岩波の「図書」11月号で、「津軽三味線の彼方へ」と題した佐々木幹郎(1947~)の記事を興味深く読みました。
初代高橋竹山(1910~1998)は、2歳のときに麻疹をこじらせて半盲目になった。十代半ばから二十代後半まで、世間から「ホイド」(乞食)と卑しめられながら、三味線を奏でる「ボサマ」として・・門付け芸で食べるために、東北一帯を歩き、北海道から樺太まで足を伸ばした。
・・「労音」を通して若者たちに出会い、それまでの「客」ではなく「聴き手」と出会ったことは、竹山にとっては驚くべきことだった、と佐藤貞樹(1926~2001)は言っている。
竹山はそれまで短時間でしか演奏されなかった津軽三味線の「曲弾き」を、・・長い独奏曲にまで仕上げようとしていた。そのために、佐藤貞樹はさまざまな国の唄や曲を竹山に聴かせた。難題を押し付け、二人で喧嘩をした。それは「高橋竹山」という世界が出来上がるまでの二人三脚の歩みだった。
3・11大震災が起きたとき、佐々木幹朗が一番欲したのは、東北の声を聴くことだったそうです。ところが・・・
佐藤貞樹は、大岡信の「詩歌折々の話」(講談社、1980)から、ドイツのロマン派詩人・ノヴァーリス(1772~1801)の次のような詩を引用していた。
すべての見えるものは見えないものに、
聞こえるものは聞こえないものに、
感じられるものは感じられないものに
付着している。おそらく、
考えられるものは考えられないものに
付着しているのだろう。
佐藤貞樹が初代竹山の音色から受け止めたのは、このことだった のだ、と。
衝撃を受けた。わたしは東北の声を聴きたいと言いながら、「聴こえるもの」にだけ、耳をそばだてようとしていたのではないか。これまで、見えるものと、感じるものと、考えられるものにだけ、信を置いていたのではないか。
見えるもの、聞こえるもの、感じられるもの、考えられるもの、とりわけ言葉になっているものにだけ信を置いてしまう悪癖が、私にも染みついています。
初代高橋竹山の津軽三味線が、無性に聞きたくなりました。生演奏はもう叶わぬことですが。