みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

笠間稲荷の菊花展

2017-10-29 22:50:37 | 俳句
雨が降り続いているけれど、台風が近づくのは夕方からという予報を信じて、俳句の会へ行きました。吟行先は、菊花展を開催中の笠間稲荷神社です。



足元には水たまりがあちこち、傘を差しての見物でした。風はほとんど無かったし、人出が少ないので、落ち着いて観賞することが出来ました。主催者側は、雨除けの工夫をしなければならなかったり、大変だったことでしょう。 展示区画の中で、菊の手入れに余念のない方もいました。

      香に塗れ菊整へる男かな

     



水戸黄門や大河ドラマになった井伊直虎などの菊人形も展示されていました。

     菊人形着せ替え中は野人めき

昼食と午後の句会は、国民宿舎「つくばね」で。仲間とワイワイ言いながらの食事は、本当に美味しかったです! 句会も、冗談が飛び交って楽しい限り。体調不良のことなんか、ほとんど忘れることが出来ました。 仲間に感謝、俳句に感謝! 

     

菜園七句

2017-10-27 12:51:27 | 菜園
          「草取りはダメ」と老医の厳かに

          左手でも草取り出来て嬉しくて

          花のやう白菜苗の寸余の葉

          息太く畝の土寄せ鵙日和

          抱き起こす菜株の傷や台風禍

          秋夕焼け三角鍬を杖として

          犬吼えて猪禍を払ふ無月かな


不器用な私の小さな菜園ですが、心身両面の生きる糧となっています。 村人の信望厚い整形外科医のおかげで、右手の痛みも軽快しました。




中島義道著 「観念的生活」 その8

2017-10-24 10:54:59 | 哲学
すべての「いま」は過去に媒介されて、初めてその意味を獲得できるのである。 (P.105)

この世のあらゆるモノ・コトは相対的だと思う。「いま」と過去との相対性は、本来、理解しやすい筈だ。ところが、私たちは下手な「教育」を受けているので、「時間」を座標軸で考えてしまう。絶対的、直線的なものとして。


「いま」は、どこからかは知らぬが、われわれに一方的に与えられ、われわれはそれを受容するしかないのである。 (P.109)

「いま」が客観的世界を記述する言葉ではないと知って驚くには値しない。「いま」は善悪や美醜や快不快のみならず、あらあらゆる現実的なもの、あらゆる「心」に関するものが客観的世界から排斥されているように、それから排斥されているだけである。 (P.111)

世界には実在しない夥しいものが「あり」、時間もその一つに過ぎないのである。 (P.106)

一方的に与えられている「いま」と「時間」、そして「私」という自我とこの「世界」・・・ それらを、われわれは受容するしかない。悲しみとして、畏れとして受容するだけでなく、歓びとしても受容することが出来るのだろうか? 


嵐が過ぎて

2017-10-23 09:05:53 | 暮らし

村の田んぼの用水路は幅が細いから、時間当たりの降水量が多いと溢れてしまい、周辺の田畑や道路に被害を及ぼしてしまう。そんなことにならないよう、先般来、ゲート(水門)は水路壁の上まで開いてある。しかし昨朝、「秋雨前線と台風の影響で、記録的大雨になるかも・・」という予報を聞いて不安になり、愛車を機場まで走らせて、ゲートを最上端まで更に上げた。

夕べは、超大型台風が近付いている筈だけれど、雨風は恐れていたほどでもない。万一の停電に備えて、懐中電灯とローソク&マッチを用意し、開票速報で大勢を確認してから就寝した。

真夜中を過ぎた頃、滝のような雨音と裏山がゴーッと鳴り響く音に襲われた。それが20~30分続いただろうか? 静かな夜に暫く戻ったけれど、再び怖ろしい嵐の音。何回か繰り返すうちに夜が明けて、雨風もやや弱まってきた。

小降りになった雨の中、山路に落ちた折れ枝を片づけながらユキと散歩。今朝は幸いに背腰脚痛が軽い。ユキと鶏たちに給餌してから、菜園を見回った。野菜たちは雨風で傷んでいたけれど、想定内。



葉を広げた白菜にベニシジミが留まっていた。この小さな命は、怖ろしい雨風の夜をどうやって凌ぐことが出来たのだろう・・・




中島義道著 「観念的生活」 その7

2017-10-21 15:14:16 | 哲学
言葉の機能は?と問われれば、もちろん、コミュニケーションでしょ! と答えたくなるけれど・・・

言葉の主目的が眼前の事態の正確な描写だとすれば、そのつど眼前の事態を示せばいいのだから、むしろ言葉は必要ないであろう。 ~ こうした信号機能を超える言葉固有の機能とは、眼前の事態が不在の時にも、それを記述し描写することができることである。 (P.79)

不意を突かれたようだったけれど、確かにそうだ・・と納得させられる。 信号機能だけだったら、言葉にならない声や、手ぶりや、表情などにもある。言葉が無い虫たちや獣たちも、コミュニケーションしている。

その事態が不在の時にも、言葉で述べることが出来るからこそ、人間は文明を伝承・発展させることが出来たのだ。それが良いことだったのか否かは別として。

いばらき詩画展

2017-10-18 22:40:13 | 芸術
近所の友人と一緒に「いばらき詩画展」(茨城県詩人協会主催)へ行ってきました。会場は、石岡の香丸資料館2階です。こじんまりとした会場ですが、多彩な詩と絵と写真等々のコラボレーションが、新鮮かつ奥深い気配を漂わせていました。

そして・・・私が心から畏敬する詩人、硲杏子様(八郷在住)にお会いすることが出来ました。硲様の詩集「水の声」と「望郷のバラード」が手元にありますが、感性の鈍い私の心にも、深く入り込んできます。

茨城県詩人協会の会長という大変なお立場でもいらっしゃるのに、私のような凡庸な者にもお気遣いしてくださり、恐縮の限りでした。

香丸資料館を訪れたのは初めてでしたが、旧い土蔵を改修した、趣のある素敵な空間でした。1階は喫茶店になっており、友人は珈琲、私はお抹茶を戴きました。久しぶりのお抹茶の滋味が、体と心に染みわたるようでした。

この「いばらき詩画展」は、「いばらき詩祭2017石岡」の一環だそうです。10月22日の午後には、石岡市立中央図書館で、「講演と朗読の会」も開催されるようです。(私は残念ながら行けませんが・・)選挙の日でもあり、雨がひどくならないことを祈ります。

タヌキ&キツネ

2017-10-16 14:25:08 | 社会
先般、緑のタヌキが「副」に指名した女性の名前に、薄れ掛けていた記憶が蘇った。

25年ぐらい前だったろうか・・・ 私は、その女性に声を掛ける機会があった。 ところが彼女は、鼻先でフン!と言ったかと思うと、小走りに前へ行き、そこにいた男性の一団に寄り添い、談笑を始めたのである。

置き去りにされた私は、何故、彼女がそんな反応をしたのか、事態が呑み込めず、暫く呆然として首をひねったのだった。 つまらぬことを思い出させられた。

今回、ネット上で見た画像では、彼女はすっかりキツネ顔になっていた。彼女の父親(故人)は、アベが連立を組んでいる党の国会議員だったことも、遅まきながら知った。なるほど・・ と了解しつつも、心が冷えびえとしてきたのは、今日の寒さの為か?

中島義道著 「観念的生活」 その6

2017-10-07 09:31:53 | 哲学
人間が互いに絶対的に隔絶されていること、その意味で絶対的に孤独であること、それは人間である限りすべての人の運命であること、それを他者の眼の中に確認したい。「ああ、わかるよ」という言葉の中に確認したい。その時、彼の孤独は僅かに癒される。 (P.81)

孤独を確認するとき、孤独から解放される という逆説。 誰しも、実感として頷ける。 孤独の弁証法。

秋暑の風返峠

2017-10-03 22:44:38 | 俳句
持病の背腰脚の痛みが、今日は特に酷く、辛くてなりません。それでも、右半身を引き摺るようにして俳句の会へ出掛けました。仲間に会えば、笑顔も出ます。乗り合いタクシーで風返峠へ行きました。

峠のレストランの前庭を拝借し、ススキ、ユウガギク、釣鐘人参などの草花や、ガマズミ、アケビ、クサギなどの実を愛でながら吟行しました。濃い霧が、筑波の双峰を半ば隠しながら流れています。近くの梢では、鵙が盛んに鳴き立てていました。



雲の切れ間から日が射してきたら、暑くなってきました。日影を求めて歩いていたら、レストランの看板の足元に、壺のようなものが3つ、並び置かれています。何だろう? 首を傾げていたら、先輩が「醤油甕」だと教えてくれました。一昔前までは、厨に置かれて、醤油や焼酎などを蓄えていたそうです。底に近い横腹には、注ぎ出し口となる孔が空いていました。今は、玄関に置いて花活けに使っているよ、という仲間もいました。



          空っぽの醤油甕座す秋暑かな

帰庵してネット検索したら、エダノさんの街頭演説の録画がありました。興味本位で聞き始めたのですが、その誠実な語りに聞き入ってしまいました。政治家の話に、こんなにしみじみと感銘を受けたのは、本当に珍しいことです。心が熱くなりました・・・ すると、・・・不思議なことに、あれほど辛かった背腰脚の痛みが、すうっと軽くなっていったではありませんか! 

俳句とエダノさんのおかげで、きっと、血流が暫し改善したんでしょうね。俳句よ、有難う! エダノさん、有難う!