みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

石田の三御堂

2015-04-29 17:32:49 | 俳句
俳句の会で、石田の三御堂へ行きました。八郷の人々にさえあまり知られていない所で、小さな丘にささやかな御堂が三つあり、それぞれ お薬師さま 観音さま お不動さま が祀られています。下の写真は観音堂です。



お薬師さまの傍らの牡丹桜があでやかに咲いていました。風が来ると花吹雪になり、地面も華やかに!



草たちも可愛い花を咲かせていました。 ハルジオン カラスノエンドウ スズメノエンドウ ハハコグサ チチコグサ タンポポ タビラコ カタバミ ・・・ 八郷でさえ珍しいニホンタンポポも見つけました。



御堂の周りの小さな野仏たちも魅力的です。

 

見渡せば、代掻や田植えが進む田んぼが広がり、その向こうに穏やかな筑波連山が横たわっています。今日は昭和の日。この平和な風景が続くことを信じたいのですが・・・

                 鯉幟小さく泳ぐ遠野かな










小川国夫 著 「イエス・キリストの生涯を読む」

2015-04-27 11:22:28 | 
キリスト教には私はまるで疎いし、かなりの抵抗感もあるのだけれど、透明感のある小川国夫(1927~2008)の文体のためか、素直に読まされます。



知的に理解しようとする意思と信仰との関係に対する小川国夫の態度表明は、私にとって非常に興味深いところです。

例えばイエスの母マリアの「処女懐妊」について、 処女懐妊は、キリストの偉大さと気高さを讃えるあまりに考え出された非条理だ、という人々の立場も認めたい と留保しつつも、 聖書に書かれているままに受け容れている人々の信仰は、尊敬の念をこめて考えなければならない。信徒たちは「処女懐妊」の信仰から神を瞑想し、人間性の深みについて考え、貴重な宝を探り当てた。 というのです。

「カナの婚宴」で、水を葡萄酒に変える奇蹟によって結婚の披露宴をイエスが助けたという話については、 奇蹟の不思議に首をかしげる人は多いでしょう。この奇跡をそのまま受け入れたくない人はいろいろな説明をいたします。 が、もっと大きな意味を想定して、言葉のままに受け入れるのがいちばんいい読み方だ と小川国夫は言います。

このように知的な理解を超えて信仰できる人が、私は羨ましくてなりません。

死者の復活などということは、(仮死状態からの蘇生はあり得ても)知的な理解の仕方では到底信じられないですよね。しかし小川国夫は「ラザロの復活」についても、「キリストの復活」についても、疑念のカケラさえ述べていません。それどころか  「ラザロの復活」は、イエスの行動の転回点となった、特に大きな意味のある出来事という感じがいたします というのです。そして 使徒のパウロもペトロもヤコブもステファノも、イエスの復活をかたく信じ、そして永遠に生きる彼に対する信仰のために犠牲となった と。 
 
「キリストの復活」は、キリスト教徒にとって、やはり信仰の要となっているんですね・・

この本の最後のくだりを引用します。

 新約聖書全体が、なぜ書かれたかといいますと、その決定的な動機はキリストの復活にあったのです。信仰の証言として、そこから遡って書かれたのです。キリストが十字架上で息を引き取ったときに、弟子たちの信仰は危機にさらされました。しかし、キリストに対する信頼が、彼の復活を見たという確信によって完全に回復される、そういう事情が聖書の成り立ちにはありありと見てとれるのです。

このような揺るがぬ確信で築かれた信仰の精神に出会うと、私の精神とは異質の世界だ・・と思わざるを得ません。その分岐点?は一体どういうところにあるのか、分からないけれど。

芥川龍之介は絶筆「西方の人」で、(芥川自身とキリストを重ねあわせている、とまでは言えないかもしれませんが)キリストの死に自殺を見ているようなところがある そうです。

神に関して見たことを語れば殺されることを、キリストは分かっていた。十字架上の死は神の予定であることを知っていた。それでも神について語り続けた。ではキリストには「自殺」と見なされるような意志があったのか? そうではなかった。死を怖れず、端然として十字架へ赴いたのか? そうではなかった。怖れと悲しみに捉えられて苦悶した。挙句には「わが神よ、わが神よ、なぜ私をお捨てになったのか」と叫びさえしている(マタイによる福音書)。

キリストがもし死の苦しみをなめ尽くさなかったとしたならば、死は聖書の中に本当の姿をあらわしてこないでしょう。
キリストがその悲惨さをくぐりぬけた様子が書いてあるのですが、そのことによって初めて彼は万人の救いになり得るのです。


芥川のようにキリストの死に自殺の意志を見ていたら、本末転倒ということになるのでしょう。

イエス・キリストの生涯を読みながら、私は、芥川ではなくて、あの「カラマーゾフの兄弟」に登場する特異な人物像のスメルジャコフと、あろうことか、キリストとを重ね合わせてみずにはいられなくなりました。

「ドミートリイ兄さんは、イワンは墓石だなんて言うけれど、僕ならイワンは謎だって言うな。」 と三男アリョーシャは言うけれど、スメルジャコフこそ何と謎めいた人物像であることでしょう!

イエスの母マリアは処女のまま懐妊した。スメルジャコフの母リザヴェータ・スメルジャーシチャヤは白痴だ。小銭をもらっても、すぐに教会か刑務所の募金箱に入れてしまう。白パンをもらえば、出会った子供にやってしまったりする。彼女の性向は処女の清らかさを連想させる。

イエスは馬小屋で生れた。スメルジャコフは風呂場で生まれた。いずれも、出産に相応しからぬ異様な場所だ。

グリゴーリイは、みなしごは「神の御子」だと言ってスメルジャコフの育ての親となった。

イエスが12歳になったとき、神殿での学者の議論の中にあって、素晴らしい知恵と応答ぶりを示した。スメルジャコフは12歳のとき、グリゴーリイが教える宗教史をせせら笑い、天地創造の神話の不合理性を突き、グリゴーリイを揶揄した。

イエスは水を葡萄酒に変えて「カナの婚宴」の人々を喜ばせた。スメルジャコフは腕のいい料理人で、コーヒーもピローグも魚スープも絶品で、フョードル家の食卓を豊かにした。 

イエスは、多くの人が罪から赦されるように、神への犠牲として血を流した。彼を処刑する執行人たちには、「神よ、この執行人たちは自分たちのしていることの意味がわからないのですから、どうか彼らを赦してやっていただきたい」と言った。

スメルジャコフは、その遺書に「だれにも罪を着せないため、自己の意志によってすすんで生命を絶つ。」と書いた。自殺だから他殺者の罪は生じないし、その罪を赦していただくように神へ請う必要もない、ということだろうか?

スメルジャコフの父親と見なされている人物には、道化者を演じる習性があった。

スメルジャコフは、その誕生から死に至るまでイエス・キリストを揶揄する道化者を演じきった。そのことによって、キリスト教の世界に復讐した、とも思えてくるような・・・

小川国夫は、この「イエス・キリストの生涯を読む」という本の序文で、  聖書は、私にとって、とてもおもしろい本です。今まで読んだ本の中で、一番おもしろい本だと言ってもいいでしょう。もちろん、そこに登場するイエス・キリストが興味津々であるからです。
 と言っています。

不遜を省みず小川国夫の言い方に重ね合わせますと・・・ 「カラマーゾフの兄弟」は、私にとって、とてもおもしろい本です。今まで読んだ本の中で、一番おもしろい本だと言ってもいいでしょう。もちろん、そこに登場するスメルジャコフが興味津々であるからです。


順禮供養塔

2015-04-25 08:56:37 | 文化
当庵から2百メートルぐらの山路脇に石碑がある。鬱蒼とした林の中で、少しだけ木漏れ日が差すところだ。



仰向けに倒れた状態で、やや斜面になった林床に背面が埋もれ掛けている。上部の中央に 湯殿山 と大きめの字。その向って右側に 羽黒山 左側に 月山 出羽三山だ。その下に 百番 とあるのは、坂東・秩父・西国 それぞれ33か所・34か所・33か所 合わせて百か所の観音霊場を指している。



碑面の中央部の彫字を通して読むと、 羽黒山・湯殿山・月山・百番 順禮供養塔 となっている。その右上には 文政六年 という年号、左下の文字は石碑の建立者の名前らしいが、苗字の 萩原 の下方は判読が難しい。 萩原藤左衛門 か?

文政6年(1823年)というから2百年近く前に、萩原某という人物が、修験道で名高い出羽三山と西国を含めた百の観音霊場の順礼を完遂し、その記念に供養塔を建てたものと思われる。

車も鉄道も無い時代の順礼は困難を極めたものだったに違いない。篤い信仰心が先ず有った上で、暮らしにそれなりの余裕が無ければ出来ないことだろう。裕福とまでは言えなかっただろうけれど、この界隈にはそれなりに豊かな土地があって、萩原某は村の多くの人々の心と力を集めた代表者として順礼に赴いたのではないか。

この山は、山と呼ぶには気恥ずかしいぐらい小さくて低いけれど、それでも麓の当時の村から見れば神聖な趣きがあっただろう。峰道は古墳に通じており、その峰道の分岐点近くにこの石碑は位置している。村の人々がお参りに来るのには適した場所だったのではないか。

それにしても、仰向けにひどい倒れ方をしている。土砂崩れとかの自然現象では説明しづらい。おそらく、明治時代の廃仏毀釈の煽りを受けて、人為的に倒されたのではないか、と私は思う。

出羽三山の修験道は神仏習合で、江戸時代までは仏教の要素が濃かったけれども、明治時代に入ってから徹底的に廃仏毀釈されたために、その後は現在に至るまで神道の要素が中心になってしまったそうだ。百番は観音菩薩を祀る霊場だから、もちろん仏教。この供養塔が廃仏毀釈の弾圧の的になった、と考えても不思議ではないだろう。

日本人の多くが、神道も仏教もキリスト教も便宜的に受け入れたり、逆に「無宗教」を誇示したりするのは、時代によって変化する弾圧に対して身を守る処世術が、いつしか骨身に染み込んでしまった結果のような気もする。思想(イデオロギー)を疎む傾向にも同様のことが言えそうだ。




春嵐の後

2015-04-22 12:47:44 | 八郷の自然と風景
一昨夜の春嵐は、雨量は少なかったものの、無茶苦茶にひどい暴風が吹き荒れて大変でした。昨日は田んぼ用水ポンプ本格運転の初日。山路には折れ落ちた枝々が散乱していたので、夜明けと共に犬の散歩をしながら片付け、それからポンプ機場へ行きました。

当庭のヒメリンゴは美しい花を咲かせ始めたところだったのですが、株立ちの中の1幹が倒伏。根元が虫食いで弱っていて、暴風に耐えられなかったのですね。剪定鋏と鋸を駆使?してバラバラに切断し片付けました。

嵐が去って、ようやく天気が安定。向こうの山並みも裏山も、そして当庭も、芽吹から新緑の風景に変ってきました。



当庵脇のコナラの木立は、白っぽい新緑です。今朝も梢でホオジロが弾けるような勢いの声で囀りを繰り返していました。あの小さな身体であんなに大きな声を出し続けて、喉が渇いてしまわないのか、不思議というか、感心してしまいます。



当菜園の野菜たちにも勢いが出てきました。エンドウの花は満開で、結実も始まっています。このエンドウには毛虫が沢山付いて、毎朝毎夕ピンセットとバケツを手に毛虫を取り除く作業を1週間ほど続け、ようやく落ち着いてきました。いろんな虫たちがいますが、毛虫はどうしても好きになれません。毛虫さん ゴメン!


鷹の目

2015-04-18 22:08:34 | 野鳥
夏鷹のサシバが ピックィーッ という独特の声を突き上げるように発しながら上空を飛ぶ姿をよく見掛ける季節になった。



今朝は当庵のすぐ近くの枝に止まったので、勝手口から撮った。カメラを向けている私の正体を、鋭い眼光で見通しているかのよう。猛禽類の視力は動物の中で最高なのだそうだ。

もう戦後ではない

2015-04-17 13:31:11 | 社会
日本はもう戦後ではない。戦前だ。開戦まで秒読みとまでは言わないが、月読みぐらいになった。他国から仕掛けられる戦争ではない。日本が仕掛ける戦争。地ならしの言論統制も徹底してきた。怖ろしい。両陛下の胸中は如何ばかりか・・・

雨降る北向観音堂

2015-04-14 22:25:45 | 俳句
小雨が途切れがちに降る中、俳句の会で小野越(おのごえ)の北向観音堂へ行きました。乗合タクシーの窓外に、八郷の風景が次々に展がってゆきます。周りの山々は、常緑樹の緑の中に芽吹きの薄緑と山桜の薄桃色が混ざり合い、峰の部分は白雲の群れに隠れています。田んぼは田起しが大方済んでいて、黒っぽい土が雨に濡れて深い色を湛えています。

北向観音堂の由来は聖武天皇の時代に遡る、と伝えられています。現在祀られている観音像は江戸時代のもの(2007年に修復済)だそうです。お参りして格子扉から覗きましたら、御堂の暗がりの中に3尺ほどかと思われる観音様が仄かに浮かんでいました。お顔の表情は見えませんでしたが、お姿の輪郭が何とも柔らかく優しげなのが印象的です。

かって小野小町が峠を越えて(「小野越」という地名の由来です)この観音堂にお参りし祈願したところ、持病が快癒したとも伝えられています。小さくも美しく均整のとれた御堂の周りには、「化粧清水」と名付けられた岩清水が滴るところや、「姿見の池」と名付けられた半畳に満たない小さな池や、「かんざしの木」と名付けられた菩提樹(花が簪のような形)や、小町が和歌をしたためるときに用いたという「硯石」と名付けられた岩などがあり、小野小町を慕う人々の思いで満載の感があります。

御堂の屋根にも付近の田んぼにも山桜の花びらが散り、足元にはスミレやハルジオンやムラサキケマンやジゴクノカマノフタ(ジュウニヒトエの仲間)などが咲き、土筆も列を成すように出ていました。雨降る中での吟行に不安がありましたが、濡れた風景は心に染み入るような趣があるものですね。

仲間の一人が諸般の事情で今回を以て退会する、ということもあり、ひときわ心に残る句会となりました。

         去ると云ふ佳人を惜しみ春時雨

古参?

2015-04-12 19:13:41 | 田んぼ
昨夕は久しぶりに田んぼ用水ポンプ機場へ行き、用水路のゲートを下ろした。今日はポンプ試運転と取水口付近の泥浚いのため、各から委員の皆さんが作業着姿で集まった。私は今年度もポンプ運転を担当することになった。数えてみたら9年目だ。

私の立場は委員会の下請のようなものだけれど、委員さんは2年の任期で交代することが多いので、一同の中ではいつの間にか古参?になっている。新しい委員さんから作業方法などについて尋ねられ、私なりに説明するということになる。何だか照れくさいような、困ったような、でも頼られているみたいで少し嬉しいような。

2ヶ月ほど前から肩痛があるので、動力電気の主ブレーカーの(on off の切替に力が要る)スィッチを無事に操作できるか不安だったけれど、大丈夫だったのでホッとした。

加齢と共に体のあちこちに不調が増えてきて、この田んぼ用水ポンプの担当もいつまで出来るか分からない。でも何とか出来る間は続けたい。

本格運転は21日からの予定だ。あちこちの田んぼでは、代掻き・田植えに備えて田起こしが進んでいる。米作の社会経済的環境は厳しくなるばかりだけれど、大切な田んぼの風景が末永く守られるよう祈りたい。

初めての「茶カブキ之式」

2015-04-07 22:36:36 | 茶道
愛車を70分余り駆って、茶道の大先輩による代稽古を受けに行きました。国道のバイパス(一般道)は怖い! 流れの中でやむなく時速70キロ以上を出していたとき、今回もやはり追い越されました。

今日の稽古は花月(かげつ)の 茶カブキ之式  私は初体験です。事前に手元のテキスト(裏千家茶道教科16 七事式 中)で予習していたことが少しは役に立ちましたが、やはり実際に体験してこそのテキストです。

先ず 試み茶 を二種、点茶役が点てて連客が喫します。茶銘は上林の嘉辰昔(かしんのむかし)と小山園の式部昔(しきぶのむかし)であることが示されていました。連客は、喫しながら各茶種ごとの味覚の記憶に努めます。末客役の私も真剣に試みましたが、暗中模索の思い・・ ただ美味しい! と思うだけで済ませているいつもの調子とは大違いです。

味覚を慎重に確かめるように喫しながら、「強い味」とか、「散らばるような味」とか、「突き通すような味」とか「烈しい味」とか、それぞれの味覚を 言葉 に置き換えて記憶しようとしている自分に、後から気付きました。香道を経験したときも同様だったのを思い出しました。人間は言葉に頼って生きていることを再認識させられます。

試み茶 の後は、本茶 の三種です。たてまえは三種ですが、三種目は正客が辞退するので、実際に連客が喫するのは二種です。

本茶 の茶銘は開示されていません。喫しながら、試み茶 の味覚の記憶と比べます。上林の嘉辰昔なのか、小山園の式部昔か、それとも、試み茶 ではない先陣昔(せんじんのむかし)なのか・・・

連客の判断の当否が、最後に公表されます。私の判断結果は・・ 三種とも正解でした!

茶銘の判断が当たったからといって喜ぶべきことでなないし、当たらなかったからといって残念がることもない、淡々と事実を受け容れなければならないのだけれど、そして、当たったのはマグレだと分かっていても、やっぱり嬉しい気持を抑えることが出来ない煩悩の私です。

茶カブキ之式 をもう1席、その後に花月之式  全部で3時間半ほど、楽しくも緊張感に満ちた稽古でした。