みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

悲哀の哲学

2020-12-27 10:41:59 | 哲学
2020年も暮れようとしているが、今年は西田幾多郎生誕150周年だったらしい。

小坂国継氏(1943~)が、西田哲学の特徴を分かり易く説いて下さっている一文に出会った。(岩波書店「図書」」863号掲載『悲哀の哲学』)

アリストテレスは、「驚異によって人間は哲学し始めた」と語ったそうだけれど、西田幾多郎は、「哲学の動機は『驚き』ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と言った、という。

人生の悲哀・・・どこまでもこの事実に徹するとき、宗教というものが起こってくるのであり、哲学の問題というものも実はここから起こるのである、と(西田幾多郎は)語っている。

西田哲学は科学としての哲学を模索しているという点では西洋哲学を継承するものであるが、同時に哲学の根本問題が人生問題であると考える点では東洋哲学の伝統を受け継いでいる。

西田にとって人生問題というのは、「人はどう生きるべきか」という善悪の価値の問題というよりも、むしろ「自分とはいったい何であるのか」という存在の意味の問題であった。倫理上の問題というよりも、宗教上の問題であった。

西田は、自己と自己の根源は一体不二であって、両者は別個のものではないという考えを一貫してもっていた。そうしてこの自己の根源を再々、「絶対無」という言葉で言い表した。

プラトンが感覚的世界を超越したところに理想的な世界すなわちイデア界を考え、それを真実在の世界であると考えたとすれば、西田は反対に、現実の意識界の内底に真正の自己の存在を考え、それを絶対無とか絶対無の場所とか呼んだ。

それは仏教的伝統に即したもので、絶対無を仏教用語でいえば、仏や空ということになるだろう。


親鸞聖人の言葉でいえば、それは自然(じねん)ということになるのだろう。

 


 無上仏と申すは、形も無くまします、形もましまさぬゆえに自然(じねん)とは申すなり。
  弥陀仏は自然の様(よう)を知らせん料(りょう)なり。                 (末灯抄より)


根本悪

2017-12-20 20:49:38 | 哲学
東京新聞を開いたら、中島義道の顔写真が大きく出ていたのに驚いた。偏屈な筈のこの哲学者が、意外に平らかで上品?と言ってもいい表情で写っている。



内容は全体的に消化不良の感を否めない。仕方がないことだろう。政治の話題と哲学を直結させるのは、書くのも大変、読むのも大変だ。それでも、次の2か所は腑に落ちた。いずれも「」内は中島義道の言らしい。

~政権側はもちろん、野党側も「善の次元で議論をしていない」ように見える。

日本人は「功利主義をベースにしながら、自分にとって大事でない場合には情緒主義を採り、名目上は理性主義を採っている」~


     

それにしても、カントのいう「根本悪」。親鸞聖人のいう「悪人」の自覚そのままではないかと思う。


中島義道著 「観念的生活」 その11

2017-12-13 10:39:32 | 哲学
最終の15章のタイトルは、「哲学という病」。 「観念的生活」についての一連の当ブログ記事は、今回で一旦、終わらせます。

私が死んだらまったくの無になるのか、どうもその公算が強いが、(中略) 全くの無だとしても、そこに何らかの救いが求められるのではないか、という別の期待もぴったり寄り添っている。救いなど信じてもいないのに、あたかもそれらしく語っても嘘に嫌気が差すだけである。  (P.224)

無、そこに何らかの救いが求められるのではないか、という期待。私にもある。最後に残されているように見える一縷の望み。これがなければ、日常生活も成り立たなくなってしまいそうな、最後の望み。「救われたい」などと正直に言うと、憐れむような、蔑むような目付をされてしまうが、そんな人の強そうに見える精神は、実は「砂上の楼閣」ではないか、と私は怪しむ。


思えば、このテーマは私にとって、自分が「哲学する」根源的意味に関わっている。二〇歳の頃、私はなぜ哲学に足を踏み入れたのか。もし、死が永遠かつ完全な無であるとすれば、この人生には何の意味もない、生きる目的も価値もまったくないと直感したからである。そして、私は自殺したくなかった。もし完全な無であるとすれば、自分が永遠の無になることは脂汗の出るほど恐ろしかったから。 (中略) 二〇歳の私は「『この人生が生きるに値いしないことは確かである。だが、いますぐ死ぬのは恐ろしい。とすれば、私はどう生きたらいいのか』ということ自体を追求するために生きる」という答えを見出したのだ。 (P.225)

私も「自分が永遠の無になることは脂汗の出るほど恐ろしい」。いますぐ死ぬのは、もちろん恐ろしいし、そのうち必ず死ななければならないのも恐ろしい。それでも私は、「この人生には何の意味もない」とは思わないし、「生きる目的も価値もまったくない」とは思わない。

人生にはたくさんの喜びや感動がある。苦しみや悲しみや憎しみさえも、私にとって貴重な記憶だ。生かされている今、生きていることを実感したいと思う。観察者であるよりも、当事者でありたい。

(哲学を志す)主要目的は真理を知ることではない。真理を知りかつ救われることである(両者は一体となっている)。では、なぜ宗教に走らないのか。あくまでも合理的な仕方で、完全に理性的に納得して救われたいからである。救われないなら、せめて私が投げ込まれたこの残酷さを誤魔化さず、それを噛みしめて生きたいからである。 (P。227)

真理を知ることによって、はたして「救われる」ことが出来るだろうか? 仏教では、真理を「知る」とは言わず、「悟る」と言うことが多い。真理は、「合理的な仕方で、完全に理性的に」納得できるものではない、ということだろう。

理性は、人間が生きていくために編み出し、習得した必要不可欠なものだ。しかし現代人の多くは、自らの「理性」をあまりにも信じ過ぎているのではないか、と私は思う。理性を超えて納得できるものがあるのかどうか、今の私には分からないが。

中島義道は、理性の絶壁を彷徨っているようにも見える。




中島義道著 「観念的生活」 その10

2017-11-23 09:49:16 | 哲学
第12章は「共通感覚」

共通感覚によって条件づけられた共同体においては、武士道や茶道に典型的であるように、礼儀作法にかなったしぐさは道徳的にも善くかつ美学的にもよい(美しい)とみなされる。 (P.189)

白鵬が嫌われる原因の一つ。私は白鵬が気の毒でならない。

美とは対象に付着しているものではない (P.188)

善と美を互いにまったく異なるもの(異質なもの)とみなす間違いに加えて、カントは快をその両者と対立させるという間違いを犯している。 (P.189)

共同体において確立している共通感覚という根拠のない想定、すなわちある事柄に対して圧倒的な多数が共通に快・不快を覚えているという想定が、絶大な威力をもって個人を縛り上げる。共同体の構成員は共通感覚とずれた独特の快・不快を抱いていても、それを表明しない。死に物狂いで共通感覚に合わせようとする。なぜなら、そうしないと彼(女)自身が倫理的かつ美学的さらには生理的に不快であるという烙印を押され、共同体から排除されてしまうからである。 (P.191)

中島義道の容赦ない刃、得意の刃が、世間の闇を暴いている。誰しも身に覚えがあることだろう。ただし、中島義道は、共通感覚を「根拠のない想定」としているが、私は、仏教でいう「宿業」が、共通感覚の根拠ではないかと思う。

筧次郎氏は、著書 「ことばのニルヴァーナ」 で、次のように説明している。

私たちのものの見方や考え方、行動の仕方は、私たちの自由意志で作るのではなく、遠い過去世からの祖先の営みによって作られている (P.89)

ものの見方や考え方、行動の仕方の枠組は、伝承されてきた言語とイメージの対体系に拠っている。

(言語とイメージの)対体系(=名色:みょうしき)は、一方では「私」というものの内実をなしながら、他方では「世界」の全体でもあるという両義性を帯びています。 (P.94)

名色の側から見れば、名色は私たちの肉体に宿り、私たちの分別作用によって維持され、構造を少しずつ変化させながら、私たちの肉体の死によって滅びることなく、肉体の死を超えて次の世代へと転生していきます。 (P.95)

私たちは、宿業によって全てを運命づけられているわけではない。筧次郎氏は、「私たちは宿業を受け取るだけでなく、自分たちの営みによってその構造を幾分か変えて、言語(とイメージの対体系)を次の世代に伝える」「私たちはどんな宿業を次の世代にもたらすか、責任がある」とも語っている。


中島義道著 「観念的生活」 その9

2017-11-09 09:20:21 | 哲学
世界が  に開始したのだとすれば、その前は「空虚な時間」であるが、それは実は時間なのではなく、「その前」という言葉によって導かれた概念に過ぎない。そして、単なる概念は時間的実在へと移行しうる力を自らの内に持っていないから、世界はある時に開始したのではないのである。 (P.120)

上記の論法で言えば・・・宇宙に果てが有るのだとすれば、その外は「空虚な空間」であるが、それは実は空間なのではなく、「その外」という言葉によって導かれた概念に過ぎない。従って、宇宙には果ては無い・・・ のだろうか?

カントによれば、「人間は、言葉を直ちに実体化しようとする」。「私」という言葉が単数であって、いつも主語であることから、その独特の実体的存在が誤って推理されてしまう、という。 私=自我意識とは、意識の「過ち」であり、「自我」は「仮象」ということか?

しかし中島義道は、 私にとって他者とは私の表象の束に過ぎず、その存在は単なる概念である。だが、私にとって私の存在だけは単なる概念ではない。それこそ、超越論的観念論を語り出す主体として、超越論的観念論を根底で支えている実在である。 (P.127)という。 そうだろうか?







中島義道著 「観念的生活」 その8

2017-10-24 10:54:59 | 哲学
すべての「いま」は過去に媒介されて、初めてその意味を獲得できるのである。 (P.105)

この世のあらゆるモノ・コトは相対的だと思う。「いま」と過去との相対性は、本来、理解しやすい筈だ。ところが、私たちは下手な「教育」を受けているので、「時間」を座標軸で考えてしまう。絶対的、直線的なものとして。


「いま」は、どこからかは知らぬが、われわれに一方的に与えられ、われわれはそれを受容するしかないのである。 (P.109)

「いま」が客観的世界を記述する言葉ではないと知って驚くには値しない。「いま」は善悪や美醜や快不快のみならず、あらあらゆる現実的なもの、あらゆる「心」に関するものが客観的世界から排斥されているように、それから排斥されているだけである。 (P.111)

世界には実在しない夥しいものが「あり」、時間もその一つに過ぎないのである。 (P.106)

一方的に与えられている「いま」と「時間」、そして「私」という自我とこの「世界」・・・ それらを、われわれは受容するしかない。悲しみとして、畏れとして受容するだけでなく、歓びとしても受容することが出来るのだろうか? 


中島義道著 「観念的生活」 その7

2017-10-21 15:14:16 | 哲学
言葉の機能は?と問われれば、もちろん、コミュニケーションでしょ! と答えたくなるけれど・・・

言葉の主目的が眼前の事態の正確な描写だとすれば、そのつど眼前の事態を示せばいいのだから、むしろ言葉は必要ないであろう。 ~ こうした信号機能を超える言葉固有の機能とは、眼前の事態が不在の時にも、それを記述し描写することができることである。 (P.79)

不意を突かれたようだったけれど、確かにそうだ・・と納得させられる。 信号機能だけだったら、言葉にならない声や、手ぶりや、表情などにもある。言葉が無い虫たちや獣たちも、コミュニケーションしている。

その事態が不在の時にも、言葉で述べることが出来るからこそ、人間は文明を伝承・発展させることが出来たのだ。それが良いことだったのか否かは別として。

中島義道著 「観念的生活」 その6

2017-10-07 09:31:53 | 哲学
人間が互いに絶対的に隔絶されていること、その意味で絶対的に孤独であること、それは人間である限りすべての人の運命であること、それを他者の眼の中に確認したい。「ああ、わかるよ」という言葉の中に確認したい。その時、彼の孤独は僅かに癒される。 (P.81)

孤独を確認するとき、孤独から解放される という逆説。 誰しも、実感として頷ける。 孤独の弁証法。

中島義道著 「観念的生活」 その5

2017-09-29 13:15:46 | 哲学
~ 私はデカルトが現在形のコギトから出発したことに反対したい。 ~ 人間的自我は、むしろ「私は思惟した」ことをいま確認するところから導出されるのだから、「私は思惟した、よって私は存在する」あるいは「私は無であった、よって私は存在する」こそ哲学の第1原理と成るべきである。 (P.76)

確かに、コギトを過去形にすることによって、確認する主体と確認されるものとの関係性が明らかになるけれど、「思惟」は意識作用であって、「存在」と同義ではないから、「私は思惟した、よって私は存在する」という著者の言説を即座に了解することは出来ない。

逆説的だけれど、「私は無であった、よって私は存在する」の方に、私は着目する。

私は何を思惟していたのだろうか? 私ではない「他」を思惟していた。「私」について思惟していたときでさえ、その「私」は、思惟の主体である私ではない「他」だ。私とは、他者系の要に位置しているものだ。その要は、限りなくゼロに近付く。そこには、「他」から独立した何かは無い。


中島義道著 「観念的生活」 その4

2017-09-26 14:26:44 | 哲学
私も、御多分にもれず権威に弱い、と思う。「我思う、ゆえに我あり。」という名言に初めて出会ったのは、中学生の頃だったか・・ そう言われてみれば確かにそうだ、私が存在していなかったら、私は「思う」ことは出来ないのだから・・と、納得させられていた。なにしろ、デカルト(1596~1650)という偉い天才が言ったことに対して、疑うということを知らなかった。あるようなないようなぼんやりした違和感は、放置したまま、気にもしていなかった。

「私は思惟する」という命題から「私は存在する」という命題に移行することは、ちっとも明晰かつ判明ではない。(P.36)

実は私が思惟するたびに(「私」が存在するのではなく)「私は思惟するという作用」が存在することを、明晰かつ判明に直覚するのだということがわかる。 ~ われわれは一人称意識存在しか手に入れておらず、いかにしてもその内から抜け出すことはできない。 (P.37)

中島義道に「権威」のレッテルは似合わないし、誰よりも中島義道自身が最も嫌がるだろう。しかし、中島義道に、上記のように言われてみると、確かにそうだ! もっとも、こうしたデカルト批判は、中島義道独自の論考ではなくて、カント等から引き継いだものかも知れないが。

それでは、「私」という存在と一人称意識存在との違いは何か? 哲学音痴の私は、「私」って、意識だけではなくて、身体があるじゃない! なーんて言いたくなるけれど、そうは問屋がおろさない。ちなみに、下記冒頭の「延長する実体」には、当然に身体も含まれるだろう。

延長する実体は、そう私が思惟する限りで存在するに過ぎず(デカルトの言葉を使えば、「表象的実在性」に留まる)、思惟の外にそれ自体として存在することを保証しはしない。 (P.41)

次の一文にはハッとさせられた。目からウロコだった。

「私がいる」という事実は「私がいない」という事実との関係で初めて登場してくるのであって、言い換えれば不在を確認する視点と確認された不在との関係が「私」なのである。 (P.76)