みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

白鵬バッシングの精神

2017-12-27 11:46:57 | 社会


週刊誌が白鵬バッシングを止めない最大の理由は「売れるから」だろう。なぜ売れるのか? 読者の心情に合うからだ。昨今のこの国の人々の精神に巣くう病理を反映しているからだ。だから、たかが相撲の話として看過できない不安と恐れを感じている。東京新聞に中島岳志がこの問題を論じていた。



少し長くなるが、一部を引用する。

元横綱・日馬富士の暴行事件は、いつの間にかナショナリズムの問題へと転化している。

太田肇は「『白鵬たたき』にみる日本型”イジメ”の構造」(東洋経済オンライン12月14日)の中で、白鵬バッシングに反映された「日本人の屈折した承認欲求」を指摘する。人間には、他者から認められたいという承認欲求が存在する。日本社会では、優れた能力や個性、業績をたたえる「表の承認」よりも、出るくいを打ったり、他人の足を引っ張ったりする「裏の承認」が横行する。「他人の価値を下げることで、自分の存在感を示そうとする」。モンゴル出身の白鵬は、日本人のナショナリズムという「裏の承認」に火をつけ、その恰好のターゲットとされているのだ。
 太田は言う。「その展開は学校や職場のイジメと驚くほど似ている」。上司・先輩のお株を奪うような活躍をする人や空気を読まない人が入って来ると、みんなで寄ってたかって嫌がらせをする。「しかも『敵』をつくって自分たちの結束を高めようとするため、嫌がらせはエスカレートしていく」。白鵬バッシングは、日本型イジメの典型である。


 能町みね子は「日本国体を担う相撲道の精神」(『週刊文春』12月14日号)の中で、貴乃花親方の民族主義が、弟子に与える影響を懸念している。弟子の一部は、ツイッターで旭日旗を掲げ、右傾化した言葉を繰り返し発している。背景には特定の新興宗教団体の影響があり、それはしこ名にも表れている。そのような貴乃花親方を「固陋な相撲協会に立ち向かう若き正義のヒーロー」と見なすことはできないとし、「どうか有望な弟子を変な方向へ導かないでほしい」と述べている。
 能町が指摘する宗教団体の代表者の書籍をひもとくと、日本を「神国」とみなし、その宗教的優位性を説く文章に出会う。南京虐殺の存在を否定的に扱い、教育勅語を礼賛している。推薦文を書いているのは貴乃花親方。

 戦前期の相撲は、戦時体制に向かう中、国威発揚に利用された。そのような道を、繰り返してはならない。相撲をめぐるナショナリズムの発露に、注意深くならなければならない。

根本悪

2017-12-20 20:49:38 | 哲学
東京新聞を開いたら、中島義道の顔写真が大きく出ていたのに驚いた。偏屈な筈のこの哲学者が、意外に平らかで上品?と言ってもいい表情で写っている。



内容は全体的に消化不良の感を否めない。仕方がないことだろう。政治の話題と哲学を直結させるのは、書くのも大変、読むのも大変だ。それでも、次の2か所は腑に落ちた。いずれも「」内は中島義道の言らしい。

~政権側はもちろん、野党側も「善の次元で議論をしていない」ように見える。

日本人は「功利主義をベースにしながら、自分にとって大事でない場合には情緒主義を採り、名目上は理性主義を採っている」~


     

それにしても、カントのいう「根本悪」。親鸞聖人のいう「悪人」の自覚そのままではないかと思う。


中島義道著 「観念的生活」 その11

2017-12-13 10:39:32 | 哲学
最終の15章のタイトルは、「哲学という病」。 「観念的生活」についての一連の当ブログ記事は、今回で一旦、終わらせます。

私が死んだらまったくの無になるのか、どうもその公算が強いが、(中略) 全くの無だとしても、そこに何らかの救いが求められるのではないか、という別の期待もぴったり寄り添っている。救いなど信じてもいないのに、あたかもそれらしく語っても嘘に嫌気が差すだけである。  (P.224)

無、そこに何らかの救いが求められるのではないか、という期待。私にもある。最後に残されているように見える一縷の望み。これがなければ、日常生活も成り立たなくなってしまいそうな、最後の望み。「救われたい」などと正直に言うと、憐れむような、蔑むような目付をされてしまうが、そんな人の強そうに見える精神は、実は「砂上の楼閣」ではないか、と私は怪しむ。


思えば、このテーマは私にとって、自分が「哲学する」根源的意味に関わっている。二〇歳の頃、私はなぜ哲学に足を踏み入れたのか。もし、死が永遠かつ完全な無であるとすれば、この人生には何の意味もない、生きる目的も価値もまったくないと直感したからである。そして、私は自殺したくなかった。もし完全な無であるとすれば、自分が永遠の無になることは脂汗の出るほど恐ろしかったから。 (中略) 二〇歳の私は「『この人生が生きるに値いしないことは確かである。だが、いますぐ死ぬのは恐ろしい。とすれば、私はどう生きたらいいのか』ということ自体を追求するために生きる」という答えを見出したのだ。 (P.225)

私も「自分が永遠の無になることは脂汗の出るほど恐ろしい」。いますぐ死ぬのは、もちろん恐ろしいし、そのうち必ず死ななければならないのも恐ろしい。それでも私は、「この人生には何の意味もない」とは思わないし、「生きる目的も価値もまったくない」とは思わない。

人生にはたくさんの喜びや感動がある。苦しみや悲しみや憎しみさえも、私にとって貴重な記憶だ。生かされている今、生きていることを実感したいと思う。観察者であるよりも、当事者でありたい。

(哲学を志す)主要目的は真理を知ることではない。真理を知りかつ救われることである(両者は一体となっている)。では、なぜ宗教に走らないのか。あくまでも合理的な仕方で、完全に理性的に納得して救われたいからである。救われないなら、せめて私が投げ込まれたこの残酷さを誤魔化さず、それを噛みしめて生きたいからである。 (P。227)

真理を知ることによって、はたして「救われる」ことが出来るだろうか? 仏教では、真理を「知る」とは言わず、「悟る」と言うことが多い。真理は、「合理的な仕方で、完全に理性的に」納得できるものではない、ということだろう。

理性は、人間が生きていくために編み出し、習得した必要不可欠なものだ。しかし現代人の多くは、自らの「理性」をあまりにも信じ過ぎているのではないか、と私は思う。理性を超えて納得できるものがあるのかどうか、今の私には分からないが。

中島義道は、理性の絶壁を彷徨っているようにも見える。




「問題」の増殖

2017-12-04 09:07:48 | 社会
龍神総宮社という新興宗教に漬かってしまっている親方の人格と理不尽な言動が、「問題」を歪つに増殖させている。 巡業に参加させない(しない)のは当然のことだ。 軟禁されている貴ノ岩の精神状態も心配・・・

幾つになっても

2017-12-02 17:17:55 | 俳句
今日2日午後と明日3日(午後3時まで)は、中央公民館まつり です。日頃、ここを拠点に活動している同好会が、年1回、展示・発表するのです。

私たち俳句の会も、若手メンバーが展示作業に取り組みました。60代、70代は若手! ワイワイガヤガヤ相談しながら、時には隣の同好会の本当の若手に手伝ってもらいながら、無事に出来上がり。共同作業って、幾つになっても楽しいですね!