雑事の合間に森澄雄を読み継いでいる。人を、そして澄雄自身を追い詰めるような文意に惹かれている。
毎回繰り返すことですが、最近の「杉」(森澄雄主宰の俳句結社)を見ていて気がつくのは事柄に頼っているということです。そしてそれを情緒で丸めて作っている。
俳句というのはもともと潔いものなんです。そういう潔さが全然なくなって、べたべた、べたべたして、ものを言いすぎている。だから一句が「こうだからこうだよ」というふうに理屈でできています。そしてその理屈が一つも面白くない。
当たり前の人情の世界の理屈、自然を見ても人事をうたっても、驚きがないんですね。そういう驚きのない俳句をいくら見せられたって感動するはずがないんです。
最近ことに「杉」の俳句は、言葉遣いがうまくなっている。言葉遣いだけで一句ができているわけですよ。だから非常に手触りがいいし、言葉だけ見てるとうまいなあと思う。そういううまさというものは警戒しなけりゃいけない。ものをしっかりつかまないで俳句を斡旋していたのではいくらでもうまくなる。しかし、甲斐のないうまくなり方じゃないかな。
句はなるほどうまい。しかし、作者はどこに痛みを感じ、どこに喜びを感じ、どこに感動したのか、まるっきり「自分」がない。そういう作品が多すぎはしないかと思う。
俳句だけうまくなったってしょうがない。俳句ばかりうまくなろうとするから、ろくな俳句ができないのです。
概ね昭和50年代の「杉」東京句会での澄雄の談話が基になった本だそうだが、昨今の俳句界にもそっくりそのまま当てはまる内容だと思う。ただ、澄雄のようにここまで俳句を追い詰めると、俳句の方が悲鳴を上げて俳句が成り立たなくなるのではないか・・・という感じもするのだ。
毎回繰り返すことですが、最近の「杉」(森澄雄主宰の俳句結社)を見ていて気がつくのは事柄に頼っているということです。そしてそれを情緒で丸めて作っている。
俳句というのはもともと潔いものなんです。そういう潔さが全然なくなって、べたべた、べたべたして、ものを言いすぎている。だから一句が「こうだからこうだよ」というふうに理屈でできています。そしてその理屈が一つも面白くない。
当たり前の人情の世界の理屈、自然を見ても人事をうたっても、驚きがないんですね。そういう驚きのない俳句をいくら見せられたって感動するはずがないんです。
最近ことに「杉」の俳句は、言葉遣いがうまくなっている。言葉遣いだけで一句ができているわけですよ。だから非常に手触りがいいし、言葉だけ見てるとうまいなあと思う。そういううまさというものは警戒しなけりゃいけない。ものをしっかりつかまないで俳句を斡旋していたのではいくらでもうまくなる。しかし、甲斐のないうまくなり方じゃないかな。
句はなるほどうまい。しかし、作者はどこに痛みを感じ、どこに喜びを感じ、どこに感動したのか、まるっきり「自分」がない。そういう作品が多すぎはしないかと思う。
俳句だけうまくなったってしょうがない。俳句ばかりうまくなろうとするから、ろくな俳句ができないのです。
概ね昭和50年代の「杉」東京句会での澄雄の談話が基になった本だそうだが、昨今の俳句界にもそっくりそのまま当てはまる内容だと思う。ただ、澄雄のようにここまで俳句を追い詰めると、俳句の方が悲鳴を上げて俳句が成り立たなくなるのではないか・・・という感じもするのだ。