みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

花冷えの愛宕山

2019-03-31 22:34:36 | 俳句
俳句の会で、岩間の愛宕山へ行きました。標高305丁目メートル。火伏の神様が祀られていて、消防関係者からの寄進が多いようです。

頂上より少し下の拝殿前で降車。気温が高くなる予報でしたが、とても寒くて皆、真冬の装いです。眺望は良い筈ですが、あたり一面、濃い霞に包まれています。山道沿いのソメイヨシノは二~三分咲き位だったでしょうか。

拝殿前から少し脇に逸れたところに、ほっそりとした枝垂桜を見つけました。昨夜の雨と今朝の濃霞で濡れています。「祇園枝垂桜」という標札があり、二代目だそうです。心惹かれる風情の花を、屈んで下から撮りましたが、不器用で・・・

          片恋の涙のしだれざくらかな

5丁目

頂上の奥社は飯綱(いづな)神社。やはり火伏の神様が祀られています。

          ものの色失き奥殿や花の山

午後は筑波山中腹の国民宿舎「つくばね」で句会。会が終わる頃に霞が晴れてきて、麓の風景の向こうに鮮やかな虹が立ちました。

白鵬関!

2019-03-24 22:55:28 | 文化
心無い輩のバッシングにも耐えて、42回目の優勝・15回目の全勝優勝、前人未到・後人未到です! おめでとうございます!

あなたの相撲は芸術の域だとしみじみ思わせられた春場所でした・・・ あなたと同時代に生きている幸せを覚えます。
上腕の負傷の快癒を祈ります。

ネギの苗

2019-03-23 16:55:28 | 菜園
昨日は汗ばむ暖かさだったのに、今日は真冬のように寒い。

鍬で掘っておいた溝畝にネギの苗を植えた。1本ずつ、枯葉を除いてから、白い細尻とそこに群がっているヒゲ根へ、薄く、でも、しっかりと覆土していく。乾燥防止等の目的で藁を掛けるのが一般的だけれど、当菜園では、近くでふんだんに攫える落葉を少し揉んでから用いる。苗の成長につれて土を掛けていくうちに、落葉は堆肥効果も発揮してくれる。

今回のネギの苗は、八十路の篤農の作品。細尻が張り切っていて、ヒゲ根も多い立派な苗だ。昨日ひょっこり軽トラで来られて、荷台のどっさりの苗を「ほしいだけあげるよ」と。有難く戴いた。何をやっても上手に出来る人だから、縁ある人々から頼られている存在だ。

       

菜園のところどころに、アブラナ科の野菜のこぼれ種から冬越しで育った菜の花の株が大きくなっていて、昨日の暖かさで蕾が膨らんできた。菜の花は、緑菜が乏しいこれからの季節に重宝する食材だ。

菜園の脇のユスラウメの花も咲き始めていた。今日の寒さに花びらを少し硬くしているように見えるけれど。



「信」とは?

2019-03-17 10:25:21 | 仏教
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益(りやく)にあずけしめたまうなり。(「歎異抄」の第一章より)

親鸞聖人の語り掛ける言葉に私は心酔してしまう。しかし、「往生をとぐるなりと信じ」ることは出来そうにない。「信心」を得ることが出来ない・・・これが私の大いなる苦悩だ。

ところが、この「信心」という言葉をどう解釈するかが実は大いなる問題だということを、信楽峻麿著「親鸞とその思想」(当ブログ3/4付け記事参照)によって気付かされた。

サンスクリット語の【sraddha】および【adhimukuti】そして【prasada】が、何れも漢訳において信または信心と訳されたことに、混乱の発端があるらしい。

親鸞聖人は、その著書『「教行信証」信文類』において、この信の字を字訓して、「信とは即ち是れ、真なり、実なり、誠なり、満なり」としている。

・・・その『信文類』に『涅槃経』の文を引いて、「真実と言うは即ち是れ如来なり。如来は、即ち是れ真実なり。真実は即ち是れ虚空なり。 虚空は即ち是れ真実なり。真実は即ち是れ仏性なり。仏性は即ち是れ真実なり」と明かす。

・・・求むべき究極としての如来とは、「阿弥陀は如より来生」(證文類)すといわれる如く、つねにこの現実に向かって到来しつつあるものであり、またそれは「この如来微塵世界にみちみちてまします」(親鸞聖人著「唯信鈔文意」)ともいわれる如く、つねにこの世界に遍満したもうものであった。

すなわち、親鸞における信心とは、この虚妄なる世俗のただ中にたたずみつつも、また同時に真実なる出世の世界にふれて生きつづけてゆく、私の生命の在りよう、その日々の生きざまを意味しているのである。
(信楽峻麿著「親鸞における信の性格」より)

八郷の哲人であり修行者ともいうべき筧次郎さんは、「人間のものの見方に現れる世界はすべて迷いである、と(阿弥陀仏の教えによって)気付かされることを、『他力の信心をいただく』と言う」のだ、と。

また筧さんは、「仏教では、教えの言葉をそのまま信じてはいけない」ともおっしゃる。たとえブッダその人の教えであっても、と。教えの言葉は真実を『表現』しているのではなく、真実に『導く』もの、真実を『気付かせる』ためにあるものだから、と。

「月」を指さす指を見て、その指は月そのものではない、ということは分かる。「真実」は言葉で表現することが出来ないということも、一応分かるような気がする。しかし、「分かる=分別できる」ことと、身を以て「気付かされる」こととの間には、絶望的な距離感がある。




必ず来る幸福

2019-03-14 10:09:45 | 八郷の自然と風景
当ブログ 2/13 付け記事「2月の花」にアップした花の名前は「リュウキンカ(立金花)」だと教えて下さったのは、ブログ「つくばの風」様。有難うございました!

鮮やかな金色の花だけれど、花径は3センチぐらいで、人通りの少ない路傍の藪の縁だから、人目に付きにくいのでしょう。盗掘を免れています。小さな株だけれど、ほぼ一花ずつ交代するように咲き継いでいて、今朝撮ったのは5花目ぐらいでしょうか。



肩背腰脚が辛くて犬の散歩は苦行だけれど、途中でこの花に出会うと暫し心が弾みます。花言葉は「必ず来る幸福」ですって!

信楽峻麿著 「親鸞とその思想」

2019-03-04 09:58:49 | 仏教
日常生活が辛い老体となり、読書の気力も失いがちなこの頃だが、たまたま出会ったこの本(水戸市立図書館蔵だが、地元の公民館図書室が取り寄せて下さった。)に意外な刺激を受けている。2003年初版発行。著者の信楽峻麿(しがらきたかまろ 1926~2014)は、元・龍谷大学学長で定年退職し、本著作現在は龍谷大学名誉教授を務めている。龍谷大学は西本願寺直系の大学だ。にもかかわらず本著には、浄土真宗教団への辛辣な批判が渦巻いている。不思議な人だと思う。そして不可解な教団だと思う。



そんな教団との関係云々を脇に置けば、本書は仏教の真髄を問う内容で、私の曇った眼を見開かしてくれそうにさえ思える。

著者の主張は、次の三つの柱から成っている。

一、阿弥陀仏とは、象徴的な存在であって、それを実体的な存在として捉えてはならない。
二、真宗における信心とは、一元的主体的な「めざめ体験」であって、それは二元的対象的に理解されるべきではない。
三、真宗とは、道の宗教であって、それを力の宗教として理解してはならない。


上記の第一の柱で、「象徴」である、と主張されていることについては、私としても違和感はない。

無上仏と申すは、かたちもなくまします。形もましまさぬゆえに、自然(じねん)とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれう〈料〉なり。(親鸞聖人の正像末和讃「自然法爾章」より)

私の既成概念を大きく揺り動かしたのは、第二と第三の柱の主張である。

・・・信とは・・・、一般的には、仏教に対する確信を意味しますが、それは第二義的な意味であって、本質的には、信じるとは、心が澄んで浄らかになることをいいます。これが仏教における信の第一義的な意味です。

つまり、「信心」=心が澄んで浄らかになることであって、「思い込む」ことでは断じてない と。

著者は、これをサンスクリット語の原語に遡って説いている。

 インドの天親(400頃~480頃 七高僧の一人)の『阿毘達磨俱舎論』では「信とは心の浄らかさである。他の人々はいう。四つの真理と三つの宝と、行為とその果報との因果関係に対する確信である。」と非常に明確にいいます。
 また『成唯識論』では、これはインドの護法という人が書いたものですが、これも基本的には同じことを申しております。「いかなるを信となすや、実と徳と能とにおいて深く忍じ楽欲して、心を浄ならしむるをもって性となす」。信の第一義的意味は「心の澄浄」、心が澄んで清らかになることだといいます。その原語を見ますと、チッタ・プラサーダ 。チッタというのは心です。プラサーダというのは、澄むということです。・・・それに対して二義的な意味の信を語って、「四諦、三宝、因果の道理に関する確信」「実、徳、能に対する信認」という。これは仏法の道理に対する対象的な確信、信認のことで、本質的な信心ではないのです。信心に入る入門の意味の信心です。

他力(=仏の本願力)とは、信心における矛盾の論理の象徴である という解釈にも驚かされた。そして・・・納得させられた。

 親鸞における他力というのは、これは信心における矛盾の論理を象徴したものだといえると思います。信心というのは、自己否定に即して、超越なるものが私の内に現成してくるという、そういう仕組みをもつものでありましょう。親鸞の言葉に重ねていうならば、親鸞における信心、その「めざめ体験」とは、自己自身について「地獄一定」とめざめることでありますが、それに即して、「往生一定」とめざめていく、限りなく罪業深重と「めざめ」ながら、この罪業深重の私のために、真実、大悲がここに現成するという、こういうまったく矛盾をするものが、同時に即一して成立するという体験であります。いわゆる、信心の論理は、矛盾の論理です。鈴木大拙氏の言葉でいうならば、「即非の論理」、こういうかたちで捉えることができるかと思います。

・・・信心というのは、真実が私の上にあらわになることでありながら、それは同時に、わたしの存在のすべてが虚妄であると、めざめさせられていくということでありますから、そういう意味では真実が現成する、真実があらわになるということは、私にはまったくありえない、存在しないものが、私の内に現成するという、こういう仕組みになるといっていいと思います。

・・・ありえないことがあるということは、・・・「たまわりたる信心」(『歎異抄』)としかいえないのです。

しかし、ここで「たまわる」とか、「もらう」とかいうことは、二元的実体的なかたちでいったのではさらさらない。・・・大乗仏教の基本の教理である「生死即涅槃」、「煩悩即菩提」という、根本的な「即非の論理」、「矛盾の論理」の具体的な表現、その象徴表現としてそういったので、そこでいわれるパワーというのは、いつでも象徴的に過去形としてしか語りえないものだと思います。


悪性さらにやめがたし  こころは蛇蠍のごとくなり  修善も雑毒なるゆゑに  虚仮の行とぞなづけたる
 
無慚無愧のこの身にて  まことのこころはなけれども  弥陀の回向の御名なれば  功徳は十方にみちたまふ

小慈小悲もなき身にて  有情利益はおもふまじ  如来の願船いまさずは  苦海をいかでかわたるべき

                               (親鸞聖人の正像末和讃「悲嘆述懐讃」より)

考えてみれば、著者の主張の第一の柱を認めるならば、第二と第三の柱が論理的に導かれるのは必然だと遅まきながら気付かされた。

第三の柱にいう「道」を行く方法は、宗派により人により、苦行であったり、座禅であったり、念仏であったりするのだろう。私に可能なのは念仏だけだ。それなのにおろそかで中途半端でイイカゲンきわまりない私・・・自分で自分にうんざりしている。

ただただ親鸞聖人を仰ぐのみ。これでは、著者のいうところの二元的「信仰」モドキで、一元的「信心」には程遠い。

光にあえば陰が映るのです。陰が映るのは、光にあたっているわけです。この光と陰、真実と虚妄の矛盾を抱えて生きているとき、少しずつ人間の人格変容が生まれてくると思います。ここのところを、親鸞聖人は、自分の生涯をかけて、私たちに教示されているのです。