みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

雑木林の落葉

2013-11-30 20:31:23 | 八郷の自然と風景

落葉が一気に進んで、雑木林に裸の枝々が目立ってきました。山路に散り敷いた落葉を竹箒で掻き集めて堆肥用に積み込む作業も順調です。

西側の窓辺の木立も落葉し始めていますが、午後の日差しを透かした葉たちが最後の輝きを見せてくれています。落葉前のひとときを美しく装う葉たちが羨ましいような・・・
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懺悔道としての哲学 第二章(田辺元哲学選Ⅱ その4)

2013-11-27 20:48:22 | 仏教

第二章 懺悔道の論理としての絶対批判

酷暑にさしかかった頃、この章を読み始めたのですが、見慣れぬ哲学用語や論理の繰り返しに躓き、夏バテの心身はまるで鬱蒼とした藪に行き詰まったようになり、この本から離れていました。

晩秋になってようやく再挑戦?の気力を取り戻しました。何度か読み直すにつれて、鬱蒼とした藪の中に獣道のような一筋が見える気がしてきました。藪の中から梢を天へ向けている木々も少しずつ姿を明らかにしてきたような、そんな思いで読んでいます。

・・(カントが)いわゆる批判哲学の誕生を以て時代を劃したことは周知の通りであるが、しかし彼は理性批判そのものを問題とはしなかった。

・・(ヘーゲルの)精神現象学は正に絶対批判の歴史的展開というべきものである。しかるに彼は・・最後の結果たる絶対知には依然として理性の立場を維持する・・

・・理性が理性を批判するというとき、・・理性の全体を徹底的に批判するということは不可能の要求ではないか、・・この矛盾は一般に自覚の無限構造が陥る二律背反の本性上、分析論理的に解くことのできぬものなることも否定できない。自覚が無の自覚として自己を突破しなければならぬ如く、・・理性は自己自身を分裂突破するのでなければならぬ。

・・理が粉砕せられた以上は、後に残るのは、唯その自己突破の無から復活せしめられた超理性的理性の行的事(じ)ばかりである。

理無くしてしかも理をその上に成立せしめる事の無即有、あるいは空有、の存在が、理性の自己突破の復活に転ぜられる所である。

 無は絶対無として相対の有無を超ゆるが故に超越的に自己に対立せしめられ、有無にかかわらざる自覚の統一根柢となる。

理性が自己を確立しようとする理性批判は、かえって自己を壊滅せしめる絶対批判に窮極し、しかしてその絶対批判が、理性を超理性的なる絶対無の媒介たる限りの空有として復活せしめ、無の方便としてそれに存在を容す。我々はただこの転換において自己の無を行信証するのである。

はともかくとして、とかとかは、私には分かりません。ただ、分かるとか分からないとかいうような次元のことではなさそう、とは思います。

自らの理性に信を置けない私は、著者のいう絶対批判に心引かれます。しかし、自己突破の無を自覚するということもまた、至難に思われます。


小さい冬

2013-11-26 19:54:02 | 俳句

強行採決の報道には心が閉ざされそうだけれど、それでもこうして生きている不可思議な縁を、有難く受けとめたいと思います。

Dscn0098大きい自然も素晴らしいけれど、小さい自然も素晴らしい。山野に自生し、当庭にも根付いている冬苺が熟れています。径5~6ミリぐらいの実が濡れたように輝き、地上に散りばめられた朱色の星のよう。口に含むと、野性味のある甘さが沁みます。

Dscn0100藪柑子の実も真っ赤になり、足元の葉影に隠れていても人目に付きやすくなりました。沢山の実が付く「万両」との比較で、「一両」と呼ばれるのも成るほどと思わせられる姿(と思い込んでいましたが、「十両」に訂正します。)ですね。

Dscn0104柊の花の一つ一つは小さくて目立たないけれど、枝々にひしめきあうように沢山咲いています。

  近づきてなほ香の遠く花柊


2013 やさとクラフトフェア

2013-11-24 17:30:42 | 八郷の自然と風景

Dscn0084関西の息子夫婦が当地へ来てくれたので、一緒に やさとクラフトフェア へ出掛けました。22~24日の開催ですから、今日は最終日。昨年も一昨年も雨にたたられたフェアですが、今年は3日間とも紅葉晴に恵まれて、客足も好調です。

Dscn0088会場には11時過ぎに到着。駐車場は満杯で、やむなく道路脇の駐車の列に。のどかな風景の中を少しばかり歩いて創作家の方々のテントが並ぶ会場へ入っていきました。

入口正面に久保田さんのテントがありました。自給自足を徹底した暮らしぶりを楽しく聞かせてもらってから、緑の古代米を一袋購入。300円です。普通のお米に少し混ぜて炊くと、とっても美味しいですよ。糸紡ぎも染色も織りも縫製も一人でやったという帽子も展示されていました。ただし経糸は自作ですが、横糸は他作を利用したとのこと。さすがの久保田さんも百パーセント自給自足は無理なようです。でも正直に告白されるところは、「正直屋」を名乗る面目躍如ですね。

関西の木工作家のテントがありました。聞けば、息子の営む事務所から遠からぬ地にいらっしゃることが分かり、暫し話が弾みました。フェアでは、本当にいろいろな出会いがあります。

陶芸家の飯田さんのテントでは、今年も奥様と御子息が揚げたてのドーナツを販売。八郷産の小麦を使ったこのドーナツはとてもとても美味しくて、毎年必ず賞味しています。息子夫婦はザラメのトッピングを、私はブルーベリージャムのトッピングを所望。各百円で大満足。

Dscn0090根岸さんのテントで、欲しくてたまらなかった一人用の急須を見つけました。別のテントの木製胡麻すり器にも心引かれたけれど、お嫁ちゃんに相談した結果、急須の方を買うことに決定。「炭化」という焼き方だそうで、なかなか渋い味わいです。でも小ぶりで注ぎ口がどこか可愛げな感じがして、気に入りました。3500円の値札でしたが、負けてくれて、根岸さん有難う!

Dscn0086あちこちのテントで創作家の方々とお喋りしたり、箒作りの実演に見とれたりした後、つくば軍鶏の唐揚げとイカ焼きと軍鶏鍋で昼食。青空の下、仮設舞台上の演奏を聞きながら、美味しく戴きました。

Dscn0087ハンググライダーの雄姿を仰ぎながら、帰路につきました。息子夫婦と共に楽しいひとときを過ごすことが出来ました。実行委員の皆さま、おかげさまで! 有難う!


他者との関係と自我の危機

2013-11-20 19:48:21 | 

恒例の公開読書会が、国民宿舎「つくばね」の一室で開催されました。雑木黄葉も楓の紅葉も小春日に映えて、麓の八郷の穏やかな風景を窓外に望みながらのひとときでした。

Dscn0083今回取り上げられた本は、本谷有希子(もとやゆきこ 1979~)著「自分を好きになる方法」でした。まるで女性週刊誌の特集記事のようなタイトルですが、中身はなかなかどうして・・

事件らしい事件もなく、ましてや政治や経済社会の問題に触れるわけでもなく、かといって人生論や宗教や哲学的考察が語られているわけでもありません。女性主人公 リンデ の日常生活の断片で構成されているだけ。

その日常生活の断片に、妙にリアリティがあって共感できる部分と、まさかそんな!と言いたくなるような違和感がある部分とが混在していて、読んでいて気持がザワザワと攪乱させられ、その不安定感に引かれるように読了しました。

違和感がある部分は、リンデと他者とのコミュニケーションの困難に絡んでいます。

3歳のときのリンデは、お昼寝の時間にバスタオルをすっぽり被って、自分の匂いが溜った中で、自らの腕のホクロをいじり続けます。自我の世界への没頭ですね。

自分にとって 良い他者 を求めようとするリンデは、他者とのコミュニケーションに躓き、結果として他者を・・・友人関係も、夫婦関係も切り捨てることになります。

63歳のときのリンデは、宅配便の受取りさえ避けて、他者とのコミュニケーションは自らの主観で描くイメージの世界で楽しむことになります。

他者とのコミュニケーションの否定は、他者との関係性の中の自我の否定であり、他者との関係性を失った自我は、自我として成り立つことが出来なくなるでしょう。リンデの自我は危機に瀕することになりますが、そのリンデを、著者は妙に明るく軽いタッチで描いて、この本の結末としています。

この本は、現代の自我の危機を、ことさら特異なものとしてではなく、ありふれた平凡な、日常的な様相として提示している、と私には思えたのですが、結末のリンデを、幸せになったリンデ、或いは「自分を好きになる方法」を見出すことが出来たリンデ、という風に受け取った人も少なくなかったようです。

読む人によって読後感が色々、幅がある、なかなか一筋縄ではいかない本、と言えるでしょうか。

自分の日常生活を、他者との関係や自我意識の視点から改めて顧みる契機にもなった読書でした。


木守

2013-11-15 19:13:03 | 俳句

急に寒くなりました。12日に初霜。13日も霜で、きのう14日は霜のみならず、飼犬ユキの水に薄氷が張りました。初氷です。冷え症の私には厳しい季節の始まりです。

玉葱の苗は先月末に植え付けを済ませています。大豆と小豆も収穫を終えて、その豆干しもそろそろ仕上げの時期。昨日はエンドウの種を蒔きました。暖冬のときは12月初めに蒔くのですが、この冬は寒そうなので。

今日は曇り空ですが、心配した雨はほんの少し。傘がなくても大丈夫ぐらい。寒さは緩んでいます。俳句の会で大増の正法寺へ行きました。16世紀開基の曹洞宗の寺で、常緑樹の多い山懐の中、境内の冬紅葉の真紅が映えています。山清水が湧き流れる音が、絶え間ない読経の声のように聞こえます。

庫裏はお留守でしたが、境内は掃き清められており、本堂の中も綺麗に荘厳されていました。御本尊に合掌。

堂裏の柿の木は幹周りが大きくて、高い枝先に幾つか残る実もとても大きそうです。当地では大きな柿の実のことを百匁柿(ひゃくめがき)と言うのだ、と仲間が教えてくれました。

   空き寺の木守しかと百匁柿

Dscn0079境内の傍らに、錫杖を手にした地蔵菩薩がひっそりと立っていました。苔模様を纏った小さな石像だけれど、深い表情に心引かれました。

お天気には恵まれなかった吟行だけれど、却って情趣が深く感じられたように思います。


こぶしの里のゑしんさま

2013-11-10 19:24:16 | 仏教

畏友のお誘いを受けて、明圓寺の報恩講へ行きました。畏友の運転で当庵から15分ぐらいです。

1262年11月28日、親鸞聖人が90歳で亡くなられました。毎年この季節になると、浄土真宗にとって最重要行事の報恩講が寺ごとに営まれます。

明圓寺は、ちょうど熟れどきの柿畑が続く村の裏山裾にある小さなお寺です。住職御一家と地元の方々の御尽力のおかげで、私たちも親鸞聖人の恩徳を偲ぶ場に加わることが出来ました。

Dscn0077皆で正信偈(親鸞聖人著「教行信証」の中に記されている詩)を唱和した後、人形芝居のプロの安藤けい一さんが、「こぶしの里のゑしんさま」を演じてくださいました。ゑしんさまとは親鸞聖人の妻、恵信尼さまのことです。

Dscn0078この人形芝居は、聖人亡き後の恵信尼さまとその周辺を描きながら、生死の問題と浄土の教えを観客に・・理屈ではなく情感で・・届けようとしている、と私は思いました。

プロとはいえ、このテーマでの脚色には随分苦労されたのではないかと思います。僧侶でもある安藤けい一さんに感謝!


鞴祭(ふいごまつり)

2013-11-08 20:53:01 | 文化

ふいご と聞いてまず思い出すのは、小学校で習った「村の鍛冶屋」の歌です。♪ しばしも休まず鎚打つ響~き 飛び散る火花や 走る湯玉 ふいご の風さえ息をもつか~ず 仕事に精出す村の鍛冶屋 ♪ 

Dscn0048岩間の天正宮で「常陸の國鞴祭」がある、と聞いて興味をそそられ、友人二人を誘って愛車で出掛けました。

Dscn0050「鞴祭」は鞴を使用する鍛冶師や鋳物師・金属加工の匠たちによって、旧暦11月7日、祖神のご加護に感謝し、一門の繁栄と火防除(ひふせぎ)、五穀豊穣を祈願する行事でした。

Dscn00557年前から設立された「常陸の國鞴祭実行委員会」では、鞴があまり使用されなくなった今日、「鞴祭」の行事が著しく衰退してしまったことを憂い、伝統習慣に培われた心情を後世に伝えたいとの思いから「常陸の國鞴祭」という形にかえて再興することになりました。

Dscn0059Dscn0060_2茅葺の天正宮公誠殿の境内に、箱型の鞴や水桶、などが配置され、雅楽が流れる中、古式ゆかしい装束の方々が粛々と入場されて、静かな興奮が広がりました。

Dscn0063Dscn0064まず、鍛冶場での作業が儀式化されて演じられました。神への崇敬と道具への敬愛が表現された様式美・・心奪われる思いで見入りました。

続いて鞴や諸道具が祓われました。参列の私たちも祓ってもらってから、用意された榊を奉納させてもらいました。

Dscn0068沢山の蜜柑が奉納されたのには驚きました。紀伊国屋文左衛門の時代から、鞴祭には蜜柑が欠かせないのだそうです。
蜜柑は儀式終了後に、参列者に撒かれました。私たちも有難く戴きました。

Dscn0070天正宮の境内には 岩間富士 があります。各地にみられる富士塚の類ではありますが、この岩間富士は、本当の富士山の溶岩(現在は持出し禁止)を運んできて造られたもので、規模も日本一だそうです。

用意されていた白装束を羽織らせてもらって、私たちも岩間富士に登りました。溶岩は苔むしていて、登山道には趣き深い石碑が数多く設えられ、難所!もあって、頂上に到達したときは達成感がありました。

Dscn0071頂上からの眺めもいいですね。

Dscn0073見下ろした境内も素敵です。

無事に下山したら、「岩間のお富士さん実行委員会」の登拝認定書を交付してくださいました。

鞴祭も岩間富士も、並々ならぬ知恵と熱意、そして相当の資金と労力がなければ出来ないことです。聞けば、鞴祭の装束も各自の出費によって拵えたものとのこと。関係する方々の、文化継承への志に感慨を深くして、帰庵しました。


美しい日

2013-11-05 19:30:57 | 八郷の自然と風景

Dscn0047_2澄んだ光が大気に満ち、やさしい風が過ぎてゆきます。1年の間におそらく数えるほどしかないと思われる美しい日です。前庭の沙羅の木も、裏庭の山法師の木も秋色に染まりました。

軍国日本を取り戻すのに躍起のアベ政権を、7割近い人々が支持しているという報道に愕然とさせられ、また自らの老いを歎ずること屡のこの頃ですが、こんな秋麗の日には、菜園で腰痛を庇いながら鍬を振るのも、心嬉しいことです。私も、この美しい自然の一人の子なのだ、と。

数日前から近所で井戸掘りが始まっていて、力強い響きが聞こえてきます。来年には新しい家が建って、素敵なご夫婦が移住される予定です。とても楽しみです。

Dscn0017菜園の白菜は大きく外葉を広げ、芯の葉を立ち上げてきました。Dscn0020_8
キャベツの外葉は虫食いで穴だらけですが、しっかり球を作り始めています。根切虫との闘いに勝ったDscn0021_6大根は、根茎をぐんぐん太らせています。今日は2本目を収穫。葉もサッと熱湯に通してから刻んで炒めて戴きます。爽やかな味です。

Dscn0024_6鶏舎で6月に誕生した2羽は、もうずいぶん大人(鶏?)っぽくなりました。白い方は満3ヶ月余の頃から早くもトキの声を挙げ始めて、もうすっかり上手になりました。亡きシロウを思わせるような、なかなかのイケメンです。父親の金太郎の名の一部を取って、太郎と名付けました。バッシングの渦中のヤマモトタロウを応援する気持も込めて。

Dscn0030茶色の方は、とてもおとなしい大和撫子のようです。花子と名付けました。父鶏はやはり金太郎ですが、母鶏は、おとなしい夕子(ゆうこ)だったのでしょう。

夕方、飼犬のユキの散歩の途中で、留守中の世話を頼まれている近所の飼犬に給餌しました。大喜びで食べて、御礼の印に私の鼻頭をペロペロ舐めてくれました。ユキは意外にもおとなしく待っていてくれました。

Dscn0043_2裏庭の蕗(ツワブキ)が咲き始めました。太目の茎が断固とした様子で立ち上がり、鮮やかな金色の花を付けますが、どこか寂しげな感じがして気になります。