「懺悔道-Metanoetik-」は、1944年すなわち敗戦の前年の10月、京都哲学会公開講演会での記録です。
敗戦後の一時期「一億総ざんげ」という言葉が流行しましたが、田辺の「懺悔」には、まやかしを許さない厳しさがあります。
・・自己の安逸のために無力を告白する事もあろう。・・自己には懺悔をする能力があると言う自己満足や誇りに転落する事さえある。・・懺悔と自ら言う時、不純になり、煩悩に纏いつかれ、窒息せしめられながら懺悔以前の状態に戻る事がある。従って懺悔は不断に繰返されねばならず、そこに懺悔の無限性がある。
懺悔道に至った契機として、田辺は近代科学の行詰り(数学や物理学における二律背反等)と時局の行詰りを挙げています。そして科学の行詰りも、理性の本質に由来する必然と見ています。
・・理性の要求の行詰り、理性自身の破綻が見出されるのであり、これは私個人とか時局一般に関するのみならず、凡そ歴史の中における人間の知識に関する理性の自己矛盾である。 理性は理性自身を批判せねばならぬ。理性には絶対批判が課せられて居る。
Noetikとは希臘以来の西洋哲学全体を特色附ける・・理観の立場である。・・私は理観に対する行道(Metanoetik)が哲学の道であり、それは懺悔の働きであると申したい。
田辺の哲学は超理観の学です。
哲学は理性に依拠すべきであるならば、理性を超える学はもはや哲学の名に値いしないものとして斥けられるべきかも知れません。しかし田辺には、理性の境界を超えることに必然性はあっても躊躇する理由はなかったのでしょう。そこに私は、田辺の精神の真摯な自由を感じます。
田辺は現実における行詰りとして、勝つべき戦争に勝てぬと言う無力感を指摘しています。勝つべきであったかどうかは別としても、あの戦時下において、公の場で勝てぬと明言した精神のただならぬ強さを思わずにはいられません。
この時局の行詰りは、田辺にとって重い責めを負うべきものでした。
私は・・自己の無力を厭々ながら正直に認める外はなかった。しかし全く自己には何もできぬと言って頭を下げた時私には不思議な事が起こった。・・今まで焦り続けて居た不安・焦慮から救い出されて、非常に開かれた所に出た。
頭を下げ切った時、非常に開かれた所に出る不思議・・自己の本質的な転換です。中途半端ながら求めてはいますが、私には得られない転換です。
・・無力を徹底的に知らしめられたものをなお有力なものの如くに取扱う存在の原理は理観の立場のものではなく、理に対して言えば基督教的には愛、仏教的には大悲とか絶対の慈悲と言うものであり、私はかかるものに出会わしめられたと感ずる。
これに気付くと・・浄土真宗の教え、親鸞の教えが私の中で特別な働きをして来る事を感じた。・・懺悔は親鸞更に法然・善導の踏んだ道であり、真宗は懺悔の上に成立したものである。
ヘーゲルにては現実の特殊は止揚されねばならなかった。止揚とは否定すなわち破壊を含むのであるが、仏教にてはかかる否定は含まず、個が徹底的に救い取られるのである。・・宗教・形而上学はかかるものでなければならぬ。
・・自己が何もできぬと言う無力の自覚に立つ事に依って、理を超えた愛の立場に移さしめられた。・・この道こそ、私の如き凡夫の行く道である。
田辺は親鸞に倣い、「皆様がこの懺悔道に対して如何様に御考えになろうとも、また如何なる御決定をなさろうとも、御自由であると申したいのであります。」と語ってこの講演を閉じています。
自己の無力の自覚に立つ偉大な精神の人、戦後は冬も厳寒の山荘に住み、一度の例外を除いて山を下りなかったという田辺元を、私の心の師にしたいと思います。