キリスト教には私はまるで疎いし、かなりの抵抗感もあるのだけれど、透明感のある小川国夫(1927~2008)の文体のためか、素直に読まされます。
知的に理解しようとする意思と信仰との関係に対する小川国夫の態度表明は、私にとって非常に興味深いところです。
例えばイエスの母マリアの「処女懐妊」について、
処女懐妊は、キリストの偉大さと気高さを讃えるあまりに考え出された非条理だ、という人々の立場も認めたい と留保しつつも、
聖書に書かれているままに受け容れている人々の信仰は、尊敬の念をこめて考えなければならない。信徒たちは「処女懐妊」の信仰から神を瞑想し、人間性の深みについて考え、貴重な宝を探り当てた。 というのです。
「カナの婚宴」で、水を葡萄酒に変える奇蹟によって結婚の披露宴をイエスが助けたという話については、
奇蹟の不思議に首をかしげる人は多いでしょう。この奇跡をそのまま受け入れたくない人はいろいろな説明をいたします。 が、もっと大きな意味を想定して、言葉のままに受け入れるのがいちばんいい読み方だ と小川国夫は言います。
このように知的な理解を超えて信仰できる人が、私は羨ましくてなりません。
死者の復活などということは、(仮死状態からの蘇生はあり得ても)知的な理解の仕方では到底信じられないですよね。しかし小川国夫は「ラザロの復活」についても、「キリストの復活」についても、疑念のカケラさえ述べていません。それどころか
「ラザロの復活」は、イエスの行動の転回点となった、特に大きな意味のある出来事という感じがいたします というのです。そして
使徒のパウロもペトロもヤコブもステファノも、イエスの復活をかたく信じ、そして永遠に生きる彼に対する信仰のために犠牲となった と。
「キリストの復活」は、キリスト教徒にとって、やはり信仰の要となっているんですね・・
この本の最後のくだりを引用します。
新約聖書全体が、なぜ書かれたかといいますと、その決定的な動機はキリストの復活にあったのです。信仰の証言として、そこから遡って書かれたのです。キリストが十字架上で息を引き取ったときに、弟子たちの信仰は危機にさらされました。しかし、キリストに対する信頼が、彼の復活を見たという確信によって完全に回復される、そういう事情が聖書の成り立ちにはありありと見てとれるのです。
このような揺るがぬ確信で築かれた信仰の精神に出会うと、私の精神とは異質の世界だ・・と思わざるを得ません。その分岐点?は一体どういうところにあるのか、分からないけれど。
芥川龍之介は絶筆「西方の人」で、(芥川自身とキリストを重ねあわせている、とまでは言えないかもしれませんが)キリストの死に自殺を見ているようなところがある そうです。
神に関して見たことを語れば殺されることを、キリストは分かっていた。十字架上の死は神の予定であることを知っていた。それでも神について語り続けた。ではキリストには「自殺」と見なされるような意志があったのか? そうではなかった。死を怖れず、端然として十字架へ赴いたのか? そうではなかった。怖れと悲しみに捉えられて苦悶した。挙句には「わが神よ、わが神よ、なぜ私をお捨てになったのか」と叫びさえしている(マタイによる福音書)。
キリストがもし死の苦しみをなめ尽くさなかったとしたならば、死は聖書の中に本当の姿をあらわしてこないでしょう。
キリストがその悲惨さをくぐりぬけた様子が書いてあるのですが、そのことによって初めて彼は万人の救いになり得るのです。
芥川のようにキリストの死に自殺の意志を見ていたら、本末転倒ということになるのでしょう。
イエス・キリストの生涯を読みながら、私は、芥川ではなくて、あの「カラマーゾフの兄弟」に登場する特異な人物像のスメルジャコフと、あろうことか、キリストとを重ね合わせてみずにはいられなくなりました。
「ドミートリイ兄さんは、イワンは墓石だなんて言うけれど、僕ならイワンは謎だって言うな。」 と三男アリョーシャは言うけれど、スメルジャコフこそ何と謎めいた人物像であることでしょう!
イエスの母マリアは処女のまま懐妊した。スメルジャコフの母リザヴェータ・スメルジャーシチャヤは白痴だ。小銭をもらっても、すぐに教会か刑務所の募金箱に入れてしまう。白パンをもらえば、出会った子供にやってしまったりする。彼女の性向は処女の清らかさを連想させる。
イエスは馬小屋で生れた。スメルジャコフは風呂場で生まれた。いずれも、出産に相応しからぬ異様な場所だ。
グリゴーリイは、みなしごは「神の御子」だと言ってスメルジャコフの育ての親となった。
イエスが12歳になったとき、神殿での学者の議論の中にあって、素晴らしい知恵と応答ぶりを示した。スメルジャコフは12歳のとき、グリゴーリイが教える宗教史をせせら笑い、天地創造の神話の不合理性を突き、グリゴーリイを揶揄した。
イエスは水を葡萄酒に変えて「カナの婚宴」の人々を喜ばせた。スメルジャコフは腕のいい料理人で、コーヒーもピローグも魚スープも絶品で、フョードル家の食卓を豊かにした。
イエスは、多くの人が罪から赦されるように、神への犠牲として血を流した。彼を処刑する執行人たちには、「神よ、この執行人たちは自分たちのしていることの意味がわからないのですから、どうか彼らを赦してやっていただきたい」と言った。
スメルジャコフは、その遺書に「だれにも罪を着せないため、自己の意志によってすすんで生命を絶つ。」と書いた。自殺だから他殺者の罪は生じないし、その罪を赦していただくように神へ請う必要もない、ということだろうか?
スメルジャコフの父親と見なされている人物には、道化者を演じる習性があった。
スメルジャコフは、その誕生から死に至るまでイエス・キリストを揶揄する道化者を演じきった。そのことによって、キリスト教の世界に復讐した、とも思えてくるような・・・
小川国夫は、この「イエス・キリストの生涯を読む」という本の序文で、
聖書は、私にとって、とてもおもしろい本です。今まで読んだ本の中で、一番おもしろい本だと言ってもいいでしょう。もちろん、そこに登場するイエス・キリストが興味津々であるからです。
と言っています。
不遜を省みず小川国夫の言い方に重ね合わせますと・・・ 「カラマーゾフの兄弟」は、私にとって、とてもおもしろい本です。今まで読んだ本の中で、一番おもしろい本だと言ってもいいでしょう。もちろん、そこに登場するスメルジャコフが興味津々であるからです。