みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

内面と外面

2023-02-04 10:08:29 | 仏教
冬籠の間に本棚の整理を少しずつ進めている。
当庵は小坪。家具類は最小限。本棚は1基(前後2重式)のみ。本だけでなく、資料類もファイルに綴じたり封筒に入れたりして納めている。

仏教関係の資料や記録類を整理しながら、1990年代後半頃から浄土真宗の通信教育を受講したり、有志主宰の勉強会に参加する等、私なりに仏教を一所懸命学んでいたことを今更ながら想起した。2010年代半ば頃からは、勉強会主宰者及び参加者の高齢化や他界等で、学ぶ機会が無くなっていった。私自身も気力、体力の衰えが進み、コロナ禍がダメ押しになった感がある。

この20年余の間に、私自身の考え方ないし感じ方がいつの間にか変わってきていることにも改めて気付かされた。

中央仏教学院(西本願寺系)通信教育を卒業後、中原寺(市川市)の「教行信証(親鸞聖人の主著)勉強会」に参加した。門徒でもないのに、通り掛かりの寺の掲示板の表示を見て、いきなり飛び込んだようなものだった。その会で或る日、「私のような信心の無い者が念仏する(=南無阿弥陀仏を称える)ことに意味があるのか?」という質問をしたところ、講師の住職(当時)は少し間を置いてから返答した。「形から入る、ということもありますからね・・」と。

人間は内面(思考)こそ肝心なのであって、外面(形式)に拘るのは無意味、というような価値観が若い頃からの私の脳裏に染み付いていた。だから「形から入る」というテーゼ(?)は意外に感じられたが、逆の言い方をすれば新鮮で、心に残った。

そして今、形とか、様式とか、習慣とか、外面的なことが内面に影響を与えること、場合によっては内面を左右することを実感するようになってきたのだ。例えば故人を追悼するのは、日常生活のどんな場面でもその気になれば(内面で)出来る筈だけれども、故人の墓前で掌を合わせるときに追悼の思いが最も深くなるのが現実だ。

「南無阿弥陀仏」と称える念仏は、仏教(浄土宗系)の伝統文化が育んできた様式である。その様式に親しむことは、内面的にも仏教の伝統へ繋がる働きを齎すのではないか。

「我思う、ゆえに我あり」と、近世哲学の祖デカルトが述べたそうだ。このテーゼにほとんど疑問を抱かなかった私だが、現在の私は、このテーゼは実態の一面に過ぎず、「我あり、ゆえに我思う」ことこそ、根源的な事実ではないか、と思うのだ。




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