みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

真木悠介著「時間の比較社会学」その6

2012-11-28 09:46:01 | 

第4章「近代社会の時間意識ー(Ⅰ)時間への疎外」は、次の3節で構成されています。
 1 <失われた時>ーカルヴァンの地獄
 2 <見出された時>ー自我の神話
 3 時間への疎外と時間からの疎外

「われ思う、ゆえにわれ在り」というデカルトの命題のうしろには、ひとつの生きられる問いがあったはず、と著者は語りかけます。まるでオペラの序曲のように、ワクワクドキドキする出だしです。

(近代社会の)自我はたえずすばやく帰無してゆく時間のうちに自らの連続性を解体してゆく。その虚無の淵から瞬間ごとに救い出さなければならない実存。その実存の救出=実存の条件法が、生きられる問いへの答えであり、カルヴァンの「われ信ず」、デカルトの「われ思う」、近代ロマンティシズムの「われ感ず」だった、と説かれています。

プルーストの<回想>もまた、現在する共同性の支えを必要としない、存在のリアリティの再建である、としています。

(近代的自我にとっての愛は)それぞれの共同性を、未来であるかぎりにおいて求め、現在であるかぎりにおいて嫌悪し、過去であるかぎりにおいて愛惜する。いずれにせよ彼らは現在を愛していない。

上記のくだりでは可笑しくなるほど納得してしまいました。私自身は前半生に辛いことが多少あったためか、過去を愛惜することはあまりないのですけれど。

(われわれの時代は)存在の根であるような共同性が、常にかなたにあるという構造を再生産し続ける・・・それは過去あるいは未来に志向する、近代のあらゆるロマンティシズムの構造であるばかりでなく、近代社会の様々な分野におけるダイナミズムを生み出す原動力となっている。

資本と賃労働とはすでに、・・・未来に向けて手段化された現在そのものの極限的な形に他ならない。

予定=未来に追われるような多忙な日々を、嘆きながらもどこか得意げな、そんな人が都会には多いことを想起しました。私もかってはそんな一人でした。

近代的自我の<現在>は、その虚無を支える確かな<時>を求めるひとつの餓えだ。・・・それが純粋に充たされうるのは、プルースト的な「回想」における<過去>か、サルトル的な「投企」における<未来>によってでしかない。自己幻想としての過去あるいは未来。近代的自我によって見出された<時>。
 

現在が過去や未来によって支えられていないという感覚が、ひとつの不安な自己喪失感として意識されるのは、じつはその自我の現在が、それ自体としての内的な充実を失い、存在感の確かさを失っているからではないのか。

・・・われわれがその内にある限り、自然や他者との溶融や交響は常に、永続しえないエピソードに転化してしまうような文明。存在の地であるような風景をたえず容赦なくタブローとして凝固してゆくこの世界の構造・・・

偉大なオペラを観たときのように、感動を胸に劇場=本章を後にしようとする読者へ、著者のフォローが続きます。

・・・「時間の解体感」による自我のアイデンティティ喪失の危機が、日本の近代人にとっては、その絶望の深さにおいて了解することが困難であるという事情・・・について、次のように触れているのです。

日本近代の近代としての周辺性は、第1にまずこのような、超越論的な文明(=ヘブライズム)の歴史的背景を持たないという点にあり、さらに第2に、1960年代までは、伝統的な共同態を実質的に残存せしめたうえで、そこから活力を引き出してくるタイプの近代化であった点にある。

「伝統的な共同態」が風前の灯となっている2012年の現在を生きる私たちにとって、精神の危機はより普遍的に、より深くならざるをえないのでしょう。餓えた自我は、その共同幻想として、神に似て非なる<独裁者>をさえ求めているようで、怖ろしい時代になりました。

総じて本章では、著者の論理の鮮やかさと表現の巧緻が特に際立って感じられ、魅了され、ほとんど酔わされるような感覚に陥りました。後日、もう少し冷静に?読み直したいと思います。


冷蔵庫とCDラジオ

2012-11-26 18:49:06 | 暮らし

愛車を駆って石岡の電器店へ行き、冷蔵庫とCDラジオを買いました。

旧い冷蔵庫は26年間、私と一緒でした。その間、いろいろなことがありました・・ 新しい冷蔵庫は後日配達される予定です。何年使うことになるのかなぁ・・

Dscn2896旧いラジカセを片付けて、CDラジオを置きました。嘆かわしい世の中にあって私が心を暗くしているのではないか、と音楽好きの友人が慮って、自ら編集したCDを先日、沢山送ってくださDscn2892_2
いました。その内の2枚を早速聴きました。音楽に疎い私ですが、心が和みました。 友人に感謝! 音楽に感謝!


2012 やさとクラフトフェア

2012-11-24 18:26:11 | 文化

Dscn2887恒例のやさとクラフトフェアへ、今年も行ってきました。いつも楽しみにしていらっしゃる近所の方と一緒です。初日の昨日は雨でしたが、今朝は曇り。出掛ける頃には明るい日が差してきて、会場に着いたらカラフルな幟がはためいていました。

山並みに囲まれた田園風景の中に、陶芸、硝子工芸、木工、染色、金工、等々の創作品を展示販売するテントが、50余り並んでいます。お客さんたちの出足も好調のようで、広く確保された駐車場が次々に埋まっていきました。

Dscn2873「つくばのほうき工房」のテントでは、酒井豊四郎さんが箒作りを実演。目にも止まらぬほど早い手の動きで美しDscn2876
い箒が出来上がっていくのに見惚れました。福島原発事故後、電気を消費する電気掃除機等はなるべく使いたくなくなった私は、既に座敷箒を地元の商店街で購入済みです。今日は小箒を買いました。机や棚や車内なDscn2889
どの細々したところの掃除に重宝しそうです。

Dscn2878陶芸家の飯田卓也さんのテントでは、今年も奥様が出来たてドーナツを販売。少年(飯田さんの御子息かしら?)助っ人お二人も初登場されています。ザラメふりかけのドーナツを所望して、友人たちと共に早速ほおばりました。期待に違わぬ美味しさでした

Dscn2881「工人船工房」のテントでは、竹工芸の美しく確固とした構造に息を呑みました。長野県下伊那郡から来てくださった下澤豊さんの作Dscn2879
品です。優しくかつ凛とした風情の奥様と、跡継ぎの御子息もご一緒でした。

お昼には、大学生グループのテントで無農薬野菜たっぷりのホウトウを頂き、「JAやさと」のテントでは八郷軍鶏のヤキトリに舌鼓を打って、お腹の中も大満足。

Dscn2885仮設舞台では、ムクナ・チャカトゥンバ&ラストナイターズが演奏中でした。コンゴ民主共和国出身のムクナさんの声は、明るいリズムと穏やかさに満ちていて、音楽に疎い私も、体と心が弾む思いがしました。

気温も上がってきて小春日和。会場のあちこちで、友人、知人たちにも出会って、お喋りの花もたくさん咲かせ、晩秋の一日を本当に楽しく過ごすことが出来ました。おかげさまで!


真木悠介著「時間の比較社会学」 その5

2012-11-19 06:34:40 | 

第3章は、次の3節で構成されています。
 1 時間意識の四つの形態
 2 ヘレニズム-数量性としての時間
 3 ヘブライズム-不可逆性としての時間

カタカナの世界が苦手な私は、ヘレ・・とかヘブ・・とかを見聞きすると逃げ出したくなります。だからこの章は、字面を追うだけで飛ばしてしまおう、頁数も少ないから内容も乏しいだろうし、と最初は思ったのです。ところが目を通すうちに、飛ばすことが出来なくなりました。

「円環する時間」のイメージが、ギリシャ文明のどのような局面で発生してきたのか、著者はイオニアの諸都市に着目しながら説いています。

この(アテネの民主政の先駆といわれるソロンの改革等の)ような商人階級による民主革命は、前六世紀全体をつうじてエーゲ海の両岸を吹き荒れたが、先駆をなしたのはソロンの改革自体よりも早く、アナクシマンドロスの幼少のころのミレトスの同盟都市である同じイオニアのキオス(前六〇〇年)であった。

アナクシマンドロスの宇宙観は、当時の生成しつつある間・部族共同態的な秩序、すなわち発生期の市民社会的な秩序を投影したものである、と著者は言います。

~アナクシマンドロスの画期は、それ(宇宙の多様性をそこに還元しうるような共通性)を間・質量的なシステムの一般性のうちに、すなわち万物を秩序づけてゆくいわば「形相的」な普遍性としての<時間>に求めたことにあるだろう。

そしてミレトス学派を生んだこの時代のイオニアの最も着目されるべきことは、それが人間の歴史における鋳貨の流通の発祥の地であるということである。

ピュタゴラスもイオニアの生まれだそうです。<万有は数である>というピュタゴラス学派のテーゼは、鋳貨システム(=事物を量として換算し、またそれ以上分解しえない単位を基礎とする数として表現する生活世界)に基礎を置いているように思われる、と真木悠介は書いています。

はるかな原始共同体にまで通底するオルフェウス教の生死の反復する感覚が、数量化するロゴスによって対象化されたときの形象が、ヘレニズム的な時間の円環であったはずである。

イオニア に着目しているもう一人の著者を思い出しました。「世界史の構造」、そして「哲学の起源」を著わした柄谷行人です。行き詰まったデモクラシー(多数者支配)の次の時代への希望を、イオニアのイソノミア(無支配)に源初的に見出しています。

柄谷行人は、歴史を経済的下部構造の交換様式から見ていますが、真木悠介の本章の論理にも、同様の視点が織り込まれているように思います。

遠い時代の遠い地のイオニアが、ほんの少し親しく感じられるようになりました。一方、ヘブライズムの<線分的>という時間意識については、どうしても実感を以てイメージすることが出来ません。生まれ育ってきた文化的風土が違い過ぎるからでしょうか。

しかし、時間意識、という意味では、人間の歴史に無縁の時間は無きに等しい、とも言えます。後期ユダヤ教の宇宙論は、人間の運命を世界の運命におきかえることによって歴史化された」というふうにプルトマンが述べている そうです。

ヘブライズムの<線分的>時間の有限性(線分の、いわば前後の問題ですね)について、プルトマンは無時間を語り、バルトは、時間を永遠が「すべての側より包んでいる」と言っているそうです。プルトマンの「無時間」には凍りつくような感覚を覚えますが、バルトの言葉には救われるような、魅かれるものがありますね。

  


水車の力

2012-11-17 20:07:57 | 俳句

埼玉方面の俳友の皆さまが、筑波山周辺を吟行されました。私は国民宿舎「つくばね」で落ち合いました。畏敬申し上げている師をはじめ、皆さまとは数年ぶりの再会で、感慨深く旧交を温めながら昼食を共にした後、近くの「駒村清明堂」を吟行しました。

Photo筑波の山清水を引いて大きな水車を動かし、その力で乾燥杉葉を搗いて出来る粉を原料に線香を作っているところです。小雨の中でしたが、奥様が行き届いた説明をして下さり、一同、熱心に見聞きし、現役の水車の力強い働きに感嘆し、線香作りの細かな手作業の工程にも興味津々でした。(今日撮った写真がボヤケていたので、他サイトの写真を借用しました。お許しを・・)

   水車なほ矍鑠として神無月   小零

かっては、渓流沿いのこの付近に水車小屋が幾つもあったそうです。小麦を挽いて麺にしていたうどん屋さんや、製材所や、菜種を絞っていた油屋さんも、みな、水車を動力にしていたそうです。水車で発電して外灯を点けていた時代もあったそうです。原発の危険性が明らかになった今、自然の水の力によるエネルギーを、改めて見直したいですね。


相即不離

2012-11-14 20:22:54 | 茶道

茶道の研究会に行ってきました。業躰先生(家元の名代)の御指導を受けることが出来る貴重な機会です。県内各地から集まったのは百名近くだったでしょうか。

私たちの社中の3人は、舞台の上で「壷荘(つぼかざり)」を実演しました。私は正客役。「お茶壺道中」は、大名行列に準ずる、と言われるほど、茶壺は茶道具の中でも特に大切に扱われてきたそうです。

大変緊張しましたが、大先生と若先生が特訓しておいてくださったので、3人とも大きなミスはなく、無事に舞台を降りることが出来ました。ホッとした私たちに、若先生が点ててくださったお茶の、美味しかったこと

壷荘に続いて、他の社中の方々が、「包帛紗」、「入子点」、「貴人清次花月」をそれぞれ実演されました。

御指導くださった業躰先生のお言葉は、心に沁みるものが多々ありました。その要点を私なりに言いますと、体の動きと心の動きの相即不離、ということになるでしょうか。例えば、心が早って先に行き過ぎると、所作がおざなりになる、という訳です。確かにその通りですね。そして体も心も言葉も、常に相手のことを思いやるものである、ということ。細かすぎるほどに定められている所作の全てが、このような根元的な意味に由来しているのですね。短時間でしたが、本当に素晴らしいお話で、仲間の一人は感激で涙ぐんでいました。

 


2羽!

2012-11-12 17:48:56 | 

ひよこがパニックになったように必死に泣き叫ぶ声が庵内の私に聞こえたので、慌てて鶏舎へ行きました。雌鶏のギンとウララが久しぶりに巣箱の外へ出ていて、巣箱の中が丸見えです。

巣箱の中には・・小さな毛糸玉のようなひよこが2羽  いました! 懸命に鳴いています。ギンとウララが慌てて巣箱に戻り、ひよこたちを羽裏に隠しました。ヒヨコたちの声は直ぐに静まりました。


ひよこの声!

2012-11-10 18:56:49 | 

烏骨鶏のギンが、今回の抱卵を始めたのは10月27日。数日後に矮鶏のウララも加わり、卵は3個。今日は、最初の卵が抱かれ始めてから21日目なので、孵化してくれるかどうか、朝からドキドキ。でも一向に生まれた気配がありません。昼頃も覗きましたが、ギンとウララが神妙な表情でじっと巣籠りを続けているだけで、ひよこの姿はありません。孵化はいつも朝方なので、駄目だったのかなぁ・・と半ば諦め気分になりました。雄の烏骨鶏のキンタロウは、ソワソワと鶏舎内を歩き回っています。

夕方の給餌の際に、また巣箱を覗きましたが、やはりひよこの姿はありません。ところが・・ アッ 聞こえました! 小さなかぼそい声が ヒヨ ヒヨ と巣箱の奥から聞こえるではありませんか! 誕生していたのです! ギンとウララが厳重に警戒し匿っているので、ひよこの姿は全く見えませんでしたが。

晩夏に生まれたひよこは、短い命を終えてしまったけれど、今回はどうか無事に育ってほしい!


大増の鷹

2012-11-09 18:05:34 | 俳句

俳句の会で、大増(おおます)の正法寺(しょうほうじ)を吟行しました。筑波山東麓にあり、三方を森が囲んでいて、山の水が境内に引き込まれ、小さな滝も設Dscn2847
えられています。先年、他界された住職は、豪放磊落で見事な顎鬚がトレードマークでした。孫息子が跡を継ぐべく研鑽を積まれているそうです。

本堂の後ろにそびえる山桜は濃い紅葉で、時折りDscn2851_2
Dscn2852_2日を返しながら散っていました。まさに冬麗の日です。写真は私の技量不足でぼやけていますが、実際はとても色鮮やかな風景で、一行はみな、感嘆の連続でした。羅漢さんたちと一緒に暫し日向ぼっこもしました。

メジロやジョウビタキなど、小鳥たちが飛び交い、見上げると、上空高く大鷹がゆっくりと輪を描いていました。

  鷹舞ふや迷へるものを地に止めて   小零


果実が果芯を持つように

2012-11-05 13:18:20 | 

Dscn2846翻訳ものはまるっきり苦手な(かといって、原書ではもちろん読めない)私が、魔が射した?のか、先日「リルケ」を公民館図書室から借りてきてしまいました。

「ドゥイノの悲歌」から目を通し始めたのだけれど、縦に読んでも横に読んでも斜めに読んでもサッパリ・・ 充実しているらしい註釈に目を転じても、頭の中がギクシャク。

やっぱり駄目。でも念のためにと、別の頁の「マルテの手記」を覗きました。すると、なんと、面白いではありませんか! この違いの主因は、はっきり言って訳者の違いですね。「ドゥイノ~」は手塚富雄、「マルテ~」は杉浦博という方です。(あくまでも私の相性だけの問題です。)

近日中に返却しなければならないので、幾らも読み進むことは出来ませんが、取り敢えず心に響いた箇所を書き出しておきます。

昔の人は知っていた(知らぬまでも感じていた)、ちょうど果実が果芯を持つように、人はおのれのなかに死を持つのだと。子どもたちは小さい死を、大人たちは大きな死を、持っていた。女たちは胎のなかに、男たちは胸のなかに、自分の死というものを持っていた。そして、死を持っているというそのことが、彼らに独特の威厳と静かな誇りを与えていた。
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