みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

「転ばぬ先のシコ」

2018-01-29 12:54:05 | 
「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著)の登場人物の口ぶりを借りれば、「誰が何と言ったって!」私は白鵬のファンだ。マスコミの売れっ子が、相撲には素人なのに偉そうに大横綱の取り口を非難したり、相撲の玄人で日本会議の広告塔の解説者が、奥歯にものがはさまったような言い方で視聴者を洗脳していることに、悲憤やるかたない心境でいる。

かくいう私も相撲のことをまるで知らない。このままでは白鵬ファンとして恥ずかしい。そう思って、遅まきながら相撲関係の入門書的な本を読むようになった。いわゆる「スー女」の和田静香さんの本は特に、相撲と力士への熱い思いが溢れていて、とても楽しく読めた。

「転ばぬ先のシコ」(元・一ノ矢 著  ベースボール・マガジン社 2017.9月発行)は、知人に勧められた本。



脊柱管狭窄症や圧迫骨折で歩くのも辛い私が、お相撲さんがやっている四股(シコ)など出来る筈はないけれど、相撲の勉強のためにと思い、中央公民館図書室から借りた。

小さく薄い本だけれど、図解が豊富で分かり易く、著者の温かい心が伝わってくる良書だった。四股の意味を知らされて、目からウロコだった。

「シコ」というと、足を高々と上げるイメージがあると思いますが、足を高く上げる必要はありません。映像に残る明治、大正のころのシコを見ると、上げる足の膝を曲げたまま軸足を伸ばし、体を倒しています。「シコは足の裏を見せるな」という格言もありました。

シコは本来”醜”と書き、逞しさや力強さを表す言葉で、地中の邪気を鎮めるためのものでした。足を上げることよりも踏み下ろすことに意味があったのです。




重力に従い重力を利用すれば、歩くのもままならない私でもそれなりにシコが出来る! そして、シコの基本が「腰割り」なんですね。

シコの基本の構えが腰割りです。股関節をゆるめて開き、膝とつま先の向きをそろえます。重心はカカト内くるぶし真下におき、腰を深く下ろすことよりも、重心線にのって骨の並びをそろえることが大切です。
 
もう亡くなられましたが、女優の森光子さんが欠かさずやっていたという運動は、スクワットと報じられていましたが、厳密には腰割りです。

スクワットは膝を曲げていくと、大腿骨と脛骨との間にねじれが生じます。そうすると、半月板への影響が大きくなって、膝を痛めることもあるのです。しかし、腰割りの場合は、そういうねじれがまったくありません。


そもそもシコの基本である腰割りの構えは、スネの骨をまっすぐに立てることが大切です。まっすぐに立てたスネに、上半身をまっすぐに載せます。まっすぐに載せることで、シコを踏むとき関節に負担をかけずに足を上下させることができます。足を下ろすときも、つま先からカカトへ滑らすように下ろし、下したときにスネの骨にまっすぐ力が加わるように踏みます。
 
白鵬の立ち合いについても書かれていました。

相撲中継で、力士たちの所作をよく見ていると、横綱・白鵬は、立合いでカカトを浮かさずに当たっています。ところが、日本人力士の多くは、カカトを浮かせてつま先立ちで当たっています。

昔の大相撲の映像と見比べてみると、その当時は、カカトを浮かせている力士はまったくといっていいと思いますが、見当たらないのです。しかし、今の力士はというと・・・・・。

おそらく、今の力士は小さいころから、学校体育の授業を受けていますから、スポーツ的な動きを身につけていて、相撲の動きとは異なる動きが、染みついてしまったのでしょう。靴を履いた生活では、どうしてもつま先立ちの動きになりやすいですから。

カカトで踏ん張って地力をもらい、その力を小指のほうからつま先全体へ伝えることで、パワーを爆発させることができるのだと思います。地面からの力をカカトで十分にため込むことによって、つま先だけで始動するよりパワフルになるわけです。


白鵬の強さの理由の一つを知って嬉しくなりました。





 

アカアシシギ

2018-01-27 13:24:01 | 野鳥
午前10時頃、愛車で中央公民館へ向かった。図書室へ返本と借本、そして県立図書館蔵の本の取寄せ依頼のために。

22日の雪が未だあちこちに残っているのを見ながら、ゆっくり運転していたら、路傍の草地から野鳥が飛び立った。土手下の冬田に降りて、長めの脚で少し歩いて、田土を突いたりしている。見慣れない鳥だけれど、シギの仲間に間違いない。

脚の色が赤に近いオレンジ色。嘴は黄色い。背面は灰褐色、腹面は白っぽく見えた。帰庵後に図鑑等で調べた。大型ではないから、ツルシギではなさそう。脚の色の特徴から、アカアシシギだと思う。ただ嘴が、図鑑によれば基部のみ赤い筈なのだけれど、目撃したシギは、嘴全体が黄色に見えた。私の視力は衰えているから、見間違いかも知れない。或いは、個体差に過ぎないのかも知れない。或いは、アカアシシギそのものではなくて、私の知らない近縁種かも?
 
私の備忘録としては、とりあえず アカアシシギ として記録することにしました。これで、八郷で出会った(未視認で声のみの出会いを含む)野鳥は66種となりました。

猛禽類の飛翔

2018-01-25 14:40:48 | 野鳥
お日様が高くなってきた8時過ぎ、ようやくユキの散歩に出たのだけれど、とにかく寒い! 毛糸の手袋と裏布付き厚手ビニール手袋の間にミニカイロを2個ずつ入れたのだけれど、それでも冷え性の私の手は凍える。

22日の雪がまだ一面に残って真っ白な畑地を左に見ながら歩いていたら、右手前方の雑木林から野鳥が飛び出した。猛禽類だ! 翼を横に広げて低く滑空し、南斜面の畑地の向こうに消えた。腹面が残雪に負けないぐらい白い。

猛禽類としては小型で、ノスリなどに比べると二回り以上は小さくて細い感じ。それでも颯爽とした飛翔は、猛禽類ならではの緊張感がみなぎっていた。

大きさや飛翔の姿から、チュウヒではないだろう。ツミかも知れないけれど、この季節だから、ハイタカの可能性が高い、と思ったのだけれど、確信が持てない。

それにしても、猛禽類の飛翔って、頬をはたかれるような緊張感があって、やっぱりイイなあ!

雪霏々と

2018-01-23 12:59:59 | 八郷の自然と風景
雪は昨日の昼頃から降り出した。予報通りというか、予報以上というか、久しぶりの大雪だ。昨夜、閉めていた板戸を少し開けてみたら、夜だというのに白々と薄明るかった。

私の心にはいつも無数の言葉が、ミツバチの群れか何かのように、百花繚乱いや百鬼夜行しているけれど、雪はそれらの雑多な言葉たちを鎮めてくれる感じがする。

          雪霏々と言葉を鎮め心鎮め

一夜明けたら雪晴れ。積雪は30センチ近い。暁の空がひときわ美しかった。




初句会

2018-01-16 22:46:05 | 俳句
朝10時、集合場所の中央公民館前を乗合タクシーで出発しました。来る筈の二人が来ないままだけれど、仕方がない。今日の予定を忘れてしまったのだろうか? それとも、もしかして具合でも悪くなったのでは・・ お互いに高齢だから、こういうことはママある・・

吟行先の「ゆりの郷」に着きました。JAの温泉施設です。句会の私たちは、温泉には入らないけれど、眺望がいいので句材が豊か。寒さに耐えられないときは、屋内に退避できるし、手頃な値段で美味しい昼食も摂れる。

付近を散策していたら、中央公民館前に現れなかった一人が、自家用車でやってきました。時間を間違えていたとのこと。元気なお顔を見てホッ。そしてもう一人も自家用車で現れました。うっかりして時間に遅れたらしい。

          やがて皆揃ひて嬉し初句会



「ゆりの郷」の手前に炭焼小屋があります。壁も屋根も破れ放題、つぎはぎだらけですが、現役の小屋です。後ろ上に並んでいる幟は、「ゆりの郷」へのアプローチ案内です。

           炭竈の覆土触るれば母肌めく

吉村昭著 「大黒屋光太夫」

2018-01-15 10:20:01 | 
短編ではないのに、読書力の衰えたこの私が、上下巻とも一日足らずで読み終えた。というか、読んでしまわずにいられなかったのだ。吉村昭の本で期待外れだったことはない。そこらの学者然とした輩など足元にも及ばない、史実の徹底した調査研究の上に構築された小説世界のリアリティーの凄さ。人間の運命を刃のように突きつける。



大黒屋光太夫は、18世紀の廻船の船頭。嵐で難破、漂流してアリューシャン列島(当時はロシア領)のアムチトカ島に漂着した。筆舌に尽くせぬ苦難を経て、極寒のシベリアを経由し、ペテルブルグでエカテリーナ女帝に拝謁。日本への帰国を許された。17名の船員のうち、寒気や飢餓等のため12名が病死。2名が帰国を諦めてギリシャ正教に改宗。帰国できたのは3名。うち1名は蝦夷で病死し、江戸に着いたのは光太夫と磯吉の2名だった。



苦難に耐える光太夫たちの、驚異的な体力・気力・知力。その強靭な意志と徹底的な行動力。そして揺るぎない相互の信頼感。現代人の目には、なんと眩しいことか。そして漂流先で迎えてくれた人々の温情の有難さ。

著者の「あとがき」から、少し以下に抜粋する。

漂流船の大半は激しい風波によって覆没し、辛うじて生き残って日本に帰ることができた船乗りは数少ない。しかもかれらは、帰国直後、鎖国政策によるキリシタン禁制をしく幕府によって罪人視され、キリスト教またはそれに準じる宗教に帰依しているのではないか、と奉行所できびしい取り調べを受けた。

疑いが完全にはれると、かれらは一転して異国事情を知る者としての扱いを受け、学者その他が聴き取りを行い、その記録が漂流記と称されるものとして残されている。

ロシアは、将来、日本との国交を予想し、ロシアの子弟に日本語を身に付けさせるため、漂流し漂着した日本の船乗りたちを押しとどめて日本語教師とし、帰国させない方針をとっていた。そうした中で、光太夫とその配下である水主の磯吉、小市は、ロシア政府の政策転換で漂流民として初めて日本に送還されたのである。

三が日

2018-01-03 10:42:51 | 暮らし
お正月と言っても、私の暮らしはいつもとさして変わらない。でも少し変える。 朝食はお雑煮。年末にいつも、ご近所の方が搗いた切餅を分けて下さる。嚥下力がやや衰え始めているし、歯も弱っているので、今回はそれを更に小さく切り分けた。そして焼餅ではなく、今回は煮餅にした。それを一切れずつ雑煮椀に入れながら、ゆっくり戴いた。味がよく染みて美味しかった。

年寄りの私は、御多分に漏れず夜の就寝が早く朝の起床が早い。お雑煮を食して台所の跡片付けを終わった頃、夜が明け始める。八郷を囲む山なみが、暁の空に映えて、得も言われぬ神秘的な光景に見惚れながら、板戸を開ける。

1日の朝は強霜で、野は一面に真っ白だった。お日様が上って、霜がキラキラと輝き始めてから、ユキの散歩に行った。途中で出会った人は知らない人だったけれど、「おめでとうございます!」と言ったら、その人は一瞬口籠ったあとで「おはようございます」と返された。そのとき私は、どうして「おめでとうございます」と返してくださらなかったのだろう?と少し変に思ったのだけれど、今思えば、もしかしたらその人は喪中だったのかも知れない・・

初筑波は、ひときわ優しげに見えました。



ユキの散歩を終え、給餌し、鶏さんにも給餌してから、着替えて(いつもの普段着だけれど)杖を持ち、初詣に出掛けた。初詣と言っても、大きな有名な神社へ出掛けたわけではない。先ず、当庵から徒歩5分ほどの小さなお社へ。ここは隣村になるのだけれど、一番身近なお社だ。裏山の中にひっそりと佇む気配が私は好き。一昨年までは、年末年始には掃き清められていたのだけれど、昨年からは、参道に降り積もった落葉もそのままだ。隣村のお守りしてくださっていた方が御具合を悪くされたのだろうか・・貰い物の切餅と蜜柑を供えて、お祈りしました。




次に向かったのは、当村のお社。
杖をつきながらヨタヨタと50分ぐらい歩いて、無事に辿り着きました。このお社は天神様。学問の神様、菅原道真公を祀っています。九州の大宰府からははるかに遠く、京の都からも遠く、江戸からもかなり遠いこの地に、何故天神様が祀られることになったのか、由来を知らない。当地には中世の城跡があるので、もしかしたら、関係があるのかも知れない。

村の人々は、このお社を大切に守り、拝殿も本殿も、近年に改修している。荒れてないのは有難いけれど、新建材が使われていて趣に欠けるのは致し方ない。鬱蒼とした林の中を、緩い傾斜で長く苔むした石段が続く参道は、静かで底深い気配がして、私は大好きだ。

帰り道で、犬の散歩をしている少年に出会った。「おめでとうございます。」と声を掛けたら、にっこりして「おめでとうございます。」と返してくれた。

          杖止めて村の子と御慶を交はし

2日は亡娘の祥月命日。例年通り墓参り。降車駅から徒歩1時間弱。杖に縋ってなんとか行けました。菊の花とカップ酒が既に供えてありました。お会いしたことはないけれど、多分、亡娘の亡父の御家族がお参りされたのでしょう。私は水を入れ替え、菊の花を入れ直してから、持参の、当庭に咲いていた水仙と花芽をつけた馬酔木と実南天を添えました。



北風が強くて、お線香の煙が激しく乱れました。亡娘の病苦や、その亡父の愛憎や、亡祖父母の悲喜が、今再び渦巻いてしまったかのようでした。これは私自身の、まさに煩悩そのものなのでしょう。

今日は3日。新年初の洗濯を済ませ、お布団を干し、切干作りも再開。今日も届くであろう年賀状も楽しみですが、ほぼ通常の暮らしに戻りました。








どう生きるか

2018-01-01 07:38:27 | 自分史
姉さんに描いてもらった色紙を掲げたら、お正月らしい庵室になりました。 緑内障にもめげない姉さん、有難うございます。



吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」を、年末から読んでいる。昨11月初め頃、公民館図書室で、市の中央図書館所蔵のこの本の取り寄せを申し込んだところ、担当職員の女性が呟くように「これは名著ですよねぇ」・・しみじみとしたお声だった。本は貸出し中だった。しかも貸出予約者が2名。私は3人目となった。この図書室でこんな経験は初めてだ。

この本の内容を元にした漫画本が人気だとは聞いていたけれど、当地にも影響が及んでいたんですね。宮崎駿がアニメ映画化を企図していることも、ブームを大きくしたらしい。

1カ月余り待たされたけれど、無事、借りることが出来た。



懐かしいこの本のタイトル。教科書で、この本の主人公のコペル君がビルから眺める一節を読んだのは、中学2年生のときだったと思う。他のビルのどこかから誰かに眺められているかも知れない自分を意識したコペル君の不思議な気持・・あの一節を読んだときの私自身の気持は、60年近く経った今でも思い出せる。

私が通っていた中学校の木造校舎の廊下の突き当りに、図書「室」とも言えないような、ささやかなコーナーがあった。いつも誰もいない、物置のようなところだった。そこで私は、吉野源三郎の著書を何冊か見つけて、次々に読んだ。子どもなりに「吉野源三郎さんの本は良書だ」とおもったのを覚えている。

夏休みの宿題の読書感想文に、そんな吉野源三郎の本の一冊を選んだ。そのタイトルをどうしても思い出せない。金と銀と銅とを比較する話があって、銅には、金や銀には無い独自の使途があり価値があるのだ、という一節に、強い印象を持ち、「私は銅のように生きたい」とか、書いて提出した。

夏の暑さがまだ少し残っている頃、先生が私を呼んで、「みんなの前で、この本の感想を話してくれないか」と言う。人前で話をするのが非常に苦手だった私は戸惑ってしまった。しかし、感想文をそのまま読むだけでよい、と言われたので、どうしてこんなことを先生に頼まれるのか、事態が呑み込めないまま、承諾した。

校庭の一角の木陰のあるところに、沢山の生徒たちが集まった。子どもの数が多い時代だった。二百人近くいたように思う。先生方も何人もいらっしゃった。私は頼まれた通り、感想文を読み上げただけだった。終わったら、先生から「有難う」とか、お礼の言葉を言われて、何故、お礼を言われるのか、やはり事態が呑み込めないままだったように思う。

60年近く経った今、あの時の先生の思いがようやく分かるようになった気がする。

今回、「君たちはどう生きるか」を読んで、名著と言われる所以を再認識させられた。特に強い印象を受けたのは、豆腐屋の浦川君の姿だ。貧者として苦労させられ、差別される一方で、生産者として社会に貢献し、誇りを持ち、人を心の底から思いやることが出来る真の正義漢たりうる人物像。

小学校の高学年時代の私の友人に、豆腐屋の娘さんがいた。朝早く、親と一緒にリヤカーを引きながら、豆腐を売り歩いていた。浦川君と同様に、おそらく暗いうちから、土間で豆腐作りや油揚げ作りを手伝っていたに違いない。彼女は今、どんな正月を迎えているのだろうか・・

私は、今までの人生を顧みると、恥じ入るようなことが多い。残された人生を「どう生きるか」・・吉野源三郎の心に寄り添って考えてみたい。