みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

不在としての「私」 中島義道

2017-07-25 13:17:41 | 哲学
「私」はどこにも見当たらない
 眼前の視覚風景をつぶさに眺めてそこに「私」を探しても無駄であろう。私の身体の内部を探しても無駄である。


       



親鸞仏教センター(真宗大谷派)が発行する『アンジャリ』は、当地の畏友が定期購読していて、読後に私へ譲ってくださる。30ぺージほどの小冊子だけれど、いつも多彩な執筆者が登場する。

久しぶりに中島義道の言葉に出会った。5千字ほどの論考。この人の本を何冊も読んだわけではないのに、懐かしい感じがした。「私」とは何か?について、ヒュームやカントを引用した上で、簡潔に論じている。以下、抜粋を続ける。

世界にさまざまな自己同一的対象が、さらにはその総体としての「一つの対象世界(経験)」が「ある」からには、すでにいわばその反対側に自己同一的な「私」が登場しているのでなければならないのだ。では、なぜこうした自己同一的な「私」そのものを直接とらえられないのか?~それは実在する対象ではなく、不在のものだからである。

われわれがそのつどの<いま>のみならず、「もうない」過去や「まだない」未来の全体をも「ある」と思い込んでいる。それは、われわれが確固とした自己同一的・実在的・客観的世界を欲するからであって、われわれはこうした世界こそが「実在する」と思い込みたいのだ。

この私はこうした世界を現出させる(構成する)ことによって、みずからは「不在」というあり方を保ち、世界の「内」には見当たらない存在者なのである。

私は「実在」という言葉に、自己同一的なもの・持続するもの・客観的なもの、という意味を付与するようにいわば強制されるのであり、~こうして、ある有機体Sが言語を習得すると、現実の体験より実在的・客観的世界のほうが存在論的に優位に立つという「転倒」が起こり、前者を実在と呼んではならないことを学ぶのである。

は「私」という言語の普遍的意味を理解することよって、それがこの特定の身体Kに「宿る」私をとらえきれないことを知る。こうした否定的手続きをたどって、Sはそのかけがえのない現存在を自覚するようになるのだ。~不在は実在に否定的に依存するのであるから、実在に対する否定的な依存の仕方の違いに基づくのである。

客観的世界は、それから多様な知覚像を削り落とすことによって、はじめてみずからの自己同一性を保っているのであり、その意味で両者は相補的な否定的関係にある。そして、私とはこうした不在の知覚像をはじめとした不在の世界像の集積である。

私は特定の身体を機縁として世界と否定的関係を結ぶのであるが、身体そのものの「うち」に宿るわけではない。他方、私は身体と絶縁してそれ自体としてあり続けられるもの(実体)ではない。私は身体に否定的に依存しているのである。

生きているということは、存在の絶え間ない肯定と否定の連続なのだろうか?

「私」が死んだら・・私の世界も私も存在しなくなり、かつ存在を否定されることもなくなる。有でも無でもない、「空」と言うべきなのだろうか?


~(「私」が死んだら)世界は私によって支えられなくなると同時に、私から消え去ったのである。この場合、依然として客観的世界が存続するかのような気がするが、そのこともまた私が言語の習得とともに学んだことである。

簡潔、明快な論考として読んでいたら、最後のところで足止めを食らう。以前に読んだ『「死」を哲学する』もそうだった。中島義道の得意技なのだろうか・・・?

私は客観的世界においてもともと不在なのであるが、その客観的世界それ自体が幻想である場合、私が死ぬとはいかなることなのであろうか?

客観的世界が実在し、私の死とはその実在する客観的世界から離脱することではないとすれば、「私の死」を語る言葉を私はまったくもち合わせていない。とすると、それが想像を絶したこれまでにない新しいあり方かもしれないことも否定できないのである。

最後になって居直られたような、或いは常軌を逸したような、まさに「想像を絶」するような仮説?が、いきなり提示されている。中島義道の思考は、一貫性がない不誠実な謗りを免れないのだろうか? 否、あらゆる可能性を排除しない、謙虚な姿勢を証ししている、と言えないだろうか。己の知性にも全き信を置くまいと努めているようにも見える。おこがましい言い方をしてしまうと、少々へそ曲がりのところがあるようなこの哲学者、やんちゃではにかみ屋の男の子のような純粋さ、誠実さがあるようにも思う。








朝日里山学校

2017-07-04 22:02:25 | 俳句
俳句の会で、朝日里山学校へ行きました。昨夜の台風一過、ではありますが、梅雨曇り・・時折、しとしとと小雨がぱらつきます。朝日里山学校の周りの田んぼも、林も、向こうの山並みも、それぞれの緑を深めています。そんな万緑の底を這うように、白蝶たちが、此処彼処と尋ね回っていました。



朝日里山学校は、廃校になった朝日小学校の木造校舎を改修して、平成16年にオープン。農と食を主とした体験型観光施設です。今春には「朝日里山ファーム」もオープン。毎年1組の夫婦を、新規就農者研修生として受け入れるそうです。その一期生の小林さん御夫妻が、出荷作業中でした。有機農業で丹精された茄子、胡瓜、ミニトマトが、つやつやと輝いていました。ミニトマトを試食させて頂きました。



          噛めば香の弾けて出荷のミニトマト

小林さんは、建設コンサルタント会社を辞して、ご家族と共に、大阪から移住されたそうです。素敵な御夫婦ですね!