みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

稀勢の里フィーバーに思う

2017-03-28 06:52:55 | 社会
稀勢の里は強い横綱になったし、人柄も良さそうだから人気が出るのは当然だし、私も好感を持つ。しかし、このところの稀勢の里フィーバーにはウンザリだ。マスコミも世間の人々も稀勢の里一辺倒で、まるで日本中が一色に染まった戦時中のような、全体主義国家のようではないか。

怪我で長く苦しんでいる照ノ富士、観客のほとんどが「照ノ富士が負けること」を期待する中で相撲を取らされた照ノ富士の心境を思いやる言葉は、ごくごく一部を除いては無い。異常だと思う。

取組み相手の日本人力士への手拍子の中で相撲を取らされてきた白鵬についても同様だ。さだまさしが、先般の新聞紙上で、「品性のない観客に、白鵬の品性を云々する資格は無い」旨を書いてくれていた。正論だと思う。

白鵬や照ノ富士をないがしろにする日本人・・ アジアの人々に対する根強い差別意識が染み出ているようで、暗い気持になってしまう。

常陸国「出雲大社」

2017-03-26 18:47:11 | 俳句
俳句の会で笠間市内の常陸国「出雲大社」へ行きました。春らしくない寒々しい日でしたが、心配だった雨は少しぱらついただけで助かりました。







大きな社殿に巨大な注連縄。正直なところ私の趣味ではありません。それでもまあそれなりに興味深いところではあります。社殿の後ろ側は樹木葬の墓苑になっていて、非常に広く、利用者は増える一方のようです。骨壺を抱いた喪服の一家族が来られて、墓苑内の小さな建屋で埋葬の儀式が始まりました。笛の音が聞こえてきたので、どうせ録音したのをCDだかで再生しているのだろうと思ったら、神主さんが生まで笛を吹いていらっしゃいましたので、変に感心してしまいました。

社殿の脇に貼紙がしてありました。(ガラスの反射で見にくくてゴメンナサイ)



「神主募集」とあるのには驚きました。神主というのは、そういう家柄の人がなるものとばかり思っていましたので。もうそんな時代ではない、ということでしょうか? 

          神主募集の貼紙でんと竹の秋

ユキの新しい家

2017-03-18 19:14:32 | 
ユキの犬舎の傷みがひどくなったので、新しい犬舎を通販で買った。プレハブの組立式だ。従前の犬舎を組み立てたときは、楽しみながら短時間で出来上がった。しかし今回は不安だった。なにしろ圧迫骨折と脊柱管狭窄症で腰脚痛(最近は膝下に痺れまで発症・・)に悩まされる身になっている。

ポカポカと暖かい今日、意を決して先ず梱包を解きに掛かる。ヨタヨタノロノロとしか動けないから、部材を取り出すだけでも結構時間が掛かる。なかでも、屋根パネルは重たくて参った。それでもドライバーを手に組み立て始めたら、暫くは気持が集中。しかし体が長続きしない。小憩を入れながらの作業。2時間ほどで完成してホッとしました。

体調が悪くても、その体調に合わせたやり方を工夫して、出来ることをやる、そういう心掛けを持続できるといいのですが・・・



従前の犬舎はユキには窮屈そうだったので、今回は少し大きめのサイズにしました。ログハウス調で、全体に重量感があります。警戒心の強いユキは、馴れるまで時間を要しそうですが。


若松英輔著 「死者との対話」

2017-03-15 07:46:09 | 
2012年12月、トランスビュー発行。 著者は1968年生まれ。生後40日で洗礼を受けたカトリック。批評家としての執筆のかたわら、無農薬有機栽培の薬草の販売を業としている、といいます。

    


 鎮魂を論じることと、魂を感じることとは別です。魂の実在を信じていなくても、鎮魂を口にすることはできる、それが現代なのかも知れません。(大震災のとき)文学者ならまだしも、宗教者すらそうだった、と私には思えました。彼らの発言は、現実から離れているだけでなく、冷淡にさえ感じられました。 
 冷淡な、と私が言ったのは、彼らが、生者を思う死者の言葉に耳を傾ける前に、彼らを別な次元に追いやることで決着をつけようとした、と見受けられたからです。


鎮魂とか冥福を祈る、とかの言葉の冷淡さに薄々気付きながらも、私は無頓着であろうとしてきたことに気付かされました。

 「死」があるのではなく、死者がいるだけであるように、病気もまた存在しません。存在するのは病を背負う人間だけです。「病者」というとき、私たちは病気に目を奪われて、その人の苦しみや悲しみ、その人の本当の姿を見失ってはいないでしょうか。

「死」と死者の関係も似ています。「死」に目を奪われていると、死者の姿が見えにくくなります。

 「亡骸」は、いわば現代が作りだした、すべての終焉である「死」の偶像です。「死」こそ、私たちから死者を隠すものなのです。死者に出会うために私たちが最初になすべきは、「死」の呪縛から離れることではないでしょうか。むしろ、避けようとしてきた悲しみこそが、生者と死者の間にある「死」の壁を溶かすのではないでしょうか。

死者は抽象的な概念ではありません。実在です。それは、人間が安易に解釈することを拒むものです。汲めども尽きぬ、何かです。

死者が実在であるというのは、私たちがその存在を忘れてもなお存在するものだからです。


死を怖れ、死者の実在を否定するのは、時間軸への囚われから来ているのだろうか・・

死者は生者といつも共にある。その状態を、ここでは「協同」と呼びたいと思います。

私が自分の魂から眼をそらすことがあっても、死者は決してそこから離れることはない、それが私の経験している死者との交わりです。死者に出会うとは、「魂にふれる」ことと同じだといってもよいと思います。


田辺元が「死の哲学」で語る「実存協同」という言葉への抵抗感が、ほどけていくような感覚を覚えました。

内心の恋を歌にする、それを「相聞歌」といいます。生者の死者への歌、これを「挽歌」といいます。相聞歌は、挽歌誕生以前の慟哭に始まる、そういったのは白川静です。
 
愛する人を喪い、呻く、その嗚咽こそ、相聞歌の起源であり、もっとも切実なる愛の表現だと白川さんは考えます。






花の丘

2017-03-07 16:45:55 | 俳句
一昨日は、近くの雑木林から キョキョッ オケキョッ  今季初めて聞く鶯の囀りです。囀り、と言うのも憚れるような不器用な鳴き方でした。昨日は別の林から オケキョッ ケキョッ ケッキョッ 少し囀りらしくなりました。 ようやく春も本格的になってきた・・と思っていたら、今日の寒いこと! 

雪でも降りそうな曇り空の下、俳句の会で茨城フラワーパークを吟行しました。冬季(3月まで)の入園料は370円。お目当ては河津桜。でも此処の河津桜林は小高い丘の上。腰脚痛が辛い私には登れそうにありません。そこで、園が運行している周遊車に仲間と共に乗りました。河津桜の丘まで片道200円です。静かに走る電気自動車で、乗り心地は良好。

          周遊車しづしづ止まり花の丘



河津桜は盛りを過ぎて葉が広がり始めていましたが、その柔らかい葉の初々しい淡緑色も綺麗です。丘から下りるのは徒歩でゆっくりと。梅林の中を通るときは、溢れる梅の香で酔いそうでした。福寿草や雪椿や山茱萸の花たちにも魅了されました。

          園丁の手入れひたむき冴返る

             

          






チャレンジ気分

2017-03-01 17:14:34 | 暮らし
腰痛がひどくなってからは台所に立っているのが辛くて、調理のときは何度も椅子に座って休み休み・・でした。椅子に座ったまま台所仕事が出来るように、背の高い台所用の椅子で、移動しやすいようにキャスター付きが欲しいと思い、買うつもりでいました。



そんなことを友人に話していたら、友人のお母様が使っていたのを譲ってくださることに! お母様は今は施設に入所されていて、椅子は不用になったから・・とのこと。有難く戴きました。早速重宝しています。下方の円環部分は足休めになります。

また、市の「高齢者等配食サービス」を利用することにしました。独り暮らし又は高齢者のみの世帯で、体の不具合のため調理が困難、という人が対象です。市の担当職員の、的確かつ心の籠った対応に感銘を受けました。1食当たりの自己負担は、課税世帯が350円、非課税世帯が250円です。週1回の配食をお願いしました。今日が初回です。

 

少しずつ色んな種類のおかずが組み合わされていて、丁寧に作られていました。梅干もとても美味しかったです。届けてくださったお弁当屋さんの優しい笑顔も嬉しかったです。安否確認も兼ねた制度で、手渡しが原則です。

老化していく体調に合わせて暮らし方を変えていくのも、チャレンジ気分で悪くないような。