みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

末木文美士著 親鸞

2022-07-31 12:27:23 | 仏教
末木文美士(すえきふみひこ 1949~)著「親鸞」(2016初版発行 ミネルヴァ書房)を図書館から借りて読んだ。
宗派内部からの解説等では得られにくい「親鸞解釈」によって、新鮮な気付きを得ることが出来た。



(法然・親鸞・道元・日蓮などの)新仏教中心論は、近代主義的、進歩主義的な歴史観に基づいている。それは、合理主義、密教否定、神仏習合否定などの特徴を持ち、プロテスタント的なキリスト教をモデルとする、いわばプロテスタント仏教ともいうべき性格を持っていた。

近代主義的、進歩主義的な歴史観と親鸞解釈は流布しており、私自身もそうした見方をしてきたように思う。しかし、その意義の限界と新たな視点を著者は提示している。

(西本願寺の島地黙雷(1838~1911))による政教分離と信教の自由の根拠は、宗教は心の問題であって、政治は外側の形に関わるのみであって、心の問題に立ち入ることが出来ないというところにある。しかし、それは逆に言うと、宗教は心の問題に局限されることになる。
 また(神道非宗教論の説は、)後に神道が国家神道化する際に有力な論拠とされた。

このように、近代の真宗は一見国家政策と対立するようでありながら、実際には国家政策に最も合致して、近代仏教の先頭に立つことになった。


国家と葬式仏教とのwin-winの関係・・ 苦々しい現実だけれど、直視しておくべきだろう。

清沢満之(1863~1903)はまた、近代的な目による『歎異抄』の発見者としても知られる。
(清沢の)門人である暁烏敏(1877~1967)~らの講義によって、『歎異抄』は広く普及することになる。親鸞と言えば、『歎異抄』の悪人正機説と直結して考えられる近代の親鸞像は、こうして形成された。その一つの総仕上げが、倉田百三(1891~1943)による戯曲『出家とその弟子』(1917)であった。


『歎異抄』が広く愛読されるようになるには、こうした経緯もあったことを再認識させられる。

『教行信証』(親鸞聖人の主著)の解釈もまた、近代的な目で見直され、新しい教学として再編されるようになった。これもまた、清沢の影響下に立つ曽我量深(1875~1971)、金子大栄(1881~1976)らによって推進された。

このように、近代的な解釈は、個人の内面的な「他力の信」を重視するところにあり、そのために、『教行信証』の根本をなす往相・還相の二種回向の問題などが抜け落ちることになった。また、近代的、合理的な発想に基づくことによって、もともと浄土教の中核をなす死者や死後の問題が欠落する結果となった。

死者や死後の問題・・・ウーン・・ この自分の死後は「無」だと考えざるを得ないのだが・・ 「死後の問題」とは、あくまでも「生者」にとっての問題なのではないか・・ 言い換えれば、生者にとっては「死後の問題」はある、ということか?

浄土真宗と出会って以来、今に至るまで私が最も強く惹かれている「自然法爾」について、著者は次のように述べている。

(親鸞聖人86歳のときの消息『自然法爾章』)によると、弥陀仏を超えた無上仏があり、それは「かたちもなくまします」とされることになる。これだと、阿弥陀仏が最高ではなくなってしまう。そこで、従来の真宗の親鸞解釈では、ともすればこの「自然法爾章」は無視されたり、軽視されることになり、他方、阿弥陀仏の神話性を受け入れにくい一部の知識人によって、高く評価されることになって、その評価が二分化されることになった。
 
そもそも阿弥陀仏は「かたち」を持っているのであろうか。
親鸞は本尊として、仏像の替りに名号を書いて与えている。それは、仏像のような「かたち」によって表されないからである。そうとすれば弥陀と「無上仏」とはそれほど決定的に異なるものではなく、連続しているとも言うことができる。

その重層性の緊張関係に親鸞の思想のいわば二枚腰的な強さがあると言うことができる。

ウムウム・・確かに、そういう感じがする。

この本の「終章」から、以下抜粋。

従来の親鸞像は、親鸞があたかも中世という暗黒時代に、突如宇宙人が舞い降りるように出現した近代人であるかのように描き出してきた。そうではなく、中世という時代の中で、その時代を最も真摯に生き抜いた思想家として親鸞を読み直そうというのである。そのように読み直すことによって、初めて現代という混迷の時代の中でもがく私たちに、親鸞は勇気と指針を示してくれるのである。


 

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