確信を持って、日本の政治を変えるために、私たちの綱領路線の実現――直面する民主的改革の事業を前進させるために力を尽くしたい、私は、この決意を新たにするものであります。(拍手

 韓国でも、パキスタンでも、わが党の紹介をすると、共通して驚きをもって評価されたのが、わが党の持つ草の根の力――四十万人の党員、二万四千の党支部、三千四百人の地方議員のみなさんが頑張っていること、百六十万人の「しんぶん赤旗」読者を持っていることでした。このことは、最後にとりわけ強調したいことであります。私たちは、二つの旅を通じて、わが党が、草の根の力に支えられていることの素晴らしさをあらためて痛感し、この力を大きくすることの重要性を心に刻んで帰ってまいりました。

 私たちの訪問を支えてくださった内外のすべての人々への心からの感謝を申し上げ、報告を終えたいと思います。ご清聴ありがとうございました。(拍手


 


④ 志位さん・パキスタンへ

2006-09-29 | 気になるマスコミの記事

 志位さんの報告は、「パキスタン」に移りますが、その内容は、草の根から国際連帯を進める日朝協会にとっても、大変大切なことが、沢山報告されているように思いますので,続きを掲載させていただきます。

     韓国・パキスタンを訪問して

     志位委員長の報告(大要)


パキスタン訪問について(9月16日~21日)

   今回の訪問の特徴と意義について

 

 日本共産党代表団は、九月十六日から二十一日までパキスタンを訪問しました。六日間の日程ですが、最初の十六日と、最後の二十一日は、ほぼまるまる飛行機での移動にあてましたから、パキスタンで活動したのは実質四日間でした。

 この訪問は、韓国訪問とはまた違った、独特の重要な特徴と意義があるものとなったと思います。まずそれについて報告いたします。

   パキスタン政府の公式招待による訪問

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(写真)会談を終えて握手するシャウカット・アジズ首相(中央右)と志位和夫委員長(その左)=18日、イスラマバード

 今回のパキスタン訪問は、パキスタン政府の公式招待によるものでした。訪問の準備の過程で、駐日パキスタン大使館に緒方副委員長(国際局長)がうかがいますと、駐日大使のカムラン・ニアズさんは、私たちを「ステート・ゲスト」(国賓)として招待したいということでした。こういう形での訪問は、わが党の歴史でも初めてのものであります。

 わが党の野党外交は、一九九九年六月の第四回中央委員会総会の決定で、外国の諸政党との交流では、これまでの共産党間の交流にとどまらず、相手の党が保守的な政党であれ、革新的な政党であれ、与党であれ野党であれ、双方に交流開始への関心がある場合、「自主独立、対等・平等、内部問題不干渉」の三原則にもとづいて、関係を確立し、率直な意見交換をおこない、可能な場合には共同の努力をはかるという方針を決めたことから始まりました。二〇〇〇年十一月に開いた第二十二回党大会の決定では、この四中総での決定を確認するとともに、外国の政府との関係でも、平和と進歩の課題で交流を発展させるという方針を決めました。

 これらの方針の具体化の最初の重要な第一歩が、一九九九年九月の不破委員長(当時)を団長とする東南アジア歴訪でした。この時は、不破さんご本人が「あたって砕けろ」という精神で、この道を切り開いたとのべたように、これまでまったく関係を持っていなかったマレーシアやシンガポールなどに大胆な訪問をし、訪問してみたら「打てば響く」という反応が返り、交流が始まりました。これは、いまからふりかえりますと、重要な意義をもつ最初の大きな一歩だったと思います。

 その後、わが党の野党外交は、大きく発展していきます。ただ、これまでの私たちの外交というのは、相手国政府との関係では、こちらが訪問し、相手が応対してくれるという形でした。私も、二〇〇二年の十二月に、インド、スリランカ、パキスタンの三国を訪問しましたが、これも先方の政府の公式の招待があってのものではありません。こちらが訪問し、相手が迎えてくれるという形のものでした。

 それが今回は、パキスタン政府の公式招待ということになりました。ここにはわが党の野党外交の一つの質的な発展があると思います。

 ここにいたるまでには、わが党とパキスタン政府との交流の積み重ねがあります。そのいきさつは、七月十九日の党創立記念日の講演でも紹介しましたが、ことの始まりは、前駐日パキスタン大使のトキール・フセインさんが、日本共産党という自主独立の党が日本にあることを“発見”したことにありました。二〇〇一年のアフガン戦争のさいに、わが党は緒方さんを団長とする日本共産党代表団をパキスタンに派遣しました。帰国して緒方さんがその報告かたがたフセイン大使を訪問すると、大使は「日本共産党に会うのははじめてだ」とのべ、緒方さんは大使から質問ぜめにあったというのです。「モスクワとの関係はどうなっていたのですか」、「中国との関係はどうなっているのですか」、「歴史の古い党なのですか」などと詳しくたずねてきました。緒方さんが、日本共産党は、ソ連のアフガニスタン侵略などに反対し、覇権主義とたたかった自主独立の歴史があることを話すと、「たいへん興味深い」とうなずきながら聞き、「ぜひまたわが国を訪問してください」とのべました。フセインさんが後に明かしてくれたことですが、これを契機に日本共産党を研究して、本国政府に報告書を書いたとのことでした。いったん重要な相手だとわかりますと、その相手を研究するのですね。

 そういう経過を経まして、二〇〇二年十二月に、私を団長とする日本共産党代表団がパキスタンを訪問し、そのときに現駐日大使のカムラン・ニアズ外務次官補、現首相のシャウカット・アジズ財務大臣などと会談し、イラク戦争が切迫する状況のもとで、戦争反対の一致点を確認しました。

 さらに昨年八月、アジズ氏が首相となって来日したさいに、ふたたび会談して、「国連憲章にもとづく平和秩序を築く」という大きな問題で意気投合しました。その会談の席で、アジズ首相から私に「パキスタンをふたたび訪問してください。今度は私自身が招待します」という話があり、今回の訪問となったというのがことの経過です。

 最初の出会いが二〇〇一年ですから、わずか五年で、両者の関係がここまで発展したことは、それ自体がたいへんに感慨深いものがあります。

     「パキスタン国家、政府、国民にとっての賓客」

                     (サイド上院外交委員長)

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(写真)下院外交委員会であいさつする志位和夫委員長=19日、イスラマバード

 私たちの代表団が、実際にパキスタンを訪問してみますと、パキスタン政府の側は、まさに「ステート・ゲスト」にふさわしい応対ぶりでありました。

 私たちのパキスタンでの行動には、パキスタン政府が全責任を負い、実に心配りのきいた応対をしてくれました。私たちがイスラマバード空港に着いてみますと、パキスタン外務省の東アジア・太平洋局長のイフテカール・アジズ氏が、出迎えに来てくれ、さっそく私たちと、深夜の空港でしたが意見交換が始まりました。私が、「アジズ首相との会談を楽しみにしています」と伝えますと、先方も「首相も楽しみにしています」というやりとりがあり、そこから交流が始まりました。

 パキスタン政府は、私たち代表団の車両での移動、宿舎の手配、そして警護についても、すべてに責任を持って丁重な応対をしてくれました。パキスタンは、テロとのたたかいのいわば「最前線」に立たされている国です。要人を狙ったテロやホテルの爆破テロなどもあり、懸命にテロ根絶のために努力している国であります。私たちへの警護も、たいへんに重視されていました。移動のさいには、必ずパトカーが先導し、自動小銃を構えた兵士が警護にあたりました。ホテルでも、私たちが泊まるフロアには、二十四時間態勢で警官が立ち安全を確保してくれました。こういう点でも綿密な心配りをつくしてくれたと感じました。

 私たちの行動日程も、事前に打ち合わせがすんでおり、その通りに進行しました。九月十七日はタキシラ遺跡(ガンダーラ地方最大の古代都市遺跡)の視察、十八日はアジズ首相との会談、十九日は上下両院議長との会談、上下両院外交委員長との会談、上院議長主催の歓迎昼食会、上院外交委員長主催の歓迎晩餐(ばんさん)会、二十日は巨大地震の被災地であるバタグラムの視察という日程でした。こうした日程が、事前にパキスタン政府から大使館経由で提案され、こちらも同意して決まっており、その通りに進行するというのも、私たちにとって初めての経験でした。

 四年前のパキスタン訪問の際には、イスラマバードに着くまで、だれと会うことになるのかわからないという訪問でしたから、四年間で両者の関係が大きく発展したことを、この点でも実感したものです。

 シャウカット・アジズ首相との会談は、あとで内容を立ち入って紹介しますが、世界の平和秩序、テロ根絶の方途、核兵器廃絶で、政治的一致点を確認する内実のあるものとなりました。この訪問のなかで、もっとも重要な会談となりました。

 同時に、パキスタン国会が私たちの代表団を、いわば国会あげて歓迎してくれたことが印象深いことでした。たとえば、私たちが上院を訪問いたしますと、上院本会議の視察ということになりました。私たちが本会議の会議場に入って貴賓席に案内されて座りますと、激しい議論の最中だったのですけれども、議長が議事を中断して、「日本共産党の志位委員長を団長とする代表団がお見えになっています」と紹介するのです。そうすると議員が総立ちで歓迎の拍手をしてくれました。激論を交わしていた女性議員も、私たちへの歓迎の言葉をのべて、また激論に戻る、こういう歓迎ぶりでした。

 その後、ムハマド・ファルーク・サッタル下院外交委員長との会談という日程が入っていました。私は、先方は数人との会談になると予想していたのですが、行ってみますと与野党を超えた下院の外交委員の十数人がみんなで私たちを歓迎してくれ、その場で質疑応答が交わされるという交流の場となりました。いわばパキスタンの下院外交委員会に私たちが参加したという形になったのです。

 まずサッタル委員長が歓迎の言葉をのべます。そこで私が答礼の言葉をのべます。その後、サッタル委員長は、外交委員のみなさんに、「出席者のみなさんから、活発な質疑応答がおこなわれることを希望します」とのべ、自由な質疑応答となりました。この質疑応答は、もちろんマスメディアに公開され、テレビカメラが入ったもとでおこなわれました。

 そこで私が、まず自己紹介をと思い、日本共産党のプロフィルを外交委員のみなさんにお渡ししますと、外交委員のみなさんからつぎつぎと質問が出ます。居並ぶ委員の顔ぶれも、外交委員会には有力な政治家が集まっていて、ジャマリ前首相、与党・ムスリム連盟の国際委員会責任者、最大野党パキスタン人民党幹部など、そうそうたるメンバーであります。私への質問も、世界的な視野にたった、同時にわが党に対する強い関心をうかがわせるいろいろな質問が出ました。

 「日本のように高度に発達した資本主義国に共産党があることに注目しています。他の先進資本主義国にはどのような国に共産党があるのですか」、「テロの根源的な原因についてどう考えていますか」、「日本共産党の財政基盤はどうなっているのですか」、「南米の動きをどう評価しますか」などです。時間は一時間を超え、「もう時間がありません。つぎの日程が押しています」と促されて終わりとなりましたけれども、互いにもっと語り合いたいという思いを残しての、ほんとうに充実した実のある懇談となりました。

 さらにモハメド・ミヤン・スムロ上院議長主催の歓迎昼食会、ムシャヒド・フセイン・サイド上院外交委員長主催の歓迎晩餐会には、与野党を超えて、パキスタン政界の首脳陣が数多く参加し、心のこもった歓迎をしてくださいました。サイド上院外交委員長主催の歓迎晩餐会は、九月十九日の夜八時から国会でおこなわれました。関係者が「普通はこの時間は国会は閉めていますが、みなさんのために今夜は特別に国会を開けています」と説明してくれました。行ってみますと、関係者、衛視のみなさんがずらりとならんで私たちを出迎え、約六十人もの方々が晩餐会に参加し歓迎してくれました。サイド上院外交委員長が、「この晩餐会は、特別の客への、特別の機会の、特別の行事です。パキスタン国家、政府、国民にとっての賓客です」と熱烈な歓迎のスピーチをおこない、最後に私がお礼のスピーチをおこないました。聞いてみますと、参加した約六十人のうち上院議員が二十五人もいたそうです。上院の定数は百人ですから、議員の四分の一が参加してくれたことになります。さらに、数名の閣僚、著名なジャーナリストや各界の有識者も多数参加してくれたようでした。

  日本共産党の訪問が「両国関係に新しい展望を開いた」

                               (アジズ首相)

 わが党が他国の政府から公式招待を受けて訪問するのは初めてのケースとのべましたが、話し合ってみますと、パキスタンの側も私たちの訪問に重要な位置づけを与えていることがよくわかりました。いくつかの印象的な言葉があります。

 まず、十八日、シャウカット・アジズ首相との会談で、首相は冒頭に、私たちの訪問について、つぎのようにのべました。

 「日本共産党が国会のメンバーを伴って訪問してくれることは、パキスタンと日本の関係をさらに豊かにしてくれます」。

 この日の会談について、パキスタン国営通信APPは、「パキスタンと日本、新しい協力の展望を開く、首相が語る」という見出しで、会談の詳細を写真入りで報じました。「新しい展望を開く」――「オープン・ニュー・ビスタズ」と書いてあります。この言葉は、鮮烈でした。私たちの訪問が、両国関係の新しい展望を開くと首相が語ったと報じたニュースを見て、私たちも「展望が開かれた」(笑い)という思いでした。

 翌日、九月十九日のスムロ上院議長との会談では、議長はこうのべました。「これまでは政府と政府との関係でしたが、日本共産党の訪問は、両国の関係に新しい次元を加えることになります」。「新しい次元」――「ニュー・ディメンション」という言葉を使ったのですが、これも、たいへんに印象深く私たちは受け止めました。

 「新しい展望」「新しい次元」――これらの言葉は、パキスタンの政府と国家が、私たちの訪問をどう位置づけているかを端的に示していると思いました。これまで日本とパキスタンの両国政府は、良好な関係を持っています。特別の紛争問題が両国政府間にあるわけではありません。同時に、日本共産党の訪問は、日本とパキスタンの友好関係を、アジズ首相の言葉を借りれば「さらに豊かにする」と、先方は位置づけたわけであります。

 パキスタンのマスメディアは、連日のように、私たちの代表団の動向を伝えました。APP配信の記事は、ウルドゥー語の現地新聞に写真入りで掲載されました。私は、パキスタン国営放送のインタビューも受けましたが、ニュース専門のテレビ局がありまして、連日のように、しかも繰り返して、私たちの訪問を伝えました。一日何回も同じニュースが放映されます。先ほど紹介した下院外交委員会での質疑の様子なども、何回も放映していました。ただ残念なことに、ウルドゥー語がわかる団員がいなかったので、わかる言葉といえば「日本共産党」と言っているらしいということと、「志位和夫」という言葉が聞き取れたくらいで(笑い)、何が放送されたかは、翻訳してみたいと思っています。

 パキスタンは「親米の国」といわれます。しかし、この国の人々が心の中で何を思っているのか。印象深い懇談がいくつもありました。たとえば、私は、歓迎昼食会や晩餐会の席で、パキスタン政界で尊敬を集めているある長老の指導者と懇談しました。

 この方は、私に切々と、つぎのように語りかけてきました。

 「アメリカは国際法を一切尊重していません。彼らのいう国際社会とは、自分自身と自分を支持する英国などの諸国だけです。イラクは将来のテロリストの基地となっています。アメリカはイスラエルへの無分別な支持をやめなければなりません。アメリカは、アフガニスタンからソ連が撤退した後、その責任を果たさず、自分たちで始末をつけろといわんばかりに撤退してしまいました。それがアフガニスタン、パキスタン、地域全体を苦しめています。アメリカこそ、テロ国家といわなければなりません」。

 私が、「私たちの見解と近いです」とのべると、にっこり笑って握手となる、そういうやりとりもありました。

 帰国してみますと、私たちが訪問した同じ時期、九月二十一日に、国連総会に出席したパキスタンのムシャラフ大統領が、アメリカのCBSテレビのインタビューに答えて、9・11同時多発テロのあと、パキスタンが米国の対テロ戦争、すなわちアフガニスタンへの報復戦争に協力しなければ、米国はパキスタンを爆撃すると脅されていたと語ったことが報じられました。ムシャラフ大統領によると、この脅迫は、アーミテージ国務副長官(当時)によっておこなわれ、パキスタン政府の情報局長に伝えられたとのことでした。アーミテージ氏はこういったといいます。「爆撃されるのを覚悟しろ。石器時代に戻る覚悟をしておけ」。ムシャラフ大統領は、それは侮辱であり、「きわめて無礼な言葉である」と語ったと報じられました。同時に、大統領が「人は自分の国の利益に従って考え、行動しなければならない。そして、私はそうした」と語ったともCBSテレビは報じました。

 これらには共通して、アメリカの覇権主義へのきびしい批判があります。アメリカは、ソ連がアフガニスタンを侵略すると、それに対抗させるためにウサマ・ビンラディンなどのテロリストを支援・養成した。ところがソ連が撤退すると、この地を見捨てた。9・11テロが起こると「石器時代に戻してやる」と脅迫して、アフガン報復戦争への協力を無理やり迫りました。さらに無法なイラク戦争を引き起こして、テロリストを増殖させた――という批判です。パキスタンは、その甚大な被害に耐えながら、テロ根絶のためにたたかっています。しかし、アメリカはそれを理解せず、「まだ足らない」と圧力をかけてくる。この超大国の横暴勝手への怒りが、さまざまな懇談で伝わってきます。言葉にこそ出しませんでしたが、それに追随する諸国の政府への不信も感じられました。

 パキスタンは、周辺諸国との関係でも難しい問題を抱えています。インドとの緊張関係は、ようやく和解の方向がほのみえてきたものの、依然としてきびしいものがあります。隣国のアフガニスタンでは、タリバン勢力が復活し、一部の国からその責任がパキスタンにあるかのような非難がされています。アメリカは圧力をかけてきます。そのもとで私は、パキスタンなりに懸命に国づくりにとりくんでいると思います。それを理解してほしいという気持ちがたいへん強いのであります。

 パキスタン政府が、わが党訪問団を「ステート・ゲスト」として歓迎してくれたのは、わが党の自主独立の立場などへの共感もありますが、わが党が、パキスタンの置かれた立場への理解者であるということへの信頼もあったのでないかと、私は思います。

 もちろん、わが党は、どの国であれ、その国の内政・外交を無条件で支持するような自主性のない立場はとりません。パキスタン政府のとっている個々の政策について、とくに内政問題については、それを支持したり、あれこれ批判したりということは、私たちはしません。

 その国には、その国なりの独自の社会発展のプロセスというものがあります。自分の勝手な価値観を押しつけてはなりません。自分の勝手な尺度で、ある国を裁断してはなりません。私たちは、その国の内的発展のプロセスを理解することが、何よりも大切だと考えています。日本共産党は、どの国に接するさいにもこの姿勢を堅持してきました。その姿勢をパキスタン政府も評価したのだと、私は考えています。

 日本共産党は野党であって、権力を持っていません。財力もありません。持っているのは、わが党の綱領路線がしめす「道理にたった外交」の力しかありません。しかし、二十一世紀の世界では、力の外交ではなく、お金にものをいわせる外交でもなく、「道理にたった外交」こそ必要とされていると思います(拍手)。私は、一連の交流を通じて、このことを痛感し、今度の訪問の意義は大きなものがあるとの確信を深めました。

 


③  志位さん・韓国へ

2006-09-29 | 気になるマスコミの記事

続③

2006年9月28日(木)「しんぶん赤旗」より

韓国の変化をしるために、転載させていただきました。

  韓国・パキスタンを訪問して

                     志位委員長の報告(大要)


 日本共産党の志位和夫委員長が二十五日、東京都内の党本部で「韓国・パキスタンを訪問して」と題しておこなった報告(大要)を掲載します。

 ご意見等があれば是非コメントください。なお、質問は,赤旗編集局へどうぞ

 

  なぜこの出会いが可能になったか――

              韓国社会の大きな変化

 このように、日本共産党と韓国社会との最初の本格的な出会いは、たいへんに内容の豊かなもので、重要な成功をおさめたといってよいと思います。私は、日本共産党の党首としては初めての訪問で、なぜこのような実りある成果をおさめることが可能になったかについて考えてみました。そこには、すでにのべてきたように、日本共産党の歴史や路線の生命力を感じます。同時に、韓国社会の大きな変化ということも感じます。両方が相まって、この出会いを可能にしたと思います。

 韓国は、戦後、「反共」を国是としてきた国です。また、軍事独裁政権が長く続いてきた国でもあります。しかし、韓国民衆の長年の命がけの民主化のたたかいにおされて、一九八七年に、後に大統領となる盧泰愚(ノ・テウ)氏自身が「民主化宣言」をおこないます。一九九〇年には、共産主義を禁圧していた国家保安法が一部改正され、「外国の共産主義者と交流、協力すれば犯罪になる」という条項が削除されました。二〇〇〇年には、南北首脳会談がおこなわれて「共同宣言」が交わされ、平和的統一への道が開かれてきました。もちろん、まだ国家保安法は存在し、「反共」の壁が完全に崩れたわけではないと思います。しかし、韓国はいま大きく、ダイナミックに変わりつつあります。民主主義がダイナミックに発展し、「反共」の壁は、少なくとも日本共産党との交流ではほとんど感じないほどまでに崩れつつあります。この変化は、今回の訪問で交流した各党のリーダーが、私たちとの会談のなかで異口同音に語ったことでした。

 開かれたウリ党の金槿泰議長と会談したさいに、議長は冒頭、こうのべました。「国会で志位委員長をはじめ日本共産党の幹部をお招きすることは感無量です。国民が直接、大統領を選ぶようになった一九八七年以前であれば、国家保安法違反になったと思います」。金槿泰議長は、民主化運動に参加したため、国家保安法違反で三十回も投獄されている経歴を持っている方です。

 民主党の韓和甲(ハン・ファガプ)代表と会談した時には、開口一番こう話されました。「共産党をお迎えしたのは初めてです。多分、二〇〇〇年に平壌で交わされた南北共同宣言がなかったら、みなさんに会うのは大変だったでしょう」。二〇〇〇年の「南北共同宣言」も、韓国社会が変わる大きな節目だったことを感じさせるものでした。

 民主労働党の文成賢(ムン・ソンヒョン)代表との会談では、冒頭こうのべられました。「わが国では、共産党という名前だけでも弾圧の対象になっていたのが、ついこの間なのですが、長い歴史をもった日本共産党にお会いできたのは、本当に感慨無量です」。

 アジア政党国際会議が始まってからの昼食会で、ハンナラ党の幹部との懇談になりました。この方は、「私たちは、平和的な共産党であればいつでも大歓迎です。スターリン的な共産党は反対です(笑い)。日本共産党ならいつでも協力します。実は、朝鮮戦争のせいで、私たちは共産党と聞くだけで逃げるくらいだったんですよ。私の子どものころは、共産主義者には角がはえていると思っていました」。そこで私は、「私の頭を触ってください」というと、先方は「見ただけでわかりますよ」。(笑い)

 日本共産党と韓国社会が、今回こうして出会えたのは、韓国国民がみずからのたたかいによって民主主義を前進させた、そのたたかいの結果でもあると思います。私は、韓国の新しい友人たちに、「あなたがたのたたかいが、この出会いを可能にしてくれた」と話しました。私は韓国を訪問して、みずからのたたかいによって、みずからの前途をきりひらいてきた韓国国民のエネルギーに尊敬の念を抱かずにはいられませんでした。(拍手)

  アジア政党国際会議について――

               二つの役割を果たした

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(写真)第4回アジア政党国際会議の全体会議で発言する志位和夫委員長=9日、ソウル

 九月七日夜から、アジア政党国際会議が始まりました。この会議は、マニラ、バンコク、北京につづく、四回目の会議となります。この会議は、アジアの合法政党が、与野党の区別なく一堂に会するという画期的な会議で、こうした会議を開いている大陸はアジアしかありません。アジアで起こっている平和の流れを象徴する会議であります。

 今回は、開かれたウリ党と、ハンナラ党の共同主催の会議となり、両党は主催政党として、たいへんな苦労をしながら、準備をしたようであります。結果として、アジアの三十六の国から、九十の政党代表が集まり、大きな成功をおさめた会議となりました。

 私たち日本共産党代表団は、参加した政党の一員として、会議の成功に貢献するため、二つの仕事にとりくみました。

全体会議での発言――「平和のアジア共同体をめざして」

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(写真)記念撮影する第4回アジア政党国際会議の参加者。前列左から4人目は志位和夫委員長=9日、韓国国会の正面入り口前

 一つは、発言です。全体会議では、各党が一回ずつ発言できます。私は、こうした国際会議への参加も発言も初めてのため、何を話したらいいか、夏休みのころからずいぶんと考えました(笑い)。二〇〇四年に北京でおこなわれた前回の会議では、不破議長(当時)が、「戦争のないアジア、戦争のない世界をめざして」というテーマで、二十一世紀を迎えて、国連憲章を中心に、平和の国際秩序をつくりあげることが世界の共通課題となっているという、大きなスケールの発言をしています。

 私は、それを土台にしながら、それ以後の情勢の進展も考えて、発言のテーマを「平和のアジア共同体をめざして」としました。つまり、この二年間の情勢の進展を考えますと、世界各地で、国連憲章にもとづく平和の国際秩序の新たな担い手として、自主的な地域共同体の動きが発展していることが、たいへん注目されます。それは平和の共同体という点では、このアジア大陸でもっとも目覚ましい前進が形づくられています。それは東南アジアでのASEANの発展や、上海協力機構(SCO)の発展にも示されています。これを北東アジアに広げ、中央アジア、南アジア、西アジア諸国とも連携し、平和のアジア共同体を築くために力を合わせようと訴えました。

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(写真)第4回アジア政党国際会議の歓迎レセプションで、会議を主催する開かれたウリ党の金槿泰(キム・グンテ)議長(右から2人目)、ハンナラ党の姜在渉(カン・ジェソプ)代表(右から3人目)とあいさつをする志位和夫委員長=7日、ソウル

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(写真)アジア政党国際会議の歓迎レセプションで、開かれたウリ党の金槿泰(キム・グンテ)議長(左)と懇談する、(右へ)志位和夫委員長、インド共産党(マルクス主義)のイエチョリ政治局員、緒方靖夫副委員長=7日、ソウル

 同時に、そのために日本がどういう役割を果たすべきかについて、つぎの五つの点での日本政府の外交の転換が必要だとのべました。

 一つは、過去の侵略戦争と植民地支配を正当化する逆流を克服することです。

 二つ目は、アメリカ一辺倒でなく、アジア諸国との平和の関係を探求する大戦略をもつことです。

 三つ目は、軍事偏重でなく、外交による問題解決に徹する姿勢を確立することです。

 四つ目は、いかなる国であれ覇権を認めず、国連憲章にもとづく平和秩序を守ることです。

 五つ目は、異なる価値観をもった文明間の対話と共存の確立に力をつくすことです。

 この国際会議のメーンテーマは「アジアの平和と繁栄」であり、サブテーマの一つは「アジア共同体の建設」でした。ですから、私たちがおこなった発言は、会議全体の趣旨とも響きあったと思います。私は、発言が終わった後、少なくない参加者から共感と祝福の声をかけられました。

 なお、時間の関係で、壇上での発言は五分以内とされ、発言の全文は文書で配布し、それを正式の発言として扱うとの説明でした。これは九十もの政党が全体会議で発言するうえでは当然のことなので、発言時間は厳格に守ることにしました。私の発言は、四分五十六秒で終わりました。日本の国会で短く発言することには慣れています(笑い)。これも苦労して会議を運営している議長団に、歓迎されたと思います。私たちは、マナーという点でも、会議の成功に貢献する姿勢を貫きました。

   「ソウル宣言」をよりよいものに仕上げるために

 もう一つの仕事は、会議で採択される「ソウル宣言」をつくる過程で、それをよりよいものにするための働きかけや修正案の提起という仕事です。

 アジア政党国際会議の「宣言」という点では、前回の「北京宣言」は、国連憲章にもとづく平和秩序を力強くうたい、政党間の民主的関係の原則なども盛り込み、高い到達点を示していました。

 今回の会議で、常設委員会が最初に配布した「ソウル宣言案」を見ますと、「北京宣言」には盛り込まれていなかった新しい積極的な内容が含まれていますが、「北京宣言」に盛り込まれていた重要な内容が明記されていないなどの点もありました。私たちは代表団で相談し、会議全体の進行も考えて、端的で短い修正案を提起することにしました。それは、「ソウル宣言」の前文に、「過去三回の総会で確認された原則に基づいて」という一文を挿入することであります。たいへん短い一文です。しかし、これを挿入すれば、「北京宣言」の到達点がすべて再確認され、生かされたうえに、新しい積極的な命題が加わることになります。最終日に配布された「ソウル宣言」には、わが党の提案がそのまま採用され、私たちはたいへんうれしい思いでありました。(拍手)

 もう一つは、核兵器廃絶の問題です。いま北朝鮮やイランの核問題が、重要な国際問題となっています。私たちは、新しい核兵器保有国の出現にはもちろん反対ですが、核兵器の拡散防止だけになっては困ると考えました。そこで常設委員会のメンバーに、「ソウル宣言」に核兵器廃絶を明記するように、事前に働きかけをおこないました。この問題でも、「ソウル宣言」には、「われわれは、核兵器の包括的禁止と完全廃絶を全面的に支持」していると明記されました。これは「北京宣言」に比べても前進であります。核兵器保有国を持つアジアの政党会議で、核兵器廃絶をうたった決議が全会一致で採択された意義は大きなものがあります。日本の自民党も賛成したはずですから(笑い)、「核兵器の究極的な廃絶」などという先送りは、もはやするべきではありません。

 こうして「ソウル宣言」をよりよいものに仕上げるうえでも、わが党代表団は一定の貢献ができたと考えるものであります。

「朝鮮半島の平和と日韓の友好ウィハヨ(のために)」

 アジア政党国際会議では、政党間の交流にも可能なかぎりとりくみました。まとまった時間をとって会談したのは、インド共産党(マルクス主義)、ロシア共産党、インドネシア闘争民主党などであります。

 インドネシア闘争民主党は、野党第一党で、国政上に占める比重は大きなものがありますが、これまでわが党との交流がありませんでした。朝食をとりながら会談しましたが、この党との交流を確認したことは、ASEANのなかで二億人という最大の人口をもつ国との関係をつくるうえで、今後、力になってくると思います。

 韓国の政党とは、会議が始まる前に、交流の関係ができていますから、会議の中では韓国の国会議員との交流がどんどん広がります。

 一つ面白い経験をしました。インド共産党(マルクス主義)からは、イエチュリ政治局員が参加していました。四年前インドに行ったときに、世話になった旧知の友人です。ただ韓国訪問は初めてとのことでした。私も初めてですが、インド共産党(マルクス主義)のイエチュリ政治局員も初めてだったわけです。そこで国際会議が始まる直前に会談して意気投合した、開かれたウリ党の金槿泰(キム・グンテ)議長に、イエチュリ政治局員を紹介しました。そうしたら二人の話が弾むのです。というのは、金槿泰議長とイエチュリ政治局員は、お互いに弾圧で投獄された経験があります。イエチュリさんが「私は二十三回投獄された」といえば、金槿泰さんは「私は三十回だ」という。イエチュリさんは「あなたの方が私よりもすごい」という(笑い)。二つの党が友人となる「仲人役」をしたのは初めてのことですが、これはとても楽しくうれしい経験でした。

 晩餐(ばんさん)会などでは、日本からは党首の参加がほかにあまりいなかったせいか、ずいぶんと上席に案内され、韓国各党の首脳と同じテーブルなので、会談の続きをおこない、親交を深めました。私が、開かれたウリ党の金槿泰議長にあいさつにいくと、二人で乾杯になります。金槿泰さんが、「私の国では乾杯するときに『ウィハヨ』(のために)といいます。民主主義と東アジアウィハヨ」といいます。そこで私が、「朝鮮半島の平和と日韓の友好ウィハヨ」という。そうすると、民主労働党の権永吉(クォン・ヨンギル)議員団代表も加わって三人で「ウィハヨ」になり、民主党の幹部も入って四人で「ウィハヨ」と乾杯となりました。晩餐会の席でみんなが見ている前で、私と韓国の諸政党のリーダーとの心温まる乾杯となりました。

 晩餐会の催しとして、各国の民謡や愛唱歌がメドレーで演奏されました。日本の歌は「ふるさと」でしたが、若い女性と少女たちの実に美しいコーラスでしたので、私が立ち上がって「ブラボー」といいますと(笑い)、韓国の政党の首脳陣が「ミスター・シイ、花を投げろ」といって、私に花を渡すのです。私が、柄にもなく、渡された花を投げると、みんなから拍手が起こる(笑い)という具合で、初訪韓が成功した余韻が、国際会議に入ってからも続きました。

 私たちが民主労働党と会談したさいに、権永吉議員団代表が、「今回の国際会議の最も大きな意義は、日本共産党の訪韓です。韓国のメディアでもそのように報道されました」とのべていました。これは過分な評価だと思いますが、国際会議成功の一端を担えたということは、私たちにとってたいへんに大きな喜びでした。

韓国社会の日本共産党への見方もかわりつつある

 今回の訪韓の活動の全体を通じて、韓国社会の日本共産党への見方も変わりつつあると感じます。

 韓国メディアは、全体として温かく、好意的に、連日のように、日本共産党の訪韓をとりあげてくれました。メディアとの会見は、韓国メディアとの会見が二回、在韓日本メディアとの会見が一回でしたが、韓国メディアの二回目の会見では、真剣な質疑があいつぎ、最後に、これもわずかばかり覚えた韓国語で私があいさつすると、拍手がわきおこりました。記者会見での拍手は、普通はないことで、私はもちろん初経験でした。韓国メディアからも、たいへんに温かく迎えられたというのが実感です。

 韓国メディアの個別のインタビューにたいしては、出発前、滞在中とも、できるだけ応じました。日程がびっしりだったので、深夜のインタビューもありました。「ハンギョレ」という新聞とのインタビューは、ソウルの最後の晩の深夜でしたが、「夜遅くまでインタビュー 途中 NHKでチャングムをやる時間」という見出しで報じられています(笑い)。「好きな韓国ドラマは」と問われ、「『宮廷女官 チャングムの誓い』です」と答え、「好きな俳優さんは」と問われ、「イ・ヨンエさんです」というやりとりがありまして、こういう見出しがついたのでしょう。インタビューの最中が、日本でのドラマの放映時間にあたっていて、今週は韓国に来ているのに「チャングム」が見られないのが残念だといったやりとりもありました。

 韓国メディアが積極的に報道してくれたおかげで、韓国社会の日本共産党への見方も変わりつつあると感じます。九月十日、すべての日程を終えて、金浦空港で家族への土産を買っていると、店員の女性が、私の顔を見るなり「イルボンコンサンダン(日本共産党)ですね」といってくるのです。私が「どうして知っているのですか」と聞くと、「テレビでやっています。みんな知っていますよ」という答えでした(笑い)。これも、この訪問が、日本共産党と韓国との交流の文字どおり太い道を開いたと実感した一こまでありました。以上をもって韓国の訪問についての報告を終わります。(拍手)(つづく)


 


②  志位さん・韓国へ

2006-09-29 | 気になるマスコミの記事

続②

 

2006年9月28日(木)「しんぶん赤旗」より

韓国の変化をしるために、転載させていただきました。

  韓国・パキスタンを訪問して

                     志位委員長の報告(大要)


 日本共産党の志位和夫委員長が二十五日、東京都内の党本部で「韓国・パキスタンを訪問して」と題しておこなった報告(大要)を掲載します。

 ご意見等があれば是非コメントください。なお、質問は,赤旗編集局へどうぞ

 

    植民地支配の傷跡の深さ、日韓友好への願い

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(写真)握手をする韓国国会の林采正(イム・チェジョン)議長(右)と志位和夫委員長(左)=6日、韓国国会議長室

 翌日の九月六日からは、韓国政界との交流、各界の人々との交流が本格的に始まりましたが、どこでもほとんど例外なく、歴史問題が重要な主題となりました。いくつか強く印象に残ったことを報告したいと思います。

 一つは、植民地支配がこの国の人々に残している傷あとの深さです。日本の政界の一部で生まれている歴史をゆがめる動きへの怒りの激しさです。そして韓国の人々が、そうした自分たちの思いを日本の国民に理解してほしい、そしてほんとうの日本との友情をつくりだしたいと、真剣に願っているということであります。

 九月六日の林采正(イム・チェジョン)国会議長との会談でも、私たちはそのことを強く感じました。林采正議長が冒頭にのべたのは、私たちの西大門訪問と献花についてでした。林采正議長は、つぎのようにのべました。「私は、感無量です。韓国国民の立場からすると深い悲しみの地を訪問され、しかも献花されたことに感謝の気持ちでいっぱいです。韓国国民を代表して感謝します」。この言葉には、逆に私たちが感謝の気持ちで深く心を動かされました。

 同時に、林采正議長は、日本の自民党指導者が歴史をわい曲する行為をおこなっていることに、きびしい批判をのべました。そして、それを強調しているのは真の未来関係のために必要だからだと繰り返しのべました。私は、その発言を受けて、わが党の戦前の歴史、今日、靖国問題などでとっている立場を説明しました。そうしますと、林采正議長の口から出てきたのは、「心からのねぎらいの意となぐさめの意を十分に受け止めています」、「非常に心が癒やされる思いがします」という言葉でした。「ねぎらい」「なぐさめ」「癒やされる」――この言葉は私の耳に深く残っています。

 林采正議長はこうもいいました。「日本が、志位委員長が簡潔かつ明確にいわれたような植民地支配と侵略行為について明らかな態度をとっていれば、いまのような北東アジアの緊張関係はなかったし、平和に向かって素晴らしい北東アジアになったでしょう」。

 議長は、最後に、「初めてお会いしたのに、非外交的なことを申し上げましたが、理解していただけるみなさんだと思ったので、あえて申し上げました」とのべました。私は、「たいへんに外交的(な言葉)です」と応じましたが、これも私たちの心を打つ言葉でありました。

韓国と靖国問題について

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(写真)姜萬吉(カン・マンギル)高麗大学名誉教授(右)らに靖国神社・遊就館の資料を見せる志位和夫委員長(左)=6日、ソウル

 二つ目は、靖国問題についてです。韓国では、国民も、政界もこぞって、日本の首相の靖国参拝に強く反対していますが、靖国神社の実態については、必ずしもよく知られているわけではありません。さまざまな会談や懇談の席で、靖国問題にかんするわが党の立場について質問を受け、わが党は、この問題の核心は、靖国神社の軍事博物館――遊就館の展示に示されているような「日本の戦争は正しかった」という歴史観、戦争観にあることを説明すると、「なるほど」という場面が多くありました。

 私は九月六日、歴史学者の姜萬吉高麗大学名誉教授と、つっこんで意見交換する機会がありました。姜萬吉さんは、高名な歴史学者であるとともに、軍事独裁政治とたたかった知識人としても知られ、党派をこえて尊敬を集めている碩学(せきがく)であります。実は、西大門刑務所は、一九四五年の後も、刑務所として使われ、軍事独裁政治に反対する政治犯への弾圧の場となりました。姜萬吉さん自身も、西大門刑務所に投獄されたことがあり、私とはその場でまず会い、車で移動しながら話し合い、さらに昼食をとりながらの会談となりました。

 姜萬吉さんは、南北の平和的統一をめざすためには、朝鮮解放運動の歴史を描くさいにも、民族主義の立場からの解放運動だけでなく、社会主義の立場からの解放運動も視野に入れてとらえる必要があるという立場にたって、歴史研究をすすめておられる方で、私も日本語で公刊されている一連の著作を読みましたが、教えられるところがたいへん多いものであります。姜萬吉さんは、北東アジアに平和の共同体をつくる必要がある、そのためにも日韓が歴史認識を共有する必要があるということも力説されておられますが、これは私たちの立場とも共通しています。

 姜萬吉さんとの会談のなかでも、靖国問題が話題となりました。私は、遊就館の展示物を本にした『遊就館図録』を持っていったので、現物を見せて、この神社の立場が、日清・日露戦争から、中国侵略戦争、太平洋戦争までの五十年戦争のすべてを、「アジア解放の正しい戦争」と賛美していることを指摘しました。とくに一九一〇年の韓国併合との関係では、日清・日露戦争の描かれ方が重要であります。『図録』には、「(日露戦争は)我が生命線である韓国の保護」のためだったという植民地支配美化論が堂々と書いてあります。姜萬吉さんは、日本語も堪能な方で、これを見るなり目をむいて驚きました。「これはいつ出された本ですか。いまですか」。戦前のものが復刻版で出されたと思われたようでした。私が「三年前です」というと、「いやー」と絶句されました。緒方さんが、その様子を見て、とっさに「差し上げます」といいました(笑い)。私が持っていったものは、昨年の国会で、小泉首相との論戦に使ったもので、重要な個所にアンダーラインがしてあるなど書き込みがあり、差し上げるのは失礼かとも思ったのですが、姜萬吉さんにそのことも申し上げると、「それも歴史的です。なおさら貴重なものです」(笑い)といってくれましたので、その場で差し上げました。

 私は、政党の指導者との会談でも、靖国問題のどこが問題かを問われて、同じ説明をし、「これは韓国、中国との関係の問題だけではありません。戦後世界の秩序の土台を否定するという点で、日本と世界の関係の問題であり、日本自身の問題なのです。そして侵略戦争と植民地支配に反対を貫いたわが党の存在意義にかかわる問題なのです。そういう立場で、私たちはきびしく歴史のわい曲に反対しています」とのべました。これはとくに昨年来、わが党がずっと主張してきたことですが、問題の本質が伝わると、この歴史の逆流に反対する大義が、より広い視野で共有されることを感じました。

「日本の右傾化」への危惧と、日本共産党への期待

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(写真)延世大学の「特別講義――東アジアの未来のための対話」で、大学生や院生に講演する志位和夫委員長。活発な意見交流が続いた=6日、ソウル

 三つ目は、こうした歴史問題と一体に、憲法改定をはじめとする「日本の右傾化」への動きについて、韓国の多くの人々が強い危惧(きぐ)を抱いていることであります。このことは、政党指導者のみなさんとの会談でも、学生・院生のみなさんとの交流でも、韓国メディアの質問でも、共通して出されました。

 安倍晋三氏が自民党総裁に選出されそうだということについても、多くの韓国国民が不安と懸念を持っていることが感じられました。学生・院生との対話でも、安倍氏についての質問が出されました。「志位さん、安倍さんをどう見てらっしゃいますか」。私は、昨年七月、テレビ朝日で安倍氏とおこなった対論を紹介し、私が、安倍氏に日本の侵略戦争への認識を問うたのに対して、安倍氏が「後世の歴史家が判断すること」と答えたとのべますと、教室いっぱいに失笑が広がりました。「とんでもないことだ。いったい何を勉強していたのか」というような失笑です。安倍氏が、その討論で、私の問いかけへの答えに窮して、「ローマ帝国の時代、カルタゴの将軍ハンニバルは、大軍団を率いてアルプスを越え、ローマに進軍したが、それを単純に侵略戦争とはいえないでしょう」との詭弁(きべん)を使ってのがれようとしたことを紹介すると、教室中が爆笑となりました。

 ただ同時に、日本の平和運動の力は弱いのではないか、日本は一路右傾化ではないかという不安がたいへん強いのです。ですから私は、「九条の会」が五千を超えて全国に広がっていること、日本共産党が草の根で国民と結びついてその一翼を担っていることなどを話しました。そういうやりとりのなかで、「日本にも平和を守る勢力が存在し、広がっていることを、初めて知った」という反応も少なくありませんでした。同時に、平和のために、日本共産党がさらに力を持ってほしいという強い期待が、多くの人々から寄せられたことを報告したいと思います。

 私は、韓国でもそのことをのべましたが、日本国憲法第九条は、あの悲惨なおびただしい犠牲をもたらした侵略戦争の反省の上に立って、「日本は二度と戦争をしない」という国際公約であり、これを守りぬくことは、私たちの世界とアジアに対する責任だということを、あらためて強く決意しております。

日韓のどんな懸案事項も歴史問題の解決が土台――竹島問題を考える

 四つ目に、日韓の間にあるどんな懸案事項を解決するうえでも、歴史問題で日本が誠実な態度をとること――侵略戦争と植民地支配への反省をきちんとおこなうことが、冷静な話し合いを成り立たせる基礎になることを痛感いたしました。

 たとえば、日韓の間には、竹島――韓国では「独島(トクト)」と呼ばれている島の領有をめぐる問題があります。韓国では、国民のおそらく99%以上が、「独島」は韓国の領土だ、日本帝国主義の侵略によって最初に奪われた領土だと考えています。九月五日におこなった西大門での韓国メディアとのインタビューでも、この問題への態度が問われました。九月七日におこなったハンナラ党の金炯旿(キム・ヒョンオ)院内代表との会談でも、「この問題についても理解してほしい」と要請されました。

 私は、「この問題は、靖国問題などとは違った事情があります。わが党は、一九七七年にこの問題についての見解を発表していますが、竹島(独島)の領有権を日本が主張することには、歴史的な根拠があるとそのなかでのべました」と、まず私たちの立場を率直に伝えました。ハンナラ党の金炯旿午院内代表との会談では、私がそこまで言いますと、「共産党がですか」と聞き返してきました。会談は一瞬、緊張しました。私は、「そうです」と答えるとともに、「わが党は同時に、竹島の日本への編入が、一九〇五年という韓国の植民地化の過程でおこなわれたこと、当時、韓国はすでに外交権を剥奪(はくだつ)されており異議をいえる立場になかったことを考慮し、韓国側の言い分も検討しなければならないと考えています。植民地支配への反省を土台において、まずこの島をめぐる歴史的な認識を共有するための両国の共同研究をおこなってはどうでしょうか」とのべました。そうしますと、先方から、「いいお話をありがとうございます。植民地化の過程については、私の方からあえて申し上げなかったのですが、それについて志位さんのほうから言及されたというのは、非常に意味のあることだと思います」との答えが返ってきました。この会談は、一瞬の緊張はありましたが、最後はたいへん友好的な雰囲気で終わりました。

 竹島問題は、日韓間で非常にこじれている問題ですが、私は、この会談を通じて、こじれにこじれた糸をときほぐす道が見えたように思えました(拍手)。一九六五年の日韓基本条約の締結にいたる過程で、日韓両国政府間で竹島領有をめぐって往復書簡による論争があります。その論争の過程でも、また今日においても、日本政府は、韓国併合――植民地支配を不法なものであったと認めていません。それを認めないもとで、竹島の領有権を主張するから、韓国国民の側からは、この問題が「侵略の象徴」となってしまうのです。ですから韓国政府は、この島の領有権をめぐっては話し合いすら拒否するという状況にあります。日本政府が、植民地支配の不法性、その誤りを正面から認め、その土台のうえで竹島問題についての協議を呼びかけるなら、私は、歴史的事実にもとづく冷静な話し合いが可能になると、これらの交流を通じて痛感したしだいです。

北朝鮮問題、南北の平和的統一、

            北東アジアの平和について

 歴史問題と並んで、交流の中でわが党の立場について質問されたのは、北朝鮮問題でした。政治会談でも議論になり、韓国メディアからも問われました。私は、わが党の見地について、二つの角度からよく理解してもらうように心がけました。

    北朝鮮問題をどう語ったか――二つの角度から

 一つは、日本共産党が、北朝鮮による国際的な不法行為――一九八三年のラングーン爆弾テロ事件、八四年の日本漁船への不法な銃撃・拿捕(だほ)事件、八七年の大韓航空機爆破事件、七〇年代からの日本人拉致事件などについて、きびしい批判的な立場を貫いてきたということであります。私たちが一連の不法行為を「社会主義とは無縁だ」と批判したのに対して、朝鮮労働党が「敵に加担する」ものだと攻撃したため、一九八〇年代前半以降、両党関係が断絶にいたっていることも話しました。

 同時に、いま一つは、今日、北朝鮮問題が北東アジアの平和と安定にとって重大な焦点となるもとで、わが党が、この問題を冷静な平和的・外交的努力によって解決をはかろうとしているということも話しました。一九九九年の国会で、不破哲三委員長(当時)が日朝両政府間の交渉ルートを無条件で開くべきという提案をおこなったこと、それがやがて二〇〇二年の「日朝平壌宣言」につながったこと、わが党が、この「宣言」を支持し、ここに明記された拉致問題、核・ミサイル問題、過去の清算の問題を、包括的に解決すべきだと主張してきたこと、その後の紆余(うよ)曲折や逆行もあるが、今後もこの「宣言」を両国政府が順守して国交正常化への道を開くことが大切だとのべました。

 この二つの角度からのわが党の立場の説明は、いまの韓国国民の気持ちとも合ったものとして、理解されたと思います。韓国国民も、北朝鮮のさまざまな不法行為に強い批判をもっています。日本共産党が、北朝鮮の朝鮮労働党とはまったく違う党だと知ると、まず安心します。同時に、北も南も同じ民族であり、多くの韓国国民は、南北の平和的統一を強く願っています。ですから、北朝鮮を一本調子で力ずくで追い詰めるような立場は理解されませんし、ましてや北朝鮮の「体制打倒」論や、日本の政界の一部で言われた「敵基地攻撃」論などには、強い批判があります。北朝鮮の不法行為はきびしく批判しつつ、いかにしてこの国を国際社会の責任ある一員にするかという立場は、日本共産党がとってきた立場ですが、この立場は、韓国国民のみなさんの気持ちとも合致していると感じたしだいであります。

南北の平和的統一を促進する国際環境を

 同時に私たちは、交流のなかで、朝鮮半島の南北統一問題に日本がどう向き合うかということも、いろいろと考えさせられました。

 私が、林采正国会議長との会談でも、政党の党首との会談でも、歴史学者との会談でも、共通して要請されたことがあります。それは「南北の平和的統一に、日本はもっと協力してほしい」という要請であります。

 南北の統一は、もちろん朝鮮民族自身の手によって自主的に解決されるべき問題であります。同時に、平和的統一が実現するような国際的環境をつくるうえで、日本はその重要な責任の一端を担っていると思います。

 なぜ朝鮮半島が南北に分断されたのか。そこには、さまざまな歴史的要因が働いています。南北分断を固定化したのは、一九五〇年から五三年までの朝鮮戦争でした。しかし、南北分断の出発点となったのは、一九四五年の八月十五日の日本の敗戦にともなう、米ソによる北緯三八度線を境にした分割占領でした。朝鮮は、敗戦国の植民地として終戦を迎えました。このことが南北分断へとつながったのは、まぎれもない歴史の事実です。

 韓国国民からすれば、一九一〇年に日本に植民地にされ、たいへんな辛酸と苦痛を味わい、さらに日本が一九三一年に中国への侵略戦争を始めたらその兵站(へいたん)基地として、さらに過酷な搾取と強制動員の犠牲をしいられ、そのあげく日本が一九四一年に無謀な太平洋戦争に突入して敗北したら、敗戦国の植民地として南北に分断された。こういう思いがあります。その意味では、私は、南北の分断の歴史的淵源(えんげん)をたどると、日本の植民地支配と無関係とはいえないと思います。

 日本政府は、こうした歴史的経緯からも、南北の平和的統一という朝鮮民族の悲願が実るような国際的環境をつくるうえで、重要な責任の一端を負っていると、私は、考えるものであります。

 私は、九月七日、開かれたウリ党の金槿泰(キム・グンテ)議長と会談したさいに、このことも念頭において、「ASEAN(東南アジア諸国連合)で起こっているような平和の共同体を、北東アジアにも広げることが大切です。そのためには、つぎの三つの枠組みを成功させることが大切だと思います」とのべました。

 一つ目は、六カ国協議を成功させ、朝鮮半島の非核化をなしとげ、この枠組みを地域の平和の機構に発展させることです。

 二つ目は、南北が、二〇〇〇年の「南北共同宣言」にもとづいて、平和的統一の事業を前進させることです。

 三つ目は、日朝両国政府が、「日朝平壌宣言」にもとづいて、諸懸案を解決し、国交を正常化することです。

 金槿泰議長は、「三つの課題に私も全面的に共感します。そのために貴党が大きな役割を果たすよう、期待いたします」と応じました。

 この三つの枠組みのうち、二つの枠組みは、日本政府が直接の当事者となっている枠組みです。この枠組みを成功に導くために知恵と力を尽くすことが、南北の平和的統一の事業を前進させる国際的環境をつくることにもなると、私は思います。日本政府は、そういう自覚ももって、ことにあたる必要があると思います。

 


志位さん・韓国へ

2006-09-29 | 気になるマスコミの記事

2006年9月28日(木)「しんぶん赤旗」より

韓国の変化をしるために、転載させていただきました。

  韓国・パキスタンを訪問して

                     志位委員長の報告(大要)①


 日本共産党の志位和夫委員長が二十五日、東京都内の党本部で「韓国・パキスタンを訪問して」と題しておこなった報告(大要)を掲載します。

 ご意見等があれば是非コメントください。なお、質問は,赤旗編集局へどうぞ


 お集まりのみなさん、こんにちは。CS通信をご覧の全国のみなさんにも心からのあいさつを送ります。ご紹介いただきました日本共産党委員長の志位和夫です。

 私は、日本共産党代表団の団長として、九月五日から十日まで韓国を訪問しました。つづいて九月十六日から二十一日までパキスタンを訪問しました。この二つの訪問は、それぞれの代表団の全員の協力で大きな成果をあげることができましたが、代表して私が二つの訪問について報告をいたします。

   韓国訪問について(9月5日~10日)

 訪韓の目的と日本共産党代表団の活動の概要

写真

(写真)報告する志位和夫委員長=25日、党本部

 まず韓国の訪問についてです。

 はじめに、訪韓の目的と日本共産党代表団の活動の概要についてのべます。私たちは、今回の訪韓にさいして、二つの目的をもってのぞみました。

 一つは、九月七日から十日に開催された第四回アジア政党国際会議へ出席し、参加政党の一員として、国際会議の成功に貢献することであります。今年三月に、国際会議の準備委員長と事務総長がそろってわが党本部にみえて、私への招待があり、参加することにいたしました。

 いま一つは、日本共産党の党首としては、初めての訪韓となりますので、韓国の政界、国民各界の方々との交流をおおいにおこないたいと考えました。そのために会議の始まる二日前の九月五日に訪韓して、交流のための日程をたてました。

 韓国政界との交流については、韓国政界の全体との交流の道を開くということを、とくに心がけました。韓国にも、さまざまな立場の政党があり、内政・外交の問題での激しい対立もあります。日本共産党に会うということは、何しろ初めてですし、十年余り前までは外国の共産党との交流が禁止されていた国でもあり、微妙な問題です。ですから特定の政党ではなく、国会に議席を持つすべての政党にごあいさつにうかがい、交流を開くという立場でのぞみました。

 与党の開かれたウリ党、野党のハンナラ党、民主党、民主労働党、国民中心党という主要五党のすべての代表、院内代表とお会いしました。最初は、アジア政党国際会議の主催国の政党への、表敬を込めたあいさつというつもりでうかがったのですが、どこでも温かく歓迎され、儀礼的なあいさつにとどまらず、政治的中身の濃い会談となりました。しかも、すべてがメディアにフル・オープンで公開されて、会談がおこなわれるのです。最初から最後までテレビカメラにかこまれ、メディア注視の中での会談となりました。ウリ党や民主党は、党のホームページに私たちとの会談のやりとりの全文がすぐに掲載されていました。そのぐらい徹底的に公開された、気持ちのよい開かれた場での会談となりました。

 私たちは、韓国国会も訪問しました。林采正(イム・チェジョン)国会議長と、つっこんだ会談ができました。この会談の中身については後で立ち入って報告しますが、四十五分間に及ぶ充実した内容のものとなり、たいへんに率直かつ友好的で心が通う印象深いものとなりました。

 韓国政府との関係では、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が私たちの訪韓中、フィンランドで開かれたASEM(アジア欧州会議)の会議などに出席するために外遊中で、残念ながら大統領にはお会いすることはできませんでした。しかし、韓明淑(ハン・ミョンスク)首相とは、国際会議のさいの首相主催の夕食会であいさつを交わす機会がありました。これはたくさんの国の代表団がつめかけているなかでのあいさつですから、私は短時間のあいさつしかできないだろうと思って、わずかばかり覚えた韓国語で(笑い)話しかけました。そのときの会話はこういうものでした。

 志位「こんにちは。私は日本共産党委員長の志位和夫です」。(志位氏が韓国語で話すと、会場から笑いと拍手)

 韓首相「お会いできてうれしいです」。

 志位「今後、わが党と貴国の関係が発展することを願っています」。(志位氏が韓国語で話すと、会場から「ほう」という声)

 韓首相「私もそう願っています」。

 会話はこれだけなのですが、実はこの会話は、私のほうでは自分が何をいっているかはわかっているのですが、相手が何を答えているのかは、心ではだいたい感じていたのですが、聞き取れないのですね(笑い)。となりで通訳の面川さんが聞いていてくれて、後で会話が成立していたことを知ったというのが(笑い)、この出会いでした。

 私たちは、韓国国民の各界のみなさんとも可能な限り交流をすすめたいと考えました。韓国の著名な歴史学者で知識人として国民の尊敬を集めている姜萬吉(カン・マンギル)高麗大学名誉教授、日韓歴史共同研究委員会で韓国側の委員長をしている趙(チョ・グァン)高麗大学文科大学長とお会いし、歴史問題についてつっこんで意見交換する機会が持てたことは、私たちにとって知的収穫の多いものでした。

 延世大学の学生・院生のみなさんとの交流は、私にとって素晴らしい体験でした。これはこの大学の史学科の金聖甫(キム・ソンボ)教授が、交流の場をつくってくださって実現したものでした。私たちが行ってみますと大きな張り紙がしてあって、「特別講義――東アジアの未来のための対話」と書いてあります。学生・院生のみなさんがつぎつぎにつめかけて、教室いっぱいに六十人の参加で立ち見も出る盛況ぶりでした。

 私がまず、「日本共産党はどんな党か、何をめざしているのか」と題して、歴史問題、わが党の綱領、外交活動について四十分ほどかけて講演し、後は、自由な一問一答となりました。学生・院生のみなさんからの質問は、「在日米軍をどう考えているのでしょうか」、「在日韓国人の権利の問題にどう対応されているのでしょうか」、「天皇制についてどう見ているのでしょうか」、「日本の右傾化について心配しているがどう考えられますか」、「日本共産党の党建設はどのようにおこなわれているのでしょうか」(笑い)。一つひとつがよく考えた真剣な質問でした。私は、その一つひとつに丁寧に答えました。

 最後は、金聖甫教授が学生に感想を求めました。ある女子学生がこう言いました。「日本共産党の役割は小さいと思っていたが、草の根で国民と結びついていることは素晴らしい」。またこういう感想もありました。「私たちと多くの共通点があった。いまは日本に共産党があるのがうらやましい」。

 最後に、金聖甫教授が「今日のお話を聞いて、みなさんが日本共産党に入りたいと思っても、残念ながら資格がありませんから」(笑い)というジョークを言うような、温かい雰囲気の中で二時間の交流が終わりました。私は、韓国の未来を担う若い人たちと、初対面にもかかわらず、こんなにも心を開いた対話ができたことに、たいへん感動しました。最後に、私が「韓国の未来をになう若いみなさんと語り合うことができ、ほんとうに幸せです」とのべますと、若いみなさんは大きな温かい拍手を送ってくださいました。

 私は、九月七日夕方にもった在韓日本メディアとの会見で、これらの交流の内容を紹介しながら、「日本共産党代表団のこうした活動の全体を通して、日本共産党と韓国との交流の太い道が開かれた訪問となったと思う」とのべましたが、これが全体を通しての実感であります。

  歴史問題の解決が、日韓の真の友好の土台

写真

(写真)西大門刑務所歴史館を朴慶穆(パク・キョンモク)館長(右から2人目)の案内で、見学する志位和夫委員長(右から3人目)。韓国メディアのカメラが終始追いかけた=5日、ソウル

 つぎに交流の内容の報告にすすみたいと思います。

 すべての交流で共通して痛感したことは、歴史問題の解決――日本帝国主義の侵略戦争と植民地支配への反省が、日韓のほんとうの友好関係を築く上で土台であるということであります。

 韓国は、一九一〇年から一九四五年までの三十五年間、日本帝国主義による植民地支配によって、「国がなくなってしまった」という痛苦の経験を持っています。その苦しみや傷あと、怒りは、深いものがあります。これは小手先細工のごまかしがきくようなものではないと、私たちは感じました。同時に、韓国国民の多くが、日本との未来に向けた友好を切実に願っていることも感じました。日本が、過去の誤りに真摯(しんし)に向き合い、この国の人々が被ってきた歴史的苦難を深く理解してこそ、未来に向かって韓国のみなさんと心を開いた交流が可能になると、全体を通して痛感しました。

     西大門(ソデムン)刑務所歴史館を訪問して

 私たちは九月五日、韓国に到着してすぐに、西大門(ソデムン)刑務所歴史館を訪問し、日本帝国主義の植民地支配に抵抗して犠牲となった朝鮮の愛国者に追悼の献花をいたしました。私たちが車から降りて、歴史館の入り口に向かって歩いていきますと、五十人ものマスメディア陣がたくさんのテレビカメラを持って待ち構えています。同行した「しんぶん赤旗」の記者の一人は、「有名な方が来ているのか」と思わず後ろを振り返ったそうですが、私たちを出迎えた取材陣でした。韓国のマスメディアは、私たちのこの行動の一挙手一投足に注目し、一時間以上かけた歴史館の見学は五十人ものマスメディアに取り囲まれながらのものになりました。

 この刑務所は、一九〇八年、韓国の植民地化の過程で日本によって建造され、数多くの独立運動家が投獄され、迫害された場所です。朴慶穆(パク・キョンモク)館長の説明では、「一九四五年までに約四万人が投獄され、四百人から四千人が亡くなった」といいます。私が、「亡くなった方の数にずいぶん幅がありますね」と聞きますと、日本の敗戦時に、日本帝国主義が証拠書類を燃やしてしまって、実際に亡くなった人の数は正確にはわからないということでした。

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(写真)西大門刑務所歴史館前で、志位和夫委員長らを待ち 受ける韓国メディアのカメラマン=5日、ソウル

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(写真)「3・1デー朝鮮民族解放記念日をいかにたたかうべきか」と訴える1932年3月2日の「赤旗(せっき)」

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(写真)「朝鮮台湾等の植民地の完全なる独立」を訴える1931年3月1日の「赤旗(せっき)」

 展示はたいへんに衝撃的なものですが、動かせない事実をもって過去の暴圧を告発しています。日本帝国主義が、一八九四年から九五年の日清戦争、一九〇四年から〇五年の日露戦争を通じて、朝鮮半島を力ずくで植民地にしていったこと、それに反対して韓国民衆のたたかいが繰り返し力強く起こったこと、それを日本帝国主義が、残虐極まりない弾圧、拷問、処刑をもって迫害したことなどが、展示されています。

 これは歴史館の日本語版のパンフレットですが、この歴史館には死刑場がそのまま保存してあります。死刑場は、高い塀で囲まれた刑務所の中でも、さらに高さ五メートルの塀に囲まれ、内部に死刑執行いすがあり、当時使われていた太い縄がつるされていました。死刑場のすぐ横には、屍躯門(シグムン)とよばれた、遺体を刑務所の外の共同墓地に捨てるための秘密通路があります。三、四百メートルはあろうかという暗い通路ですが、遺体を運んで闇から闇に葬ったのであります。私たちは、慄然(りつぜん)とする思いで、一つひとつを時間をかけてみました。

 私は、見学と献花を終えた後、韓国メディアに求められてのインタビューで、「訪韓して最初にここに来ようと思った理由は何ですか」と問われて、「理由は二つあります」として次のように答えました。

 「一つは、日本帝国主義の植民地支配の野蛮な弾圧、拷問、処刑、それに抗してたたかい抜いた朝鮮の愛国者に心からの敬意と追悼の気持ちを表すためです。私たち日本共産党は、一九二二年に党を創立しましたが、党をつくった当初から朝鮮の愛国者とともに植民地支配に反対を貫き、朝鮮独立のたたかいに連帯してたたかった歴史をもっていることを誇りにしています。そういう党を代表して、私は、この場で、私たちのいわば“歴史的同志”に対して敬意と追悼の気持ちをのべたいと思います。

 同時に私は、二十一世紀の日韓両国民のほんとうの友好を願って、この場に来ました。日本にとっては、これは恥ずべき過去ですが、誤った過去に正面から向かい合ってこそ、アジアにほんとうの友人を得ることができると、私は信じております」

 インタビューを終えて、朴慶穆館長と懇談したさいに、私は、一つの歴史的文書のコピーをお渡ししました。今日、ここに持ってまいりましたが、一九三一年の三月一日付の「赤旗(せっき)」と、一九三二年三月二日付の「赤旗(せっき)」です。

 そこには、一九一九年三月一日に朝鮮全土で起こった「三・一運動」――独立を求める大闘争を記念して、朝鮮独立闘争への連帯を烈々と訴える論説が載っています。それはいま読んでも胸を打つものです。一九二三年の関東大震災のさいに、多くの在日朝鮮人が虐殺された歴史を「恥ずべきこと」だと想起しながら、「植民地の被圧迫民衆を解放することなくして、本国のプロレタリアートの解放はあり得ない」と訴えています。ここにはつぎのようなスローガンが掲げられています。「朝鮮独立運動三・一記念日万歳」、「朝鮮農民に朝鮮の土地を返せ」「打倒 日本帝国主義」、「朝鮮、台湾、中国の植民地及び半植民地民族の完全なる解放」。

 朴慶穆館長にこれをお見せしますと、目をみはって、「朝鮮と日本が団結して、帝国主義を倒そうということですね。いただいた資料はしっかりと保管して、しっかり見させていただきます」とのべました。私が、「この『赤旗(せっき)』は、戦後大きく発展し、最近、『しんぶん赤旗』として創刊二万号を迎えました」と話すと、報道陣から「オー」という声があがりました。

 私たちは、戦前のこの「赤旗」のコピーを、歴史学者のみなさんとの懇談でも、学生・院生のみなさんとの交流でも紹介しました。どこでもあの植民地時代に、日本に朝鮮の独立闘争に連帯する勢力があったのかと、驚きとともに、「新しい日本を発見した」という共感をもって受けとめられました。つまり、この「赤旗」は、わが党と韓国国民の友情にとっての「歴史的証明書」となったのであります。(拍手)

 一九三一年といいますと七十五年も前のことです。七十五年前にこの論説を書いた私たちの先輩たちは、まさか世紀を超えて、この論説が韓国でこういう形で紹介されるとは、予想もしていなかったでしょう。しかし、真実と正義に立つものは、歴史の試練に耐えて必ず生命力を発揮する、その積み重ねの上に私たちの活動が支えられている――私は、わが党の党史の持つ生命力に深く感動しました。私たちのいまの行動も、未来にわたって歴史の検証に耐えうるものでありたいとの思いを強くいたしました。

 訪韓初日の私たちの西大門刑務所歴史館訪問を、韓国メディアは大きくとりあげました。MBC、SBSなどのテレビ各局が、解説入りで私の発言を放映しました。MBCというテレビ局――ドラマ「宮廷女官 チャングムの誓い」を放映したテレビ局ですが――ここは、私たちの活動をこう伝えました。「西大門刑務所を訪れた日本共産党の志位和夫委員長は展示物を一つひとつきちんと見回しながら独立運動に対して深い関心を表しました」。さらに、見学のなかで、私が、一九一〇年の韓国併合のさいに、韓国を日本に売り渡した当時の韓国首相の李完用(イ・ワニョン)という人物の写真を指さして、「民族反逆者ですね」とのべ、案内の女性が「はい、韓国では……」と説明するシーンを流しました。そして記者は、「(志位委員長は)日本が過去の過誤を直視しなければならないと語り、靖国神社参拝問題や教科書わい曲問題など、懸案に対しても右傾化する日本政界の主流とは違って、反対の立場を明確に示しました」と報じました。


民団・選挙の結果

2006-09-29 | 気になるマスコミの記事

 

 

民団新団長に鄭進氏 
 

318票で激戦を制す

 
318票を獲得し、新団長に選ばれた鄭進氏(中央)。議長には金廣昇(右)、監察委員長には金昌植氏(左)がそれぞれ無投票当選した(21日、都内のホテル)=写真・崔世一
 

 民団は21日、東京・港区の韓国中央会館で第50回臨時中央大会を開き、新団長に鄭進氏(元中央副団長、69)を選出した。鄭氏は出席代議員、中央委員501人(在籍総数529)の6割強にあたる318票を獲得。金洪斤、張熙東氏ら有力候補を退け、第1回投票で当選を決めた。これで民団は、5カ月つづいた混乱に終止符を打ち、再出発と対内外の信頼回復に乗り出す。
 371の不信任決議要求署名の提出で河丙団長が辞任。急きょ開催された臨時大会だった。朴小秉団長代行は「6・15委員会との不明朗な交渉と電撃的な5・17声明に端を発した組織混乱の波紋は大きい」と今大会の重要性を強調した。
 7カ月前2月の第49回定期大会で河丙氏に敗れた鄭新団長だが、「5・17和解声明は民団を親北団体化する謀略だった」と規定する鄭新団長の登場で、河前執行部の性急な和解路線を清算し、総連とは原点に戻って着実な和合の道を探ることになった。組織混乱にけじめをつける目的で「5・17真相調査委員会」の設置が大会承認された。議長には金廣昇氏、監察委員長には金昌植氏がそれぞれ無投票当選した。=社会欄に詳報

 


同じ 思いで!

2006-09-27 | 気になるマスコミの記事

昨日の申し入れに関連して、見つけた記事です。

朝鮮人強制連行犠牲者の名簿公開、

          朝鮮人強制連行真相調査団


北海道-犠牲者名簿(PDF)

福岡県-犠牲者名簿(PDF)

●朝鮮人強制連行犠牲者の名簿公開に際して

 今回の名簿公開は、南北朝鮮と在日の数十万人とも言われる朝鮮人強制連行犠牲者の遺族に情報を伝えるために行うものである。

 戦後60年を経た今も、日本政府は、一部を除き強制連行犠牲者遺族に、「遺骨」返還はもちろんのこと「死亡通知」も行っていない。その結果、遺族は子孫の代になっても、日本に対する「恨(ハン)」が解消されず引き継がれたままになっている。

 日本政府は、2005年から朝鮮人強制連行犠牲者の遺骨調査を行うために①都道府県と指定都市、②関連企業、③全日本仏教会に「朝鮮半島出身者の民間徴用の遺骨調査情報提供依頼」を送付した。同年5月、日韓両政府は今回の調査を①人道主義、②現実主義、③未来志向の三つの原則に基づいて取り組むとし、9月28日に日本政府は遺骨関連情報を868件(乱詳細非公開)を確認したとの調査結果を公表した。

 日本政府が、強制連行犠牲者の遺骨調査を行うとしたことは前進とも受止められるが、具体的な対応と調査結果は不十分であり、遺族の思いに沿った「人道的」とは到底言えない。

 朝鮮人強制連行真相調査団は、日本政府に対し、1990年代から強制連行犠牲者の名簿公開等を強く要望してきた。しかし、日本政府は犠牲者名簿すら「プライバシー」保護との理由で非公開とし、今回の遺骨調査開始以降も同様の立場を貫いている。はたしてこれで調査が進むだろうか。(広島、長崎の被爆犠牲者の遺族を捜すポスターは毎年全国の市区町村に張られている。)

 この様な状況から、調査団は既に公開、出版されている資料を始め、多くの関係者の協力(出典及び解説参照)のもと北海道と福岡県の犠牲者約3000人分の名簿を整理し公開することにした。

 もちろん今回公開する名簿は、数十万人と推測される犠牲者のほんの一部であり、また当該地域犠牲者全てを網羅したものではない。

 しかし、強制連行犠牲者の氏名等を一括公表するのは初の試みである。

 今回の名簿公開が、日本国内でこの調査を行っている地方公共団体、企業そして民間研究者等が調査を進める上で参考になれば幸いである。

 日本政府は今回の名簿を含め、さらに多くの犠牲者名簿を保管している。日本政府は、「人道主義」原則を徹底させ調査方法を早急に改善すべきであり、真の「未来志向」的な関係を構築するためにも遺族の思いに真筆に応えなければならない。

朝鮮人強制連行真相調査団 2006年 5月25日

[朝鮮新報 2006.5.26]


遺骨は、歴史を物語る

2006-09-26 | 「協会」の公式見解・談話

 9月25日(月)以下の申し入れを行いました。

 

京都府知事                            京都市長
  山田 啓二 様           桝本 頼兼 様

  朝鮮半島出身徴用者の遺骨調査と返還等の状況について

 日朝協会は,第2次大戦中の朝鮮人徴用者の真相究明と死者の追悼行事や遺骨の早期返還を,日本政府と関係企業に要求してきました。
 8月10日には内閣府で政府担当者と懇談し,この課題を積極的に推進するよう申し入れを行いました。政府側からは,調査の現状と到達点などの概要説明がありました。そのなかで,各都道府県と政令市に政府から調査依頼が出されていることが明らかになりました。
 そこで,京都府におけるこの課題に対する取組状況について,以下の通り質問します。なお,公開できる文書等を提出していただきたい。

質問事項
1 調査について
(1)調査の体制と調査開始日
(2)調査依頼(要請)先と受入状況
(3)府民への啓蒙宣伝と周知徹底の推進状況
2 調査の現状と到達点
(1)当時の記録(文書類)の保存状況(府)
(2)同(市町村)
(3)同(企業等)
(4)遺骨の確認状況(確認先)
3 今後の見通し
(1)対象者と対象者数
(2)韓国政府との関係で現状はどのようになっているのか。また,平壌宣言の精神から北朝鮮出身者の処遇をどのように考えているのか。
(3)返還方法,慰霊法要等の有無
(4)調査活動の期間
(5)現在の作業について,担当部門としてどのように評価しているか。


                                 2006年9月25日 
                                日朝協会京都府連合会
                                代表理事  大橋 満

 

 京都府は、市町村に連絡をとり、調査したがどこの自治体も掌握しているところがなかったと、国に報告を提出しています。

 京都市は、実情がわかる人がその部屋におらず、後日会える日を連絡すると言うことになりました。

 


金 大中 氏の 忠告

2006-09-22 | 気になるマスコミの記事

 

  6者会談の妨げにならないよう 

             金大中前大統領、講演で指摘


「偽札問題処理すべき」

 インターネット新聞、統一ニュース15日付によると、金大中前大統領は同日、こう着状態にある6者会談再開のために「偽札問題がこれ以上会談の妨げにならないよう処理すべきだ」とブッシュ大統領に忠告した。この日午前、「21世紀とわが民族の未来」と題した釜山大学校での招待講演でこう語った。金前大統領の講演中、当面の朝鮮半島問題について語った部分を紹介する。

 今、われわれは深刻な危機的局面を迎えている北の核とミサイルなど大量破壊兵器問題を必ず平和的に解決しなければならない。われわれは北の核に断固反対し、北のミサイルモラトリアムの約束が今後も引き続き守られるべきだと思う。そのためには米国も、北が安心して核を放棄しミサイル発射を猶予できるよう、その代価を保障しなければならない。北の安全を保障し、北と外交関係を開きながら経済制裁を解除しなければならない。

 北の偽札問題に関しては、6者会談の成功のためにこれを当分の間保留するか、もしくはその証拠を明白に提示し、北をして速やかで完全な是正措置をとるようにするなどして、この問題がこれ以上6者会談の妨げにならないよう処理すべきだ。

 われわれは、クリントン米政権時代に朝米関係がほとんど解決の段階まで進んだにもかかわらず、今日のように悪化したことについてたいへん遺憾に思う。退任後に私を訪ねてきたクリントン前大統領は、「あと1年だけ(私が)大統領の座にいたなら、太陽政策の枠内で朝鮮半島問題が完全に解決したはずなのに、本当に残念だ」と話した。この言葉を聞きながら、私は胸が張り裂けそうだった。

 最近、米国の最もすばらしい朝鮮半島問題専門家であるドン・オーバードーファー教授(ジャーナリスト)とドナルド・グレッグ元駐韓大使がワシントン・ポスト紙に共同で寄稿した文章を読んだ。

 彼らは、「北の核問題を成功させる秘訣は米朝間の交渉だけだ。異なる対北制裁は朝鮮半島に緊張状態をもたらすだろう。金融制裁などの新たな対北制裁も、60年間続いてきた北の体制を崩壊させることはできないであろうし、(ミサイル、核などの)軍事的挑発行為を肯定的に変化させることはできない」と書いた。

 私はこれに心底同感だ。そして、米政府が彼らの指摘を積極的に受け入れることを願い、米国民が共感することを期待する。 

                                    [朝鮮新報 2006.9.21]


プッシュ・プッシュ押付ばかり

2006-09-21 | 気になるマスコミの記事
韓米首脳会談  埋まらない米国との溝          朝鮮統一紙より
 
 

  原則だけ再確認  核心議論行わず


 盧武鉉とジョージ・ブッシュの韓米大統領は14日(現地時間)、ホワイトハウスで首脳会談を行った。会談は「韓米同盟異常なし」という大原則を再確認する程度で終了した。盧武鉉がブッシュと会談を行うのはこの日で6度目だったが、北朝鮮に対する認識の差は埋まらなかった。繊細で重要な問題は、扱おうとさえしなかったからだ。韓国は首脳会談直前、米国に北朝鮮制裁の緩和を要請したが、要点のみを述べるにとどまった。核心部分は軽く流し、原則を確認しただけの会談だったと指摘されている。
(ソウル支社・李民晧)

 

 韓国大統領盧武鉉は13日、ヘンリー・ポールソン米財務長官に会い、米国が凍結しているマカオのバンコ・デルタ・アジア(BDA)銀行の北朝鮮口座の問題を取り上げ、北朝鮮制裁の緩和を提案した。ポールソン長官は「(口座の凍結は)制裁ではなく米国法の執行」とし、盧武鉉の申し入れを断った。
 このやりとりがあったためか、制裁問題は翌日の首脳会談の議題に上ることはなかった。
 盧武鉉は今回の訪米期間中、米国の北朝鮮制裁に韓国も賛同していると強調したが、両国の対応の差は歴然としていた。
 偽造紙幤やミサイル発射など、北朝鮮のあからさまな挑発不法行為に対しては制裁に賛同するが、6カ国協議再開には朝米二国間協議のような対北和解姿勢が必要だというのだ。米国は制裁をするものの、これに相当する対話の努力をしていないという韓国の不満が表出した格好だ。
 しかし米国は圧力を加えた後に対話に応じるという方針を固めており、対話を優先するより効果的だと信じている。偽造紙幤などに端を発する金融制裁圧迫をもう少し強化して、北朝鮮を6カ国協議の場に引き出そうという考えの根底にあるのもこうした方針があるからだ。しかし、ブッシュは首脳会談で公式的にはその方針を明らかにしなかった。

 最近米国は北朝鮮に対する制裁を更に強化する動きを見せている。米下院はミサイル、核などの大量破壊兵器や、技術提供者らを処罰することができる「北朝鮮非拡散法案」を満場一致で通過した。対北金融制裁も、以前の不法取引の禁止から、その範囲を合法的取引にまで広げることを検討中だ。これは北朝鮮経済の「全面封鎖」措置であり、超強硬策といえる。
 戦時作戦統制権問題も重要な争点だ。2人の首脳は韓国軍に移譲するという原則で合意した。ただし、条件がある。在韓米軍の駐屯継続と、有事の際に米軍戦力の介入を保障することだ。
 移譲時期は10月20日にワシントンで予定されている韓米年例安保協議会(SMC)で扱うことにした。首脳会談で移譲時期に対して合意に至ることができなかったため、問題は後に回された。
 韓米が提示した時期は、それぞれ2012年と2009年。韓国では在韓米軍の主力が京畿道・平沢に移転する2010~11年が有力だとする見方が大勢を占めている。
 一方、会談直後にブッシュが発した「戦作権移譲は政治的問題にすべきでない」という一言が注目されている。
 移譲反対派であるハンナラ党と、軍人団体などを狙ったものなのか、「自主」を強調する盧武鉉と韓国政府に向けたものなのか、見方によって解釈が変わってくるからだ。

 
 

 政府は米国の対北抑止力(在韓米軍の駐屯)と、朝鮮半島有事の際の介入(米軍戦力の投入)という保障を授かったと、交渉結果を評価した。
 しかし、戦作権移譲に合意した以上、韓米連合指令部の解体→引き継ぎ鉄線(TripWire=米軍の自動介入義務)および戦時対応の弱体化につながるのは必至だと憂慮する意見は多い。
 今回の首脳会談で、両大統領が快く合意した事案は、FTAだけだった。経済問題だが、韓米同盟関係と深く結びついている。
 会談直後の記者会見で彼らは「韓米関係は、共同の価値を土台に、包括的・躍動的・互恵的な同盟関係の発展を持続している」と満足感を表した。ブッシュはより迅速なFTAの締結を望んでいる。年内締結の可能性も模索中だ。反対に盧武鉉はスピードよりも内容が重要だとした。
 FTA締結に向け、ブッシュは「にんじん」をちらつかせる。韓国人に対するビザ免除協定(VWP)への加入を積極的に支援するというのだ。
 しかし韓国のビザ拒否率(3.4%)は、VWP加入基準である3.0%に迫りつつある。政治的後押しがなくても2年後くらいには加入できる可能性が高い。
 米国はVWPをにんじんとして提示し、韓国は合意事項だと外部に宣伝するのに忙しかった。
 なんともばかげた話である。


日朝本部情報

2006-09-20 | 「協会」の公式見解・談話

2006年9月16日

   日朝協会本部事務所で第7回執行役員会が開かれました。

協議事項は、

①、第6回執行役員会以降の、主な活動について、報告・承認されました。 

②、対外関係で、協会は、国際交流の原則と自主性をふまえ、また大局的見

  地から対外活動をすすめ韓国民団、朝鮮総連などと交流を深め拡大してき
 
  ています。
      
③、情勢の特徴と協会の責務について確認しました。
      
④、当面の運動について 4 点決めました。  

⑤組織、宣伝、財政の強化について討議しました。
 
第3回全国理事会は、11月25日(土)、東京・文京区民センター
 
第8回執行役員会は、11月11日(土)、東京・本部事務所に決まりました。

(会員の皆様には、後日文書で詳しく報告します。)


もう、北京オリンピック!!

2006-09-19 | 気になるマスコミの記事
ちゅ
歪められる朝鮮古代史  白頭山で聖火採火
 

領有権狙う中国の思惑  独立運動地「チベット」でも


 最近中国政府の国策研究機関、社会科学院は古代朝鮮国家を中国の地方政権と見なす論文を次々と発表した。6日には2007年に中国・吉林省で開かれる第6回冬季アジア大会の聖火の採火式が白頭山(中国名=長白山)で行われた。白頭山は韓国人から「民族の霊山」と呼ばれている。このような中国の動きは、南北統一の際に北朝鮮地域の領有権を主張するための中国の戦略的野心が裏にあると見られている。これを受け、韓国ではかつてないほど反中国世論が沸騰している。
(ソウル支社・李民晧)

 
中国は来年1月に開かれる冬季アジア大会の聖火を白頭山で採火した(写真=聯合)
 

 今月上旬、中国国務院傘下の研究機関、「社会科学院辺彊史地研究中心」は、朝鮮の古代国家に関する18の論文をホームページ上で公開した。
 論文の主な主張は、箕子朝鮮、衛氏朝鮮、高句麗、扶余、渤海の五つの王朝は古代中国王朝の地方政権だというものだ。朝鮮半島の北方に存在した古代国家は全て中国史の一部だと言うのだ。
 論文の中には、
 「漢江流域も一時は中国領土だった」
 「渤海は唐王朝が直接監督した郡にすぎなかった」
 「(7世紀の新羅・唐連合軍の高句麗攻撃は)唐王朝の高句麗征伐であり統一戦争だった」
 という新しい主張が含まれている。これらの論文は、中国政府が2002年2月からの5カ年計画で推進している「東北工程(プロジェクト)」の一環として発表された。
 東北工程は、中国東北部(朝鮮半島以北を含む)の古代史は中国史に含まれるという認識から出発している。韓国人としては衝撃的であり、とうてい受け入れ難い内容だ。高句麗、渤海などは朝鮮民族が建国した独立国家だと信じて疑わずにきたからだ。
 論文が公開された直後の6日、中国国家体育委員会は白頭山の天池(山頂のカルデラ湖)で来年1月に吉林省・長春で開かれる冬季アジア大会の聖火を採火した。40億のアジア人が注目する国際大会の採火地として、朝鮮半島との国境にある白頭山を選択したのだ。
 中国は90年の北京アジア大会の前年に、分離独立運動がおこったチベットで聖火を採火した。白頭山でのそれは決して偶然ではなく、中国政府の戦略的意図があると見られている。
特集欄に詳細)

 

中・朝間にもいろいろあるのですね。考えましょう。

 


日本政府の責任追及

2006-09-18 | 気になるマスコミの記事
日本軍「慰安婦」問題 決議案 米下院通過へ

         「謝罪、賠償すべき」

14日、日本大使館の前で記者会見に参加したハルモニら [写真=聯合ニュース]

 米国のレイン・エバンス下院議員(民主党)とクリストファー・スミス下院議員(共和党)が4月に共同で提出した、日本軍「慰安婦」問題に関する決議案が13日、米下院国際関係委員会で審議され、満場一致で可決された。同決議は、日本政府が▼日本軍「慰安婦」問題の責任を認め▼非人間的な犯罪であると教育し▼再発防止を公式に繰り返し宣言し▼国連や国際アムネスティの勧告に従うよう求めたもの。3度目の提出で、専門委員会で審議、可決されたのは初めて。

 4月以降、日本政府関係者らのロビー活動によって廃案の危機にあったものの、被害者のハルモニや支援者、在米同胞らの運動により関心が高まっていた。南のメディアでも数多く取り上げられ、日本政府が決議に従うよう求めてきた。

 同決議は今後、下院全体の議会で審議される。決議案が共同提出されたこと、専門委員会で満場一致で可決されたことなどから、全体会議でも可決されるだろうと期待が高い。可決に向け、在米同胞などはインターネットや手紙で議員らに呼びかけを続けている。

[朝鮮新報 2006.9.16]