みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

森澄雄著 「澄雄俳話百題」(上)

2019-12-10 13:34:33 | 俳句
久しぶりに俳句関連の本を読んだ。



自分が所属している俳句団体の発行誌の外は、俳句関係の本を全くといっていいほど読まなくなった私だが、ふとした動機から「森澄雄(1919~2010)」を知りたくなった。

澄雄の名句から、夫人を描写した2句を参考までに。

          除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり
          木の実のごとき臍もちき死なしめき


本書には松尾芭蕉に言及したくだりが多い。まあ当然かも知れないが。その一部を以下に引用する。

『奥の細道』に 文月や六日も常の夜にあらず という句がありますが、これは僕の非常に好きな作品なんです。これには現代俳句が考えているような「写生」というようなものは一つもない。しかも、なんとなく大きな空間があって、芭蕉の体温のようなものも出ています。

子規が写生を唱えて蕪村を拾い上げ、芭蕉を否定した。それはそれで仕方がないんだけれども、同時に芭蕉の持っていた「無情」も「造化」も切って捨てた。僕はその方が大きな欠陥だという気がします。

いい文章ですね。澄雄の誠実な人柄を感じます。

大峯あきら君(1929~2018 哲学者、浄土真宗僧侶、俳人)(中略)僕の芭蕉観には生の視角はあるが死の視角はないといっている。僕は『俳論集』で、父親の死、波郷の死を語り、そこから自分の世界を開いてきたわけです。まして戦争で仲間が沢山死んだ。

僕の小隊は百六十何人いて、還ってきたのは八人しかいない。そういう惨憺たるところを生きてきて、いま、名残の人生を歩んでいるようなものなんです。

だから『花眼』の時代は、死から照り返してくる人間の生というものをどうとらえたらいいかというのが僕の課題だった。大峯氏は少し深刻に死の視角を強調するわけですが、そこに僕は大峯氏の若さと誠実さを感じました。

だが老人は死ぬことより生きることを考えてますからね、やっぱり人生にやさしくなっています。


戦争の実体験がない私、そしていい加減に生きている私には、森澄雄の真意を捉えることは難しいだろうが、「老人は死ぬことより生きることを考えてますからね」・・・これは逆説的なようでいて、妙に納得させられる。

いつ死んでも当然のこの歳になってもまだ自分の死を受け入れる気持になれない私だが、一方では死がどんどん身近になって、その反射作用のように、生きよう、生きよう、という気持が前面に出てくるようになってきた、確かにそんな感じがするのだ・・・

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