日朝協会「京都府連合会」です。韓国・朝鮮との友好を進める、日本人の団体です。1カ月¥500 841-4316福谷気付

 世界の出来事から日本・韓国・朝鮮の未来を見る。
 皆さんの声を生かして活動を進めます。

会談では訪朝の結果を共有し、非核化などに関する北朝鮮への対応について協議するとみられる。

2018-08-24 | 日・韓・朝友好親善のために

米国務長官訪朝後に韓米日外相会談調整 28日ごろ東京で

2018/08/24 09:23

【ソウル聯合ニュース】来週初めに予定されているポンペオ米国務長官の訪朝後、東京で韓国と米国、日本による外相会談を開催する方向で調整が進められていることが24日、複数の韓国政府筋の話で分かった。

7月8日、東京で開かれた3カ国外相会談で共同記者会見を行う(左から)ポンペオ国務長官、河野太郎外相、康長官=(聯合ニュース)
7月8日、東京で開かれた3カ国外相会談で共同記者会見を行う(左から)ポンペオ国務長官、河野太郎外相、康長官=(聯合ニュース)

 会談では訪朝の結果を共有し、非核化などに関する北朝鮮への対応について協議するとみられる。

 会談は28日ごろ、東京で開催される方向だが、決まってはいないという。

 韓国の康京和(カン・ギョンファ)外交部長官とポンペオ氏の個別会談も行われる見通しだ。

 ポンペオ氏は6月の朝米(米朝)首脳会談後と7月の3回目の訪朝後、それぞれソウルと東京を訪問し、3カ国外相会談に出席した。

kimchiboxs@yna.co.kr


韓国:新羅仏教文化を生き生き見せ  初登場の遺物も半分以上

2018-08-22 | 日・韓・朝友好親善のために

“皇龍寺”の古を語る遺物600点

登録:2018-08-21 23:49
 
国立慶州博物館特別展「皇龍寺」 
発掘・整備、35年ぶりに大挙公開 
建立内訳・遺物盗掘の顛末をはじめ 
新羅仏教文化を生き生き見せ 
初登場の遺物も半分以上

皇龍寺(ファンニョンサ)址から出土した宝相華龍模様石板。寺の象徴である龍を側面に浮き彫りして表現した。新羅の龍彫刻の屈指の傑作と言われる作品だ=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 粉々に割れたこの石板一つが歴史を揺るがした。古代と中世の朝鮮半島最大の建築物だった慶州(キョンジュ)皇龍寺址の九層木塔の心礎石(核心礎石)下の舎利装置の舎利外盒と石蓋だ。

 1964年12月17日夜、盗掘犯は民家が撤去されたばかりの慶州九黄洞(クフヮンドン)の寺の跡地に侵入した。木塔心礎石を持ち出し、石蓋を破壊し、舎利装置をまるごと盗み出した。2年後、犯人は仏国寺(プルグクサ)でも釈迦塔を破壊し舎利装置を盗もうとしたが見つかり、余罪を追及されると皇龍寺木塔の舎利装置遺物もある収集家に贓物として渡したと告白した。

 舎利が入った外盒、内盒などの容器と、銘文板、金盒、銀盒、八角塔、金銅製円筒などの遺物はすぐに押収され、国立博物館に渡された。分析したところ驚くべき事実が明らかになった。872年に景文王が塔を建てなおし、柱を立てる時に入れた銘板である「刹柱本記」が出てきたが、そこには645年善徳女王の時に初めて塔を建てた経緯とその後の重修の経緯が書かれていた。

 禍転じて福となすであろうか。保存世論が高まり、文化財管理局は1976年~83年に皇龍寺址で当代最大規模の発掘調査を行い、何と4万点余りの遺物を発掘した。その後、跡地を整備して今は慶州を代表する文化遺産になった。

皇龍寺九層木塔址の心礎石の穴にあった舎利外盒の石蓋。今回の特別展で初めて公開された。1964年盗掘当時に破壊された跡が生々しく残っている=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社
木塔址の東側土砂から出た仏像。右手に寶珠を持ち、天に向かって深い正心の視線を投じる姿だ=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 5月から国立慶州博物館企画展示館で3カ月ごとに開かれている特別展「皇龍寺」は、出品遺物である舎利の石蓋から始まった悲劇的エピソードを抱いて、この巨刹にまつわる歴史をひも解いていく。553年、真興王が宮廷を作ろうとしたが、皇龍が現れるや龍宮を意識して寺刹に変え建設したいきさつから、6回崩れ6回再建した九層木塔にまつわる数々の秘話、新羅の三大宝物の一つである丈六尊像、寺の日常生活まで多くの歴史的事実が語られる。

 沼地に建てられた皇龍寺の創建実話と水を治める龍王を崇めた新羅人の意識世界を、龍に関連した遺物を通して見せることから始まる展示は密度が高い。半分以上の遺物が事実上初公開で、教科書などで画一的に習った皇龍寺の歴史の裏面に敷かれている新羅仏教文化の新たな真実を生き生きと教える。盗掘犯が壊した舎利具の石蓋破片を開幕の一週間前に博物館の収蔵庫から捜し出し、一つ一つ並べて復元させたことは重要な成果だ。砕けた舎利外盒の破片と刹柱本記の実物を実見できる感動も大きい。54年前の衝撃的な盗掘事件の顛末と後禍をそっくり見ることができる構成だ。

皇龍寺址から出た仏頭。国立慶州文化財研究所の所蔵品だ=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社
皇龍寺址から出た土製龍頭装飾瓦。龍の表情が滑稽だ=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 塑造仏の破片と仏頭、飛天像が彫刻された金細工装飾を通じて、その時期の新羅人の宗教的情熱を垣間見て、立体映像を通じて寺の金堂に置かれた本尊仏や多くの神像の当時の配置状況も生き生きと見ることができる。明快に指し示してはいないが、百済職人の影響力が新羅文化に及ぼした影響がきわめて大きかったということも展示は物語る。湖南(ホナム)、忠清(チュンチョン)地方の寺の址から出るものと、酷似している塑造仏破片、百済職人の印章が捺された瓦などがこれを証言する遺物だ。壊れたまま収蔵庫に使わずにおいてあった遺物を一堂に取り出して、発掘から30余年ぶりに初めて皇龍寺の総体的叙事を解きほぐしたという意味は軽くない。ただ、600坪未満の狭い展示空間に、それぞれに多様な秘話を含む600点余りの遺物を集めた結果、その多くのいきさつを一筋ごとに解きほぐすことが出来なかったという寂しさも残る。9月2日まで。(054)740-7500.

慶州/ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

華麗だが奢侈ではないという華而不侈の美徳を持った百済芸術の最高絶頂を見せる仏像が目の前に立っている。

2018-07-23 | 日・韓・朝友好親善のために

1400年前の百済の美少年が千年の微笑を輝かせ立っていた

登録:2018-07-22 22:56 修正:2018-07-23 07:15
 
「百済観音菩薩立像」日本人所蔵者がハンギョレに公開 
90年ぶりに確認した百済芸術の最高傑作 
日本所蔵者、ハンギョレに最初に公開 
 
高さ28センチ…精巧な細工による微笑 
曲げた脚・ひねった腰“三曲姿勢”肉感的 
仏像装飾“瓔珞”両側き損が残念 
 
韓国政府が実態調査団派遣…“100%真品”判定 
所蔵者と交渉「9月以前の還収が目標」

今月初め、東京で報道機関としては初めてハンギョレに公開された日本所蔵の百済金銅観音菩薩立像。美少年を彷彿させる仏像の顔の、堂々としていながら慈しみ深い微笑と絶妙の三曲姿勢が注目を惹いた=東京/ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 美少年の顔はそのままだった。生まれて1400年をはるかに越えた仏像は、歳月のために緑青が金色の本体のあちこちに入り込んではいたもののの、鼻筋、目、口の柔和な線が作る微笑は、昔のままさわやかだった。宝瓶を持ち腰をひねった、凛々しい姿もまた乱れることなく美しい趣を保っていた。

 華麗だが奢侈ではないという華而不侈の美徳を持った百済芸術の最高絶頂を見せる仏像が目の前に立っている。昨年末、韓国の美術史学者が日本で90余年ぶりに所在を確認し、真品であることを確認した韓国仏教彫刻史の最高傑作である百済金銅観音菩薩立像が再び世人の目の前に現れた。

 日帝強制占領期間に朝鮮に暮らしていたコレクターの市田次郎氏から仏像を譲り受けた現在の日本人所蔵者が、今月初め東京現地で国内外の報道機関のうち最初にハンギョレに金銅観音像を公開した。所蔵者が実見の場所として教えたのは、東京の繁華街である有楽町付近のある高級ホテルの客室。中で待っていた所蔵者側の実務者が、記者が入るとすぐに木箱に入った28センチの観音像を慎重に取り出して、そばのテーブルに立てて見せてくれた。まず目についたのは、最も美しい百済の微笑を浮かべているという百済観音像の顔の表情と、頭の上の3つの宝冠だった。真ん中の宝冠に小さな仏様(化仏)が座っている。観音像であることを示す典型的な兆候だ。はやる気持ちと緊張をこらえて上半身に目を通した。所蔵者側は、最近撮った仏像の動画もハンギョレに示した。

 実見の過程で最も印象的だったことは、多くの表面の緑青にも関わらず、変わらず保存された少年のような微笑の生々しさと足を曲げて腰をひねった三曲姿勢の肉感的な雰囲気だった。きわめて精巧な細工で、顔の細部要素を微細に削って作られたこの仏像の微笑を浮かべた表情は、実際に見ると、慈しみ深い印象と同時に、若者の元気で新鮮な活気が自然な造形の中に共に宿っていることが感じられる。過去に公開された写真では、女性のような印象を受けたが、実際に近くで見れば見るほど、少年や青年のような印象を受けるのは、微笑のさわやかさと堂々とした姿勢が相まって目に映るためだろう。

仏像の顔の部分を拡大した画像。所々、緑青に覆われているものの、最も美しい百済の微笑と呼ばれる仏像の慈悲深い表情は1000年を超えてなお変わっていなかった=東京/ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社
横から見た仏像。天衣をまとい宝瓶を持った仏像が、腰をひねり右脚をを若干上げた“三曲の姿勢”を取っていることがわかる=東京/ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社
仏像の後姿。腰を軽くひねった姿が肉感的な雰囲気をかもし出す=東京/ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社
仏像の胸部と腹部。精巧で繊細な裙衣のすそと共に、百済金銅大香炉の模様と正確に一致する雲の模様(唐草紋)の流麗な線が胸帯の沿って流れる=東京/ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 仏像の横と後の姿にゆっくり視線を移動した。右脚を軽く曲げて腰をひねった三曲姿勢の真髄を鑑賞できた。28センチもあるかなり大きな百済金属仏像だが、思わずぞくっとする程に後姿と横からの姿は肉感的に迫ってきた。

 胸部と腹部で天衣の裾をつなぐ6~7世紀仏像装飾の核心要素である瓔珞は、残念なことに両側が破損していた。破損した跡にも厚い緑青が広がっていたことから見て、遠い昔に土中で破損して無くなったことが明らかだ。この仏像は、土に埋められる前、どんな風霜を経たのだろうか。今となっては永遠に分からない。

 あらゆる方向から眺めたが、ただ見るだけでは物足りなかった。所有者側の実務陣の協力を得て、仏像を手に載せてそっと持ってみた。量感がすごかった。掌に仏像の屈曲を感じつつ持ってみたが、がっしりとして一杯の重量感が伝わってきた。これはまさに仏像のモデルになった百済の青年の心、ひたすら信仰心で仏像の顔とからだを鑿で削り刻んだ百済職人の誠心に充ちた誠意の表現ではないか。

 現場で会った所有者側の実務者は、韓国政府が最近仏像調査実態調査団を派遣するなど、還収交渉のために相当な意志を見せていると話した。実際、文化財庁によれば、ハンギョレの取材に先立ち韓国国立中央博物館と文化財庁の専門家で構成された実態調査団が、今月3日に東京を訪ね所蔵者側の協力で仏像を実見し真偽と保存状態を判別する調査を行い、これを土台に最近博物館側が文化財庁側に「100%真品」という公式判定結果を通知した事実が確認された。

 博物館側はまた、この金銅仏像の出土地が世間の記録で知らされた忠清南道扶余(プヨ)以外の国内の別の場所である可能性も提起して、還収後に精密な細部調査が必要だという見解も表わしたと文化財庁側は伝えた。実際、この仏像は1907年に忠清南道扶余の窺岩里(キュアムリ)で一緒に出土したと伝えられる国宝293号百済金銅観音菩薩立像とは様式的な差が大きく、慶尚北道善山(ソンサン)で出土した2点の金銅観音立像と造形的系譜が関連するという評価が出てきて、出土地をめぐる疑問が今後この仏像の研究で争点に浮上するものと見られる。公式に真品通知を受けた文化財庁側は、先週から国際協力課を中心に所有者側と購入価格を調整する交渉手続きの準備にすでに着手した。文化財庁の別の高位関係者は「定期国会が開かれる9月前までに交渉を終え還収することが基本的な目標」と伝えた。

側面から光を受けている仏像の顔を見れば、また別の情感を感じることができる=東京/ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社
東京/文・写真ノ・ヒョンソク記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

17歳の少女は、もっとお金を稼げる工場を紹介するという言葉にだまされ、船に乗ってトラック島に連れていかれた。

2017-12-13 | 日・韓・朝友好親善のために

南太平洋トラック島に閉じ込められた朝鮮人「慰安婦」被害者の悲しい歴史

登録 : 2017.12.11 20:57 修正 : 2017.12.12 07:59

ソウル市記録物事業で朝鮮人「慰安婦」被害者26人を確認 
フィリピン・マニラから帰ってきた33人の帰還名簿も入手 
「確認された被害者数にとどまらず積極的に発掘すべき」

トラック島の朝鮮人の写真資料に収めされたイ・ボクスンさんの姿=ソウル市提供//ハンギョレ新聞社

 1943年慶尚北道漆谷(チルゴク)で裁縫工場に通っていた17歳の少女は、もっとお金を稼げる工場を紹介するという言葉にだまされ、船に乗ってトラック島に連れていかれた。

 ミクロネシア連邦に属するトラック島(チューク諸島)は、太平洋戦争当時、日本海軍艦隊の主要基地であり、多くの朝鮮人が基地の建設などに強制動員された所だ。これまでトラック島で朝鮮人「慰安婦」被害者を見たという回顧は多かった。しかし、実際の慰安婦被害記録が史料で明らかになったのは今回が初めてだ。11日、ソウル市とソウル大学人権センターのチョン・ジンソン教授研究チームは、米軍の戦闘日誌、朝鮮人「慰安婦」被害者が帰還当時に乗った「生野」号の乗船名簿、帰還当時の写真資料、ニューヨークタイムズの記事などの資料を発掘し、トラック島に朝鮮人「慰安婦」被害者26人がいた事実が立証されたと明らかにした。イ・ボクスンさんは1946年に「生野」号に乗り3年ぶりに帰ってくることができた。

イ・ボクスンさんが日本軍「慰安婦」として連れていかれ、帰ってきた際の移動経路=ソウル市提供//ハンギョレ新聞社


 米軍の戦闘日誌によれば、「生野」号に乗って本国に戻った1万4298人のうち3483人が朝鮮人で、そのうち軍人が190人、海軍労務者が3049人、民間人が244人だった。イ・ボクスンさんとともに朝鮮に帰還する船に乗った人の中には、朝鮮人「慰安婦」被害者26人と子ども3人もいた。

ハ・ボクヒャンさんの捕虜尋問カードと2001年当時のハさんの生前の姿=ソウル市提供//ハンギョレ新聞社


 今回の資料発掘では、これまで「慰安婦」被害者として公式に登録されていなかった他の被害者の存在も明らかになった。慶尚北道慶山(キョンサン)出身のハ・ボクヒャンさんは、1941年15歳の時に工場の働き口を紹介するという言葉にだまされて紹介人について行き、フィリピンのマニラで日本軍「慰安婦」生活を余儀なくされた。ハさんは「慰安婦」被害者としての登録が始まる前の2001年に亡くなり、被害の事実も闇に埋められた。

 しかし最近、ソウル大学人権センターの研究チームが確保したフィリピンに連れられて行った「慰安婦」被害者の捕虜尋問カードには、ハ・ボクヒャンさんが1945年9月14日にフィリピンのルソン島で米軍に発見され、ルソン第1収容所に収容され帰還船に乗った記録が残っていた。カ・プコという異なる名前だったが、研究チームがハさんの生前写真、十指の指紋を照らし合わせハさんの身元を確認した。

 第2のイ・ボクスン、ハ・ボクヒャンさんのような人はどれくらいいるのか?ソウル大学人権センターのパク・チョンエ教授は「日帝強制占領当時、警察が女性の強制動員をデマだとして強力に取り締まる雰囲気だったため、朝鮮人慰安婦が連れていかれた記録はない。しかし、解放後に帰って来た記録はある。30人余りの尋問カードを持っているので、今後も追加の被害者を確認できるはずだ。韓国政府は被害者として自主的に登録した239人にとどまらず、被害実態の調査に積極的に取り組まなければならない」と述べた。ソウル市は、来年1月に2年間推進してきた日本軍「慰安婦」記録物管理事業の結果を本にして出版する予定だ。

ナム・ウンジュ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )


「いつも強調することだが、慰安婦教育は日本を批判したり“いじめ”をしようとするものではない。

2017-11-06 | 日・韓・朝友好親善のために

[インタビュー]

「サンフランシスコの公立学校で『日本軍慰安婦教育』をリード」

登録 : 2017.11.04 07:49 修正 : 2017.11.04 12:19

在米社会正義教育財団のソン・ソンスク代表

先月31日、ハンギョレ新聞社を訪問した在米同胞のソン・ソンスク社会正義教育財団代表は、米国内で最初に施行するサンフランシスコの公立学校の「日本軍慰安婦教育」のための教材の準備過程を紹介した=ハン・スンドン先任記者//ハンギョレ新聞社

 来年3月から米国サンフランシスコ教育統合区で公立学校10年生を対象に、日本軍「慰安婦」の歴史に関する教育を開始する。米国で初めて実施される慰安婦教育は、それ自体が画期的なことであり、現地住民の呼応も大きく早くも国際的に大きな関心を集めている。2015年10月、教育統合区教育委員だったサンドラ・ピュア・サンフランシスコ市議会議員の発議で採択された後、2年間の準備期間を経た。

 

 「中学生を対象に予備実習をしてみましたが、生徒はもちろん、教師や保護者の反応もとても良い」「いつも強調することだが、慰安婦教育は日本を批判したり“いじめ”をしようとするものではない。これは反人倫的で反女性的であり、人種主義・帝国主義的な戦争犯罪を批判し、人類普遍の正しい価値を回復しようとするものだ」

 

 これまで「慰安婦教育」の教材作りなど準備作業を主導して来た在米同胞のソン・ソンスク社会正義教育財団代表(52・写真)が、先月31日ハンギョレを訪問した。

 

2015年、サンフランシスコ市議会「通過」 
教育統合区公立学校10年生を対象に 
「来年3月、米国内初の『慰安婦』教育」 
汎アジア系「慰安婦正義連帯」参加 
教育委の共同議長として「教材」主導 
「予備実習は教師・保護者にも好評」

 

 ソン代表はまず、「マイケル・ホンダ氏は一人ではない」と話した。ピュア市会議員以外にも、9月に米国の大都市としては最初に建設されたサンフランシスコ「慰安婦」メモリアル碑の建立案件を提案して通過させたエリック・マ元市会議員もいる。彼は今、サンフランシスコ州立大学で東洋アジア学の教授を務めている。

 

 続けて彼女はさまざまな形の教育資料を見せた。日本軍「慰安婦」が東アジア13カ国で、拉致されたり騙されて強制的に連れていかれ、その数が20~40万人に及ぶということ、強制動員された女性の大半が10~11歳の幼い少女だったということ、日本軍兵士の死亡率24.2%に比べて「慰安婦」の死亡率は75~90%と高かったこと、慰安婦1人が相手した日本軍兵士が40~50人にのぼるという事実、「慰安婦」死者の大多数は戦争犯罪の証拠をなくそうとする日本軍によって虐殺されたということを説明した。子どもの遊び道具の形でつくられた資料には、日本が慰安婦強制動員の事実を認めて謝罪・賠償しなければならず、戦犯を処罰して強制動員の実態を再調査し、後世に教育して、記念館・研究所などを設立し犠牲者の名誉を回復させなければならないという内容も入っている。

 

 ソン代表は「来年3月から始まる10年生を対象にした慰安婦教育は、日本側の妨害で第2次大戦に関する教育課程の枠組みの中で教えるようになっているが、7月に可決された改正教育課程教授学習資料はカリフォルニア州全体に影響力があるため、第一線の教師たちの裁量にかかっている」と付け加えた。

 

 「2016年7月14日にカリフォルニア州教育委員会の公聴会で教育プログラムが最終承認された当時、日本側の圧力で『慰安婦強制動員』を否定している日本外務省のウェブサイトリンクの資料を教材に含める条項を挟みこんだ事実を後に知り、ひどく憤慨した」

 

 9月の慰安婦メモリアル碑建立の時も、日本がいろいろな妨害工作を行った事実はすでに知られている。「9月に建設されたが10月にその事実を公開することになった理由は、メモリアル碑の銅板に刻まれた文字を日本側が問題視して市議会などに反論を提起し、サンフランシスコ‐大阪姉妹都市縁組を破棄するなどの圧迫をかけたためだった」

 

 しかし、「そうすればするほど、私たちには言うことが多くなった」というソン代表は「米国では第一線の教師の判断が決定的に重要だ。良い事はどんな環境でも成し遂げることができる」と自信を持って語った。

 

 それだけに、ソン代表は朴槿恵(パク・クネ)政府の「12・28韓日慰安婦合意」に誰よりも憤った。合意2カ月後の昨年2月から在米韓国人と中国系・フィリピン系そして日系まで加勢した汎アジア系慰安婦正義連帯(CWJC・2015年10月結成)の教育委員会共同議長を務め、慰安婦教育教材作り、教師たちのワークショップなどを主導してきた。今年に入って5月には社会正義教育財団を発足させ、代表になった。

 

 ソン代表は15歳だった1980年、高校入学から1カ月で両親と一緒に移民した1.5世代だ。カリフォルニア大学で言語学を専攻した後帰国し、延世(ヨンセ)大学で1年ほど韓国学を勉強し、国語学科に編入した。在米韓国人の夫と結婚し、米国で教育学の修士課程を修了した後、サンフランシスコに定着した彼女は、一人目の子どもを生んで二重言語教育に関心を持つようになった。教員資格証まで取った彼女は92年、サンフランシスコ教育統合区で二重言語指導教師になり、同年、二重言語教育プログラムの市議会通過と94年からの教育実施に主導的な役割を果たした。

 

 ソン代表は二重言語教育の重要性をこう説明した。「すべての人間は平等であり、言語もそうだ。どちらか一方への同化主義は民族の多様性を抹殺する。一方の言語が他の言語よりも優れていて有用だと主張したり、二重言語教育が学習に支障を与えるという主張があるが、それは事実ではない。すべての言語に対する同等の学習機会を与え、当事者が選択できるようにすべきだ。子どもが自分の母国語を使うことができず、英語が優越な言語だと学ぶならば、その子どもは自負心も人間としての尊厳も喪失して、容易に外部権威に統治される可能性が高い。それは正しくない」

 

ハン・スンドン先任記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )


日本の立ち位置と役割の手掛かりは安倍政権の「ミサイル騒動」にはなく、9.17朝・日平壌宣言の理念にあることを指摘した。

2017-10-06 | 日・韓・朝友好親善のために

「ミサイル騒動」に警鐘を/

「神奈川県民の会」学習会、李柄輝准教授が講演

会場のようす

日朝国交正常化をすすめる神奈川県民の会が主催する学習会「~安倍政権の常軌を逸した『核・ミサイル騒動』~日本は米国と一緒に戦争するのか?」が9月28日、神奈川県横浜市のかながわ県民センターで行われ、多くの日本市民らが参加した。

「ミサイル落下時の行動について」の政府広報や「ミサイル避難訓練」の指示、東日本一体に早朝から鳴り響いたJアラートの不協和音など、日を追うごとにエスカレートする安倍政権の「ミサイル騒動」。朝鮮がなぜ核・ミサイル開発を続けているのかという点に向き合うことで、「ミサイル騒動」の本質を理解し、適切な外交的解決に向けた努力の後押しに繋げるために開かれた同学習会には、講師として朝鮮大学校の李柄輝准教授が招かれた。

李柄輝准教授

李准教授は冒頭で、今の日本の言論空間の中での「北朝鮮」核問題について、「社会現象には必ず原因がある。しかし因果関係をトータルに踏まえて考えるという営みが全くなく、危機を煽るストーリーで情報が垂れ流されている」ことを指摘し、「朝鮮の核・ミサイル開発の背景」について詳述した。

李准教授は「今、朝鮮の政治体制そのものが、経済シフトにチェンジしているという事実をまず確認することが大事だ」としながら、朝鮮労働党第7回大会で示された朝鮮の政策基調3つ目のテーゼ「経済及び人民生活重視のテーゼ」について話す中で、今日の状況の中での朝鮮労働党の最優先課題は経済であり人民生活の向上であるということ、経済というのは金日成主席と金正日総書記の遺訓中の遺訓であるという位置付けがなされていることについて言及した。

そして李准教授は「1953年に結ばれた停戦協定および中立国監視委員会は、56年の米国の南朝鮮への核搬入を阻止し得なかった。つまり戦闘状態を凍結させる装置が機能しないまま60年の歳月が流れてきた。にも関わらず朝鮮において一度も全面戦争が起こらなかった理由は、停戦の効力ではなく、軍事バランスによってかろうじて停戦の状態が維持されていることにある。米国側が朝鮮人民軍の軍事力を査定して、『軍事攻撃へ踏み込めない』という瞬時の判断によってかろうじて維持されている停戦状態の連続こそが、過去の60年間に及ぶ停戦状態の実態である」とし、「90年代以降、ソ連が崩壊し中国が南朝鮮と国交を結ぶ中、周辺国の中で、唯一朝鮮だけが核を持たず、核の傘すらない状況に陥った。ここに住んでいる約2500万人の生命を守るためには、全ての周辺国の非核化か、朝鮮も核武装によって自らの安全を守るのかという2つの選択肢が突きつけられた」と述べ、朝鮮が経済最優先を目指す中でも、核・ミサイル開発へと突き進んでいる理由について解説した。

李准教授はまた今後の展望について、ロシアをはじめとする周辺国の役割、北と南が「相克」から「相生」の道を歩むことの重要性と共に、日本の立ち位置と役割の手掛かりは安倍政権の「ミサイル騒動」にはなく、9.17朝・日平壌宣言の理念にあることを指摘した。

(李鳳仁)


ドラマ『イモン』は日帝強占の京城(ソウル)と中国上海などが舞台だ。日本人として養育された朝鮮人外科医師イ・ヨンジン(イ・ヨンエ扮)が大韓民国臨時政府のスパイとなって活躍する内容だ。

2017-10-04 | 日・韓・朝友好親善のために

女優イ・ヨンエ、来年『イモン』でドラマ復帰

2017年10月03日14時45分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]

 

                               女優イ・ヨンエ

 女優のイ・ヨンエが次回出演作を確定させた。

  コ・デファPD側は、自身が新たに制作するブロックバスター級スパイメロドラマ『イモン』(仮題)の主演にイ・ヨンエのキャスティングを確定したと3日、明らかにした。

  ドラマ『イモン』は日帝強占の京城(ソウル)と中国上海などが舞台だ。日本人として養育された朝鮮人外科医師イ・ヨンジン(イ・ヨンエ扮)が大韓民国臨時政府のスパイとなって活躍する内容だ。

  イ・ヨンエは映画『春の日は過ぎゆく』『親切なクムジャさん』やMBC(文化放送)ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』、SBS(ソウル放送)『師任堂(サイムダン)、色の日記』など、スクリーンとブラウン管を行き来して韓国だけでなく海外でも圧倒的な存在感を示している。

  現在、『イモン』は台本作業中で、来年から撮影を始める予定だ。

やはり大きなスクリーンで確認することをお勧めする。

2017-10-01 | 日・韓・朝友好親善のために

被害者でも母親でもない“個人”の肖像「アイ・キャン・スピーク」俳優ナ・ムニ

登録 : 2017.09.23 21:55 修正 : 2017.09.25 08:36 

29歳で同い年の俳優イ・テグンの母親役を初めて務めて以来 
“高齢者”“母親”専門俳優として大衆の脳裏に刻まれたが 
 
冷徹な経営者、強大な財閥、独立したい母親など 
平面的キャラクターの裏面に隠された個人の“欲望”を再解釈

映画<アイ・キャン・スピーク>の一場面。俳優ナ・ムニが扮した主人公“オクプン”は、単に気難しい人物ではなく、自身が願うことを正確に知り、それを恐れることなく実践する人だ=ロッテエンターテインメント提供//ハンギョレ新聞社

※映画「アイ・キャン・スピーク」(2017)のスポイラーが多く含まれています。映画を事前の情報なしにそっくり鑑賞されたい方は、この文を読まないでください。

 

 本来、映画は何の事前情報も持たずに観に行くのが一番良い。しかし、すでに映画「アイ・キャン・スピーク」に関する情報はあまりに多く流れている。私たちの大多数は、ナ・ムニが演じる映画の主人公ナ・オクプン氏が頑固な性格の女性で、ちょっとした過ちでも放っておけない性格だということを知り、そのために区役所の公務員は言うに及ばず、近所の人まで彼女をかなり煩わしく思っているということを知っている。そして、何か言いたいことがあって英語を習うために全力を尽くすが、その“言いたい”ことが普通の内容ではなく、自身が経験した国家暴力と戦争犯罪に対する証言だという事実にも、マスコミの報道を通じて接している。事前に与えられた情報が存在するので、観客は概略的な絵を描いて劇場に入る。その人物が経験した悲劇的な歴史が彼女を頑固で馬鹿正直な老人にしたのだと思い、私たちが容易に想像できる種類のトラウマに苦しむ人物の姿が画面上に登場するのだろうと。

 

 しかし「アイ・キャン・スピーク」はそんな期待をものの見事に裏切ってくれる。オクプンはそれほど単純な人物ではなく、彼女を演じるナ・ムニもまた、そんな単純な人物として演じはしない。映画の中のオクプンは、常に周辺の人々の明確な予想をぶち壊す。ミョンジン区庁に勤める9級公務員のミンジェ(イ・ジェフン)は、英語を教えてほしいと言ってきかないオクプンをあきらめさせるために、老女が覚えるには難しい英単語を選んで宿題を渡すが、すでに数年間英語を勉強してきたオクプンは、与えられた宿題をやり遂げて試験で75点をとって見せる。商店街の再建築のために少しずつ店舗を傷つける建物オーナーは、老人が証拠をつかんだと言っても大したことはないと油断するが、オクプンは現場写真と任意に壊された建物の鉄筋という明白な物証を持って区庁に押しかける。

 

 オクプンは重要な決心をして、母親の墓を訪ねて愚痴をこぼす場面で、観客は彼女が母親の慰労を求めて訪ねて行ったのだろうと察する。しかし、オクプンは自身の経験した被害を慰めてほしくて行ったのではなく、ひたすら隠して生きろと言った母親を責め立てて「亡くなった母さんより私の方が大事だ」と墓場に宣言して帰ってくる。オクプンは単に気難しい人物ではなく、自身が願うことを正確に知り、それを恐れることなく実践する人であり、映画はそんな彼女を勝手に想像していた周辺の人や観客に彼女の本当の姿を誠実に見せることに注力する。

 

“老人”になった瞬間に消えるものたち

 

 オクプンに先入観を抱いて、それが見事にこ崩される経験は、実際のところ私たちが多くの高齢者に接する態度と大きく変わらない。シワや関節の老化、記憶力の減退など、高齢者が共通して経験するいくつかの身体的特徴は、個人から目に見える個性を奪い取る。そのせいで、世間は高齢者をそれなりの性格と歴史を持った独立した個人として眺める代わりに、容易に想像できる“高齢者”というカテゴリーの中に入れてしまい、それ以上の関心を持たない。オクプンが高いお金を払って入った英会話学院で、英語の先生は高齢の学生が負担になってオクプンには会話練習の指名を飛ばし、20数年間オクプンに応対してきたというミョンジン区庁の職員は「あのばあさんがそんなルールを守るわけがない」と思って、職員の誰も番号札を先に取ることを教えなかった。しかし、映画はオクプンがミンジェの渡した課題のために立ち寄った梨泰院(イテウォン)のビアホールで下手な英語でも外国人の友人と付き合って楽しい時間を過ごす姿を見せ、ミンジェが教えてからは番号札を先にとって受付する人物として描写する。私たち自身が勝手に解釈されてもいい単純な存在ではないように、高齢者もまた単純に良い人であったり、単純に悪い人であったりしない。

 

 高齢者に対する容易で勝手な先入観は、永きにわたって本当の年齢より年上の役を演じてきたナ・ムニにも及んでいる。29歳で同年齢の俳優イ・テグンの母親役を演じたほど、老人役をしばしば演じてきた俳優であったから、漠然と暖かく抱きしめてくれそうな“母親”のイメージが大衆の脳裏に刻印された。しかし、2007年に初の映画主演作だった「クォン・スンブン女史拉致事件」が封切りされた頃、「シネ21」とのインタビューで、ナ・ムニは、演技の中の姿のように暖かく細やかな姿を期待して自身を眺める人が多いようですが、という記者の問いに断固として答えた。「私は本当のところ、人々が期待するようなそんな人ではありません。私も人間なので、失敗もすれば、適当に黙認もするんです。人々は私が怒ったりしないだろうと言いますが、血の気が多くよく怒ったりもします。特に私が焦っていて気が短かくなっている時には腹も立てます。私にそんな良いことばかりを期待してほしくはありません。私は本当にまぎれもなく人間なんです」(「シネ21」『ナ・ムニ、私は本当にまぎれもなく人間なんです』2007年9月3日、カン・ビョンジン記者) 。10年前のインタビューを改めて紹介したのは、ナ・ムニが「良い人ではない」という話をするためではない。そしてまた、私たちの大部分がそうであるように、すべての瞬間にひたすら良いだけの“母親”ではなく、自身の好悪と判断が鮮明に存在する“個人”だという話だ。

 

 私たちはナ・ムニについて語るとき、しばしば“母親”という修飾語の中に閉じ込められる。俳優が広げておいた多彩なフィルモグラフィーの中に共通点を探して、一つの脈絡を作ることほど俳優を説明する易しい方法はないためだ。過去のナ・ムニのフィルモグラフィーに対して、浅薄な文を残した私もまたそうだったように、彼女が画面の中で絶えず誰かの食事を用意する行為で、相手の痛みをつましく抱いてくれる人物に扮する姿を観た人ならば、“母親”という修飾語を選びたい気持ちを押さえることは難しい。

 

 しかし、ナ・ムニが演じた母親たちは、私たちがよく考える“母親”のステレオタイプだけに閉じ込められていない。「クォン・スンブン女史拉致事件」の中で、クッパ財閥のクォン・スンブンは「高齢者だから弱いだろう」という偏見をひっくり返し、拉致犯にげんこつを食らわせ、身代金を払うことを躊躇する子供たちに対する裏切られた思いから自分の身代金を500億ウォンに引き上げるという豪傑であったし、ドラマ「私の名前はキム・サムスン」(2005)の中のナ社長もまた、ジンヒョン(ヒョンビン扮)の母親であると同時に、5つ星級一流ホテルを経営する冷徹な経営者だった。ヒールを履いて腰を伸ばしたナ社長は、私たちがよく考える“母親”という単語の印象をものの見事にぶち壊したキャラクターであった。ドラマ「ディア・マイ・フレンズ」(2016)の中のジョンアはどうか?彼に従順に従う妻と、忙しい自分たちを助ける母親を期待した家族構成員の期待に応え日々を暮らしたチョンアは、ある瞬間に自分にも“妻”と“母親”という役割以前に成し遂げたかった欲望があったことを宣言し、別に家を用意して暮らし始める。したがって、ナ・ムニが演じてきたのは母親ではなく、家庭で母親という役割を遂行する個人だったことになる。

 

ありのままにその人を眺めよう

 再び「アイ・キャン・スピーク」に戻ろう。映画はミンジェとオクプンが単純に英語を教えて習う子弟の関係ではなく、擬似家族になる地点にまで進むが、二人を中途半端に母親と息子、おばあさんと孫のような構図で縛りはしない。オクプンは国家暴力と戦争犯罪の被害者として描写されるが、それはオクプンを構成する多くのアイデンティティの中の一つに過ぎず、決してオクプンという人物をすべて説明できる万能の鍵ではない。 映画は母親を、老人を、被害者を眺める私たちのありがちな固定観念を裏切って、慎重に目の前の人をありのままに眺めることを要求する。この卓越した映画の完成には、しっかりとナ・ムニを支えたイ・ジェフンと、前作「スカウト」(2007)で歴史を扱う態度を証明したことのあるキム・ヒョンソク監督の功労が大きいが、常にありがちな固定観念を裏切って“母親”、“高齢者”という単語の裏に隠れていた個人を繊細に描写してきたナ・ムニがいなかったならば、映画がこのように完成されることはなかったはずだ。そして、このような卓越した成就ならば、やはり大きなスクリーンで確認することをお勧めする。


オンドルの効いた室内は暖かく、乾燥もするため、キンと冷えたスープの冷麺は格別のご馳走であった。

2017-08-23 | 日・韓・朝友好親善のために

〈八道江山・食の旅 8〉さすがは冷麺の本場/八田靖史

平安道

平壌冷麺

1849年に書かれた『東国歳時記』という本がある。著者は洪錫謨という朝鮮時代後期の学者で、朝鮮半島における年間の行事を詳細にまとめたものだ。現代の食文化を振り返るうえでもよく引用される本だが、中でも有名なのが11月の項目に書かれた冷麺の話である。

有名冷麺店の玉流館

今でこそ冷麺は盛夏に味わう涼味との扱いだが、かつては冬の季節料理であった。オンドルの効いた室内は暖かく、乾燥もするため、キンと冷えたスープの冷麺は格別のご馳走であった。現代でも好きな人は冬にこそ好んで冷麺を食べる。

 

ロクトゥチヂム

そして、もうひとつよく知られるのが、『東国歳時記』に書かれた「関西地方のものがもっともよい」との記述である。

給仕担当の店員

関西地方とは平安道(現在の朝鮮では平安北道、平安南道、慈江道の一部)を指す表現で、これは江原道の鉄嶺という峠を基準にしたものである。同様に咸鏡道を関北、江原道を関東とも呼び表す。この当時から冷麺といえば平安道と高く評価されていたことがよくわかる。

もちろん現在も冷麺といえば平安道、それも平壌冷麺の名声が広く響き渡っている。冷麺の本場といえば咸鏡道の咸興も有名だが、咸興冷麺がジャガイモのでんぷんで麺を作るのに対し、平壌冷麺はそば粉を中心に作るとの違いがある。

スープはトンチミ(大根の水キムチ)の汁でも作るが、最近はしっかりと肉を煮込んで作ることが多い。

デザートのアイスクリーム

一流店では牛肉、豚肉、鶏肉(またはキジ肉)を煮込んでうま味のエキスを複合させ、かつ徹底的に脂をとり除くことで、キリッと締まった味に仕立て上げる。個人的に食べたのは有名な「玉流館」と、「高麗ホテル」1階レストランの2軒だが、いずれもさすがは本場と唸らされるものであった。

また、朝鮮には「先酒後麺」という言葉があり、こうした冷麺店ではまずサイドメニューで一杯飲み、ほろ酔いになってから仕上げに冷麺を味わうのが粋とされる。その流儀に従ってまず大同江ビールで喉を潤し、同じく平安道の料理であるロクトゥチヂム(緑豆チヂミ)などをつまんでみたが、確かに酔いを含んだほうが冷麺はうまい。ほどよくほてった身体に冷たいスープと麺が染み渡り、さらには定番であるデザートのアイスクリームまでもより美味しく味わうことができた。

タッチリャンチム

このほか平壌の名物料理といえば、平壌温飯(平壌式のスープごはん)、プルサムパプ(葉野菜包みごはん)、タッチリャンチム(鶏肉の七香蒸し)、スナンプルコギ(牛焼肉)などがあげられる。かつては平壌市内を流れる大同江でボラがよくとれたため、ぶつ切りにしてスープに仕立てたスンオクッが名物であった。

チェンバングクス(お盆に盛った冷麺)

今でも大同江スンオクッの名前で親しまれているが、1986年大同江の河口へ開閉式ダムの西海閘門を建設したことで、ボラの遡上に影響が生じた。現在は河口付近の港町である南浦のほうが有名であるそうだ。

ハマグリのバーナー焼き

南浦といえばハマグリの名産地でもあり、浜辺に並べた殻ごとのハマグリに、ガソリンを振りかけて焼くという豪快な調理法でも知られる。特にガソリンのにおいが残るということもないとのことで、ぜひ1度試してみたいと思って平壌でリクエストしてみたが、準備がたいへんなのか、代わりに出てきたのがバーナーで殻ごと焼いたハマグリだった。

大同江ビールと平壌焼酎

ガソリンよりも均一に火が通るとの説明もあり、実際に食べてみても実にジューシーな仕上がりであったが、どちらかというとガソリン焼きは見た目の迫力こそが魅力であろう。

いつか南浦に行って本場物を体験したいと思う。

そのほか平安道の名物料理として、鴨緑江を挟んで中国と国境を接する平安北道では新義州を中心にマンドゥ(餃子)や、マンドゥクッ(餃子スープ)が有名。対して、平安南道ではナスが特産品であり、カジキムチ(ナスのキムチ)、カジスンデ(具を詰めたナスの蒸し物)といった名物料理がある。

慈江道の中心都市である江界はブドウの名産地。そのブドウで造った江界ブドウ酒も有名である。

(コリアン・フード・コラムニスト)


8月京都で韓中日文化長官会議 : 箸文化を世界文化遺産に引き上げることを共同議題として扱う

2017-07-15 | 日・韓・朝友好親善のために

箸が世界文化遺産になるか…韓中日3国共同推進

登録 : 2017.07.12 22:23 修正 : 2017.07.13 07:48

 

8月京都で韓中日文化長官会議 
ユネスコ世界文化遺産登載を本格推進 
清州に箸研究所設立、関連歴史・文化・商品研究

清州市が開発した箸商品=清州市提供//ハンギョレ新聞社

 韓国・中国・日本の3国共通文化である箸をユネスコ世界文化遺産に登載するための努力が具体化される。

 

 忠清北道清州市(チョンジュシ)文化産業財団は12日、「来月末、日本の京都で開かれる韓中日3国文化長官会議において、箸文化を世界文化遺産に引き上げることを共同議題として扱うだろう。文化体育観光部には何度もこれを提案し、肯定的な返答を得た」と明らかにした。清州市は2015年から箸文化世界化の一環で箸文化の世界文化遺産登載に努力してきた。

 

 清州市文化産業振興財団のビョン・グァンソプ・コンテンツ振興チーム長は「韓中日3国は、昨年の文化長官会議で既に3国の箸文化コンテンツを継承することで共同協力することに合意した。今回、日本の京都での文化長官会議で、本格的に世界文化遺産登載のための協議がなされることを期待する」と話した。

 

清州市が開発した箸商品=清州市提供//ハンギョレ新聞社

 このため清州市は今月18日、箸研究所をオープンする。研究所では箸・匙文化の調査研究、文化商品開発、箸で叩いて調子を取る“箸拍子”を中心とした公演、箸文化に関連する出版を担当する。これに先立つ3月、イ・スンフン清州市長は浦谷兵剛・日本箸文化協会会長と「韓・中・日箸物語」図書の発刊に合意した。

 

 箸研究所は、イ・オリョン元文化部長官、イ・シヒョン・セロトニン文化院院長、パク・チンソン(株)セムピョ代表理事に名誉所長を委嘱することにした。また、キム・ヤンシク忠北研究院博士、チャン・レヒョク韓国脳科学研究所博士、キム・ピルス大林大教授(自動車学科)、パク・ヨンオク箸ギャラリー「チョチブ」代表など20人あまりを研究員として招へいし、箸の研究を本格化する。

 

 研究所は先端情報通信(IT)技術と箸文化の相関関係、箸文化と健康、韓中日3国の箸の歴史などを研究する計画だ。ビョン振興チーム長は「箸を使えば指関節30個、筋肉70個余りが同時に動き、脳の活動を助ける。私たちが情報通信、アーチェリー、射撃、医術など微細な手技分野でずば抜けた能力を見せているのは、長い間に身についた箸文化に由来するという研究もある。韓中日3国の箸の歴史・文化・コンテンツを開発し、世界文化遺産に搭載すれば、箸は世界的文化としてその位置を確立するだろう」と話した。

 

韓中日の箸の専門家たちが清州のマーブルギャラリーを訪れ、さまざまな箸作品を見ている=清州市庁提供//ハンギョレ新聞社

オ・ユンジュ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )


6月抗争30周年を迎え、熱かったその年の夏の韓国現代史も勉強し、ソウル市内の隠れた名所を訪ねてはどうだろうか。

2017-06-18 | 日・韓・朝友好親善のために

6月抗争を歩きながらコロッケを咥える

登録 : 2017.06.17 19:47 修正 : 2017.06.18 05:28

旅行のように遊びながら休みながら訪ねる 
1987年6月民主抗争記念地… 
ソウル南営洞の対共分室から 
イ・ハニョル記念館までの半日コース

かつて「南営洞対共分室」として使われた建物の警察庁人権保護センター。ソウル地下鉄1号線の南営駅プラットホームからすぐに見える=ビョン・ジミン記者//ハンギョレ新聞社

 ソウル地下鉄1号線の南営(ナミョン)駅プラットホーム。下り線のスクリーンドアの向こう側に灰色に光る建物がぱっくりと首を出している。龍山(ヨンサン)駅とソウル駅を前後から眺めるこの建物は、「南営洞(ナミョンドン)対共分室」と呼ばれた。故キム・グンテ議員など民主化運動家が連行され苦難に遭った悪名高い場所だ。「そんな建物がこんなところにあるとは…」。建物は威風堂々と大通りに面して立っている。南営駅1番出口から出て、ロッテリア社屋とホテルゾーンを過ぎて200歩も歩けば着く距離だ。 地図も必要ない。

 

パク・ジョンチョル拷問致死事件の秘密を明らかにした明洞聖堂

 

 6月抗争30周年を迎え、熱かったその年の夏の韓国現代史も勉強し、ソウル市内の隠れた名所を訪ねてはどうだろうか。週刊ハンギョレ21は、その残酷で熱かった30年前の歴史の現場を半日で見て巡れるように「6月抗争記念地ガイド」を準備した。ツアーの中間中間で立ち寄る価値ある「美味しい店」紹介はおまけだ。

 

 抗争の火種が始まったところを出発点としよう。現在は警察庁人権保護センターに変身した南営洞対共分室は、ソウル大学生パク・ジョンチョルが1987年1月14日に連行され、電気拷問・水拷問を受けて亡くなった場所だ。当時、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権は「ポンと叩いたらウッと言って倒れた」という創意性の貧困な弁解をして、寝ていた国民の鼻毛を抜いた。死を哀悼する追慕の波は6月抗争の導火線になった。

 

 建物の5階には活動家を連行してきて拷問した調査室が、鳥小屋のように並んでいる。 ドアを1枚づつ開けるたびに恐怖にふるえた悲鳴が聞こえるようだ。部屋ごとに極めて平凡な便器と浴槽が設置されている。パク・ジョンチョルの遺影が飾られた調査室だけは唯一清潔だ。それがかえって背筋を寒くさせる。

 

 この建物は、当代最高の建築家として賛辞を受けたキム・スグン(1931~86)が設計した。この建物の最大の特徴は内部構成にある。廊下を間に挟んで、両側に配置された16個の調査室は、向かい合う部屋の入口が交錯するように配置されている。同時にドアが開いても、向い側で調査されている人が誰なのか、またそこ何が行われているのかが分からない。調査室内で行われる“拷問”を念頭に置いたようなこの建物の内部構造は、建築家の「社会的責任」について重い質問を投げる。

 

 次に訪ねる訪問地は“民主化の聖地”明洞聖堂(ミョンドンソンダン)だ。歩いて巡る前にどうしてもというならば、聖堂付近の「明洞餃子」に立ち寄って、韓国式うどん(カルグクス)に餃子一皿を追加してみることを薦める。明洞餃子のカルグクスは、やわらかい麺にコクのあるとろりとした肉のスープで有名だ。中が透けるような餃子は、肉汁がいっぱいで、行列ができていても味わう価値がある。

 

 濃いカルグクスの汁のように、30年前の明洞聖堂での民主化熱気も熱くてあふれんばかりだった。1987年5月18日夕方、キム・スファン枢機卿の話を皮切りに、光州(クァンジュ)民主抗争7周忌追悼式が明洞聖堂で開かれた。キム・スンフン神父が、信者2千人あまりの前で震える声で「パク・ジョンチョル拷問致死事件の真相が歪曲された」として、その間隠されていた拷問警察官の氏名を一人ずつ呼び上げ世の中に知らせた。

 

 明洞聖堂の尖塔は独裁政権を狙い、聖母マリアは闘士たちを保護した。抗争の決定的分岐点になった6月10日から15日まで、デモ隊は明洞聖堂を盾にして座り込みを行った。 キム・スファン枢機卿はデモ隊を逮捕しようとする警察に対し「私を踏み越え、神父を踏み越え、修道女も踏み越えてこそ学生たちに会えるだろう」と脅した。聖堂付近の啓星(ケソン)女子高生たちは、自分たちのご飯を弁当にしてデモ隊に渡した。

 

抗争指導部「国本」が誕生した香隣教会

 

1987年6月民主抗争記念地略図//ハンギョレ新聞社

 6月抗争の痕跡を訪ねた後の旅程は、明洞聖堂から100メートルほど離れた香隣(ヒャンニン)教会だ。道すがら明洞名物「明洞コロッケ」を味わって行こう。カリカリな衣とやわらかい中身があいまって口の中で民主主義を叫ぶ。野菜味、ジャガイモ味、辛子味、クリームチーズ味など、多様な食欲が尊重される統合の場だ。価格も庶民経済を考慮した。ただし、決まった量だけ売れば店を閉めるので、遅くに行けば徒労になることもある。

 

 香隣教会は小さなろうそくが集まって松明になった場所だ。1987年5月27日、各分野で民主化運動をリードした代表者200人あまりがここに集まって「民主憲法争取国民運動本部」(国本)を結成した。国本の誕生により、制度圏で活動していた野党、統一民主党と在野勢力が一つの隊列を作ることができた。国本を通じて個別に闘争していた団体が一つになって、6月抗争と直選制改憲を引き出した。

 

 国本の創立場所に香隣教会のような小さな教会が選ばれたのは偶然だった。当時、明洞聖堂や鍾路(チョンノ)5街のキリスト教会館のように活動家が頻繁に訪れていた大きな宗教施設の前には、戦闘警察と私服警察が群れ集まっていた。座り込みを主導する“要注意人物”が一堂に集まれないよう監視の目が光っていた。民主化運動団体は、5月27日午前8時という時間だけを決め、場所は決めずにあちこちに散らばっていて、明洞聖堂の向い側の路地にある香隣教会前が空いていることを見て、連絡を回してあっという間に集まった。24時間明洞聖堂前を見張っていた情報課の刑事たちは、完全に裏をかかれた。香隣教会の入口には、この日の“奇襲作戦”を賛える記念碑がある。

 

 香隣教会と正反対の側に立っている「南道韓食堂チョンドゥンニム」も、知る人ぞ知る美味しい店だ。定食を注文すれば、やや酸っぱいカンジャミ(エイの稚魚)の和えものが一皿山盛りで出てきて食欲をかきたてる。メセンイ湯(カプサアオノリのスープ)と海草を味わい、南道料理らしいなと思った頃にコシの強い筏橋(ポルギョ)コマ(灰貝)が酒を呼ぶ。肉厚のハタの蒸し煮や、少し塩辛いカニの醤油漬け(カンジャンケジャン)から、カラシ菜キムチ(カッキムチ)まで南道の香りを感じることができる。

 

闘士が通った美味しい店のそばから抗争が始まる

 

1987年6月10日、抗争の開始を知らせた聖公会大聖堂=ビョン・ジミン記者//ハンギョレ新聞社

 6月抗争記念地を辿っていけば、あちこちでソウル都心の隠された美味しい店と出会える。長い歴史を抱いたソウル市内の中心街が、座り込みの現場だったおかげだ。実際、朴槿恵(パク・クネ)、チェ・スンシルの拘束を叫んだ光化門(クァンファムン)ろうそく集会の時も、口は楽しかった。大統領府に行く道が警察壁に遮られた時も、西村(ソチョン)の路地を歩き回って偶然に見つけたうどん屋、憲法裁判所に向けて行進した時も、中間で仁寺洞(インサドン)の入り口で立ち寄った海産物とねぎのチヂミ屋…。第13回集会ぐらいになると、まったくの常連になった店もあった。豚プルコギ定食がぐつぐつ煮える中で、「パク・クネは!」と叫ぶと、マッコリ一杯ぐっと飲みほして「テジン(退陣)しろ!」と応じた。

 

 食べる楽しみが集会で、腫れた脚と枯れた喉を癒してくれた。チェ・スンシルのおかげで、10年ぶりに会えた大学の同期、地方から上がってきた親戚のおじさん、食堂の隣の席に座ったピケットを持ったおじさんなど、心の壁が崩れる瞬間があった。

 

 「セシールレストラン」(現在のタルケビの場所)は、6月民主抗争当時に活動家のアジトであった。徳寿宮(トクスグン)そばの聖公会大聖堂の付属建物に1979年に開店したレストランで、時局宣言と記者会見が絶えなかった。政府がむやみに侵入できない宗教施設と連結しているため、1987年当時には国本の人々もこちらにしばしば集まった。ハンバーグステーキなどを食べさせる運動圏の思い出の場所として記憶されたセシールレストランは、2009年に店を閉めた。現在は韓定食の「タルケビ」が営業中だ。

 

 旅程の4番目の目的地はセシールレストラン跡に隣接している聖公会大聖堂だ。ここから6月抗争が本格的に始まった。国本の指導部は、1987年6月10日聖堂に潜入して鐘を打ち鳴らし「パク・ジョンチョル君拷問致死歪曲・隠蔽糾弾、および護憲撤廃国民大会」の開催を宣言した。聖堂側がミサの奉仕者だと話したおかげで、警察を避けることができた。今でも聖公会大聖堂の後方には「6月民主抗争震源地」という碑石がある。

 

 聖堂の向い側はソウル市庁前広場だ。延世大生イ・ハニョルの葬式が行われた7月9日、ここに100万人を超える人々が集まった。聖公会大学のハン・ホング教授は週刊ハンギョレ21に連載したコラム「歴史の話」で、当時の風景について「市庁前広場が満杯になったが、まだ葬列の後尾は新村(シンチョン)周辺にいた。官製の動員集会を除けば、檀君以来最大の人波が集まった」と書いた。ソウル特別市庁西小門(ソソムン)別館13階の展望台に上がって、その日の雰囲気を想像してみることをお勧めする。聖公会大聖堂と徳寿宮、市庁がひと目で見下ろせる。コーヒー一杯2千ウォンで楽しめるカフェもある。

 

イ・ハニョルの血染の服と靴がある記念館

 

 最後に行って見たい所はイ・ハニョル記念館だ。イ・ハニョルは、1987年6月9日延世大の前でデモ中に戦闘警察が撃った催涙弾を後頭部に受けて1カ月後に亡くなった。イ・ハニョルの死は盧泰愚(ノ・テウ)民主正義党大統領候補が直選制改憲要求を受け入れる「6・29宣言」につながった。ソウル麻浦区(マポグ)老姑山洞(ノゴサンドン)54-38にあるイ・ハニョル記念館には、彼が最後のデモの時に着ていた服と靴、頭から血を流して倒れた時に彼を包んだ延世大化学工学科の旗が展示されている。イ・ハニョルが息をひきとった日、警察が押しかけて突き出した押収捜索検証令状も見ることができる。「押収する物:イ・ハニョルの遺体一体」という走り書きの字句が記されている。

 

ピョン・ジミン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )


脱北者が身元を明かして北朝鮮の送還を求めた事例は、キム・リョンヒさん(48)に続き2人目だ。

2017-06-16 | 日・韓・朝友好親善のために

もう一人の北朝鮮離脱住民、公開的に北朝鮮への送還を要求

登録 : 2017.06.16 03:50 修正 : 2017.06.16 06:54

 

北朝鮮への送還を要求する北朝鮮離脱住民クォン・チョルナム氏が今月15日、記者会見が終わった後、記者団の質問に答えている=パク・スジ記者//ハンギョレ新聞社

 また、一人の北朝鮮離脱住民が「脱北ブローカーに騙されて韓国に来た」として、公開的に北朝鮮への送還を要求した。脱北者が身元を明かして北朝鮮の送還を求めた事例は、キム・リョンヒさん(48)に続き2人目だ。

 

 キリスト教平和行動牧師団は15日午前、ソウル鍾路区(チョンノグ)にある国連北朝鮮人権事務所前で「脱北者のクォン・チョルナム良心宣言」記者会見を開き、脱北者のクォン・チョルナムさん(44)の送還を要求した。彼らは「脱南(韓国からの脱出)未遂(で)拘束した北朝鮮同胞を釈放し、クォン・チョルナムをはじめとする帰郷を希望するすべての脱北同胞を直ちに送還せよ」という内容の声明書も、国連北朝鮮人権事務所に伝えた。

 

 クォンさんは2014年8月、北朝鮮国境線を超えており、同年11月に韓国に入国した。北朝鮮では妻と息子と共に薬草を売っていたクォンさんは「中国で出会ったブローカーが『韓国ほど住みやすい国はない。家も仕事ももらえる』と説得した。それに騙されて韓国に来た」と話した。ブローカーは当時、クォン氏が所持していた2700万ウォン(約260万円)相当の現金も「韓国には持って行けないから、置いて行け」と言い、横取りした。蔚山(ウルサン)に定着したクォンさんの暮らしは苦しかった。クォンさんは「日当10万ウォン(約9万7千円)で肉体労働をしていたが、脱北者だと無視され、賃金もろくにもらえなかった」と話した。

 

今月15日午前、キリスト教平和行動牧師団が脱北者のクォン・チョルナムさんの送還を要求する記者会見をしている=パク・スジ記者//ハンギョレ新聞社

 昨年6月、クォンさんは「『私がスパイだと(通報)すれば補償金を多くもらえる』と冗談で言ったことを(真に受けた)脱北者の友人が、本当に警察に通報し、スパイ容疑で緊急逮捕された」と主張した。韓国での苦しい暮らしに耐えかねて、第3国を通じて北朝鮮に帰ろうと、パスポートを発給してもらった頃だった。クォンさんは「20日間監禁され、スパイであるという自白を強要された。私はスパイではないため、最後まで否定した。調査機関も疑惑を明らかにすることができず、(国家保安法の)潜入・脱出未遂罪で起訴された」と語った。クォンさんは裁判所で懲役1年に執行猶予2年を言い渡された。

 

 クォンさんは記者会見で「末っ子である私が消えて、父が苦しんだ末に昨年亡くなったと聞いた。亡くなった父の霊前にお酒でも一杯注いで差し上げたい。北朝鮮に帰ろうとして刑務所に行った同胞たちが一人や二人ではないと、保安捜査隊の捜査官から聞いた」とし、送還を訴えた。今月14日には35の市民団体で構成された「北朝鮮海外レストラン従業員の企画・脱北疑惑事件の解決に向けた対策会議」が記者会見を開き、「事実上強制抑留されているキム・リョンヒさんを北朝鮮に送還せよ」と要求した。

 

パク・スジ記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )


中国は各方面が手を取り合い、緊張した情勢を緩和させ、再び対話への道へと回帰し、最終的に問題を解決していく

2017-03-16 | 日・韓・朝友好親善のために

李克強総理、各方面が手を取り合い、朝鮮半島の緊張緩和目指すことを希望

人民網日本語版 2017年03月15日14:01
 

第12期全国人民代表大会第5回会議の閉幕を迎えた15日午前、李克強国務院総理は人民大会堂で記者会見を行い、国内外の報道記者たちからの質問に答えた。

日本の記者による朝鮮半島問題の質問に対し、李総理は「中国の朝鮮半島問題における立場は明確で、一貫している。中国は朝鮮半島の非核化の実現と、平和と安定の維持、そして対話と協議を通じた問題の解決に尽力していく。関連する国連決議に関しては、中国は常にはっきりとした態度を示し、また全面的に、厳格に執行している。そして中国は終始、核拡散防止システムの確固たる擁護者だ。確かに、最近朝鮮半島を含む北東アジアでは一部緊張したムードが漂い、その緊張は衝突を招きかねない高い危険性を孕み、関連する各方面へ被害を与える可能性もある。そのため、中国は各方面が手を取り合い、この緊張した情勢を緩和させ、再び対話への道へと回帰し、最終的に問題を解決していくことを希望している」と述べた。(編集TG)

「人民網日本語版」2017年3月15日


慰安婦問題が解決されるまでこのことをやめるわけにはいかない」

2017-03-16 | 日・韓・朝友好親善のために

旧日本軍による慰安婦を描いた映画『鬼郷』

見た日本人観客ら、涙流して「申し訳ない」

2017年03月16日09時25分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]

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チョ・ジョンレ監督。
  先月末、京畿道広州(キョンギド・クァンジュ)にある慰安婦被害者の福祉施設である「ナムヌの家」に約660万ウォン(約66万円2000円)の寄付金が伝えられた。

  海外在住韓国人と外国人の真心が込められたということから金額とは関係なく、とても意味深い支援金だった。円貨30万円、米貨幣941ドル(約10万6000円)、ユーロ貨幣1150ユーロ(約14万円)など全世界から集まった支援金を慰安婦被害者に伝えた人は、慰安婦を題材にした映画『鬼郷』を手掛けたチョ・ジョンレ監督(44)だった。彼と製作スタッフは昨年7月、ナムヌの家に映画の収益金2億ウォンを寄付したことがある。

  『鬼郷』は植民地時代に旧日本軍よって慰安婦として連行された少女らの悲劇を描いた映画で、昨年2月上映して358万人の観客を集め、意味のあるヒットをした。チョ監督をはじめとする製作スタッフはその後、海外在住韓国人と各国市民の要請により、日本や中国、米国、ドイツ、英国、フランス、インド、オーストラリアなど10カ国55都市で巡回上映を行った。

  数多くの海外在住韓国人と各国市民が映画を見た後、慰安婦問題に深く共感して自主的に募金を行った。現在まで『鬼郷』の上映回数は10万回に近い。チョ監督は20万回上映を目標に、海外巡回上映を継続すると話した。20万人に達する慰安婦被害者の霊を慰めるという趣旨でそのような目標を決めた。

  「巡回上映が続きながら海外在住韓国人より現地人の観客がもっと多くなっている。映画を見た後、慰安婦問題がナチによって強行されたホロコースト並みの戦争犯罪とし、憤りを覚える方々が多い。毎度、映画館で涙を流す方が多い。昨年末、大阪・神戸上映会では多くの日本人観客が『本当に申し訳ない』と話した。『少女像を撤去しろ』との日本政府の態度に腹が立つ』という反応もあった」

  チョ監督は光復節(解放記念日)である8月15日公開を目標に『鬼郷』の製作過程を映したドキュメンタリー『鬼郷Part2.少女の話』(仮題)を手掛けている。製作が失敗に終わるところだった『鬼郷』が7万5000人余りの市民の後援に支えられて作られるまで、14年の過程を盛り込む。映画で見せられなかった未公開映像、慰安婦被害者の証言、市民の後援、海外上映会の反応などが改めて公開される。現在、編集作業に没頭している彼は、必ず撮りたかったエンディング場面をドキュメンタリーに入れるつもりだと伝えた。

  「ドキュメンタリーをよく作って国際的なドキュメンタリー映画祭に出すつもりだ。そうすると、慰安婦の惨状がもう一度全世界に知らされることになるから。『鬼郷』も海外上映を継続する計画だ。昨年、無理をして激しい頭痛や麻ひ症状もあったが、慰安婦問題が解決されるまでこのことをやめるわけにはいかない」

皇帝が条約を承認した批准書がなく、条約の名称も書かれていなかった。条約の韓国語本すら、日本側が作ったものである。

2017-02-01 | 日・韓・朝友好親善のために

「世界史に類を見ない強制と欺瞞、韓国併合は国際法上無効」

韓国併合の違法性、李泰鎮教授が研究総仕上げ

 

 

 「四半世紀にわたって取り組んできた、日本による韓国併合の違法性に関する研究を仕上げることになって、すっきりした。朝鮮が無力だったので植民地になったという認識が一般的だった中、日本による韓国併合は世界史的にあまり例のない強制と欺瞞(ぎまん)によるものだったということを明らかにして、国際学界の共感を得たことにやりがいを感じる」

 20世紀初めの日本による朝鮮侵略の過程に見られる歴史的・国際法的問題点を実証的に研究し、これを日本・欧米の学界に伝えることに尽力してきた李泰鎮(イ・テジン)ソウル大学国史学科名誉教授が、これまでの研究成果をまとめた著書『日本の韓国併合強制研究:条約強制と抵抗の歴史』(知識産業社)を出版した。

 朝鮮王朝時代を主に研究してきた李泰鎮教授が大韓帝国に関心を持つようになったのは、1992年にソウル大学奎章閣に所蔵されていた大韓帝国の詔勅・勅令・法律などおよそ60点の中に、純宗皇帝の署名が偽造されたものを見つけてからだった。統監府の日本人官僚が書き込んだものだった。「『保護条約』(第2次日韓協約。乙巳〈いっし〉条約)など韓国の主権を奪った諸条約にも問題があるのではないか」と考えた李教授は、条約の原本を確認した。その結果、皇帝が条約を承認した批准書がなく、条約の名称も書かれていなかった。条約の韓国語本すら、日本側が作ったものであることが判明した。

 そのころ、ソウル大学のキム・ギソク教授が米国カリフォルニア大学で、高宗が米国人宣教師ホーマー・ホルバートに与えた信任状と修好7カ国の元首に送った親書を確認した。高宗は親書に「保護条約は日本が強制したものであって、自分は承認しなかった」と記していた。李教授は、自著の論文やほかの研究者の論文を集めて『日本の大韓帝国強占:〈保護条約〉から〈併合条約〉まで』(図書出版カチ、1995年)を出版した。

 その後、研究は二手に分かれて進んだ。一つは「日韓議定書」(1904年2月)、「第1次日韓協約」(04年8月)、「第2次日韓協約」(保護条約。05年11月)、「日韓新協約」(第3次日韓協約・丁未七条約。07年7月)、「併合条約」(10年8月)など、日本が朝鮮の国権を段階的に奪っていった諸条約の違法性を明らかにすることだった。李教授は「条約締結の過程は、全権大臣の任命や皇帝による批准の手続きを飛び越え、実務者間の『覚書』(メモランダム)を政府間の『協約』(アグリーメント)にすり替えるなど、欺瞞でつづり合わせてあった」と語った。

 もう一つは、条約締結が日本軍の軍事力に依存していた点を明らかにすることだった。95年の村山談話以降、日本側は関連資料の公開を進め、2001年にアジア歴史資料センターを設置したことが大いに役立った。特に、陸軍省が日露戦争当時の日本軍の資料をまとめて編さんした『陸軍政史』を入手したことが決定的だった。この資料集には韓国駐在軍司令官・長谷川好道の報告書が載っており、同報告書で長谷川は、保護条約締結当時、日本軍の騎兵連隊や砲兵大隊までも漢陽城内に投入して完全掌握し、朝鮮強占の「第一の功労者」は自分だと主張していた。また、これまでは併合の際に日本の官僚が中心的役割を果たしたといわれていたが、実際には陸軍省が主導していたことが明らかになった。

 朝鮮併合に消極的だった伊藤博文が、1909年6月に韓国統監を辞めて併合賛成に転じた過程も明らかになった。高宗が強制的に退位させられ、軍隊が解散し、義兵抗争が激化したことを受け、伊藤は1909年初めに純宗と共に韓国各地を回って民心をなだめる計画を立てた。しかし大邱-釜山-馬山を鉄道で回る南巡、平壌-義州-開城を訪れる西巡の際、行く先々で数万もの人々が集まると、純宗は人々に対して愛国と新文物の受容を訴えた。李教授は「君民が一つになった抵抗心を確認した伊藤は、侵略戦争の主導権を軍部に渡すことを決心した」と語った。

 李泰鎮教授の研究は、日本の月刊誌『世界』で紹介された。日本の学者との間で討論が繰り広げられ、韓米日の学者が参加する国際共同研究につながった。日本の韓国併合は違法だと宣言する韓日の知識人1144人の共同声明(2010年)、日本の過去史反省を求める韓日米欧の知識人の共同声明(15年)でも、李教授が主導的役割を果たした。李泰鎮教授は「韓日親善と東アジア平和共存は、日本の正確な歴史認識と真の反省の上で可能であって、日本政府はこのために努力する良心的知識人に耳を傾けなければならない」と語った。

李先敏(イ・ソンミン)記者