第三章 絶対批判と歴史性との聯関
時の構造に即していえば、未来に向う不断の革新が実践的に行ぜられることが、過去をいよいよ深く遡り根源に迫る復興となる、という循環なのであって、この革新即復興の行的循環の軸として、現在の永遠が信証せられるのである。
歴史は・・未来に関する自由と対蹠的に対立する。・・相通じながらかえって相容れない対立をなすのが偶然の過去性と自由の未来性である。
時は単に存在の立場から十分に解明せられるものでなく、自己の立場で自覚せられるものなのである。
時の構造、などと聞くと、私なぞはつい X軸や Y軸に例えて想起してしまうのですが、そんな抽象的な時間ではなく、あくまでも歴史として自覚される時間について、著者は語っているようです。
彼(ハイデッガー)がアウグスティヌスの永遠の如き不動なる媒介者を見捨てて、直ちに被限定即能限定なる自覚に立脚し、被投的投企として過去と未来との矛盾的統一を規定したのは、どこまでも自覚の立場に徹底しようと欲したものと解せられる。
・・その自覚が自力的行為に止まるとするのが、実存哲学の限界であって、実はそれが他力大行の転換でなければならぬことを懺悔道は主張するのである。この転換の必然が、すでに被投的投企の否定的肯定、すなわち無の媒介に暗示せられて居る。
無の媒介、と言われても トホホ。無とは何なのか分からない私は、取り敢えず考え方を逆転させて、私には全く分かりようがないもの=無、と定義しておこうと思います。まんざらでもない定義だと自画自賛?
時の過去というものは単に我々に負わされた限定に尽きるのではない。その限定そのものが、これを如何なる限定として如何なる存在として自ら肯うかに相関的なのである。かくて過去がある意味で未来を含み未来に媒介せられるといわれる。・・懺悔においては過去が・・不断に意味を新たにする現在となり、それを媒介する未来に相即して無限に循環するのである。・・自己というのはこの循環の中心に外ならない。
時の構造における自己とは何か、が定義されています。私の心も、確かにこんな感じ。
アウグスティヌスの永遠は無でなく有であるから、時を包む包越者となり、・・時が時でなくなり空間化される危険を免れることができない。・・永遠の今は超越的でなければならぬ。従ってそれは直観せられないのである。
永遠、と聞くと、私も空間化されたものを想起していることに気付かされました。
彼(ハイデッガー)の問題とする死は、どこまでも単に、存在の全体可能の自覚に対する媒介としての限界境位たる死に止まり、自覚存在はいわゆる「死に対する存在」として死を肯い覚悟するに止まり、決死行において復活を証する絶対無の現成ではないのである。
ハイデッガーの限界は分かったような気分になりましたが、懺悔道の核心らしい 決死行において復活を証する というのは、私の脳味噌ではどうにも消化できない!
(ハイデッガーは)現存在の無底虚無が自覚を過去的有から解放して、投企の自由へ転する媒介となるというのである。・・それはただ賢者英雄の自信に止まる外ない。
絶対は必然に自らの媒介として相対有を必要とし、しかもその相対を媒介するはたらきも直接ならずして、相対の相対に対する交互作用に媒介せられたものたることを要する。かかる絶対媒介の立場に立てば、絶対と相対とは同時であり、・・アウグスティヌスが、時において世界創造が行なわれるのでなく、世界と共に時が創造せられるとした所以である。
絶対と相対との関係、フムフム 分かるような。
未来は過去に媒介せられると同時に、過去がかえって未来に媒介せられる・・その絶対媒介の原理たる無は、永遠の現在を軸として貫き、不断に現前して時の転換発展を可能ならしめる。
本章前半の、カント、ヘーゲル、ハイデッガーなどへの論究は、小難しく感じたのですが、本章末のニーチェ論は、大変興味深く読みました。ニーチェに関する本なぞほとんど読んだことがなく、ニーチェ=奇人・変人のように思っていた私は、反省!
・・ニイチェは・・理性の制限限定、いわゆるアポロ的なるものが、欧羅巴の精神史を支配するに到った結果、・・人類の弱力頽廃を来すに至った、これを救うもの権力意志の教であり、能動的虚無論であって、古代希臘の悲劇的精神に還り、死の破滅をも喜び迎えて一切転変を肯い愛する強き生命力すなわちディオニュゾス的なるもの、・・君主道徳、の外にはないと考えたのである。
・・絶対無の代わりに絶対有を哲学の原理たらしめようとしたのがニイチェである。それはカントの代表する理性の理的立場を生命の事的立場に転換し、絶対無の現成としての理性の懺悔的否定に生命の絶対肯定を代置し、一切を自己の支配下に置かんとする権力意志を以て生命の本質とする。
・・超人は価値的見地から聖者と思惟せられるものを価値対立以前に置いた概念であって、・・ディオニュゾスは、理性の自己突破をその即自的還帰性において生命として捉えたものに外ならない。
仏教にいう柔軟心こそ真の権力意志でなければならぬ。
第二章でかなり躓いた私ですが、本章はそれなりにのめり込んで読みました。理解できない部分が相変わらずあるものの、著者の誠意というか、純粋さのようなものが、ひしひしと伝わってきます。生きている田辺元に会いたかった、とあらためて思います。
ハイデッガーの現在が・・ニイチェの無に自由自覚の実存を立脚せしめたことは、・・独逸民族の賢者英雄主義の現れともいえる。それに対し私の懺悔道がキェルケゴールの信仰に合するのも、・・愚者凡夫の立場としてやむを得ない。