みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

カルガモ&アライグマ

2013-04-30 14:07:36 | 八郷の自然と風景

Dscn3377田水が張られて、田植えを待つばかりの代田。カルガモ夫婦が水緒を引きつつ静かに泳いでいます。

もう田植えを済ませて、幼苗が頼りなげにそよいでいる田んぼもあります。

若葉も田水も輝く晴天の日はもちろん素晴らしいけれど、今日のような曇の日は、落ち着いた気分で風景が眺められて、これはこれでいいのかも。

落ち着いた気分、とは言っても、農作業従事者にとっては大忙しの季節です。

小さな当菜園でさえ、草に追われるような草取り、畝作り、種蒔き、間引き等々、必要な農作業がひっきりなし でも、玉葱、葱、人参、ジャガイモ、小松菜、チンゲン菜、エンドウ、インゲンなどがほぼ順調に育っているのを見ると、嬉しく、有難い気持になります。

きょうも黄昏時に、愛車で5分ほどの田んぼ用水ポンプ機場へ。ポンプを止める前に状況確認のため用水路を覗いたら、用水路に渡した1尺幅の踏板の上を見慣れぬ獣が1頭、スーッと走り去ったではありませんか! 長い太目の尾の、褐色と黒色との太縞が目立っていました。

帰庵して調べた結果、アライグマと判明しました。アライグマは嫌われものの外来種。生態系を乱すし、農作物が被害を受け、狂犬病の感染源になりやすく、成獣は気が荒くて人間に危害を加えることさえあるようです。雑食で繁殖力も旺盛。都会にも出没しているとか。

多種類の野生動物が生息する環境は、本来なら嬉しいことなのだけれど・・ アライグマとの初めての遭遇に複雑な思いです。


鶏たちへ有難う

2013-04-27 20:22:48 | 

夕方の鶏舎へ給餌に入ったら、巣箱の中に卵が4つも

Dscn3374烏骨鶏のギンと矮鶏のウララは以前から時々産んでくれていましたが、昨年11月生まれの(雄の烏骨鶏のキンタロウと矮鶏のウララとの)ハーフの姉妹も産んでくれたのです。初産です

写真の向って左端の卵はギン、その右側はウララの、その右側の二つがハーフの初産の卵です。

ハーフの2羽は、最近めっきりふっくらと女らしく?なって、時々キンタロウの熱愛にも応えていましたから、初産を楽しみに待っていた私でした。

Dscn3370止まり木で就寝態勢のところをお邪魔して記念写真?を撮りました。向って左端の白鶏がギン、その右の褐色がハーフの一羽、その右の白鶏は雄のキンタロウ、その右は矮鶏のウララ、右端はハーフのもう一羽です。

ギン、ウララ、そしてハーフの2羽さん、卵を産んでくれて有難うね。キンタロウも、雌4羽を愛してくれて有難うね。


2013-04-27 19:58:09 | 八郷の自然と風景

昨朝6時過ぎ、田んぼ用水ポンプ機場での送水操作を終えて、各田んぼのバルブから水が勢いよく出ているのを確認しながら愛車で帰庵の途上、土手の草むらを慌てふためいて走り出した2頭の獣!! 土手下の側溝の蓋が破損して穴状になっているところに頭から落下するかのように、スポンと1頭、続いてスポンともう1頭、隠れてしまいました。

狸です。灰褐色の毛の丸々と太った胴体と短足に一種の愛嬌があります。おそらく夫婦の狸でしょう。狸の夫婦は同じ相手と一生連れ添い、行動も一緒だそうです。

狸は都会でも出没していますし、ましてや当地では普通に居る筈なのですが、夜行性ですし、私が野狸と出会ったのは昨朝が初めてでした。あの夫婦は遠出をし過ぎてしまったのかしらね

続いて今日の黄昏時、田んぼ用水機場での止水操作を終えて、水を湛えた田んぼや一番星を眺めつつ愛車で帰庵の途上、山路に入ったところで前方を横切る獣が車のライトに照らされました。あらあら、また狸でした!

狸とお近づきになれた2日間でした


熱いウーロン茶で

2013-04-25 08:39:33 | 暮らし

昨夜は、田んぼ用水ポンプ機場を運営する委員会の新旧委員歓送迎会が、近くの居酒屋「甚八」の一室で催されました。委員は各から選出され、概ね3年ごとに交代しています。

私は委員ではないけれど、ポンプ稼働を引き受けているので、いわばオブザーバーとしての参加です。皆様と親しく交流できる貴重な機会です。

Dscn3367話をお聞きして改めて具体的に分かったのは、ほとんどが兼業農家で、田んぼ等の農作業は出勤前の早朝や休日のみ。或いは、数少ない専業農家に田んぼを貸して、自らは田んぼの作業には全く携わっていない方も少なくありません。

兼業の職種は運送業務や土建業が多く、非正規雇用で収入も身分も厳しい様子です。そんな仕事の話になると、皆さん虚空を見詰めるような眼差しになり、寂しいような、諦めたような、そしてちょっとシニカルな微笑を浮かべたり・・

時間的にも厳しい暮らしの方が多いためか、新委員長の選出が難航していることを仄聞し、私は心配でヤキモキしていたのですが、先日、ようやくながら無事に決まったことを知り、安堵しました。

その新委員長が、席上での御挨拶の中で「ポンプをやっていただいているさん、毎日大変なことと思いますが、怪我などされないようお気をつけて、よろしくお願いしますね。」と言ってくださいました。胸にジワリときて嬉しかったです。

この田舎では居酒屋に集まるのも皆、車を運転してきますから、飲み物はノンアルコール。私は熱いウーロン茶を片手にお喋り。最後に戴いたおろしうどんがとても美味しかったです。


信じたいこと

2013-04-23 15:45:28 | 八郷の自然と風景

Dscn3361朱色のトラクターが田んぼを行き来しています。田起しの総仕上げです。昨秋の収穫期以降、幾度も田起しを重ねた田んぼの土はきめ細かく黒々として、まるで黒漆のように綺麗です。そうではない田んぼもありますが

21日から田んぼ用水ポンプの稼働を始めました。早朝5時頃に機場へ行き、取水口清掃とポンプ運転操作、日暮時の運転終了操作と翌日の準備、昼間の見回りなど、私の暮らしがポンプ中心のタイムスケジュールになる季節です。

Dscn3348ポンプが送る用水が各田んぼの隅のバルブから弾けるように出て、徐々に田んぼ全体を潤していきます。代掻き、そして田植えが始まるのももうすぐだと思うと、胸がワクワクします。

Dscn3351TPPのこともあり、農業の将来は暗くなるばかりで、この村の次世代の多くが農を継ごうなんて毛頭考えていない様子を責めることも出来ません。でも農業こそ民の暮らしと国家を支える基本です。ましてやお米は美味しくて栄養豊富で貯蔵性が高い最高の食材! この村の田んぼが末永く守られることを信じたいです。


野上弥生子著 「迷路」

2013-04-21 14:15:19 | 

この読後感を一体どう表したらよいのか・・・この本の凄さと魅力の前で、暫し茫然の私です。

Dscn33382・26事件の頃から終戦近くまでの時代を背景とした人々の、様々な個性と境遇とその生きる姿が、歴史、思想、心理、友情、恋愛、芸術等々多岐にわたる視覚から描かれています。その視覚の、嘘や曖昧さや誤魔化しはもちろん、決めつけをも許さない、丹念な物凄さに圧倒されます。

登場人物群の複雑さもあって、読み始めの数十頁は老化した頭脳にとって重荷でしたが、それを乗り越えた後は、心身に熱気を孕みながらの読書となりました。雑用や野良仕事や丈夫でない身への睡眠時間の確保等のために、読み掛けでこの本を閉じなければならない毎夜の所作に決断を要する日々でした。

登場人物の幾人かの死が、読者の私にとって実に理不尽に感じられたのが、私自身にとって意外でした。ストーリーとして不自然という意味ではありません。彼、彼女の死が、私にとって理不尽だったのです。彼、彼女の生死と、私の生死とに繋がりが生じた、ということでしょうか。私の心の中で、彼、彼女たちが生きているのを感じます。

余韻というにはあまりにも多くのことを考えさせ感じさせられる幕切れまで、野上弥生子の精神の物凄さに巻き込まれた本です。


田んぼ用水ポンプ機場&こんこんギャラリー

2013-04-19 20:02:56 | 田んぼ

村の田んぼのあちこちで赤いトラクターが行き来しています。田起しです。昨秋以降、もう何回も田起しを繰り返した田んぼの土はとても綺麗で、水を入れての代掻を待つばかりです。

田んぼ用水ポンプ機場も、21日からの稼働に向けて準備が始まりました。去る14日は取水口付近の泥浚いでした。各から集まった男性陣数名が頑張って下さいました。泥浚い時には用水路のゲートの上下が必要なため、制御盤の操作をするのが私の担当です。

取水口のゴミ除けの網が破れていたのが気になっていたので、今日の午前中に行って補修しました。孤軍奮闘で不器用ながらまあまあの出来?

Dscn3344_2午後は愛車で10分弱のこんこんギャラリーへ。待ち合わせを約束していた友人と一緒に いろいろないろ~漆と染め 春の小物展 を観賞しました。漆の作家は菊池麦彦さん、染めの作家は塚田憲司さんです。

美しい小物たちの世界に陶然・・ 友人は声を挙げて感動の連続。その感動が私の心をも増幅させました。

帰庵して菜園を少し耕して、ユキの散歩と給餌、鶏たちの給餌をしてから、再び機場へ。ゲートを下ろしておいたので、取水口付近の水嵩が増しているのを確認してから、制御盤を操作してゲートを上げました。すると溜っていた水がどっと流れだして、取水口付近のゴミも流れ去っていきます。

綺麗になった取水口を見て満足 これで機場は稼働を待つばかりです。


平和な暮らし

2013-04-16 20:54:51 | 八郷の自然と風景

Dscn3332暖かな日が続いています。ご近所のあちこちの庭先や土手際などにチューリップが輝くような色彩で咲いています。

菜園ではエンドウや玉葱などが勢いよく育ち始めましたが、草たちの勢いも凄まじい 草取り、夏野菜のための畝作り、種蒔き等々、野良仕事に精出す日が多くなりました。

薄霞の向こうの穏やかな筑波山を眺めると、平和な暮らしが殊のほか有難く思われます。

Dscn3337愛車を30分ほど駆って、友人宅を訪ねました。

私より一回り以上お若く、感性豊かなこの友人のお話は、私にとって新鮮で貴重なものです。

Dscn3341ティータイムに大きなケーキが2枚も重ねて出されたのには驚きました。

でもふっくらとして美味しくて、少食だったはずの私が完食! 添えられたオレンジと苺も、色と香りを楽しみながら、たちまち完食! とても大きなカップに紅茶がたっぷり淹れられたのにも驚きましたが、その深みのある味わいが素晴らしく、紅茶を嗜む習慣を長い間失っていた私が完喫!

お腹も満足、心も満足して帰路に着きました。平和な暮らしが次世代にもその次の世代にも続いてほしいと願いつつ・・


花のトンネル

2013-04-11 18:56:28 | 俳句

Dscn3327_3俳句の会で常陸風土記の丘を吟行しました。荒れ模様の天気が多いこの頃ですが、今日は雲間から日差しも注いでくれました。

八重牡丹桜が両側から枝を差し伸ばしている園路をそぞろ歩きました。濃いピンクの花がゆったりした感じで、五分咲きぐらいでした。

     現し世を忘じて花のトンネルへ

枝垂れ桜が続く園路もありました。残花のひとひらずつを、風に放ち舞わせていました。ソメイヨシノは早々と散り終わっていて、葉桜と言えるほどには葉も育っていなくて、どこか無惨な感じさえします。

園内に散在する山桜は、散り尽くして葉桜になり切ったのもあれば、満開に近い見頃の樹もありました。クローンのソメイヨシノとは異なり、山桜は一樹ごとに個性があるのですね。やや赤みの差した濡れ色の葉の茂りと清楚な白に近い花たちの模様が私は大好きです。

午後から公民館で句会。みなさん力作揃いで御機嫌です。話が弾んでいるとき、長老が自家製の羊羹を配ってくださいました。前年来の小豆の栽培、収穫、豆の選別、煮炊き、成型固化、切り分けまで全て、卒寿の御身でなさったのです。その上、皆のための紙皿、割箸も用意され、自ら配付され、賞味後のゴミの持ち帰りまで、他の人の手を煩わせないのです。

この俳句の会に寄せる長老のお気持の深さと御配慮、そして何よりもその羊羹の美味しさに感激

 


懺悔道としての哲学 序 (田辺元哲学選 Ⅱ その2)

2013-04-07 11:04:34 | 仏教

「懺悔道としての哲学 序」は、昭和20年すなわち敗戦の年の10月の執筆です。戦時下の苦悩の果てに、哲学の如き高い仕事は、天稟の低い私のような者の為すべき所ではない、という絶望に陥ったという田辺は、自身の思いがけない心境の変化を以下のように記しています。

・・何という不可思議であろうか。この絶体絶命の境地に追い込んで自らを放棄した私の懺悔は、意外にも私を向け変え、・・自己の無力不自由を徹底的に見極めよう、これこそ今までの哲学に代る私の仕事ではないか、という新しき決意に達せしめたのである。

  このような懺悔における転換復活は、当に親鸞がその他力法門において浄土真宗を建立した経路に外ならない。・・私は彼(親鸞の主著)の教行信証を懺悔道として読解することに力を注いだ。

親鸞聖人が86歳のときに「愚禿悲嘆述懐」として記された懺悔の深さ、厳しさ・・ 以下に抜粋します。(「正像末和讃」より)

浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし(=有ることは難しい) 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらに(=全く)なし

悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる

田辺は、自力的なる理性の哲学が現実との対決において避け難き二律背反に陥ることを踏まえて、カントの理性批判を超える絶対批判を提唱します。

 理性批判の主(=主人公)たる理性は、・・思想の絶対分裂に自ら全く引裂かれざるを得ないのである。この絶対分裂すなわち絶対批判であって、それは正に理性批判の徹底に外ならない。

しかもその絶対の分裂矛盾が矛盾をも矛盾的に否定する所に、絶対の転換が行なわれ、哲学が哲学ならぬ哲学として超越的に復活せしめられるのが懺悔道である・・

理性によって行うのではない、他力=現実の根底にある存在の原理(p.20)によって行われるこの転換は、田辺自身の実体験に即して語られています。

理性では説明できないこのような精神現象は、理性によって了解することはできないから、自身の「理性」を思惟の最高の主人公とする人にとっては、論外のことでしょう。

しかし自らの理性に不信を抱き、一方この著者の精神と親鸞聖人の言葉に真実を感じる私にとって、絶対批判→絶対の転換=懺悔道は、厳しいながらも希望の道に思えます。

 固より私は、今日自己の責任を回避せんがために国民に総懺悔を勧むる指導層の無恥厚顔を憎む者である。しかし・・国民の連帯責任を信ずる私にとっては、文字通りの総懺悔は当然の事である。

あの3・11の大震災、大津波、原発事故・・それらを知ったときの、打ちのめされ襲われた言い知れぬ恐怖と一体の罪悪感。そして何も為し得ぬ無力感が、罪悪感をも押しやりがちなこの頃・・ 懺悔の継続の困難を思い知らされます。

 民主主義国も社会主義国もまた、それぞれに懺悔すべきものをもつのである。・・人類は総に懺悔を行じて、争闘の因たる我性の肯定主張を絶対無の媒介に転じ、宥和協力して解脱救済へ相互を推進する絶対平和において、兄弟愛の歓喜を競い高める生活にこそ、存在の意味を見出すべきではないか。

この国の昨今の荒む一方の人心には、「絶対平和」なぞもはや言葉として通用する余地さえ無いのかも知れませんが、それでも一灯たらんとする人々~故人たる田辺を含めて~の心を拠り所にするほかはありません。