光州事件目撃者のドイツ人ジャーナリスト 光州望月洞墓地が安住の地に
登録 : 2016.05.17 09:08 修正 : 2016.05.17 09:51
事件を報じたヒンツペターさんの遺品を埋葬
遺族や友人が追悼式に出席
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1月に亡くなったユルゲン・ヒンツペターさんの夫人エーデルトラウト・ブラムシュテットさんが16日、光州望月洞の旧墓域で行われた追悼式で、追悼碑に刻まれた夫の顔をさすっている=光州/キム・ソングァン記者//ハンギョレ新聞社
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5・18(光州事件)の惨状を全世界に知らせたドイツ人ジャーナリストのユルゲン・ヒンツペターさんの追悼式が行われた。
光州(クァンジュ)広域市と5・18記念財団は16日、光州市北区望月洞の旧5・18墓域の石塔近くで、遺族や市民100人余りが出席した中、ヒンツペ ターさんの追悼式を行った。追悼式には、故人の夫人エーデルトラウト・ブラムシュテットさん(79)、夫人の妹ローズビエタ・ブラムシュテット・ミートさ ん(72)、5・18当時外国メディアの記者だったブラッドリー・マーティンさん、ノーマン・ソープさん、ティム・シャーロックさん、ドナルド・カークさ ん、シャナナ・クスマン元東ティモール大統領など国内外の人たちが出席した。夫人のエーデルトラウトさんは追悼式挨拶で「光州に埋めてほしいと言っていた 夫の望みをかなえてくれた光州市と市民に感謝する」、「歴史的な場所に夫の安息の場を設けてもらえうれしい」と語った。
故人は2005年に韓国を訪問した時、「死んだら光州に埋めてほしい」と自分の爪や髪の毛など身体の一部を5・18財団に委ねた。5・18財団は15 日、エーデルトラウトさんら遺族とともに、故人の遺品を追悼碑の内側に安置した。出席者たちは同日の追慕式で「あなたのための行進曲」を歌って故人の魂を 称えた。クスマン元大統領は悲しみに沈んだエーデルトラウトさんにグリーンスカーフを巻いて慰めた。
ヒンツペターさんは5・18当時、ドイツ第1公営放送(ARD-NDR)の東京特派員として光州の状況を現場で取材し、事件を世界に知らせた。故人は、 新軍部の意図どおり「暴徒の騒擾」にされるところだった5月抗争を、不義に抵抗する「民主抗争」として全世界に刻印させることに大きな役割を果たした。彼 は1月25日(現地時間)、ドイツ北部ラチェブルクで闘病の末に79歳でこの世を去った。
光州/チョン・デハ記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
全斗煥元大統領、「光州発砲」決めた新軍部会議に出席していた
登録 : 2016.05.18 23:47 修正 : 2016.05.19 06:54
保安司令部内部資料『第5共和国前史』を入手
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全斗煥元大統領が1980年5月、戒厳軍の集団発砲に関与したことを示す『第5共和国前史』の記述=チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社
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戒厳軍の自衛権発動決定に関与
崔圭夏元大統領は翌日の夜に知った
1982年3部のみ発行された未公開資料
1980年の5・18光州(クァンジュ)民主化運動当時、戒厳軍の集団発砲の直前に、全斗煥(チョンドゥファン)元大統領が市民への銃使用を可能にした 軍の自衛権発動の決定に関与したことを示す、全斗煥政権時代に保安司令部(現在の機務司令部)が作成した内部資料が見つかった。最近、全元大統領があるメ ディアとのインタビューで、「光州と私とは何の関係もない」と語り、戒厳軍の発砲は自分とは無関係であると主張した内容を根底から覆すものだ。
18日、ハンギョレが入手した『第5共和国前史』(前史)によると、1980年5月21日午前10時50分、国防部でイ・ヒソン戒厳司令官がチュ・ヨン ボク国防部長官に光州に出動した軍人たちの自衛権発動を建議する際に、全斗煥・合同捜査部長兼保安司令官(当時)も同席していたと記されている。1979 年から1981年4月まで、第5共和国発足前後の政治・社会の懸案を取り上げた『第5共和国前史』は、1982年5月当時、新軍部の実力者だったパク・ ジュンビョン保安司令官が6冊の本と3冊の付録にまとめたものだ。この本は3部のみ発行され、大統領府と保安司にあることが知られているだけで、内容は公 開されたことがない。
前史における5・18民主化運動関連の内容によると、「(1980年5月)21日2軍司(令部)では司令官のジン・ジョンチェ将軍と作戦参謀のキム・ ジュンボン将軍が、ヘリで陸軍本部に来て参謀総長と面会し、このような現地の困難な状況を説明すると共に、自衛権の発動を建議した」とされている。また 「嫌疑を聞いた参謀総長イ・ヒソン将軍は『非常に重要な問題』として、『長官に直接報告しよう』と提案し、3人の将軍は国防部長官室に行った。国防長官室 には、長官をはじめ合同参謀議長のリュ・ビョンヒョン将軍や合同捜査本部長兼保安司令官の全斗煥将軍、首都警備司令官の盧泰愚(ノテウ)将軍、陸軍士官学 校校長のチャ・ギュホン将軍、特殊戦司令官のチョン・ホヨン将軍などが待っていた」と記述されている。
自衛権発動を決定した国防部会議から約2時間後の5月21日午後1時、光州錦南路(クムナムノ)で始まった市民に対する戒厳軍の集団発砲は、午後4時まで続き、1日間だけでキム・ワンボン君(15・当時中学3年生)など34人が命を失った。
戒厳軍の集団発砲について当時の崔圭夏(チェ・ギュハ)大統領は何も知らなかったものと見られる。チョン・ソクファン元中央情報部全羅南道支部長職務代 理は、1995年12月27日に行われたソウル中央地検の調査で「(集団発砲翌日の)1980年5月22日の夜10時頃、崔圭夏大統領が電話で『射撃する 軍部隊と指揮官を確認できるか』と尋ねた」と話した。チョン・ソクファン職務代理は「崔大統領が軍の指揮系統でもない情報部支部長に直接電話をかけて尋ね たのは、当時戒厳司令部からいかなる状況報告も受けていない状態だったためと思われる」と陳述した。しかし、全斗煥元大統領は最近のインタビューで、「保 安司令官が中央情報部長を差し置いたり、大統領府を差し置いたりするのは、絶対あり得ない」と主張した。
光州/チョン・デハ記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)