涼しいというよりも肌寒い夜明けでした。日が上ってカラッとした晴天に。夏バテで下肢のだるさに参っていた私も、さすがに体が動きやすくなって、犬と鶏の世話はもちろん、洗濯、布団干し、草刈り、種蒔き等々と、フル回転。
朝の野良仕事に区切りをつけて、鎌などを片付けていたら、傍らのコナラの樹冠から聞き慣れない声が・・ 撥ね付けるような短音を盛んに発しながら動く影があります。落葉はまだこれからのコナラの葉影に目を凝らしていると、鳥の姿が見えました! 黄色の太い嘴、黒く小さめの帽子(頭の羽)、黒い翼の端の方に白斑が付いています。イカルです! 図鑑でよく見るのに実際には出会ったことがなくて、会いたさが募っていた野鳥です。
キョッ キョッ と鳴きながら枝移りする・・ほぼムクドリ大で、全体が灰色、頭は浅く帽子をかぶったように黒く、大きくて黄色い嘴が目立つ。・・(翼の)初列風切に大きな白斑がある。(解説と写真は「山と渓谷社」刊の「野鳥」より)
図鑑の解説文の、要を得た簡潔で分かりやすい表現にはいつも感心してしまいます。おかげで、八郷で出会った野鳥は57種となりました。
イカルって変わった名前ですが、その由来は明らかではないようです。私はウロ覚えのギリシャ神話に登場する イカロス を連想してしまいます。父が作ってくれた羽根の飛翔力に有頂天のイカロスは、父の警告を忘れて高く飛び過ぎ、その羽根を固めていた蠟が太陽の熱で融けて墜ちてしまった、とか・・ 文明を過信し驕る人類の末路の話のようにも思われますね。
菜園も山並みも霧雨に濡れている静かな朝です。
見慣れない野鳥の群れが数日前から裏山に来ているのですが、今朝は静かです。昨昼は時々囀りを聞かせてくれていました。「焼酎一杯グィー」と聞きなされるセンダイムシクイの声と似ているけれど、もっと澄んだ声で、短めのメロディーです。その美しい声に心が吸い込まれそう! 梢の上を群で旋回するときなどは、合いの手のような一音を2~3回、強く発します。
手元の図鑑などで調べた結果、エゾムシクイ であることを確認しました。囀りは ヒーツーキー 、合いの手?は ヒッ ヒッ と聞きなされているようです。夏の間に北海道あたりで繁殖し、これから南の国へ渡る途中なのでしょう。(写真は「山と渓谷社」刊より)
八郷で出会った野鳥は、これで56種となりました。
一昨日のことで恐縮ですが、畏友に誘われて明圓寺の彼岸会法要に参りました。車で10分ほどの途中の風景にも、到着した境内にも、彼岸花が目立ちます。その花の赤い色が例年より淡い、と畏友が言います。確かにそんな感じ・・
受付で会費1200円を納めてから本堂へ。集まった地元の皆さまは20名ほどだったでしょうか。一緒に阿弥陀経を唱えました。お経への違和感が根強かった私ですが、少しずつ慣れてきました。とはいえ、浄土には金銀瑠璃や色々な花々や鳥たちや光が満ちあふれていて極楽だ、という内容は、あまり出来のよくないお伽話ぐらいにしか思えません。
お経の後は法話です。講師は筧次郎さん(1947~)。八郷で百姓をやっています」と自己紹介されましたが、そしてそれは事実で、当地では有機農業普及の指導者として知られていますが、一方で親鸞聖人を尊崇されて、その教えに独特の解釈を施し説いていらっしゃいます。
京大で哲学を専攻し、パリ留学後は大学講師をしていた、という経歴だから(と言ってよいかどうか)、理論家肌の筧さんの話は少々コムヅカシイという評があるらしく、今日は分かりやすい話をしてもらおうという寺側から、地獄と極楽 という演題を戴いたそうです。
お経が説いているような地獄や極楽が本当にあると思う現代人はいないでしょう と、筧さんはアッサリ言いました。競いあい、殺し合っている此の世こそ地獄のようなもの。豊かな国で天人のように優雅に楽しく生きていても、その生が楽しい程、死への恐れが強い苦しみとなるでしょう・・
この世の苦しみの根源は我欲。死ねば我欲が無くなるから、私も皆さんも、死ねば必ず、苦しみのない極楽=浄土へ往生することが出来ます。
筧さんには、長らく疑問に思っていたことがあるそうです。阿弥陀仏の本願は、私たち衆生の浄土往生。でも、死ねば必ず往生できるのだから、阿弥陀仏の本願にどんな意義があるのだろうか? 本願があろうがなかろうが、衆生は浄土へ往けるのに、という疑問です。
この疑問への回答を、筧さんはようやく得ることが出来たそうです。阿弥陀仏の本願は、私たち生きている者に、必ず浄土往生できるということを知らしめるためのもの。このことに最初に気付いた人こそ、親鸞聖人で、現生正定衆(げんしょうしょうじょうじゅ)という教えを説かれたのだ。と・・
阿弥陀仏の本願についての、この解釈・・なかなか心惹かれるものがあります。それでもなお解けない疑問が私には二つあります。
第1の疑問 死ねば我欲が無くなるけれど、肝心の我も無くなる。往生すると言っても、その往生の主体が無い。主体の無い往生なんてあり得るのか?
第2の疑問 必ず浄土往生できるということを知ったからといって、果たして安心(あんじん)が得られるだろうか? 知による安心というのは所詮は理屈に過ぎないのではないか?
どうにも私は救われない愚か者のようです。
未明には肌寒ささえ感じるようになりました。季節の移ろいの速さに、今更ながら驚くこの頃です。
菜園に赤蜻蛉が飛来しました。アキアカネのようです。秋空を群れ飛ぶウスバキトンボはよく赤蜻蛉と間違えられますが、秋が深まっても赤くはなりません。赤蜻蛉は当地でもあまり多くは見掛けないので、貴重な出会いです。
秋は種蒔きと苗の植付けの季節でもあります。今日はJAの直売所で白菜とキャベツの苗を5ポットずつ買ってきて植付けました。キャベツは虫害で傷みやすいので、明日にでもネットを掛けようかと思っています。
菜園のはずれに、彼岸花の花茎が伸びてきました。数年前、モグラ除けになる、と聞き、球根を埋めたのが毎秋、咲いてくれています。モグラは実際には彼岸花の球根(毒)を食べたりしないし、モグラ除けには役立たないことが後で分かりました。でも彼岸花の花の不思議な咲き方と美しさには、いつもしみじみ見入ってしまいます。
日が暮れるのも随分早くなってきました。暗くなってからやや時間を経たあと、軒端の向こうの森の上にお月様が上ってきました。私の拙い写真では輪郭がぼけていますが、実際には鮮やかな輪郭の十六夜です。昨夜の月も綺麗だったけれど、中秋の名月というのは気持が騒ぎ過ぎるようで、眺めていても雑音が聞こえてくるような感じがします。その分?今夜は落ち着いて観月できるような・・ い・ざ・よ・い という語感にも魅せられますね。
知識人という呼称を心からの敬意を以て捧げることが出来た加藤周一(1919~2008)。亡くなってから、もう5年になるんですね・・
本書は、岩波書店2007年発行。88歳での遺作ですが、その誠実な知性に心を正される思いで読みました。
日本社会には、・・過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。・・また、所属する小集団の内側では体勢順応主義への圧力が強い。かくして日本では人々が「今=ここ」に生きているようにみえる。その背景には、時間においては「今」に、空間においては「ここ」に集約される世界観があるだろう。
「今=ここ」を強調する時空間意識は、一方では俳句・随筆・絵巻物・茶道・能など、日本ならではの文化を産みだしました。
・・十七音節の句では、回想を容れる余地がなく、そのなかで時間の持続を示すのは至難である。・・ 服部土芳が「三冊子」に引く芭蕉自身の言葉によれば、「物のみへたる光、いまだ心にきへざる中にいひとむべし」ということになろう。時間はそこで停まる。
「今=ここ」を強調する時空間意識は、他方では、体勢順応主義や宗教の世俗化を助長しました。
天下の体勢は、一時代には「攘夷」に、次の時代には「開国」であった。「米英撃滅」の次には米国追随、「撃ちてしやまん」の次には平和主義、保護貿易による経済成長の次には市場開放と「自由化」が、体勢となる。・・体勢順応主義は集団の成員の行動様式にあらわれた現在中心主義である。
十三世紀にはいわゆる「鎌倉仏教」が(現世利益の)神仏習合を破って仏教信仰の超越性を強調する。しかしそれも、その後次第に神仏習合の広大な土壌に吸収されていった。
日本美術の特徴である非相称性についての一節は、特に興味深く読みました。
この国にはアジア大陸の広大な砂漠や草原がない。人は谷間や海岸の狭い平地に住み、・・風景はどの方向を眺めるかによって異なり、日常生活の空間があらゆる方向に均質に広がっていない。・・自然的環境は左右相称性よりは非相称性の美学の発達を促すだろう。
社会的環境の典型は、水田稲作のムラである。労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は、共通の地方神信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。・・個人の注意は部分の改善に集中する他はないだろう。
非相称性の美学が洗錬の頂点に達するのは、茶室の内外の空間においてである。その時期はおよそ十五・十六世紀の内乱の時代(戦国時代)と重なっていた。
ムラ社会全体の極度の安定が人の注意を細部に向けたとすれば、武家社会の全国的な流動性(「下剋上」と内乱)、その全体の秩序の極度の不安定も、社会的環境の全体からの脱出願望を誘うだろう。
・・大きな自然の小さな部分としての庭、その中へ吸い込まれるように軽く目立たない茶亭、その内部の明かり取りの窓、窓の格子に射す陽ざしが作る虹、粗壁の表面の質と色彩、茶道具殊に茶陶、その釉薬がつくる「景色」の変化・・・・・
・・そこにあるのは非相称的空間であり、その意識化としての反相称的美学である。意識化は十五世紀の村田珠光にはじまり、十六世紀の千利休に到って徹底し、いわゆる「侘びの茶」として完成する。
「今」文化と「ここ」文化とが出会い、融合、一体化した「今=ここ」文化について、夢幻能の舞台が例に引かれます。
・・舞いは一瞬の姿から他の姿へと移り、それぞれの姿が濃密な、決定的な、それぞれの時間の表現になるだろう。せまい空間の中での一瞬の経験はどこまでも深めることができるし、その表現はどこまでも洗錬することができる・・
最後に著者は、「今=ここ」の環境からの脱出に言及します。
雪舟や芭蕉が偉大なのは、彼らが日本の「自然」を発見したからである。発見するためには京都や江戸の旅の、閉じた文化圏の枠を破ってそこから脱出する必要があった。しかし今では彼らの発見した「自然」そのものがなくなった。少なくともその大部分が失われた。
心の外の世界では、すべての出来事が時空間の中でおこる。しかし心の内側でおこる想念は時空間に束縛されずにおこり得るし、またおこり得たという報告は、古来、無数にある。時空間を超越する条件は主として宗教的であり、・・人格的神を媒介しないで、時空間のみならずすべての二律背反(自他・生死・有不有)を超える神秘的経験の代表的な例は、禅の「悟り」であろう。
「今=ここ」を強調する日本文化も、究極的には「今即永遠」、「ここ即世界」の普遍的な工夫を必要とした。その必要が日本文化における禅の役割の背景であるだろう。
夏バテが抜けない私ですが、久しぶりに読書らしい時間を過ごすことが出来ました。外は嵐。裏庭の秋海棠が激しい風雨に打たれています。
俳句の会の吟行で、大場葡萄園へ行きました。既に多くの来客で賑わっていて、御主人夫妻とお手伝いの御婦人は大忙しでしたが、どの客にも気配りを尽くしながら歓迎して下さいました。
母屋は江戸時代末期の建築で、国の登録有形文化財。茅葺屋根の造形が見事です。屋根裏の造形も必見。葡萄の味ももちろん抜群!
暑さがぶり返した今日ですが、土間に入るとヒンヤリ涼しくて、火無しの炉を囲んだ知らぬ者同士の交流が生まれました。県内外の各地から来られている様子でした。
大土間の秋炉や人の親しかり
敷地内の一角には、「小さな村の小さな資料館」という札が掛かった納屋があって、一時代前の農機具を始めとした生活用具が保存・展示されていました。足踏み式の「縄ない機」を見た仲間は、かってこのような用具を使って実際に縄ないをしていたそうです。材料の藁を刺し込むタイミングと足踏みのタイミングが難しかったそうです。
米俵を見ていた仲間は、子供のとき俵ボッチ(俵の上下の蓋のようなもの)を作る仕事を担っていたそうです。米は大事な必需品だから、米俵に使う藁は、米がこぼれ出ないように上質のを選んだそうです。
やがて大型バスが2台来て、大勢の幼稚園児が弾けるように降りてきました。そして葡萄棚の下で先生の話を聞いたり、配られた葡萄を食べたり。色とりどりの帽子や服がチョコチョコ動いているのを見ると、あぁ誰しも、あんなに可愛い年頃があったのだ・・と感慨を覚えてしまいました。
どんよりした空模様で、時折しとしとと陰気な雨が降る日曜日。でも今日は茨城県知事選挙の投票日だから、選挙結果は目に見えているにしても、有権者としての意思表示をすべく、近所の方と一緒に愛車で投票所へ行きました。
投票所が見えてから投票を終えて去るまで10分間ほど。その間に外の有権者は誰一人として見当たりませんでした。係員は、珍客を迎えるように親切丁寧です。村の人々が熱くなるのは市議会議員選挙のときだけなのです。
午後はショッピングセンターへ買物に行きました。入口近くにワイシャツ姿の中年の男性が立っていて、上目づかいにキョロキョロと辺りを見回しています。私服警官?にしては目立ち過ぎる位置だし・・などとボンヤリ思いながら通り過ぎようとしたら、近付いてきて「選挙管理委員会の者ですが・・」。そうか、あまりの低投票率の予測に対応すべく、こんなところで投票の呼び掛けをしているのか・・と了解した私は、「もう投票はしましたよ」。「有難うございました」と男。そしてポケットティッシュを呉れました。
帰庵して、そのポケットティッシュを見て、目を疑いました。超ミニの制服姿の女の子たちが、暗く不気味な戦車らしきものに乗って(うち一人は横たわって)いる絵が付いていたのです。そしてピンク色の字で ガールズ&パンツァー と書かれています。反倫理と戦争の臭気を発しています。不愉快です。
ネット情報によれば、 ガールズ&パンツァー とは放映済みのアニメで、戦車を操縦する武道としての 戦車道 なるものが、茶道などと同様に女性の嗜みとされている社会を想定しているらしいのです。こんなアニメを選管が利用するとは!
他愛ない戦争ごっこ、目くじら立てるほどのことではない、このアニメは茨城県内の大洗町を主な舞台にしてくれているし、若い世代の一部に人気があるから、選挙への関心を呼ぶために使うのはいいアイデアだ、とでも言うのでしょうか。
倫理観の欠如と戦争への不感症、そして好戦気分が、こんなにもはびこっているとは・・ 戦車の絵を白昼堂々と選管職員が配るとは! かってはよく耳にした 清き1票 の理念はどこへ去ったのでしょうか。驚きと憤りと無力感がないまぜになりました。
午前中は中央公民館で気功同好会でした。先生が目下、重点的に教えて下さっているのは 五禽戯(ごきんぎ) という気功で、虎・鹿・熊・猿・鳥 の動きを模したものだそうです。
私たち人間が日常では行わない変わった動きをするのですが、自分でやってみると不思議なぐらい違和感がありません。そして動きに気持が自然に集中します。
動いている途中の両手に、体液か、気なのかがサーッと流れたり、膨張するような感触があります。
夏バテで下半身がうんざりするほどだるくてたまらない私ですが、気功をやっているときは、そのだるさを忘れていました。
五禽戯 を終えた後、下丹田の前で 気 を練りました。広げたり狭くしたりする両手の間に、確かに何かが漲っているのを感じます。
それから、左の掌に対して右手人差し指を向け、その指をゆっくり廻します。左掌と右指は離れているのですが、右指の廻る動きに連れて、左掌の何かが・・気 が廻るのを感じます。
中国の長い歴史の中で育まれた気功で、身も心もリラックスすることが出来ました。帰庵して昼食を摂って、午後は隣地区の公民館の書道教室へ。書道も中国の長い歴史を抜きにしては語れませんね。
日本とは深い縁のある中国なのに、昨今のNHKなどの報道の偏向には唖然とするばかりです。
いきなりドシャブリの雨が降り出したかと思うと、暑い日差が射し込んできたり、不穏な空模様が続いています。野良仕事や犬の散歩などのタイムスケジュールに悩ませられる天気です。
一昨日は越谷市内などで竜巻が発生し、深刻な被害状況が報道されています。被災者のことを思うと胸が痛くなります。そしてもし竜巻が東電の事故原発を襲ったら、大量の使用済み核燃料や高濃度汚染水やメルトダウンした放射性物質がどうなるか・・怖ろしい限り・・
季節は移っていますが、夏バテで下半身がだるくてたまりません。体内の循環力が衰えて、老廃物が滞っているようです。かといって動かないでいると、余計に気力・体力が衰えそうなので、ノロノロながらも物入の中を整理しました。
当庵が小さいこともあり、今まで相当の量の物を処分してきましたが、それでもまだ不用の物がかなり出てきました。この齢になると、そのうち使う機会があるかも・・などと保管しておく意義はほとんど無いことを、自認せざるを得ません。そんな物たちを名残惜しみながら処分して、庵内も気持もスッキリしました。
この夏も読書する気力・体力を失っていましたが、市立図書館がシステム入れ替えで近日中から3週間ほど休業することを知り、慌てて最寄りの公民館の図書室に出向きました。
小さな図書室の中はひっそりとしていて、顔見知りの職員が隣室から顔を覗かせ「こんにちは」と、ひっそりとした声を掛けられました。利用者は私一人です。開架の棚から2冊を借り、本館蔵書の2冊の取り寄せを依頼しました。夏バテで朦朧とした頭の中を何とか軌道修正して、本に親しみたいと思います。