~ 私はデカルトが現在形のコギトから出発したことに反対したい。 ~ 人間的自我は、むしろ「私は思惟した」ことをいま確認するところから導出されるのだから、「私は思惟した、よって私は存在する」あるいは「私は無であった、よって私は存在する」こそ哲学の第1原理と成るべきである。 (P.76)
確かに、コギトを過去形にすることによって、確認する主体と確認されるものとの関係性が明らかになるけれど、「思惟」は意識作用であって、「存在」と同義ではないから、「私は思惟した、よって私は存在する」という著者の言説を即座に了解することは出来ない。
逆説的だけれど、「私は無であった、よって私は存在する」の方に、私は着目する。
私は何を思惟していたのだろうか? 私ではない「他」を思惟していた。「私」について思惟していたときでさえ、その「私」は、思惟の主体である私ではない「他」だ。私とは、他者系の要に位置しているものだ。その要は、限りなくゼロに近付く。そこには、「他」から独立した何かは無い。
確かに、コギトを過去形にすることによって、確認する主体と確認されるものとの関係性が明らかになるけれど、「思惟」は意識作用であって、「存在」と同義ではないから、「私は思惟した、よって私は存在する」という著者の言説を即座に了解することは出来ない。
逆説的だけれど、「私は無であった、よって私は存在する」の方に、私は着目する。
私は何を思惟していたのだろうか? 私ではない「他」を思惟していた。「私」について思惟していたときでさえ、その「私」は、思惟の主体である私ではない「他」だ。私とは、他者系の要に位置しているものだ。その要は、限りなくゼロに近付く。そこには、「他」から独立した何かは無い。