雑誌「世界」1989年1月号~1991年5月号連載の「ハーバート・ノーマンの生涯」をまとめて、1991年8月に発行されたもの。県立図書館から公民館へ取り寄せてもらって読みました。膨大な資料の調査分析を踏まえた労作。冷静で淡々とした筆致ながら、読後、ノーマンへの親愛の情が染みわたってくるのを覚えた。
ハーバート・ノーマンが赴任先のカイロで、投身自殺をしたのは、1957年4月4日のことだった。
駐エジプト大使であったカナダ人の自殺は、世界を驚愕させた。
なぜ自らの生を断ったのか・・この謎は、今でもまだ解けていない。
ある者は、ノーマンがソ連のスパイだったと断定し、ある者は、ノーマンの潔白を証明しようとする。
ノーマンの47年と7か月の生涯を、ただ彼の自殺にだけ照準を合わせ、類推に類推を重ねたストーリーを構築するのは、しかし、ひどく空しい作業のような気がする。
彼の死よりは、彼の生に照準を合せて、その人生をたどってみる方が、むしろ自然に、あの不可解な時空へと導かれるような気もする。そして、なにより、彼の生が私たちに与えてくれたものの方が、彼の死が私たちに残した謎よりも、はるかに貴重であるということを、あらためて知らされるだろう。
日本生まれのカナダ人、ノーマンは、日本と日本人についての学識の深さと誠実な人柄で、敗戦国日本の民主化・非軍事化を志向したGHQから厚い信任を受けた貴重な存在だった。ところが、何年も経たないうちに、GHQは、日本を反共の砦化・軍事化する志向を強めた。折から、マッカーシー旋風と言われる「赤狩り」が始まる。
時代の急変に翻弄されるノーマンの誠実さ、繊細さが痛々しい。
~ノーマンは眼鏡、時計、そしてカフス・ボタンを外した。~眼鏡を取ることで、彼の視覚は失われ、すなわち空間が消失する。時計を取ることで、時間と別れを告げる。そしてカフス・ボタンは、彼を規制して、その手を縛っていたものの象徴だったのかもしれない。時間と空間とは、すなわち自分が身を置く現実に他ならない。そこからの逃避は死以外にはなかった。
ハーバート・ノーマンが赴任先のカイロで、投身自殺をしたのは、1957年4月4日のことだった。
駐エジプト大使であったカナダ人の自殺は、世界を驚愕させた。
なぜ自らの生を断ったのか・・この謎は、今でもまだ解けていない。
ある者は、ノーマンがソ連のスパイだったと断定し、ある者は、ノーマンの潔白を証明しようとする。
ノーマンの47年と7か月の生涯を、ただ彼の自殺にだけ照準を合わせ、類推に類推を重ねたストーリーを構築するのは、しかし、ひどく空しい作業のような気がする。
彼の死よりは、彼の生に照準を合せて、その人生をたどってみる方が、むしろ自然に、あの不可解な時空へと導かれるような気もする。そして、なにより、彼の生が私たちに与えてくれたものの方が、彼の死が私たちに残した謎よりも、はるかに貴重であるということを、あらためて知らされるだろう。
日本生まれのカナダ人、ノーマンは、日本と日本人についての学識の深さと誠実な人柄で、敗戦国日本の民主化・非軍事化を志向したGHQから厚い信任を受けた貴重な存在だった。ところが、何年も経たないうちに、GHQは、日本を反共の砦化・軍事化する志向を強めた。折から、マッカーシー旋風と言われる「赤狩り」が始まる。
時代の急変に翻弄されるノーマンの誠実さ、繊細さが痛々しい。
~ノーマンは眼鏡、時計、そしてカフス・ボタンを外した。~眼鏡を取ることで、彼の視覚は失われ、すなわち空間が消失する。時計を取ることで、時間と別れを告げる。そしてカフス・ボタンは、彼を規制して、その手を縛っていたものの象徴だったのかもしれない。時間と空間とは、すなわち自分が身を置く現実に他ならない。そこからの逃避は死以外にはなかった。