みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

意識的な楽観主義

2012-10-31 08:41:00 | 八郷の自然と風景

昨昼、近所の友人を誘って「佐久の大杉」を見に行きました。当庵から愛車で10分弱です。

Dscn2822幹回り約9メートル。私が今まで見たことがある樹の中で最大です。度重なる落雷や台風禍、そして老化のために、幹の上部を失い、満身創痍。推定樹齢は約1300年。村の人々の懸命な保存活動により、命永らえています。

見るたびに、大杉の生命と、保存に尽力された人々の心の両方に感動してしまいます。(写真は市のパンフレットの再撮です。私の技量では大杉を撮影するのは困難ですので、お許しを・・)

友人は樹が大好き。「文句も言わずに同じところに立ち続けて、樹は偉いわねぇ」といいます。

大杉の傍らに、幼木が育っていて、小さな立札に「佐久の大杉」と書いてあります。大杉の跡継ぎのようです。優しい友人は、「私たちがこの世からいなくなって、ずっと年を経てから、この木が大杉になるのねぇ」と言って、微笑を浮かべました。私は言葉が出ず、中途半端な顏で頷くだけでした。死への怖れ、事故あるいは戦争による核爆発、環境破壊、人類の破滅等々が、一瞬、脳裏をよぎりました。

今朝早くのラジオ番組で、大江健三郎が「意識的な楽観主義」でありたい、と語っていました。悲観的な事態であっても、と。


たそがれどき

2012-10-27 19:05:43 | 八郷の自然と風景

うららかな一日でした。午前中は水戸の文化センターのお茶会に行き、午後は当菜園の小豆を採ったり干したり、収穫済みの薩摩藷の一部を蒸かしたり。飼犬ユキの散歩を終え、鶏たちとユキへの給餌を済ますと、もうたそがれどきです。

Dscn2809林の向こうに十三夜のお月様が上りました。真円になる前の楕円っぽい形は穏やかで親しめる感じがしますね。後(のち)の月、豆名月、栗名月・・いろいろな呼称があるのも、昔から人々に愛されてきた証しと思います。

秋の種蒔きも収穫作業も一段落する季節ですから、月をめでる時間の余裕がありますし、夜は少し肌寒くて人恋しくなる気持が月への親愛の情につながる、ということもあるのでしょうか・・


心を暗くさせられたときは

2012-10-26 10:25:49 | 仏教

Dscn2808私たちの国の総理になるかも知れない新党の党首が、橋下徹・・ と嘆いていたら、今度は、石原慎太郎! この事態を客観視すれば喜劇であり、個人的心情からすれば悲劇であり、やがてこの国の惨劇になるのではないか、と憂いを深くさせられます。

世の中の動きに心を暗くさせられたときは、小出裕章氏のページ(非公式ホームページ)を開くようにしています。氏の言葉を聞き、氏の表情を見ていると、自然に心が穏やかになっていくのです。語られる言葉や表情が明るく楽しいというわけではないにも拘わらず。 真実を知ることができた充足感と、氏の心の優しさを感じるためでしょうか。

直近の原発関連ニュースの中に、高濃度放射能に耐えられる作業ロボットの開発がありました。日本では原発事故は無いという前提で事が進められていたので、このようなロボットの開発もこれまで行われていなかったそうです。福島原発廃炉等の作業に向けて、少し明るいニュースではないか、と私は思ったのですが、小出裕章氏は、「ロボットはほとんど役に立ちません。結局は人間がやらねばならないのです。」と断言しています。

ロボットが何故役に立たないのか、その理由まで聞かなくとも、小出裕章氏によって語られたことには、全面的に近い信頼感があります。この信頼感の由来の第1は、40年以上のあいだ四面楚歌の中にあっても、原発の危険を訴え続けてきた氏の経歴によりますが、その第2は、氏の声の調子や、視線の陰影や輝き、首の傾げかたや腕の動き等々、氏の姿全体から感じられる人格なのだと思います。まるで観音様のような。

親鸞聖人は、師の法然上人を敬い、たとえ法然上人に騙されているのだとしても構わない、とまでおっしゃっています。人間は、論理だけでなく、人との信頼関係を通してこそ、「信」を抱くことが出来るのでしょうか。

私は宗教上においては、いまだ全面的に信頼できる(同時代に生きる)方と出会う機会がありません。否、出会う資格が自分には無い、ということなのでしょう。でも親鸞聖人には、その著作や歎異抄を通して出会うことができたのですから、幸運と思うべきでしょうか。


真木悠介著「時間の比較社会学」 その3

2012-10-21 11:09:41 | 

未明の空から、今日も星たちが神秘の光を注いでくれていました。東の空が白み始めて、消え残った明星の、なんと優しく見えたことでしょう。

本書の第1章「原始共同体の時間意識」は、次の3節で構成されています。
 1 「聖と俗」-意味としての過去
 2 共同時間性・対・共通時間性
 3 ザマニの解体-意味としての未来

レヴィ=ストロースの「野生の思考」などを引用しながら、原始諸部族の時間意識を探った章です。私には見慣れぬ用語が多くて、もっとも読みにくかった章ですが、現代社会の時間意識の根源を問うためには不可欠の言説だろうと思います。

原始人にとって意味があるのは、繰り返すもの、可逆的なもの、恒常的なものであり、一回的なもの、不可逆的なもの、移りゆくのものはその素材にすぎない。近代人にとっては逆に、くりかえすもの、可逆的なものの方が背景となる枠組みをなして、この地の上に、一回的なもの、不可逆的なものとしての人生と歴史が展開する。

近代人がなによりも大切なものと考えているこの「私」の一回かぎりの生と、日付をもった人間の歴史とは何であろうか。それらはそこ(=原始共同体)では、永遠的なもののたち現れる場としてこそ意味をもつのだ。

この私の心身に、永遠的なものがたち現れているのだ・・と試しに!思ってみますと、なんともいい心地が訪れるようです。宗教上の「信」に類似する構造の感覚かも知れませんね。

(近代人の)<抽象的に無限化する時間関心>が、事物や活動からひきはがされた自存性として客体化された「時間」の観念を前提するということ、そして、このように物象化された「時間」の存立が、共同態の<生きられる共時性>に対して、外延的にか内包的にかこれを乗り越えて異質化する社会の構造を基盤とするということだ。

上記の説は、言われてみれば当然のことのように了解できるのですが、しかし私は本書に出会うことによってはじめて意識化できたのです。

<現在する過去>(=意味としての過去)の解体こそがアフリカに未来の発見をもたらしたことを、ムビティはその危機的な様相において生々しく描いている。

デラシネ(=故郷喪失)の代償としての未来。未来関心の基盤としての、共同体解体=過去の解体。現に存在しないもの、過去にも存在しなかったもののうちにしか、人生の意味と根拠を求め得ない人びと(サルトル!)。生きることの意味を、現在のうちにも過去のうちにも見出すことの出来ない人びと。そのような人びとこそが、意味に餓えた眼を未来に向ける。<意味としての過去>に代わる<意味としての未来>。

近代文明人には切ない言説ですが、著者の言葉の連打に何かしら胸が沸いてきてしまいます。サルトルもろくに読んだことのない私が、実存哲学の由来さえ分かったような錯覚さえ起こしてしまいます。論理だけではない、著者の感情の表出ゆえでしょうか。

~「野生の思考」の著者(レヴィ=ストロース)が示していることの意味は、不可逆性としての時間の意識の獲得が、反自然としてのひとつの文明の離陸の指標であるということだ。そして「離陸」ということが、すなわち大地からの乖離のイメージが、ア・プリオリに一つの肯定として語られていることが、我々の文明の基礎をなす固定観念である。

なるほど、なるほど、・・・あまりにも脆すぎる近代文明の位置が、明確に意識付けられたように思います。しかし、しかし、どこか断定的過ぎるような、著者の圧倒的な言葉に、却って不信感も蠢いてきます。 

 
 


秋日和

2012-10-19 18:36:40 | 菜園

昨夜は静かな雨でした。朝曇の空の下をユキと散歩していると、山路脇から邯鄲らしい虫の声が細く響いてきました。虫の声は、残り少なくなっています。

Dscn2794雲の切れ間から青空が広がり出しました。今日は体調もまあまあいいので、菜園の薩摩藷を収穫することにしました。地面を覆うように繁茂した蔓葉を、まず思いきり引いて地面から剥がし、畝が見えるようにしてから、藷を掘り出します。

自家用の小さな畝ですが、太いベニアズマが沢山穫れました。これから数日間、天日に当てます。そうすると、美味しさが増すそうです。

Dscn2801落花生も収穫しました。株を引くと、土の中からドッと沸くように落花生の実が沢山、ぶらさがって付いてきます。よく育った実を選別しながら取り離し、ザッと水洗いして泥を落としてから、天日干しにします。

小豆も熟れ始めたので、少し採りました。大豆は、株ごと引き抜いてから、篠竹を組んで作った棚で干しています。

Dscn2795キャベツもブロッコリーも白菜も、虫に喰われながらも大きく育ってきDscn2796
ました。ホウレン草、ターサイ、チンゲン菜も、もう少し育Dscn2797
てば間引菜を食膳に載せることが出来そうです。野菜たちよ、有難う!


真木悠介著「時間の比較社会学」 その2 

2012-10-16 19:41:22 | 

本書の序章「時間意識と社会構造」は、次の3節で構成されています。

1 <死の恐怖>および<生の虚無>
2 <現存する過去>と<過去する現在>
2 具象の時間と抽象の時間

私なりに要点と思う部分を、以下に抜粋します。

<時間の中で現実は次々と無になってゆく>という感覚、「たえずむなしく消え去ってゆく」というこの感覚の取り方は、しかし決して人間にとって普遍的な心性ではない。

さらに時間が「すべてを」消滅させるというかたちで一般化されて虚無の感覚と結びつくのは、未来が具体的に完結するものとしてでなく、抽象的に無限化されたものとして関心の対象となるからである。

虚無化してゆく不可逆性としての時間の観念は、自然からの人間の自立と疎外、それによる自然との<生きられる共時性>の解体に関わるのではないか、そして、抽象的に無限化されうる等質的な量としての(貨幣のような)時間の観念は、共同態からの個の自立と疎外、それによる共同態の<生きられる共時性>の解体に関わるのではないか、と著者は問題提起しています。<生の虚無>ひいては<死の恐怖>は、近代文明の中に生きる我々の精神の、いわば「病」ではないか、と。

不勉強な私は、読んでいて全面的に納得するほどの確信を持つことは出来ないのですが、でも、少なくともこういう一面はある、と共感しましたし、生死についての自分の漠然とした心情の輪郭が、見えやすくなったように思います。

何はともあれ、<死の恐怖>というテーマを本書が真正面から取り上げていることが、私には心底有難いことなのです。これまでの人生の中で、この人なら、或いはこの場ならと思って、この恐怖のことを語ろうとしたことが何度かありますが、まともに受け取ってもらった記憶がありません。ある場合には憐れまれ、ある場合には困惑され、ある場合には怒りを招きました。ですから私にとって、この本との出会いは、得難い隣人を知ったような感じなのです。

でも一方では、この本は本当に<死の恐怖>を真正面から取り上げている、と言えるのか、という疑問もあるのです。

虚無化してゆく不可逆性としての時間観念、および抽象的に無限化された時間観念は、確かに<生の虚無>に結びついているように思われます。そして<生の虚無>は、<死の恐怖>に関係しているかも知れませんが、イコールではない筈です。本書の文脈では、<死の恐怖>のテーマが、<生の虚無>にすり替えられているのではないか、と思ってしまったのは、私の誤読でしょうか・・・


お香とお茶

2012-10-14 19:52:08 | 文化

今朝の「泥吐き」(昨日10/13の記事参照)はスムーズに済んで、帰庵した私は、大急ぎで着替えました。着物は近所の方から譲ってもらった附下げ、深緑系のビーズのバッグは別の近所の方から譲ってもらったもの、帯は、岩間の「栗の家」骨董市で、お安く!求めたものです。

Dscn2773愛車で40分ほど走って笠間稲荷神社に着き、参集殿で催されている澄心会主催の「お茶とお香をたのしむ会」に参加しました。一昨年に初めて参加し、今回は2回目です。香道が2席、茶道が2席、そして点心席でした。

Dscn2782お香は、一座の中を時計回りで廻ってきます。その香りは、右隣の方のところへ廻ってきたころに格別よく感じられました。自席に廻ってくると、却って感じにくくなり、鼻に近付けると確かに香りますが、同時に熱が強く伝わってくるので、香りと熱が神経の中で錯綜するように思いました。そして左隣の方へ廻すと、再び心地よい香りが感じられました。香りを感じる神経って、何だか不思議ですね。その時々の体調により、或いは人それぞれに、違いがあるのかも知れませんが。

Dscn2783お香の席は、お茶席以上に静かです。ご説明くださった方の慎ましく穏やかな声も、心に染み入るようでした。八十路になられると仄聞しましたが、本当に素敵な方でした。

お茶席で拝見した茶杓には驚きました。虫喰の欠損の部分に象牙を当てているのです。虫が喰ったものなどは、本来?の価値を損なう疵ものの筈ですが、敢えてそういう材料を選び、おそらく大変な手間と費用を掛けて象牙を当てたもの・・・そうしたものを貴ぶ風が、茶道にはあります。ほっそりとしたその小さな茶杓は、関わりのあった時間と人の心が凝縮した痕跡を抱いているかのようでした。

お香の席のとき、地震がきました。弱い揺れで直ぐおさまり大丈夫でしたが、もし2010.3.11のような地震だったら、お香どころではなかったでしょう。もし福島の4号機の燃料プールが崩落したら、笠間はもちろん首都圏も人命が脅かされ、日常の暮らしも文化も、潰えてしまうかも知れません。そしてもし、尖閣諸島などで日中が武力衝突したら、たちまち日本全土が臨戦態勢になり、言論も文化も抑圧されることでしょう。安全と平和こそ、暮らしと文化の礎です。

お香も、お茶も、参加者のほとんどが女性、男性の姿は僅かです。男性にとっても、女性にとっても、そして香道と茶道にとっても、淋しいことですね。

愛車での帰路・・雲が広がったためか、まだ3時過ぎなのにフロントガラスの向こうの風景が、淡い影絵のようです。やがてふっと雨が降り始めて、少し強くなったり弱くなったり。参集殿で過ごしたひとときが、過去という名の記憶の中へ重なりゆくのを感じました。


穭のことなど

2012-10-13 14:57:43 | 八郷の自然と風景

Dscn2765久しぶりに田んぼ用水のポンプ機場へ行きました。取水口まわりの手摺上に赤蜻蛉が飛んできました。アキアカネでしょうか。

明日は「泥吐き」の予定です。朝8時から、機場委員の皆様が各田んぼへの配水管内に溜まった泥を除く作業をするのです。泥を送り出すための通水は、ポンプ運転担当の私と相棒の役割です。事前に取水口内に水を満たしておく必要があるので、8月末に上へ全開していたゲートを下ろしてきました。ついでに、取水口付近に堆積していた泥やゴミを取り除きました。

Dscn2759まわりの田んぼが収穫前の稲穂のように色付いていますが、初秋の稲刈の後にひこばえのように出た新たな稲(季語では穭=ヒツジと呼んでいます。)の穂です。昔はこの稲穂も収穫して、農耕馬へ御馳走として与えたそうです。

穏やかな日和でした。これから初冬にかけての「小春」の頃が、年間で一番心地よい季節ですね。下の写真は当庵手前の帰り道から見た風景です。手前は大根畑で、首都圏からの移住の先輩の方が栽培されています。毎日丁寧に見回っていらっしゃいます。19号台風で傷んでいましたが、もうすっかり持ち直したようです。

明日は、「泥吐き」が終わったら着物に着替えて、愛車で1時間弱の笠間稲荷神社参集殿で催される「お茶とお香をたのしむ会」に参加する予定です。タイムスケジュールがスムーズにいきますように・・・
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真木悠介著「時間の比較社会学」 その1

2012-10-11 19:52:18 | 

気温の低下につれて、草取り、種蒔き、収穫などの菜園作業も少なくなりました。体調も、夏期のどうしようもないだるさから脱け出てきました。あまり本を読まない私ですが、それでもこの季節には、少しまとまった時間を読書に当てることがあります。

Dscn2758先日は公民館の図書室にお願いして、県立図書館から「時間の比較社会学」(真木悠介)を取り寄せてもらいました。当ブログ(2009.5.27記事)へ頂いたコメントに触発されて読みたくなった本です。

先のコメントにも書かれていますが、私もやはり、この本の最初の部分を書き出しておきたいと思います。

この世の生の時間は一瞬にすぎないということ、死の状態は、それがいかなる性質のものであるにせよ、永遠であるということ、これは疑う余地がない・・・。

このことはひとりパスカルの恐怖であったばかりではなく、やがてみることになるように、たくさんの明晰な近代精神の、いやおそらくは、近代的理性そのものを究極においてふちどる恐怖であった。

著者は、この恐怖の由来を人々の時間意識からあぶり出しています。<死の恐怖>と共に<生の虚無>も。

<死>が狂おしいほど怖ろしい私ですが、読み進むにつれて、その恐怖の輪郭が見えてきたように思います。

不勉強な私にとっては難解な頁もありましたが、全体を通して著者の熱く脈打つ血の流れが感じられて、得難い隣人を知ったような読後感があります。

図書館の本は2週間で返さなければなりません。本は原則として買わない私ですが、この本は買わずにはいられませんね。


セルフ

2012-10-09 19:14:06 | 健康・病気

涼しいというよりも、寒い朝でした。私は冷え症で、特に足先が氷のように冷たくなります。厚手の靴下を2枚重ねて履く季節となりました。

午前中は愛車で片道15分ほどのK堂へ。いつもの、体を内から温める漢方薬を受け取りました。午後は愛車で片道20分ほどのケーズ電気へ。プリンター用のインクとデータ保存用のCDを買いました。当地では、車は本当に生活必需品で、運転が出来ないと、足が無い、幽霊だ、なんて言われることさえあります。

帰り道の途中のJAスタンドでガソリンを入れて貰いました。隣地で数か月前から工事していましたが、新しいJAスタンドが出来ていました。見ると「セルフ」と書いてあります。聞けば、明日からサービス開始で、セルフ中心の経営になるとのことです。

セルフになれば、ガソリン単価が少し安くなるでしょうから、それは有難いのですが、不器用で物忘れが多くなった私は、給油の手順をスムーズに出来るか、少々不安です。もっと高齢の方や、病弱な方や、心身に障害のある方などは、困るのではないかしら・・・ それに、セルフになると、今までこのスタンドで働いていた人々の過半は解雇されてしまうのでしょうか? 

昼間は心地よい秋日でしたが、夕暮れになると風が身に沁みます。虫の音もずいぶん少なく細くなってきました。