みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

少女時代の友

2015-01-29 08:33:00 | 暮らし
昨夜のことですが、携帯電話の呼出音が鳴りました。画面には登録されていない番号が表示されていたので、不審に思った私は躊躇と警戒の念を持ちながらも電話に出ることにしました。

遠慮がちに名乗られたその声は、懐かしい故郷の同級生の旧友でした。世間知らずの少女時代の私のそばに、いつもさりげなく付いていてくれる、そんな友でした。

半世紀ほどの間、中断はあったものの年賀状の交換だけ続いていたのですが、今年も来る筈の彼女からの年賀状が来ませんでした。数年前から深刻な病気を患って闘病中であることを承知していたので、どうしても暗い想像がよぎり、敢えて私から様子を問い合わせるような気持にはなれませんでした。

暗い想像を一挙に晴らすような明るい声で、すっかり快癒したことを話してくれました。闘病の様子を改めて聞いて、生死の境にいたと言ってもいいくらい大変な状況にあっても、平静に事態を受け容れた上で闘病に努めた彼女の精神の軟らかな強靭さに、感銘を受けずにはいられませんでした。私にはとても出来なかったでしょう。

年賀状の作成は、新しいアプリの操作に失敗して送ることが出来なかったとのこと。事情が分かった今となれば、笑い話ですね。

今朝は一面の霜白。庭の侘助椿の花びらの縁を霜の小片たちが飾っていました。



村を綺麗に

2015-01-25 21:01:51 | 暮らし
夜が明けたら、強霜の白に全てがまぶされていた。今季一番だったかも知れない寒さも、日が上るにつれて緩む。今日は村の芝焼。風も弱く、ぴったりの日和です。



土手や畔の枯草を焼くのだけれど、担い手がいなくて放棄された田んぼに生い茂ったセイタカアワダチソウなども焼かねばならない。村の男衆が慎重に計画的に火を点けていく。いざと言う時のために消防団と小型消防車も待機している。



私たち女衆は空缶・ゴミ拾いを担当する。村の端から端まで貫く道路の両脇を、大きなビニール袋を提げて作業していった。村を通り過ぎる車の窓から放り投げたと思われるゴミが、人家の途切れたところに多い。

空缶が1ダース以上入ったビニール袋も棄てられていて、全く呆れてしまう。田畑はゴミ捨て場だとでも思っているのだろうか? 卑猥な週刊誌が何冊もばら撒かれていたところもあった。どんな人が棄てたのだろう・・と想像する。そして、その人の心はきっと不幸なのだろうと思う。

少し汗ばみながら村のはずれまで拾い終わったら正午を過ぎていた。一緒に作業した御婦人と共に収獲?したゴミを分別していたら、村の世話役が軽トラで来て、重くなったゴミ袋を荷台に載せ、私たち二人も荷台に乗せてくれて(道交法違反?!)戻った。

足腰が弱った身には楽ではない作業だったけれど、皆と一緒の共同作業で村が綺麗になるのは本当に嬉しく、楽しい日となりました。

鷽(ウソ)の声

2015-01-24 18:46:34 | 野鳥
裏山の脇道をユキ(飼犬)と散歩していたら、野鳥の小さな声が聞こえた。真っ青な空へ裸木(落葉樹)の枝々が展がっていて、その梢付近にスズメ大ほどの鳥たちが10羽ほど群れていた。

高い梢付近で、しかも逆光だから羽色などは分からないけれど、フィー フィー という細い声は鷽(ウソ)に違いない。悲しいような、清らかなような、はかなげな声・・・聞いていると、心の奥が微かに震えてくる感じがする。

ユキは雌なのに暴れん坊?な犬だけれど、私が梢を仰いで耳を傾けている間、おとなしく待っていてくれた。ユキも聞いていたのかも知れない。

「カラマーゾフの兄弟」 その4

2015-01-23 17:04:44 | 
作者が「わが主人公」と呼ぶのは、アレクセイ・フョードロウィッチ・カラマーゾフ、愛称アリョーシャだ。敬虔なキリスト教徒のアリョーシャが躓きから回心したときの情景は、宗教心のない読者にとってもやはり感動的と言わざるをえない。少し長いけれど抜粋引用する。

 何かがアリョーシャの心の中で燃え、何かがふいに痛いほど心を充たし、歓喜の涙が魂からほとばしった。

 頭上には、静かな星をこぼれるばかりにちりばめた空の円天井が、見はるかすかなたまで広々と打ちひらけていた。天の頂から地平線にかけて、まだおぼろな銀河がふた筋に分かれて走っていた。動き一つないほど静かな、すがすがしい夜が大地を包み、教会の白い塔と金色の円屋根がサファイア色の空にきらめいていた。絢爛たる秋の花は建物のまわりの花壇で朝まで眠りに沈んだ。地上の静けさが空の静けさと融け合い、地上の神秘が星の神秘と触れ合っているかのようだった・・・アリョーシャはたたずんで眺めていたが、ふいに足を払われたかのように地べたに倒れ伏した。
 何のために大地を抱きしめたのか、彼にはわからなかったし、なぜこんなに抑えきれぬほど大地に、大地全体に接吻したくなったのか、自分でも理解できなかったが、彼は泣きながら、嗚咽しながら、涙をふり注ぎながら、大地に接吻し、大地を愛することを、永遠に愛することを狂ったように誓いつづけた。『汝の喜びの涙を大地にふり注ぎ、汝のその涙を愛せよ・・・』心の中でこんな言葉がひびいた。なにを思って、彼は泣いたのだろう? そう、彼は歓喜のあまり、無窮の空からかがやくこれらの星を思ってさえ泣いたのであり、≪その狂態を恥じなかった≫のである。さながら、これらすべての数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が≪ほかの世界に接触して≫、ふるえていたのだった。
 

 何か一つの思想とも言うべきものが、頭の中を支配しつつあった。そしてそれはもはや一生涯、永遠につづくものだった。大地にひれ伏した彼はかよわい青年であったが、立ち上がったときには、一生変わらぬ堅固な闘士になっていた。そして彼は突然、この歓喜の瞬間に、それを感じ、自覚したのだった。アリョーシャはその後一生を通じてこの一瞬を決して忘れることができなかった。「だれかがあのとき、僕の魂を訪れたのです」後日、彼は自分の言葉への固い信念をこめて、こう語るのだった・・・


回心はまさに宗教上の体験であり、精神的あるいは精神を超える出来事であり、物質的であったり具体的なものであったりはしない筈。そして読者の私は宗教心に乏しく世俗の垢にまみれているというのに、アリョーシャのこの回心の場面が、何故かくも生き生きと、切々とした実感を伴って伝わってくるのだろう・・・ まさに恩寵のようなドストエフスキーの言葉たち!

以後のアリョーシャは、知性と情愛と行動力に恵まれたほぼ完璧な人格の青年として、この小説世界の芯棒となり、いわば舞台回し役を務める。それは大役ではあるとしても、そのアリョーシャ像に現実感が乏しいのは否めないように思う。それは回心後のアリョーシャが自己=エゴを超越したからかも知れない。完全な善性・聖性は陰影が無くなり、いわば「のっぺらぼう」の違和感を生ずるのだろうか?

アリョーシャには他者の苦への理解と苦悩の共感はあるが、苦の当事者ではない。アリョーシャ自身の苦悩が無いのだ。

アリョーシャの愛は、少年たちの心を救うことが出来た。富裕なカテリーナの援助があってこそではあるにしても、それは実に美しい世界だ。少年たちへのアリョーシャの訓話も美しいが、美し過ぎる。

この本の最初に置かれた作者の言葉を聞こう。

 わたしにとって彼はすぐれた人物であるが、はたして読者にうまくそれを証明できるかどうか、まったく自信がない。要するに、彼はおそらく活動家ではあっても、いっこうにはっきりせぬ、つかみどころのない活動家である、という点が問題なのだ。

 重要な小説は2番目のほうで、これは、すでに現代になってからの、それもまさに現在のこの瞬間における、わが主人公の行動である。


アリョーシャと少年たちの場へ届けられた少女リーザの花束には、2番目の小説への導火線が仕掛けられていたのかも知れない。

しかし「重要な」2番目の小説は書かれなかった。1番目の小説が完成した年の翌年に作者ドストエフスキーが病死したから。

エナガたちの声

2015-01-21 16:53:05 | 野鳥
今日の寒さは厳しい。底冷えがして、冷え症の私は厚い靴下を2枚履いているけれど、それでも足先の感覚が麻痺しそう。日差しも無くて、雪でも降りだしそうな曇り空だ。

気持まで暗くなって庵内に籠っていたら、ジュクチュクジュクチュク・・と小鳥たちの声。エナガたちが庭の沙羅の木(夏椿)を訪れていた。途端に顔がほころんだ私である。



窓ガラス越しにカメラを構えた。10羽ぐらいの群れだ。エナガたちはその名の通りの(身体が小さい割には)長い尾を振りながら、ひっきりなしに動く。枝を突いたり、細枝で前回転したり、逆上がりしたり、枝移りしたり。私のカメラの腕では撮るのは至難だけれど、今日はどうにか写真らしい?のが撮れた。



声を掛け合いながら、ひとしきり採餌して、やがて近くの雑木林へ移っていった。この冬を乗り切れるかどうか、分からない生命たちだ。


「カラマーゾフの兄弟」 その3

2015-01-20 06:32:02 | 
この小説世界で特に異彩を放つ者、それはスメルジャコフだ。スメルジャコフこそ「カラマーゾフの兄弟」の少なくとも影の部分の主人公ではないか、と私は思う。

もし今スメルジャコフに会ったら誰しも、嫌な奴! と思うに違いない。卑しく陰鬱で醜い。このスメルジャコフに私は強い関心を持たずにいられない。ときには恥じながらも共感さえ覚えてしまう。

スメルジャコフは料理人、つまり労働者だ。それも腕のいい料理人である。しかし人々からは愚鈍で従順な雇われ者として虐げられている。貴族たちの傲慢とスメルジャコフの欺瞞がそうさせているのだ。

スメルジャコフにも人生への渇望が無かったわけではない。愛欲、知識欲、金銭欲・・・しかしいずれもかりそめの欲望だ。苦悩も迷いも少ない・・のっぺらぼうの暗さ。

スメルジャコフの人生の意味、それは「復讐」だったのではないか。既に出生のとき母への復讐は果たされた。長じて父へ復讐し、終には自らの人生へ復讐した。ハイライトはイワンへの復讐だ。「すべては許される」というイワンの矛盾を突き、イワンの欺瞞を暴き、イワンの悪魔性を証した。

 この町の、スメルジャコフが住んでいるあたりには、ほとんど街燈もない。イワンは吹雪にも気づかず、本能的に道を選り分けながら、闇の中を歩いて行った。

そしてイワンは、身動きできないほど狭いスメルジャコフの部屋に吸い寄せられる。

イワンに対するスメルジャコフの応酬の3連章は圧巻だ。①「スメルジャコフとの最初の対面」②「二度目のスメルジャコフ訪問」③「スメルジャコフとの三度目の、そして最後の対面」 ③の一部を抜粋しよう。
 

  あなたはとても賢いお方ですからね。お金が好きだし。私には分かってます。それにとてもプライドが高いから、名誉もお好きだし、女性の美しさをこよなく愛していらっしゃる。しかし、何にもまして、平和な充ち足りた生活をしたい、そして誰にも頭を下げたくない、これが一番の望みなんです。

スメルジャコフの言葉は一筋縄ではいかない。多義的な解釈が可能で必要だ。最後に書き遺した一文の謎も深い。まるで今に生きる読者に対しても、ひそかな復讐を挑んでいるかのようだ。


 

ウグイスカグラが咲く頃

2015-01-19 12:28:38 | 暮らし

庭のウグイスカグラが、いつの間にか咲き始めた。精一杯咲いても径1㎝あるかなきかの小花が私は大好き。10年ほど前、裏山の林床に芽生えていた幼木を2株移植した。その後、1株は茶道の恩師に請われて差し上げた。その恩師は今、闘病中だ。


年賀状を整理している。毎年律儀に送ってくるのに、今年は音沙汰ない方が何人かいる。その内の1人は、私が上京・就職して緊張と戸惑いの連続だった頃に、さりげなく温かい声を掛けてくれた先輩だ。職場全体にとっても穏やかなムードメーカーだった。

昨年の正月はメールで年頭挨拶を貰った。癌を患っていることを仄聞していたので、気になって電話したら、お声は昔と変わらず楽天的に聞こえたが、病状は進み椅子に座って字を書くことが出来ない、ベッドに横になってメールを送ったり電話することは出来る、妻も病弱で、昼食と夕食はお弁当の配達を頼んでいる、等々。トイレへ行くのも大変で地獄だ・・そんな悲惨な話にも苦笑をまじえるところが彼らしい。私は慰めようも励ましようも知らなかった。

その彼から、今年はメールも電話も来ない。こちらから電話をしようかと思わなかったわけではないが、しないことにした。私の人生の何処かが崩れていく感じがする。



「カラマーゾフの兄弟」 その2

2015-01-16 08:11:56 | 
裏山の林床や山路の脇に、そして当庭の片隅にも実生の発芽が生ずる。小さな背丈で真っ直ぐ空へ向っている。小鳥たちが齎したものかも知れない。屈み込んで覗く。互いの生命を共感したいと思う。

言葉も実生のように齎されることがある。それは心に芽生える。この小説の中に次の言葉があることを知ったとき、そんな思いがした。

      人生の意味より、人生そのものを愛せ

イワンとアリョーシャとの対話の中の言葉だ。兄イワンは、神が創ったというこの世界を認めることができない。忌まわしい現実の代表例として幼児虐待の数々が挙げられたのは意外だった。それは現代社会の病理のように私はみなしていたから。

そしてイワンは叙事詩「大審問官」を語りだす。「人はパンのみにて生きるにあらず」としたキリストへの反逆の物語だ。大審問官には、体制に従わない異端者を火刑に処する残虐性と共に、支配統治者としての大義と欺瞞と苦悩とがある。民衆は自由を放棄してパンの恵みを受け、支配された心を自由だと思う。

  
支配された民衆の心の問題は、情報管理が徹底した現代社会において一層深刻な現実となった。統治者の大義と民衆支配の方法は、未来へ続く壮大な問題の筈だが、現状は混迷の一途。

重苦しい自説を展開するイワンだが、「人生への渇望」を吐露するときの彼には、輝くような若さがある。

生きていたいよ、だから俺は論理に反してでも生きているのさ。たとえこの世の秩序を信じないにせよ、俺にとっちゃ、≪春先に萌え出る粘っこい若葉≫が貴重なんだ。青い空が貴重なんだよ。

世界への不信と人生への渇望。イワンは両極を振り子のように揺れながら生きているのだ。
アリョーシャは・・

兄イワンが身体を揺するようにして歩いているのに気付いた。それに、後ろから見ると、右肩が左肩より下がっているようだ。

このイワンの行先に、とどめを刺す者が待っている。


千鳥の杯

2015-01-13 21:55:15 | 茶道
愛車を一時間余り走らせ、先輩茶人の「初釜」の席へ参りました。闘病中の恩師に代わっての稽古を兼ねて、という有難い御配慮です。



代稽古とはいえ、初入り・初炭手前・懐石・中立(なかだち)・後入り・濃茶・後炭手前・薄茶、という本格的な茶事。メンバーは、亭主・半東(亭主の補佐)・水屋番の各1名ずつと、連客が5名。先輩茶人の先生は、指示したり、各人の所作の間違いを正したり、ときには「お詰め」(末客)の役を手伝ったり、大忙しですが明るくテキパキと進められ、その上デジカメを離さずに撮影記録も怠らず、敬服!



懐石の後半では「千鳥の杯」も体験できました。手元の本によれば、「昔から杯の献酬はいろいろな形がありましたが、茶席で行うこの杯の献酬が、最もその意を得たものだといわれています。」とのこと。正客の杯をお借りして、亭主も連客もお酒をいただきます。その杯が、正客→亭主→二客→亭主→三客→・・と受け渡される動きが「千鳥足」に似るので「千鳥杯」という訳です。(なおこのとき、連客は自席に座ったままですが、向かい側の亭主は上座から下座へ移動していきます。)

慣れない身には複雑そうな千鳥杯ですが、杯の受け渡しを通して互いの気持の交流が醸し出され、何ともなごやかなひとときでした。

今回初めて席を同じくしたお一人から、「私は八郷の風景が大好きなんですよ・・」と静かな感動を湛えた眼差しで言われたことも大変嬉しかったですね。


「カラマーゾフの兄弟」 その1

2015-01-11 07:54:38 | 
あまりにも有名なこの小説だが、お恥ずかしいことに初めて読む。やや厚めの文庫本で上中下の3冊だ。気力も知力も体力も衰えたこの齢で、果たして読みおおせられるか躊躇いながら手に取った。

そもそも私は翻訳小説が苦手だ。(原語がダメなのは言わずもがな) カタカナの人名が3つ以上出てくると頭痛がしてくる。翻訳文の違和感にも躓いてしまう。

ところが・・今回は違った。たちまちドストエフスキー(1821~1881)の世界にのめり込んでいった。推理小説仕立てで読者を惹きつける、その牽引力の凄まじさ! 神と不死、倫理、恋愛、精神病理、階級社会、政治思想、等々いずれのテーマも抜き差しならない切迫感で突き付けられる。


万華鏡、いや万魔鏡の世界だ。起承転結などの構成の常識を超えた、まさにクライマックスの連続だ。「出来事」のクライマックスと共に、「弁論」のクライマックスも特筆すべきだろう。ゾシマ長老の説話・イワンの叙事詩「大審問官」・スメルジャコフによるイワンへの応酬・検事と弁護士の論戦・アリョーシャから少年たちへの訓話・・・等々。
  

この劇的な小説を書いたドストエフスキーの生涯も(訳者あとがきによれば)また劇的だ。危険思想家として逮捕され、死刑執行される直前に恩赦を受け流刑となっている。 父親は暴君地主で、百姓たちに惨殺された。恋愛関係も複雑だったようだ。                  

時代も劇的だ。この小説の執筆期間 1878~1880 のロシアは、ロマノフ王朝末期。アレクサンドル2世(1818~1881)(在位1855~1881)が、クリミア戦争の敗北からロシアを再生させようと、上からの近代化を図った。農奴解放令や司法改革(陪審員制度の導入など)だ。しかし一方で近代化とは裏腹な専制政治を敷いた。これに対して、革命主義的な知識人階級=インテリゲンティアが台頭してくる。アレクサンドル2世がテロリストに暗殺されたのは、1881年だ。
   

時代の違いは殆んど気にならない、どころか、現代社会そのものが暴かれ、現代人の精神世界の問題が問われている感じさえする。しかし正直に言わねばならないが、この小説の世界と私自身の精神世界との距離感は如何ともしがたい。それは私自身の知と情と苦の浅さに起因する。せめてこの小説の深さと烈しさに打ちのめされていたいと思う。