大震災での多くの不慮の死を想い、また自分の心身の老化が急坂となって、死を間近に感ずることが多い年でした。しかし未だに生死を超える心境=信仰心には程遠い私です。
初老の頃から仏教関係の本を読み漁ったり、僧侶や宗教学者の話を聞いたり、仏教の勉強会に参加したりもしましたが、所詮、「勉強」では信仰心は得られないという分かり切ったことを再認識しただけのように思います。
ただ「歎異抄」だけは親鸞聖人の精神が息づいているようで、私の心の一番大事なところから手放したことはありません。
禁書扱いだった歎異抄の存在と意義を世の中に知らしめたのが、清沢満之(1863~1903)だということを、知ってはいましたが、その満之(まんし)が著わしたものを今まで手に取ったことがありませんでした。
「日本の名著 43 清沢満之 鈴木大拙」は初版が昭和45年で、昭和53年版を図書館から借りました。橋本峰雄(責任編集)と司馬遼太郎の対談が付録にあります。お嫁ちゃんが送ってくれた丹波の黒大豆を煮ながら読ん でいます。
以下は満之の「宗教哲学骸骨」からの引用です。文中の「道理心」は、学問な いしは科学(哲学を含む)する心、と読み直した方が現代人の私たちには合うようです。
無限に対向するものは宗教心だけにかぎらず、道理心もまた無限に対向しうるのではないか。そのとおりであって、道理心も無限に関係ないのではない。
しかし道理心が無限に関係するのと、宗教心が無限に関係するのとは、大いに異なる。道理心が関係するのは、これを追求するにある。宗教心が関係するのは、これを受用するにある。
直指(じきし)といい、横超といって、無限の実存を認めて、これを信仰することができる人においては、どうして哲学の論議の必要があろうか。これが古来、哲学は道理により、宗教は信仰によるというゆえんである。
哲学用語の「無限」が、満之にとっては「仏」に相当しています。編者の橋本峰雄の解説から、清沢満之と鈴木大拙との比較の一部分を以下に引用しましょう。
仏教近代化の作業において、清沢は西洋哲学の論理を仏教に媒介させて、いわば哲学から仏教に到達しようとした。鈴木は伝統的仏教たる禅体験そのものの中から論理を発掘して、いわば宗教から哲学の方向において、仏教を近代的思惟の理解にもたらそうとした。
実家が真宗門徒だったという司馬遼太郎は、編者との対談の中で、以下のように発言しています。
兵隊にとられたときも「歎異抄」で死ねるかもしれないという感じでしたね。この感じの源をつくった人は、というより「歎異抄」を我々に受けわたした人は親鸞というよりも清沢満之で、しかも哲学になって受け渡されている。つまり宗教に至らずして哲学で死ねる感じで、これは、清沢満之のおかげじゃないか。
哲学で死ねるかどうかは別として、清沢満之は鈴木大拙ほどには巷間に知られていないけれども、その功績は大拙を凌ぐ深さと広さがあったことを、司馬遼太郎は分かりやすく語っていると思います。司馬は、満之と親鸞聖人との比較についても興味深い発言をしています。
親鸞という人はどう考えてもいま生きていたら宗教者にならずに、哲学者になっていると思います。ところが鎌倉時代に生き、あわれにも西洋哲学も知らず、しかも哲学的体質がそれを欲求するという状態に親鸞は置かれたわけで、その苦痛のプロセスが、結局絶対他力に転換するんでしょうけれども、まったく清沢満之と同じように思いますね。
親鸞聖人が哲学者になっていたかどうかは別として、聖人と満之とを身近に感ずることが出来そうな、そんな気持にさせてくれる発言です。
清沢満之に真向うことをこれまで怠っていたことに反省しきりの私です。