みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

原発作業員の死

2011-08-30 20:32:12 | 原発

福島原発事故現場の作業に携わっていた40代の男性が、8月上旬に急性白血病で亡くなったそうです。今日の東電の記者会見で公表されたのですが、マスコミは民主党代表選・新総理指名選を追うばかりでしたね。


葡萄日和

2011-08-29 14:19:55 | 暮らし

Dscn2022 近所の葡萄園へ販売作業の手伝いに行きました。1ヶ月余り前の袋掛けの時はまだ小さかった房が大きく熟れて、袋が張り裂けそうなぐらいです。その袋ごとプロが摘果した葡萄を袋から取り出して、傷んだ玉や付着したゴミを取り、販売用の綺麗な袋(表側が透明になっています)に入れ替えるのが私の作業です。

今年は例年のように売れるのか心配でした。当地の放射能汚染は0.2マイクロシーベルト/h台で、いわゆるホットスポットではないものの、福島原発事故の影響は明らかです。農産物が土壌中のセシウムを吸収する度合は、農産物の種類によって差がありますが、葡萄への移行係数は他の農産物に比べるとかなり低いそうです。でもゼロとは言えません。

心配は無用だったようです。平日にも拘らず、お客さんが入れ替わり立ち代わり来て下さいました。固定客が多くて、園主との世間話が弾んでいました。最高に美味しい葡萄の出来もさることながら、園主のお人柄が固定客獲得の要因になっているのだと思います。

さすがの猛暑も峠を越えて、時おり涼風が通う爽やかな天候です。鵙の高鳴きも聞かれるようになりました。鵙日和という季語はありますが、葡萄日和というのは歳時記には無かったかも知れません。


芸能界のタブー

2011-08-27 08:35:43 | 原発

 [シネマトゥデイ映画ニュース]の記事から

 俳優・ミュージシャンとして活躍するかたわら、脱原発運動に積極的に参加しているアーティストのいしだ壱成が、デビュー当時に知った「芸能界と原発のタブー」を語った。

 3月11日に発生した東日本大震災、津波と地震、二つの災害に加え、福島県では福島第一原発が爆発。俳優の山本太郎をはじめ、芸能界でも脱原発の声が高まっているなか、いしだは、かつて自分が向き合った、芸能界特有の“反原発への圧力”を思い出していたという。「実は、自分のデビュー曲だった“WARNING”は反原発を訴えた曲だったんです」。1994年歌手デビューしたいしだは、デビューの話を受けたとき、もともとバンドをやっており「どうしても自分で曲を作りたい」と懇願した。「43個のend of the day」「心を溶かす黒い雨」と原発への想いをこめて歌詞を書いたデビューシングルは、「当時、原発に関心のある人はあまり多くなかったので……」といういしだの言葉通り、レコード会社も発売まで、歌詞の内容が原発に関することだとは誰もわかっていなかったという。こうして「WARNING」は無事に発売され、宣伝のための最初のインタビューで事件が起きた。「この作品のテーマは? とライターさんに聞かれて、『原発について書きました』って言った瞬間にものすごく変な空気になった。その場でテープを止められて、ちょっと書けないので、違うテーマってことにしてもらえませんか? って言われて……。すごくショックでした」といしだは振り返る。当時、いしだは19歳。武田真治とともに“フェミ男”旋風を巻き起こしたアイドル的存在だった彼の発言に、周囲は騒然とした。「原発反対って言うと圧力がかかる……」いしだは公の場で反原発の声を上げることはやめたという。

 だが、それから15年以上経った2011年3月4日、いしだは改めて脱原発への声を上げる決意をした。「今年2月、祝島のおじいちゃん、おばあちゃん、そして若者たちが反対運動をしている上関原発建設予定地に、夜中、建設のために入った300人ほどの建設作業員がみ合いになったという奇襲工事のニュースにとても胸が痛くなりました。そのあと、僕がブログに書いたあの日、僕は三軒茶屋のOHANAカフェというオーガニックカフェで行われた上関イベントで、祝島で反対運動を行っている“虹のカヤック隊”のらん☆ぼうくんがスライドショーを見ました。そこで岩上安身さんにも出会って、いろんなことを聞かせていただいて、自分の無知さを恥じました」といういしだは、家に帰って自分が今できることを真剣に考えたという。「まずは、いやだってことを書くことかなと思って、ブログを書くことにしました」。幼いころに母とともに四国の伊方原発での出力挑戦実験反対デモに参加した思い出、四国電力前で起きた機動隊との激しい衝突、当時11歳だったいしだに向けられた容赦ない暴力、生々しいほどの文章が、ふだんは穏やかなブログにつづられた。

 東日本大震災が発生し、福島県第一原発での事故が起きたのは、それからわずか1週間後の出来事だった。いま、いしだは代々木公園で行われた脱原発イベント、アトミックカフェ・イン・ザ・パークをはじめ、さまざまな脱原発イベントに積極的に参加している。「自分がどうとか、そういうことを言っている場合じゃない、という気持ちが自分にはあります。チェルノブイリ原発事故が起きたとき、僕は本当に怖かった。自分の気持ちに正直に、いやなことにはいやと堂々と言っていくつもりです」と話したいしだの表情からは固い決意が感じられた。(編集部:森田真帆)


雨蛙

2011-08-23 19:17:28 | 八郷の自然と風景

Dscn2016_2雨模様の日が続きましたが、ようやく薄日が差してきました。お日様が嫌い な雨蛙が、困った・・これからどうしよう・・ と考えごとでもしているようです。場所は、当庵の鉄製ポストの丸っこい頭の上です。

Dscn2018_3 らせない、という意味だそうです。そのためか環境の変化への対応が難しくて、20世紀後半から激減しているそうです。

あと100年もしないうちに絶滅するかも知れない、と心配されている両棲類・・ そう思って蛙を見つめると、親しみの感情が増します。人間という種も、早晩、絶滅の日を迎えるんですよね。


ずっとウソだった

2011-08-21 10:55:35 | 原発

テレビ朝日の「報道発ドキュメンタリー宣言」 斉藤和義(8/20)
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ドキュメンタリー宣言 斉藤和義 110820 投稿者 plutoatom

この歌い手を ひとりぼっちじゃん と感じさせてしまったこの国の空気は不気味だと思います。


児玉龍彦氏の緊急提言

2011-08-13 20:57:51 | 原発

放射能汚染問題 東大教授が緊急立法を提言
< 日テレニュース2011年8月12日 22:45 >




先月の国会での発言が話題を呼んだ東京大学先端科学研究センター・児玉龍彦教授が12日、記者会見で、放射能から子供と妊婦を守るための緊急立法を提言した。

児玉教授は先月27日、衆議院厚生労働委員会に参考人として出席し、「放射能汚染が子供や妊婦の健康に影響を与えかねない」と涙ながらに訴えた。この発言が評判を呼び、問い合わせが殺到したため、12日に会見を開いた。

児玉教授「子供の尿からセシウムが出ていると報道されている。ということは、かなりの食品の中にセシウムが入りこんでいる。食品のチェックは『待ったなし』になっていると思います」

会見で児玉教授はさらに、大量の放射性物質がすでに環境に出ているのに、測定する機械が旧式だったり不足したりしている問題で、実態の把握が遅れていると指摘。最新の技術を生かした緊急の新しい法律を作り、対処すべきだと訴えた。

「国会が21世紀型の法律を作れないとしたら、国会議員の大いなる怠慢。ただちに国会議員が、国民にとって何が一番いいか、子供と妊婦が安心して生きていけるために、全力を挙げて、意見の違いを捨てて、この問題をただちにやってください」

児玉教授は、今後とも様々な場で訴えていくとしている。

NHKニュースによれば、本日の日本小児医学会で広島大学の田代聡教授が、3月下旬に福島県内の1000人余の子供達の甲状腺被曝量を検査したところ、およそ半数の子供達に放射性ヨウ素による放射線が検出されたことを報告したそうです。

田代教授は、健康に影響が出るのは100ミリシーベルト以上であり、今回の検査結果では最大でも35ミリシーベルトという微量なので、将来甲状腺癌が増えるとは考えにくいが、万が一の場合にも対応できるよう継続的な健康管理が必要だ、と述べたそうです。

放射線による健康への影響には閾(しきい)値は存在しないのに、「微量だから・・」と安全神話を広めようとする田代教授には、児玉龍彦氏の爪の垢でも煎じて飲ませたいです。

上記の記者会見の中で児玉龍彦氏は、低線量被曝によって染色体異常が発生することが、最近のゲノム科学の進展により、決定論的なメカニズムとして判明してきた旨を述べています。

子どもたちを守ろうとする児玉龍彦氏の心情の深さと行動力に、本当に心打たれます。


古賀茂明氏の記者会見

2011-08-12 20:53:26 | 社会・経済

改革の旗手ゆえに辞職を迫られた官僚として衆目を集めている古賀茂明氏(経済産業省内閣官房付)が、8月11日、自由報道協会主催の記者会見に招かれました。http://www.ustream.tv/recorded/16571712/highlight/193817(↑クリックしてご覧ください)

原子力損害賠償支援機構法や再生エネルギー促進法の欺瞞性、官僚組織へのチェック機能不在の現状等々、質疑に答える古賀茂明氏の話は論理的かつ現実的です。電力会社が地域の産業界の支配者のように振舞うことが出来るのは、例の総合原価方式に起因している、という説明には目からウロコでした。

ご自身の身の振り方についての質問に対しては、仕事を与えられない状態が続くのであれば、いったん外に出て(民間人となって)、そして現行の官僚組織が破綻(するであろうから)した後に復帰して働きたい とのことでした。 


柄谷行人著「世界史の構造」へのつぶやき④

2011-08-12 10:56:25 | 

8月5日のアメリカ国債格下げに端を発した金融市場の大荒れが、連日のニュースに取り上げられています。10日のニューヨーク株式市場では前日比519ドル安に急落、11日になると急反発して、一時、前日終値比300ドル超の上昇という乱高下です。

この乱高下を演じているのは、経済危機回避のための緩和策で大量供給された資金が、余剰マネーとなって株式市場に投機されているものだそうです。言わば、危機が危機を呼んでいるのですね。

田中宇http://www.tanakanews.com/の解説はいつもながら明快で、経済オンチの私にも基本的な視点を示してくれます。

格下げによって、米国債と米国債に代表される米国の金融資本は、構造的に、あるいは長期的に見て、世界で最も安全で確実な投資先としての地位を失った。これは、ドルが国際的な備蓄通貨としての地位を失うことを意味する。8月5日は、米国の覇権喪失の過程を示す、画期的な日付となった。

この米国債を、私たちの国は大量に備蓄しています。アメリカという大きな泥船のヘリに附き従っているような日本・・ こんな時に、対米従属の模範生マエハラなどが総理になったら、どうなることやら

国際金融には縁の無い私たちですが、そんな庶民の暮らしの足元も覚束なくなるのではないか、という不安を感じます。一方では今回の危機が、新自由主義を含む産業資本主義の終焉と新たな時代を展望する契機になってほしい、という密かな願望もあるのですが、甘過ぎるでしょうか。

柄谷行人氏は大著「世界史の構造」の中で、産業資本主義の限界 について、世界商品のシフトを引き起こすような技術革新はほぼ頂点に達したこと、グローバルな労働力商品の高騰および消費の飽和と停滞を指摘した上で、次のように述べています。

さらに(中略)産業資本主義の成長は、次の条件を前提にしている。それは、工業生産の外部に無尽蔵の自然があるという前提である。それは、資源が無尽蔵にあること、および、自然界が生産に伴う廃棄物を処理しうるほどに無尽蔵であること、である。これまで産業資本主義経済の発展が可能であったのは、以上の意味での「自然」ー人間的自然(労働力)と自然(環境)ーが無制限に存在したからである。だが、産業資本主義の現段階では、それらが急速に限界に達しつつある。

(中略)だが、環境破壊をたんに「人間と自然の関係」という観点だけから見ることはできない。なぜなら、環境の破壊=自然の搾取は、人間が人間を搾取する社会において生じるからだ。(中略)人間を「開発=搾取」するシステム(交換様式)が、人間と自然の間の交換(物質代謝)を破壊したのである。資本と国家の揚棄を目指さないかぎり、環境問題を解決する途はない。

小出裕章氏が、原発は差別の象徴だ、と指摘されていることを想起しました。それにしても、柄谷行人氏がいう「資本と国家の揚棄」・・ あまりにも重すぎる願望に、ため息しか出ない私です。


吉村昭の「三陸海岸大津波」

2011-08-09 14:06:24 | 

貞観11(西暦869)年から明治27(1894)年までに三陸沿岸を襲った津波は、主だったものだけでも18回に上るそうです。この後に続く明治29(1896)年・昭和8(1933)年・昭和35(1960)年の三大津波を、この本は取り上げています。吉村昭ならではの確かな調査に基づく内容で、三陸の人々に寄せる著者の心情の深さを感じます。

私は三陸海岸が好きで何度か歩いている。(中略)それら(観光地や都会や工業地帯の海)に比べると、三陸沿岸の海は土地の人々のためにある。海は生活の場であり、人々は海と真剣に向い合っている。海は、人々に多くの恵みを与えてくれると同時に、人々の生命を脅かす苛酷な試練をも課す。海は大自然の常として、人間を豊かにする反面、容赦なく死をも強いる。

明治29年の津波のとき、三陸の人々は「津波が来た!」とも言ったし、「ヨダが来た!」とも叫んだそうです。

津波は、前兆はあるが、突然のように襲い掛かってくる。ヨダという言葉の響きには、その不気味さがよくにじみ出ているように思う。

昭和8年の津波のとき、尋常小学校6年生だった牧野アイさんの作文も紹介されています。ようやくのことで山に逃げ登ったアイさんは・・・

冷たい夜がほのぼのと明けたころ、他の家のお父さんやお母さんたちが自分の子供を尋ね(探し)にくるのに、私の家の人は誰もきませんでした。(中略)その時、私ははじめて一人残ったということがわかりました。(中略)私は死体が海から上がったという事を聞くたびに胸がどきどきします。私は、一人であきらめようと思っても、どうしてもあきらめる事が出来ません。三度三度の食事にも、お父さんお母さんのことが思い出されて涙が出ます。(中略)私は、本当に独りぽっちの児になったのです。

吉村昭は、四九歳になったアイさんに会われています。アイさんの夫の荒谷功二さんも、津波で両親、姉、兄を失ったそうです。

Dscn2002 荒谷氏とアイさんの胸には、津波の恐ろしさが焼き付いて離れない。現在でも地震があると、荒谷氏夫妻は、顔色を変えて子供を背負い山へと逃げる。豪雨であろうと雪の深夜であろうとも、夫妻は山道を必死になって駆けのぼる。

この本は1970年に「海の壁」と題して発表され、その後「三陸海岸大津波」とタイトルを変更して文春文庫となっています。3月11日の大震災のあと、当然のことながら読者が急増したそうですが、妻の津村節子さん(作家)は、この本の印税全額を岩手県田野畑村(吉村昭著「星への旅」の舞台になったところ。今回の大津波でも被害甚大だった。)に寄付されているそうです。

私は最初、茨城県立図書館のサイトでこの本を検索してみたところ、無かったので諦めようと思ったのですが、地元の公民館に行って調べてもらったら、石岡市立図書館(大震災による被害でネット検索がまだ出来ないのです。)には、本年4月20日増刷版があったのです。おかげで借りて読むことが出来ました。