みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

自己とは?

2018-07-30 09:51:56 | 仏教
異様な猛暑のためもあってか、日頃親しくしている友人が脳梗塞で倒れたり、同世代の身近な人が脳内出血で急逝したり。御家族の心痛は如何ばかりか・・・

心身ともに弱い私が、未だに倒れずにどうにか生きている方が不思議なくらいだ。明日死んでも今日死んでもおかしくはない私なのに、(自分の)死は怖い、自己が無になってしまうなんて受け入れられない、なんて駄々を捏ねている。

この厄介な「自己」に、どう始末をつけたらいいのか?

本多弘之(1938~ 親鸞仏教センター所長)氏の記事に目が止まったので、覚書として引用しておく。

       

他力門とは、自己がいわば自己の外側の力や外側からのはたらきの中にあることを受け止めて、自己自身はその他力との関わりを生きるものであると認める立場であろう。

他力の信念とは、この自覚を呼び起こす力をも、自己の内に認めるのでなく、自己の外、すなわち自己にとって自己の内側とは認められないはたらき(仏教はこれを法性とか真如という)に見いだす立場である。このことは、自我意識を自己とする迷妄の中からは、容易には(というより絶対に)気付けない事柄なのである。

清沢満之の言葉に、「無限他力、いずれのところにかある。自分の稟受(ひんじゅ)においてこれを見る」というのがある。

いわゆる自己は、自我と同じことであると、一般の文脈では受け止められてしまう。しかし清沢のいう「自分の稟受」と言う場合の自己は、明らかに他力の信念内容としての「自己自身の受け止め」であって、決して誤解されがちな「自我」と同質の自己ではない。いわば「究明された自己」とでもいうべき無明の晴れた自己である。

嵐の前

2018-07-27 19:47:58 | 田んぼ
数日前までの「命に関わる危険な暑さ」が嘘のような、涼しいというか、普通の夏の日になってホッとしているけれど、台風が近付いている。しかも豪雨被害で惨憺たる事態が続いている西日本にも向かいそうだという。自然の猛威は容赦ない。そして現代文明都市においては、天災と人災が一体化している。

関東地方は台風の東側になるから、「雨台風」という予報だ。村の田んぼの用水路は細いから、雨が多いと直ぐに溢れてしまう。今夜から降り始めるというので、機場のゲートを最上端まで開けておいた。

          

異常高温が続いたためか、今期の稲は出穂が早い。開花・受粉・結実し、御辞儀し始めている稲は、大雨にもある程度堪えられそう。心配なのは、開花・受粉の真っ盛りの稲だ。稲の一生で一番大事といわれる時期だ。

当庵から望む夕空は、かすかに夕焼け色に染まっている。合歓の木の枝葉は微動だにしていない。嵐の前の静けさか・・・



女の悲鳴?

2018-07-17 08:59:28 | 暮らし
木造瓦屋根の当庵は断熱性がいいのだけれど、このところの異様な暑さにはお手上げ! エアコンなんてもちろんないから、窓を開け、簾を降ろし、1台だけの扇風機をほぼ回しっ放し。

それでも深夜から未明頃は、さすがにヒヤリとした風が入るのだけれど、15日の夜~16日の未明はそれも無かった。16日すなわち昨日の暑さはことのほかひどかった。頭の芯までゆだるようで、青息吐息。夕方、裏山の向こう側(北側)の空から遠い雷鳴が聞こえ始めた。ひっきりなしにいつまでも鳴っている。でも、北側の雷は当地まで来ることが少ないので、そのうち鎮まるだろうと思っていた。パソコンと電子レンジの配線だけはコンセントから外しておいた。

が、やにわに音が大きくなってきた。こうなると速い。あわてて雨戸を閉めた。たちまち頭上に雷鳴が轟く。ゴロゴロ ゴロゴロ 鳴り続いていたが、いきなり ギャッシャーン と大音響。心臓がよく止まらなかったものだ。

てっきりすぐ近くに落雷したのだと思い、今朝、犬の散歩をしながら見回ったが、それらしい痕跡は無い。近いといっても、もう少し離れたところだったのだろうか?

あのギャッシャーンという大音響のとき、実は私は、女の悲鳴のような声を確かに聞いた。その声は地上付近から発せられて、その声にかぶさるような ギャッシャーンだった。そんなところに女性がいる筈がないし、もしいたら即死だろう。一体、何の声(音)だったのか・・・

雷雲の負電荷が地面の正電荷に向って降りてきて地上近くまで達したとき、地面から「お迎え」の放電が発生するのだという。この放電と雷雲からの放電とが結合して落雷が完成するらしい。昔の人は現代人よりも視力が優れていたから、この「お迎え」の一瞬の放電を見ることが出来ていた、と聞いたことがある。

あの怪談めいた「女の悲鳴」は、この「お迎え」の放電による大気の振動音だったのではないか、と私は判断したが、如何?

旱に泣いていた菜園は、昨夜の雷雨を喜んでいる。ナス、ツルムラサキ、ゴーヤ・・・
      
         
ネギは植え替えたばかりでした。