みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

佐藤鬼房の俳句エッセイ集「片葉の葦」

2022-10-17 07:26:24 | 俳句
現在の私が俳句の一番の師と仰いでいるのは高野ムツオ(1947~)だ(直接の面識は無いから、「心の師」と言うべきか)が、その高野ムツオの師が佐藤鬼房(1919~2002)だった。
鬼房は鉱山労働者の家庭に生まれ、父親は若くして病死している。その「(社会的)弱者」の目線には、強く厳しく激しいものがある。

 

「片葉の葦」の各エッセイの多くは、昭和40年代が初出だが、浅学の私には新鮮で、目が醒める思いのところが多々あった。
以下、抜粋引用する。

或る夜の雑感ー有季定型についてー
 私は、季語も一つの言葉として返上し、一つ一つの言葉の機能を大切に扱いたいと思う。私には十七字のなかのすべての言葉がひとしく重要なのであり、「季」にかかわる言葉だけが、大切なのではないのだ。第一、「季語」だからといって完全な詩語ではない。言葉はむしろ符牒であると考え、それを十全な一つの詩として俳句として表現するとき、その方がより一そう言葉に対する、緻密な周到な心構えが自然に要請される結果になるのではないかと思う。
 いま今日の俳句を見るに、(有季は)季語を効用説風に使っているように、私には思えるのである。虚子でさえ、「俳句のために歳時記というものがあってー俳句というものは、この季語を最もよく活用する詩である」とか、「歳時記の不完全なところを私たちは埋めてゆくように努力する」といった意味のことを述べている。私は季語の効用説だけに限っていえば、これほど俳句の骨格を弱めるものはないと思っている~

社会性俳句の行方
 俳人として現代に生き、誰しもが時代の意識をもつ。自らの思想をもって、時代に順応して行くか、反撥するか、盲従のままにあるかは、様々であろう。しかし、詩というものは、自己に対して最大の誠実を誓うものであるべきだ。そういうときに、自己を偽る詩は書けない。書いてもそれは死物であり、もはや詩とはいえないものである。

昨今の俳句と俳壇
 適当にポピュラーで、適当に深遠で、そして読者の側に何がしかの言葉の知識があれば、適当にその作中に遊ぶことの出来る、いわば句の中に、ちゃんと自由席が設けられてある。そういうほんの少し高度に見える句が、いまも相変わらず量産されている感じなのだが、~
 ある譜系のものは、伝統の名において現代にかかわり、あるものは絶えず新しい波の試行に身を置くが、雄大な結社機構の恩寵にあずかって、一才能として息永く俳人の栄誉を保つか、あるいは、少数派の新しい衣裳の人たちにしても、かなり恵まれた伝達機関に乗って、手をかえ、モダニズムの現象を追うかに見える。そして、いまは殆んど、俳句というものを書きあぐむ、詠いあぐむ態の苦渋や挫折は見られない。
 私の偏見かも知れぬが、俳壇俳句はあるけれども、俳句そのものは、いよいよ出がたい昨今なのではないかという気がする。

雑感・わが新興俳句
 ~たとえインテリゲンチアの思索と脆弱な体質からにしろ、権威に対する間断なき反抗と、その実践は、そのことだけでも十分に新鮮なのである。
 さまざまな主張はあれ、とにかく新興俳句もまた文芸の一運動にほかならない。
 だから、作家の不抜の個性は、そういう運動をいちはやく終わらせるか、あるいは、その思潮の群れを越えることをしなければ結実しないであろう。いち早く越えた例が水原秋桜子・山口誓子。
 弾圧事件は拭うべくもない不幸であったが、運動に対する美化の役割をもつことを私はおそれる。
 現代俳句の旗手と呼ばれ、文字通り新興俳句の推進力の中心であった富沢赤黄男・西東三鬼その人の実質的評価も、戦後にようやく定着するのである。新興俳句とよばれる運動の歴史に思いをとめると、私には、ありありと高屋窓秋の映像が浮かび上がる。
しかし、この秀抜の作家は、つねに新興俳句そのものの渦中にあることをしなかった。彼は、運動の群れからいつのまにか外側に出て、自分の魂を磨くもののようであった。それでいて、充分に誰よりも新興俳句の真髄を保っているように私は思う。

霜割れ(エスキモー族の暦で「二月」を意味する)
 作家にとって一番必要なことは「自己に対して誠実である」ことである。「人間として誠実」「ひとに対して誠実」であるべきことは勿論大いに望ましいことだが、文芸理念がいつの間にか道徳論にすりかわり、道徳が主動的に語られてしまうことが多い。

リアリズム再び
 俳句が五七五の形態になり独立したのは、敢えていえば、韻律性からの脱出であり、詠嘆との袂別であり詠うことから考える詩への移行であると見ていいのである。
 現実といい、日常といい、私たちの卑近の素材そのもののなかに、詩としての秩序ある言葉、詩として統一された言葉があるわけではない。卑近の素材の分析、あるいは綜合の力をつくして、いわゆる詩的次元において再現しなければならぬのではないか。