みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

犬の個性

2012-01-31 14:31:37 | 

Dscn2194 ジュンとの交換トレードでユキが当庵にきてから40日間が経ちました。

ジュンは9歳半の雄で体重13㎏ぐらいの黒犬でしたが、ユキは1歳半の雌で、体重は(まだ測っていないけれどたぶん)16㎏ぐらいの白犬です。そういう基本的な違いだけでなく、個性が色々と違うのは人間と同じ・・と実感しています。

ユキは警戒心が強く、私が常とは違う服装だったり、見慣れぬものを持っていると近寄ろうとしません。細心の注意を払っています。カメラにも警戒するので、写真を撮るのも苦労します。

他の雌犬に対しては非常に攻撃的です。近寄られると獰猛な唸り声で威嚇します。前の飼主のところでは、同居していた同年齢の雌犬と死闘になり、相手の犬の首輪を噛み切り、体も傷つけて、その返り血で自身も血まみれになった経緯があります。

闘争心が旺盛で強い雌ですが、でも雄のジュンには歓心を買おうとするかのように、すり寄ったりしていました。また飼主には従順で、ジュンよりも御しやすい感じです。体を撫でてやると、上体を低くして照れくさそうにジッとしています。散歩に出かけようとする時と散歩が終わった時には、感謝の印に?私に熱い口づけ(口のあたりをペロペロ)!

Dscn2197 激しさと可愛さの両方を合わせもつこんなユキが、私にとってすっかり親しい存在となってきました。ジュンも新しい飼主のもとで元気に過ごしています。若い雌犬と一緒になったためか、何だか男らしく逞しくなった感じがします。避妊済と去勢済なので、幸か不幸か懐胎の可能性はありません。

心配なことが1つあります。ユキは若いので、高齢の私がユキの全生涯を世話することが出来るだろうか・・と。


好運の確率・危機の確率

2012-01-27 19:44:15 | 暮らし

今朝起きがけの庵内気温が 3度、今季最低記録です。外は強霜で一面真っ白。午前8時を過ぎて、ようやく霜が緩みだしたころに飼犬ユキの散歩を始めます。手袋は毛糸製と合成皮革製を2重に嵌めて、間にミニカイロを入れます。散歩が終わったころには、さすがの強霜も日向のところは大方融けています。

Dscn2186 昼間も寒い中、お年玉付き年賀はがきの当選番号をチェックしてから、郵便局へ行って賞品(といっても4等の切手)を受け取りました。当選確率は、いつも1~2パーセント程度なのに、今回はなんと、6パーセントほど! 好運に感謝しました 

Dscn2189 朝刊に 「首都圏M7 4年以内に70パーセント」の衝撃 という記事が出ていました。首都圏直下型地震について、東大地震研究所の研究チームが試算した確率です。2004年に文部科学省の地震調査研究推進本部が試算した確率は、30年以内に70パーセント でした。いずれにしても、相当に高い確率です。

朝刊記事のタイトルには 衝撃 という言葉が入っていますが、実際には世の中に衝撃が走った訳ではないようです。70%という確率を真面目に受け止めれば、首都圏に危機が差し迫っているのですから、出来ることなら圏外への移住や転勤を急ぐことになるのではないか、と私は考えるのですが・・

人々は、首都圏は直下型地震にも耐えられると思っているのでしょうか? それとも、苛酷な被災を甘んじて受ける覚悟をしているのでしょうか? 或いは、苛酷な予測に対しては、それを無視することによって現在の平穏を守ろうとするのでしょうか?


諸刃の剣の自然エネルギー

2012-01-24 19:54:02 | 八郷の自然と風景

Dscn2184 雪晴れの朝でした。久しぶりの日差しを受けた木々の枝から枝へ、エナガたちが移ってゆきました。

路上の雪がおおかた融けた午後、友人宅へ行って、自然エネルギーと脱原発について話し合いました。

自然エネルギーは一見いいことづくめのようでありながら、実は諸刃の剣ではないか、と私は考えるようになりました。

太陽光発電や風力発電は、熱源こそ自然のものですが、その発電装置は大規模な人工物ですから、その生産・管理・廃棄の過程で地球環境を損ないます。

休耕田に太陽光発電パネルを敷くというアイデアは、農業の未来を踏み潰すものですし、海上に風力発電装置を設けるというアイデアは、海洋の環境を破壊するものです。

また、全ての原発の即時停止と廃炉への取組みが焦眉の課題である今、自然エネルギーへの転換を強調することは焦点をずらすことになり、結果として脱原発への勢いを削ぐことになります。

自然エネルギーの普及やその技術開発の必要性を否定するわけではありませんが、それらを進めるに当たっては、原子力ムラに逆用されないよう、十分注意すべきと思います。


八郷の新しい家

2012-01-19 18:05:49 | 八郷の自然と風景

首都圏に住む友人夫婦が、八郷に家を建てました。定住はまだ出来ないけれど、田舎が大好きで、土いじりや工作が上手なお二人ですから、足繁く通ってこられることになりそうです。暮らしの智恵が豊かで優しい人柄のお二人が八郷の地を選んで下さって、私は嬉しくてなりません。

当庵と同様に小さな家ですが、間取りがとても合理的に工夫されていて、外観も端正に出来ています。八郷の工務店さんが良く頑張って作って下さったのは、施主のお人柄があったからこそ、だろうと思います。

Dscn2177_2 この家から難台山~吾国山方面を望む風景は、初めて見たときから懐かしさを覚えるような感じがします。

Dscn2176_3 今日訪ねてみたら、友人夫婦の愛犬メルが、敷地の一 角で穴掘りに没頭していました。菜園にする予定のところを耕してくれているのかも?


俎板

2012-01-18 17:44:48 | 暮らし

使っている俎板が、端の方から黒ずんで薄汚くなりました。数年前に地元の林業組合から購入したもので、材は銀杏です。

銀杏材は水切れ、刃当たりが良くて、俎板に向いているそうですが、無精者の私は手入れらしいこともしないで使うばかりだったので、恥ずかしくて人様には見せられないような俎板になってしまったのです。

Dscn2172_2 でもこのままでは非衛生的ですから、恥を忍んで近所の木工の心得がある方のところに持ち込みました。小一時間後に戻された俎板を見てビックリ! 信じられないくらい美しい新品のように蘇っていたのです。御礼も固辞されました。

今は合成樹脂製が出回っていますが、俎板はやはり木に限りますね。

ネットショッピングのウエブで銀杏の俎板を検索してみたら、その高額なのに驚きました。私の俎板はネットでの相場の3分の1以下だったことを知りました。厚さも、ネットでは上等ので30mmですが、私のは新生後で36mmです。林業組合さんへ改めて感謝!


俳句の会の再生

2012-01-15 14:55:19 | 俳句

八郷には、中央公民館を拠点とする俳句の会=会がありました。30年近い歴史がありましたが、指導者の御逝去などにより、昨晩秋、解散のやむなきに至りました。当地へ移住してまもなくからお世話になっていた私も仕方がないことと諦めて、昨年末、近くの地区公民館を拠点とする俳句の会=Y会へ入会しました。

Y会は会以上の長い歴史があって、当地の俳句の土壌の豊かさを改めて実感しています。一方、会がいざ解散してみると、俳句を通しての人との繋がりが心を支えていたことを痛感するようになりました。この思いは私だけではありませんでした。

皆で相談し、新ためてS会を発足させることになりました。中央公民館を拠点とすることも市に認めてもらえました。皆、大喜び

Dscn2166そのS会の第1回句会が一昨日でした。新たな会の発足を祝ってくれるかのような、穏やかな冬晴でした。

吟行先は「こんこんギャラリー」周辺です。小高い丘上のギャラリー駐車場奥の小道を進むと、視界が大きく開けて、正面に難台山が現れ、足下の段々畑の裾から向こうの麓まで枯野が広がり、端正な瓦屋根の農屋敷などが散在しています。

   一条の水のきらめき大枯田    小零

何でもない普通の田舎の風景、でもそれがしみじみと美しく見えた一日でした。


初茶会と生死

2012-01-09 19:23:28 | 原発

裏千家淡交会茨城支部の初茶会に行ってきました。Dscn2164梅花の扇と松葉模様の帯を締めました。近所の農家の御婦人が譲って下さったものです。半世紀以上前のお嫁入りの際に親御様が支度なさった帯だそうです。手触りが何ともいえず優しく懐かしい感じがします。

数百人(たぶん7百人以上)が集まる茶会ですが、運営がしっかりしていて、会場のホテル側との連携も良いのでしょう、他の大寄せの茶会のようにザワザワした感じやイライラするようなことも少ないですし、会場全体に連帯感のようなものも醸し出されています。亭主役の方々のお点前ももちろん素晴らしくて、見ているだけでウットリしてしまいます。

茶道は矛盾だらけの世界でもあります。清貧を貴ぶかのように言いながら、惜しみなく資財を投入した茶室で高価な道具を用いて、立派な着物を身に付けることが実際には貴ばれたり・・ どちらがホンネで、どちらがタテマエか、分からないような・・・

初茶会では「清貧」はもはや影を潜めたかのようです。お正月ですから、めでたく豪華に!という基調です。それを良しとするか悪しとするかは議論の余地があるかも知れません。ただし、この初茶会の券代(参加料)は、私の財布でも一応買えるぐらいの額ですから、この額でこの内容というのは大変お得!と思います。小扇子と小杯のお土産付です。

客はみな訪問着などの華やかな装いなのですが、何しろ私を含めて高齢女性が大半なので、ウーン・・・ それでも着慣れた方の凛とした姿は見応えがあります。数少ない若い女性の振袖姿は本当に可愛らしかったです! あ、それから、貴重な存在である殿方の袴姿はもちろん恰好良かったですよ

濃茶席、薄茶席、立礼席でそれぞれお抹茶を戴きましたが、お茶席で写真を撮るのは憚れたので、Dscn2158 点心席で運ばれてきた昼食を撮りました。これに御飯とお吸い物が付きました。色とりどりの品々が見栄えよく盛り付けられていて、ホテルの厨房関係の皆様の御苦労が偲ばれます。でも正直に言いますと、色も形も味もどこか嘘っぽいような・・・ ごめんなさい、お得!な茶会でこんな我儘を言ってはいけませんね。

当庵から水戸の会場までは車で1時間近く掛かります。この道のりを、高齢かつ未熟な運転者の私が時速60キロ前後で往復するのは、かなりのストレスです。

途中の路面に赤黒い1尺余りの模様がありました。犬か猫か、イタチかハクビシンか、轢死した小獣の血糊の跡のようでした。

帰り道では、2度も肝を冷やしました。一度目は、高齢の男性が自転車で、歩道から突然ふらふらと車道に入ってきたのです。タイミングが数秒ずれていたら、その男性と私はどうなっていたか・・ ゾッとしました。

2度目は、私が右折車線に入った途端、本線の前車の影から車線を横切ろうとする車の鼻が出てきたのです。慌ててブレーキを踏みながらハンドルを切りました。その車もかろうじてブレーキを掛けてくれたので、危機を回避することが出来ました。冷や汗が出ました。

めでたい初茶会への参加も、実は死と隣り合わせであることを思わずにはいられませんでした。3・11大震災では2万人近くの方が犠牲(死者・行方不明者)になられましたし、福島第1原発は今も予断を許さない危機が続いています。本震に次ぐような強い余震が今後起こったら、4号機の燃料プールが崩壊して、昨3月の事故をはるかに上回る大惨事に至るのではないか、と懸念されています。小出裕章氏が言うように、今は「戦争中」と同様の時代なのかも知れません。

戦国時代を生きた千利休は、信長や秀吉の戦地にも茶道具を担いで赴いて、茶を点てたそうです。一種の奇行のように私は思っていましたが、考えてみれば、死と隣り合わせという意味では、現代も戦国時代と同じなのかも知れません。しかし、当時の人々は、死を覚悟し、或いは死と隣り合わせの生であることを自覚していたのではないでしょうか。それに引きかえ現代に生きる私たち、いえ、私は・・・

Dscn2162 何とか無事故で帰庵したら、ユキが尾を大きく振って出迎えてくれました。ジュンのときと同様に、飼犬に迎えられると私は反射的に笑顔になってしまいます。今を生きているもの同士の連帯感でしょうか


手習い

2012-01-07 18:51:53 | 書道

隣村の書道教室に誘われて、通い始めました。村内の公民館で地元の長老が教えて下さいます。とてもとても優しい方です。生徒は10人弱の老若男女で、お喋りを交えながらの手習いです。

Dscn2155 筆ペンは使ってきましたが、本来の毛筆を握るのは高校1年生の授業時間以来です。お手本を見ながら一心に筆を動かしていると、なんとなく気持が落ち着いてくるような感じがします。不思議ですね・・


清沢満之 その2

2012-01-04 11:05:02 | 仏教

 明治36年(1903年)、清沢満之は私塾「浩々洞」発刊の「精神界」6月号誌上に わが信念 を書きました。執筆日は5月30日、満之は6月6日に亡くなりましたから、まさに絶筆です。

私の信念とは、申すまでもなく、私が如来を信ずる心の有様を申すのであるが、それについて、信ずるということと、如来ということと、二つの事柄があります。この二つの事柄は、まるで別々のことのようにもありますが、私にありては、そうではなくして、二つの事柄がまったく一つのことであります。

「宗教哲学骸骨」(明治25年)で頻繁に用いられていた「無限」という哲学用語は、もう見当たりません。いきなり「如来」と「信」が提示されています。

私が如来を信ずるのは、私の智恵の究極であるのである。人生のことに真面目でなかりし間はおいて言わず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の意義について研究せずにはいられないことになり、その研究がついに人生の意義は不可解であるというところに到達して、ここに如来を信ずるということを惹起したのであります。

当時の東大(今の東大とは格が違う!)で首席を通し、哲学者の道をそのまま進んでいれば、あの西田幾多郎をも凌駕していただろう、と言われるほどの智恵の誉れ高い満之が、「智恵の究極」としての信心を吐露しています。

満之の信心は「他力」です。「他」とは他人のことではなく、如来、つまり仏のことです。

私の信念には、私がいっさいのことについて私の自力の無効なることを信ずるという点があります。この自力の無効なることを信ずるには、私の智恵や思案のありたけを尽くして、その頭の挙げようのないようになるということが必要である。これがはなはだ骨の折れた仕事でありました。

我にはなんにも分からないとなったところで、いっさいのことを挙げて、ことごとくこれを如来に信頼するということになったのが、私の信念の大要点であります。

生死とは何か、時間とは何か、空間とは何か、宇宙とは何か、存在とは何か・・・ 肝心なことが私にはなんにも分からない、ということが、最近の私はようやく自覚できるようになりました。しかし、だからといって如来を信じる気持には至っていません。まだこれから、もしかしたら分かるようになるのではないか、とあらぬ期待の残滓を捨て切れていないからでしょうか。

「わが信念」は、以下の文で締めくくられています。文中の「死生命あり、富貴天にあり」とは孔子の論語にある言葉で、人の死生も富貴も天命による、という意味です。

私は私の死生の大事をこの如来に寄託して、少しも不安や不平を感ずることがない。「死生命あり、富貴天にあり」ということがある。私の信ずる如来は、この天と命との根本本体である。

6月3・4日に大喀血した満之に、傍の人が「先生、今度はどうしても死し給うべし、言い残すことなきや」と問うたのに対して、ただ一語、「何もない」とのみ答え、6日午前1時、苦笑しつつ呼吸絶えた(橋本峰雄による)そうです。

 


2012-01-02 18:50:25 | 家族

1月2日は娘の祥月命日です。墓参りに行きました。中規模の墓地で、あちこちに御家族お揃いでのお参りの様子が見えます。親戚同士が墓前で落ち合って「おめでとうございます」などと華やいだ挨拶を交わしたり、双方の子どもたちがはしゃいでいる声も聞こえました。墓地といえども、やはり正月なのです。

私の墓参は原則として一人です。変則的な人生を歩んできたから仕方がないのです。でも一人での墓参は、亡き人々を静かに思うことが出来ますから、私にとっては大切な時間です。

難病だった娘は1歳7か月で亡くなりました。病名は「先天性多発性腸閉鎖」です。病因は不明です。若い頃の私は食生活に無頓着でしたから、食品添加物の一種が娘の遺伝子を傷付けたのかも知れない、と今までは考えていました。

昨年の福島原発事故の後、放射能関係の本などを読んで、1960年代頃に米国・ソ連・中国によって続けられた大気圏内核実験によって、当時の日本が相当に放射能汚染していたことを遅まきながら知りました。私が成長期にあった時代です。

だからもしかしたら、娘の病因は放射能かも知れない、と思うようになりました。もちろん、そうではないかも知れませんが、そうではないと決めつけることも出来ないと思うのです。

生後すぐに大手術を受け、術後も不安定な病状が続いて、苦しむために生まれたような子でした。「どうしてこんな体に産んだの?」と、今でも娘に怨まれているような気がします。