みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

女正月

2023-01-15 10:06:51 | 俳句
きょうⅠ月15日は小正月、女正月ともいうことにあやかって、と言っても今日ではなく近日中なのだが、地元の親友2人を誘って新年昼食会(女子ならぬ婆?会)を予定している。お二人とも農繁期は超多忙だし、お正月は家族と来客のお世話等で忙しい筈。比較的落着いた日々を過ごせるのは今頃ぐらいだろう。私自身も、お二人ほどではないが農繁期はそれなりに忙しい。「女正月」という言葉を親しく感じる。

今日は、年初に頂いた年賀状の整理をしている。たとえ一言であっても手書きの文字が添えられているのは嬉しい。就中、私が深く敬愛する某先輩御婦人の文面は、毎年そうなのだが今年の賀状でも私の心を捉えて離さないものだった。曰く、「俳句は日本語ならではの文学、天は人間(日本人)に俳句という心の糧を与えて下さったのかも知れません」と。

「生きている」つもりが、実は「生かされている」のだ、とは時折聞かされるが、俳句を「やっている」つもりが、実は「与えてもらっている」のだ、という認識を示してもらって、目が醒めるような思いがしている。



上の写真は、常陸総社宮の花手水です。1/6 俳句の会で吟行したときに撮りました。

          餅花も生花も溢れ手水鉢

句集「無音の火」

2022-12-04 09:22:39 | 俳句
福島の俳人、大河原真青さん(1950~ 『桔槹』同人・『小熊座』同人)の句集「無音の火」(2021.7.21発行)との出会いを得た。
この句集の世界の大きさと奥深さに圧倒され、衝撃に近い感銘を受けた。たった五七五の言葉によって、こんなにも大きく深い世界が開かれるのだ。



高野ムツオ先生(『小熊座』主宰)は、序文でこの句集への大いなる賛辞を送られている。そして、「変化流動そのもののうちに事象の姿を捉えようとするところに真青俳句の独自性が存在する」「時空の向こう側を凝視しようとする意思のまなざしが確かである」等と評されている。

高野ムツオ先生による15句選を以下に引用する。

          荒星や日ごと崩るる火口壁
          被曝の星龍の玉より深き青
          手のひらの川蜷恋のうすみどり
          根の国の底を奔れる雪解水
          窓を打つ火蛾となりては戻り来る
          夏果ての海士のこぼせる雫なり
          七種や膨らみやまぬ銀河系
          沫雪や野生にもどる棄牛の眼
          水草生ふ被曝史のまだ一頁
          野鯉走る青水無月の底を博ち
          骨片の砂となりゆく晩夏かな
          わが町は人住めぬ町椋鳥うねる
          白鳥来タイガの色を眸に湛へ
          凍餅や第三の火の無音なる
          被曝して花の奈落を漂泊す

以上の15句以外も、どの句もどの句も私の心に確かな響きをもたらす。その中から敢えて、おこがましくも私なりに10句選を以下に挙げる。

          影のなき津波の跡も蝶の昼
          死者阿形生者吽形桃の花
          蛍の夜おのが未来に泣く赤子
          原子炉を囲ひて冬の闇無辺
          海鼠切るさびしき穴の次次に
          虚無の縁すれすれを飛ぶ冬の蝶
          影連れて幾人とほる春障子
          魂の寄りそふかたち夜の桃
          皓々と膝頭ある初湯かな
          眸なき石膏の像夏を追ふ

佐藤鬼房の俳句エッセイ集「片葉の葦」

2022-10-17 07:26:24 | 俳句
現在の私が俳句の一番の師と仰いでいるのは高野ムツオ(1947~)だ(直接の面識は無いから、「心の師」と言うべきか)が、その高野ムツオの師が佐藤鬼房(1919~2002)だった。
鬼房は鉱山労働者の家庭に生まれ、父親は若くして病死している。その「(社会的)弱者」の目線には、強く厳しく激しいものがある。

 

「片葉の葦」の各エッセイの多くは、昭和40年代が初出だが、浅学の私には新鮮で、目が醒める思いのところが多々あった。
以下、抜粋引用する。

或る夜の雑感ー有季定型についてー
 私は、季語も一つの言葉として返上し、一つ一つの言葉の機能を大切に扱いたいと思う。私には十七字のなかのすべての言葉がひとしく重要なのであり、「季」にかかわる言葉だけが、大切なのではないのだ。第一、「季語」だからといって完全な詩語ではない。言葉はむしろ符牒であると考え、それを十全な一つの詩として俳句として表現するとき、その方がより一そう言葉に対する、緻密な周到な心構えが自然に要請される結果になるのではないかと思う。
 いま今日の俳句を見るに、(有季は)季語を効用説風に使っているように、私には思えるのである。虚子でさえ、「俳句のために歳時記というものがあってー俳句というものは、この季語を最もよく活用する詩である」とか、「歳時記の不完全なところを私たちは埋めてゆくように努力する」といった意味のことを述べている。私は季語の効用説だけに限っていえば、これほど俳句の骨格を弱めるものはないと思っている~

社会性俳句の行方
 俳人として現代に生き、誰しもが時代の意識をもつ。自らの思想をもって、時代に順応して行くか、反撥するか、盲従のままにあるかは、様々であろう。しかし、詩というものは、自己に対して最大の誠実を誓うものであるべきだ。そういうときに、自己を偽る詩は書けない。書いてもそれは死物であり、もはや詩とはいえないものである。

昨今の俳句と俳壇
 適当にポピュラーで、適当に深遠で、そして読者の側に何がしかの言葉の知識があれば、適当にその作中に遊ぶことの出来る、いわば句の中に、ちゃんと自由席が設けられてある。そういうほんの少し高度に見える句が、いまも相変わらず量産されている感じなのだが、~
 ある譜系のものは、伝統の名において現代にかかわり、あるものは絶えず新しい波の試行に身を置くが、雄大な結社機構の恩寵にあずかって、一才能として息永く俳人の栄誉を保つか、あるいは、少数派の新しい衣裳の人たちにしても、かなり恵まれた伝達機関に乗って、手をかえ、モダニズムの現象を追うかに見える。そして、いまは殆んど、俳句というものを書きあぐむ、詠いあぐむ態の苦渋や挫折は見られない。
 私の偏見かも知れぬが、俳壇俳句はあるけれども、俳句そのものは、いよいよ出がたい昨今なのではないかという気がする。

雑感・わが新興俳句
 ~たとえインテリゲンチアの思索と脆弱な体質からにしろ、権威に対する間断なき反抗と、その実践は、そのことだけでも十分に新鮮なのである。
 さまざまな主張はあれ、とにかく新興俳句もまた文芸の一運動にほかならない。
 だから、作家の不抜の個性は、そういう運動をいちはやく終わらせるか、あるいは、その思潮の群れを越えることをしなければ結実しないであろう。いち早く越えた例が水原秋桜子・山口誓子。
 弾圧事件は拭うべくもない不幸であったが、運動に対する美化の役割をもつことを私はおそれる。
 現代俳句の旗手と呼ばれ、文字通り新興俳句の推進力の中心であった富沢赤黄男・西東三鬼その人の実質的評価も、戦後にようやく定着するのである。新興俳句とよばれる運動の歴史に思いをとめると、私には、ありありと高屋窓秋の映像が浮かび上がる。
しかし、この秀抜の作家は、つねに新興俳句そのものの渦中にあることをしなかった。彼は、運動の群れからいつのまにか外側に出て、自分の魂を磨くもののようであった。それでいて、充分に誰よりも新興俳句の真髄を保っているように私は思う。

霜割れ(エスキモー族の暦で「二月」を意味する)
 作家にとって一番必要なことは「自己に対して誠実である」ことである。「人間として誠実」「ひとに対して誠実」であるべきことは勿論大いに望ましいことだが、文芸理念がいつの間にか道徳論にすりかわり、道徳が主動的に語られてしまうことが多い。

リアリズム再び
 俳句が五七五の形態になり独立したのは、敢えていえば、韻律性からの脱出であり、詠嘆との袂別であり詠うことから考える詩への移行であると見ていいのである。
 現実といい、日常といい、私たちの卑近の素材そのもののなかに、詩としての秩序ある言葉、詩として統一された言葉があるわけではない。卑近の素材の分析、あるいは綜合の力をつくして、いわゆる詩的次元において再現しなければならぬのではないか。

 






「私」の一句

2022-09-20 06:12:26 | 俳句
毎年、松山で開催されている「俳句甲子園」(審査員長は、高野ムツオ・夏井いつき等の13名)、今年の最優秀句は次の一句だった。
  
          草いきれ吸って私は鬼の裔     阿部なつみ

作者の阿部なつみさんは、岩手県立水沢高校の生徒。高野ムツオの講評に依れば、「鬼」には「いじめられる者」「虐げられる者」など様々なイメージがあるという。

東京新聞の連載(毎月1回)「外山一機の『俳句のまなざし』、9/18付け記事は、「『私』の一句」というタイトルで、この「鬼の裔」の句を取り上げている。


俳句を「作る」意味、「読む」意味を考えさせられる貴重な内容だと思ったので、以下、抜粋引用する。

この句の「草いきれ」は鬼の国の「草いきれ」だ。虐げられた記憶を持つ者たちの一いまなお「中央」から見捨てられがちな者たちの一住まう国の「草いきれ」だ。だからこれは、その国に生きることを全身で引き受ける者一すなわち、誰でもない「私」の一句だ。

一句を読むとき、その句に書かれていること以外の情報を読みに織り込むことに異を唱える者もいる。しかし、作者など誰でもいいのだと言うときの、その「誰」とはそもそも誰なのだろう。俳句は「誰」でも書けるものであるという。けれど、自らの句がそうした言葉によって署名を奪われるとき、一般性だの普遍性だのと呼ばれるものと引き換えに、何か大切なものを明け渡してはいなかったか。


近代俳句の自然観

2022-08-27 13:32:53 | 俳句
高野ムツオ(1947~)著 「語り継ぐいのちの俳句」(朔出版 2018)を、県立図書館から借りて読んだ。



この本の構成は、第1章 震災1000日の足跡、第2章 1000日以後、第3章 震災詠100句 自句自解 から成っている。

著者自身の震災体験記と震災詠には、圧倒的な訴求力と感慨深さがあると思う。
ここでは、第2章中の『「自然」と「人間」はどう詠われてきたか』から、特に心に響いた箇所を取り上げたい。

        荒海や佐渡によこたふ天の河     芭蕉

芭蕉にとっての自然とは、この句のあり方が象徴的に語っていると言ってよい。それは、自然とは、まずもって悠久の存在であるということだ。

さらに、人間の営みもまた、その自然のサイクルの中に生ずる一現象に過ぎないという認識も明確だった。

そういう視点が、荒波の中の佐渡に象徴される人間世界やその上に懸かる天の川の無窮性を発見し得たと言ってよい。

芭蕉の句の凄さを再認識させられる。 

明治になって俳句に写生説を主張したのは正岡子規であった。

病篤い子規にとっての緊急課題は、まず子規という人間の表現にあった。これは明治という近代意識そのものでもある。だから、子規にとっては、自然は自らの命と関わる事象事物として存在していたとも言える。

     いくたびも雪の深さを尋ねけり     子規

近代俳句の自然観の成熟は、子規の継承者である高浜虚子の「花鳥諷詠」によって、さらに推し進められた。


花鳥諷詠と申しまするのは(中略)春夏秋冬四時の遷り変りによって起る天然界の現象並びにそれに伴う人事界の現象を諷詠する謂であります。(「ホトトギス昭和4年2月号」より

ここには、自然を詠い上げることが、実はそのまま自分自身を詠い上げることになるという認識が横たわっている。そして、俳句形式と、そこに表現される自然への十全の信頼感が芭蕉同様に横たわっている。

     遠山に日の当たりたる枯野かな     虚子

この句について虚子は、次のように述べている。


自分の好きな自分の句である。
どこかで見たことのある景色である。
心の中では常に見る景色である。
遠山が向うにあって、前が広漠たる枯野である。その枯野には日が当っていない。落莫とした景色である。
唯、遠山に日が当たってをる。
私はこういう景色が好きである。

わが人世は概ね日の当たらぬ枯野の如きものであってもよい。寧ろそれを希望する。ただ遠山の端に日の当たっておる事によって、心は平らかだ。


虚子の「写生」は、実景の写生ではなく、心象風景の写生だったのだ。かねてからの疑問が解けた感がある。

虚子はさらに芭蕉の「乾坤の変は風雅のたね也」という言葉を踏まえながら、その概念をより強く反映した自然現象、つまり諷詠すべき現象を「季題」と呼んだ。

しかし、芭蕉の「造化にしたがひて四時を友とす」という態度と、虚子の季題という認識方法には相違がある。芭蕉の姿勢には、変転極まりない世界そのものを、あらゆる方法で捉えていこうというダイナミズムの裏付けがあった。

それに対して、虚子の季題説は自然現象を表現契機の素材として、あらかじめ限定することから成り立つものである。その限定は、事象の季感を詠うという俳句の固有性を一段と明確化することにつながった。さらには、一見硬直化しがちな対象の限定という方法は、限定された素材の世界の豊かさを発見することにも通じた。

しかしこの限定は、同時に俳句の他の可能性を閉じてしまう危険性をも伴っていたことを否定するわけにはいかない。

虚子が季題をことさら強調したのは、明治・大正の自由律俳句や昭和の新興俳句が無季に走り、俳句の固有性が揺らぐ危険性を感じたせいである。俳句を初心者に分かりやすく説くという指導者としての啓蒙的要請もあっただろう。しかし、この方法は、リアリズム本来の持つ自然把握の仕方とは相矛盾するものであった。

言葉は新しい見方や感覚によって更新されることで生きて働くものだが、その言葉をあらかじめテーマとして意識することは、その言葉の美意識や情趣が、表現以前に作者の感性そのものに、既成認識のフィルターをかけてしまう危険を併せ持っていたからである。
 
そのことが、季題の力に頼るだけの概念的かつ没個性的な俳句が量産される、もう一つの傾向を生むことにもつながったのだった。


なるほど、確かに・・ 

昭和になって、俳句は水原秋桜子の「自然の真と文芸上の真」の主張を境に、多様な展開を見せ始める。

主体の表現意識から発想される俳句とは、本来は季題の束縛からも自由でなければならない。秋桜子は、この論で季題については一言も言及してはいないが、(中略)つまるところは、季題を表現契機としない俳句の可能性へ至る道筋にあった。秋桜子に始まった新興俳句が、叙情や表現の新しさの追求のみでなく、しだいに人間探究派と呼ばれる中村草田男や加藤楸邨の方法へと展開し、さらに新興無季俳句へ進んでゆく必然性は、この「文芸上の真」自体にもともと内包されていたのである。

     鰯雲人に告ぐべきことならず     加藤楸邨

この句の「鰯雲」は、もはや季題ではなく季語と呼ぶべき位相にある。なぜなら、この句は、決して「鰯雲」から発想されたものではないからだ。

作者という個の心的有り様が、自然の諸相を見出しているのである。そのことが「鰯雲」の象徴効果をいっそう際立たせている。

こうした作り手の人間存在としての心的有り様を起点にして自然の諸現象を捉えてゆく方法は、自然の一現象としての人間よりも、人間社会の一現象としての人間の表現へと意識が傾斜していく。これは方法上の変化ではあるが、当時の社会的な情勢やそこで生きる人間の在り方と必然的なつながりを持っていた。楸邨のこの句は、日本が戦争へと突入してゆく時代のものである。「自分が何を求め、如何に生きるか」を、楸邨一人ではなく多くの若者が、自らの生死を表裏にしながら考えていた時代と言っていい。こうした人間そのものへの関心が無季俳句へと進んでいったのは、必然的な流れであったと言えよう。

戦争を詠むとは、とりもなおさず人間そのものを表現することであり、季題や季語を詠むことが第一義ではなくなる。さらには季題や季語を詠むことが自己矛盾を引き起こす。

     戛々(かつかつ)とゆき戛々と征くばかり     富澤赤黄男

     いっせいに柱の燃ゆる都かな          三橋敏雄


いわゆる「新興俳句」や「無季俳句」について、私の脳内にこびりついていた既成概念が剝がされていく感じがした。

もちろん自然そのものを詠う俳句も戦中に作られ続けたが、そこで生まれた作品もまた戦争という出来事とまったく無縁であったのではないと私は考えている。戦争は自然の捉え方にも、直接ではないが、さまざまに影響を及ぼしたのではないだろうか。その一例として私は虚子の小諸(虚子の疎開先)での作を挙げたい。

     爛々と昼の星見え菌(きのこ)生え 

虚子が戦後、新聞や雑誌の記者からの「戦争の俳句に及ぼした影響、又戦後の俳句は如何なるか」という質問に対して「私は俳句に限ってちっとも変化はない、従来の俳句の道を辿って行く許り(ばかり)である」と答えたのは有名な話だが、これは俳句形式の存亡と俳句に向かう作者の態度としての答えであって、虚子自身が受けた影響への言及ではない。実際、虚子は、この文で終戦の詔勅を聞く前の思いとして、「戦に負けて此の美はしい山川はどうなることであらうと考へた」と述べている。

いわば、花鳥諷詠という思想自体が、近代の反措定として存在していたということになる。


得体の知れない巨大な怪物のような「虚子」という人とその俳句を、少しばかり理解することが出来たような気がする。

(俳句に見られる自然観に)共通していたのは、戦争俳句や戦争をきっかけとした虚子の自然破壊への不安などを別にすれば、悠久不変である自然への全面的な信頼であったと言っていい。しかし平成二十三年に起きた東日本大震災という出来事は、自然と人間との関わりにこれまでとは異質の大きな変化をもたらした。

もう、芭蕉の時代のように自然の悠久さやその恩恵を受容するだけでは生き難い時代を生きているのである。俳句もまた、自然の運行にただ従うだけでは、時代を捉え、その時々の人間を表現する文芸として、この先も生き続けるとは思えない。俳句が本当の意味で自然とともに在り続けるためには、俳句も俳人も未来を見据えた世界観、自然観を模索していかなければならない。


しかし、大震災の教訓は既に風化へ傾斜している。原発は既に10基が再稼働しており、国は更に7基を再稼働させる方針を出した。

敗戦の教訓はもうすっかり風化し、ウクライナ問題にかこつけて軍国主義体制へまっしぐら。
野放図な経済と消費の「文明」とやらは、地球環境を破壊し尽くしている。

俳句が「生き続ける」どころか、人類が絶滅の危機に瀕している。生きものは必ず絶滅する宿命にあるが、人類は自ら、その絶滅の時を急がせているのだ。

そんな時代に生きているのだけれども、それでも「俳句」は、人が生きようとしているときの「いのち」の証しの一つになり得る、と思う。

まさにこの本のタイトル通り、「語り継ぐいのちの俳句」として。






巨大な風船のような

2022-06-27 09:52:53 | 俳句
当菜園の南側に咲いてくれている立葵、花はもうだいぶ上ってきた。茎の最上部にまで花が到達する頃に梅雨が終わる、と言われているけれど、この数日は猛暑で大変。野良仕事は早朝と夕方少しだけだ。



          立葵次々村を明るうす     小零

俳句が好きな私だけれど、いわゆる「俳句界」のことには疎い。それでも「稲畑汀子」(1931~2022)の名前ぐらいは知っている。いや、俳句に無関心な人であっても、稲畑汀子という名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。

高浜虚子の孫娘で、俳句結社「ホトトギス」の主宰を長く(1979~2013)務め、「日本伝統俳句協会」を設立(1987)、会長に就任した。伝統俳句界の女王のような存在だったが、本年2/27に91歳で亡くなっている。

代表句として知られているのは、
          今日何も彼もなにもかも春らしく     汀子
          落椿とはとつぜんに華やげる       
          初蝶を追ふまなざしに加はりぬ
          空といふ自由鶴舞ひやまざるは
など、らしい。
一読して、お上手、とは思うが、正直に言って、何の感動も生じない。
1句、2句 ぐらいは多少の関心をもって読めるが、3句目ぐらいになるともう退屈感がじわじわと来て、眠気を催す。

それでも、安定した時代に安定した暮しを安定した心で生きている人々・・否、そう思い込んでいる人々には、共感されやすい俳句かも知れない。

汀子の祖父の高浜虚子は巨大な怪物だった、と思う。
孫娘の方は、巨大な風船のような人だったのではないか、と思う。





小野越の北向観音

2022-03-09 22:46:57 | 俳句
俳句の会で久しぶりに小野越の北向観音堂へ行きました。老いた小野小町が峠を越えて当地を訪ね、観音様に眼病の平癒をお祈りしたら、願いが達せられた、という伝説があるところです。



御堂へ昇る石段は風情がありますが、足腰の弱った身には危険なので、右手の回り道を杖に縋ってお参りしました。形の良い屋根と弁柄色に塗られた外壁の可愛らしい御堂です。中を覗くと、色褪せてはいるものの、極彩色だったと思われる絢爛豪華な造りの厨子があり、半開きの厨子扉に半ば隠れるように観音像が安置されていました。

世界の平和と病者の平癒を祈りました。私が祈ったところで何の意味も無いのでしょうけれども、祈らないままでこの御堂を立ち去るというのも気持が不安定になりそうだったので。

一緒に吟行した8人の仲間のうち、二人が癌の闘病中です。この二人が、大変明るくて元気が良いのです。その一人は、抗がん剤治療の合間を縫って、久しぶりの参加でした。私だったら、癌と宣告されただけでグッタリしてしまうだろうに・・・ 他の6人も、加齢に伴う種々の病苦を抱えていますが、春らしくなった日の光や、小川のせせらぎや、藪椿や、ナズナ オオイヌノフグリ ホトケノザ 等々の草花などとの出会いに笑顔が広がりました。うち一人は、数年ぶりの参加です。

          再会を祝ぐや春草とりどりに

水分神

2022-01-12 22:45:25 | 俳句
俳句の会で「一の沢」を吟行しました。筑波山の(麓寄りの)中腹です。
八郷は半ば盆地で、放射冷却による冷気が溜まりやすいのですが、「一の沢」あたりは「逆転層」の影響で比較的温かいようです。
蠟梅や水仙が花盛りで、野菜畑も青々としていました。
北風が激しく吹き付けて、歩くのもままならぬ日でしたが、「一の沢」では嘘のように穏やか。すぐ背ろの筑波嶺が風を防いでいたからでしょう。

「一の沢」で水車を動力とした線香作りを営んでいる「駒村清明堂」を、久しぶりにお訪ねしました。


寒中の山清水が勢いよく水車へ落ちて、冬日に輝き、迸り、水煙を噴きます。観光用ではない、現役の働く水車の迫力には圧倒されます。
この近辺には「水分神」(すいぶんしん)と彫られた石碑が幾つか祀られています。「水」を尊び、水を引いて利用してきた人々の心が偲ばれます。

かっての「一の沢」は、水車が幾つも並び、麦を挽いてうどん粉を作っていたそうです。昭和30年代頃までは、水車を動力とした電気を引いて、電灯を点けていたとか。地球環境の危機が叫ばれる今、「水車」が新しい時代の希望を担うことになるかも知れませんね。

          冬日溜む水分神碑や水車村

長楽寺の杜鵑草

2021-09-08 10:03:31 | 俳句
俳句の会で龍明(りゅうめい)の長楽寺へ行きました。昔は狢内(むじなうち)という地名だったそうです。会の仲間の話によると、小字(こあざ)では昔から龍明というところがあったそうです。龍明という地名の由来は定かではありませんが、縁起が良さそうな名ですね。

創建は824年、長楽寺となったのは1614年だそうです。現在はこじんまりとした無住寺で、本堂は築百年以上は経っていそう・・ 弁柄色が褪せてしまっていますが、均整のとれた美しい形をしていて、軒下の彫りものが実に見事! 正面の龍、そして四隅の獅子の彫りものの迫力は凄い! 剝げ落ちてしまったらしい金箔の名残りが微かに判ります。

本尊は薬師如来だそうですが、堂内を除くと、奥には扉を閉じた厨子が見えます。この厨子、相当古いようで、もしかしたら1614年に安置されたものかも? 当時は極採色だったと思われる名残がぼんやりと見えました。
          
          蟋蟀や御堂昏きに厨子ほのか

本堂の左手には、一本歯の下駄が祀られていました。この地には、親孝行の天狗の伝説が伝わっているからでしょう。
この下駄を祀っている御堂はミニサイズですが、実に丁寧に細工されていて、杮(こけら)葺きの屋根の勾配や反りも、小さな木端を並べ重ねた美しい曲線で形造っています。そして、このミニサイズの御堂を鞘堂が守っています。

手前の山門の両側には、阿吽の金剛力士像が力強い姿を見せています。

八郷の奥まったところにある古いお寺ですが、寺域は草刈りも行き届いており、地元の方々によってしっかりと管理されているのだと感じました。時代劇が盛んな頃には、撮影のロケ地として重宝されていたそうです。



秋蟬の声だけが聞こえる境内をゆっくり歩いていると、足元に咲く美しい花と出会いました。ヤマジノホトトギズです。この花に出会うのは2回目(1回目は、やはり八郷地区内の山路脇でした)です。

          杜鵑草一輪護り仁王様 

古刹の僧

2021-05-12 21:39:39 | 俳句
コロナ禍の中、俳句の会も昨春から試行錯誤です。今年は1~3月休会しましたが、4月に再開。感染予防と心の健康とのバランスに苦慮しながらの運営です。

今回は、真壁(桜川市)の「椎尾山薬王院」を吟行しました。仲間の車に乗り合わせて、筑波山の峠を越えました。新緑の連山のあちこちに山藤の薄紫色が懸かり、麓の平野には一面の植田が広がっています。

薬王院は筑波山の北側中腹に位置している天台宗の古刹で、御本尊は薬師如来でした。
     

木組みが見事な仁王門(仁王様はお留守でしたが)は、名高い桜井一門の大工棟梁により1688年に竣工したものだそうです。現存の本堂は1680年、三重塔は1704年の竣工。いずれも素晴らしい木組みと彫刻で、実に堂々たる構えの伽藍です。私は特に、三重塔の迫力に圧倒されました。
 
          気魄もて夏空へ反り塔の屋根



伽藍も見事ですが、境内に数多のスダジイの大樹も見事! 樹齢300~500年だそうです。

          老いぬれど樹幹隆々椎の夏

そして最も印象に残ったのは、実は寺僧でした。

          風薫る古刹の僧のベレー帽

とても気さくな雰囲気の僧で、草をむしったりされていたので、いわゆる「寺男」と呼ばれるような身分の方かと最初は思いました。仲間とともに、なんとなく言葉を交わすうちに、確固たる精神の持ち主らしい風格が伝わってきました。御住職なのでしょう。去り際の自然態も心に残りました。