今日は重陽の日(陰暦9月9日)、菊の節句でもある。当庵から愛車で30分余りの笠間稲荷神社は「菊まつり」の初日だった。
私は先輩方と共に拝殿手前脇の参集殿に入った。茶道と香道の席が設けられている。
神社というと国家神道を連想して膚に合わないと思い込んでいた私だけれど、参集殿の中は豪華さに抑制が効いていて、心が落着く空間だった。屋上の一部を利用した茶庭も、限られた条件下ながら確かな精神性を感じさせられた。l
最初に入った席は「三夕香」だった。香道の席は私は初体験で、以下の記述には錯誤があるかも知れない、あらかじめお許しを!
3種の香が用意されている。それぞれ、新古今集の三夕(さんせき)の歌にちなんで、「槇立山」「鴫立澤」「浦苫屋」と名付けられている。まず前2種の香を聞いて記憶に努める。次に3種の内のいずれか分からない香が回されて、その香名を推量する。
聞香のとき、その印象を何らかの「言葉」に置き換えようと、心中で右往左往している自分に気付いた。強めとか弱めとか、真直ぐとかふんわりとか、波立っているとか平面的とか、重層的とか純粋とか・・・ 香りは言葉にすることによって初めて記憶の範疇に入れる、というルールが予め私に与えられていたかのように。
人間より桁違いに臭覚が働く犬は言葉を持たない。言葉の機能は存在の分節だから、人間は言葉によって物事を・・たぶん香りをも・・分類する。犬は、はるか彼方の微弱な臭源にも気付くけれど、それは単に気付くだけで、細かな分類はし得ていないのだろうか? それとも、言葉に非ざるもの・・人間でいえばアラヤ識のようなもの・・が優れていて、それが分類にも働いているのだろうか?
もう一つの香席は「月見香」という乱箱席だった。「月」と「ウ」と名付けられた香2種が用意されている。まず「月」の香のみを聞いて記憶に努める。次に香元は3種の香を用意する。その3種はいずれも「月」か「ウ」のどちらかではあるが、どちらであるかは、それぞれの香を聞いて各自が推量する。3種が「ウ 月 月」ならば「十六夜(いざよひ)」、「月 ウ ウ」ならば「夕月夜」という風に名付けられている。
「三夕香」で伏せられていた香名は「浦苫屋」、「月見香」の3種は「月 月 ウ」で「待宵」と名付けられている組香だった。ちなみに私は・・どちらも、当たり! 周りの方々に驚かれたが、一番驚いたのは私自身である。ご教授下さった今日の香道の師は、「いろいろ考えたりしないで、ただ香を聞いたほうが当たりやすい」旨、おっしゃっていたから、さしずめ私なぞは、考える材料を全く持ち合わせていないド素人の単純さがまぐれ当たりを招来した、ということでしょうか。
香道というのは、香名を当てる成績を競うものでは断じてなく、香を通して精神世界を豊かにする、というものらしいので、当たったからといって「鼻」をうごめかしたりしていたら、それこそ本末転倒になってしまうのだろう。
香道はわが国独自の伝統文化らしいが、重陽も菊の節句も中国伝来の行事である。日本の文化の多くが、中国文化の大きな懐から育ってきたことを改めて思った。日中双方とも、もっともっと敬意を深め合えば、私たちの精神世界を更に豊かにすることが出来るだろうに・・