みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

木漏れ日

2016-01-26 16:39:11 | 野鳥
藪の中の道を飼犬ユキと散歩していたら、前方を短く飛んだ小鳥がいた。この辺りでよく出会うアオジよりもほっそりしているようだ。日が射さず薄暗いから、姿全体が黒っぽく見える。驚かさないように、ユキと一緒に暫く立ち止まっては一歩進むと、小鳥も短く飛んで少し向こうの小枝へ移るのを繰り返す。

何歩か進んで、小鳥が再び短く飛んだとき、ひとすぢの木漏れ日が射して小鳥の羽根が青く煌めいた。ルリビタキの雄だ! 雌は去年、当庵の窓のそばまで通ってきてくれたけれど、雄を見たのは久しぶり。野鳥はホントに美しい。


耐えてきた白鵬

2016-01-25 09:26:36 | 社会
10年ぶりに日本人力士が優勝して世間は大騒ぎしているけれど、私は白鵬が気の毒でならない。

日本語を全く知らない痩せっぽちの15歳で来日、刻苦精励して歴代記録を塗り替える大横綱となり、日本人力士が低迷する中で日本の国技を究めてきた。東日本大震災のときは、いち早く炊き出しを提案、その後も被災者への支援を続けている、と聞く。

それなのに、それなのに、である。満員御礼の客席から、相手力士への応援コールが一斉に繰り返されたり、日本人力士に敗けると万歳三唱されたり。よくまあ、耐えてきたものだと思う。しかし白鵬にも耐える限度というものがあるだろう。土俵への意気込みが終盤で薄れてしまっている様子に、そんな影を感じざるを得ない。

もし白鵬がモンゴルではなくて欧米系の白人だったら、世間の反応はかなり違っているのはないか。日本人力士の優勝を願い、その実現を喜ぶのは同じかも知れないが、その一方で、白人力士の活躍のおかげで相撲が国際化した、などと言って持ち上げる声も大きくなったのではないか。

モンゴル力士への差別感情は、近隣のアジアに対する差別と嫌悪の感情の一環、と思わざるを得ない。近代の日本人に根強く、また体制側が煽ってきた嫌中・嫌韓に連なる感情が潜んでいる。こうした人心が透けて見えて、私は暗い気持になってしまうのだ。


大寒の囀り

2016-01-21 16:33:21 | 野鳥
大寒らしい強霜で野は白く覆われた朝でした。8時頃になっても融けない霜を踏みながら飼犬ユキの散歩を終えて、引綱を犬舎前のチェーンに取り換えていたら、軽トラで隣村の人が来られました。地元の世話役で、村を異にしながらも独り暮らしの高齢の私を気に掛けて、時折様子見に来てくださるのです。

当地でもインフルエンザが流行していることとか、よもやま話をしていたとき、向こうの林の方から寒気を突き抜けて、いきなり華やかな囀り! 昨日の イソヒヨドリ に違いない! 二人で耳を傾けました。イソヒヨドリにしては短めの歌だったけれど、春はまだ遠い大寒の日に囀ってくれるなんて、勿体ないような出来事でした。



青と紅の素晴らしさ

2016-01-20 13:21:15 | 野鳥
厳しい寒さが続いているけれど、朝夕の犬の散歩は欠かせない。ただし朝は遅めに、夕は早めに。今朝は8時頃、林を抜けて枯野を散歩していたら、中空を鳥が一羽飛んでいく。青い鳥で腹部あたりの紅色が鮮やか。イソヒヨドリだ! まるで空中ファッションショーを見たようだった。

姿形はヒヨドリによく似ているけれど、ヒヨドリ科ではなくてツグミ科。こう言ってはヒヨドリに申し訳ないけれど、その色の素晴らしさはヒヨドリとは雲泥の差だ。

イソヒヨドリのほか、今日出会った野鳥は メジロ シジュウカラ エナガ コゲラ イカル ジョービタキ スズメ カラス ウグイス ツグミ そしてもちろん ヒヨドリ も。懸命に生きる彼らの姿は、可愛いというよりも崇高で美しい。

野上彌生子著 「森」

2016-01-17 05:59:49 | 
視力も体力も気力も劣化するばかりで、読書欲も益々低下しているけれど、野上彌生子(1885~1985)の著書は別格。少なくともその代表作ぐらいは読まなければ! 読みたい! 

という訳で、図書館から『森』を借りたのだけれど、その分厚さに若干たじろぐ。順調に読み切れるだろうか・・少々不安を覚えながら読み始めた。この小説は、著者自身を投影したと思われる主人公が、女学校へ入学するところから始まるのだが、降りた駅から延々と歩いた末に、ようやく女学校に辿り着くくだりになると、いつの間にか読者も共に明治の女学校の世界へ誘われているのだ。

読み進んで、やがて残りの頁が少なくなってくると、この物語が終わってしまうことに不安さえ覚えた。読み終わってしまうのが勿体なかったのだ。 





明治女学校は、1885(明治18年)にプロテスタントの木村熊二とその妻の鐙子が開校し、1909年(明治42年)に閉校した。北村透谷、島崎藤村、津田梅子、若松賤子(2代目校長の巌本善治の妻)、内村鑑三などが教壇に立っている。学んだ生徒のうち「明治女学校の三羽烏」と呼ばれているのが、羽仁もと子(1873~1957 日本女性初のジャーナリスト 自由学園の創設者)と相馬国光(1876~1955 新宿中村屋の創業者)、そして野上彌生子である。

巻末の「作者の言葉」にあるように、『森』は、真実よりはむしろ虚構 であり、写楽の描線の妖しい歪曲が他の浮世絵師の似顔絵より当の役者たちの真髄をよりよく捉えているとされるような効果が、もしかわずかでも得られたらと念じられ た物語である。明治女学校とその時代と人々の真実と虚構とが、組んずほぐれつしながら迫力と魅力を醸し出してゆく。

この迫力と魅力に満ちた大作の執筆が、作者87歳から開始され、百歳を目前にした作者の死去の直前まで書き継がれた、というから、驚異的というほかはない。

『女性である前にまず人間であれ』というのが、野上彌生子の信条だったという。軽井沢に有していた山荘は「鬼女山房」と名付けられていた。余計なものは一切削ぎ落したような老年期の容姿、そして強靭な精神が際立つ生涯は、まさに「鬼」の名に相応しい。その野上彌生子の こころの揺籠 が明治女学校だったのだ。


観音寺&「町民憩いの家」

2016-01-12 17:05:35 | 俳句
ときおり霙がぱらついて、寒い、寒い、寒い! それでも今日は俳句の会で、予定の10余名全員の顔ぶれが揃いました。吟行先は下林の観音寺です。檀家が五百軒ほどもある大きなお寺で、銅屋根の本堂の構えも大きいですね。寺域には手接堂もあり、「お手つぎ様」と呼ばれて慕われています。

   

私たち一行が乗合タクシーで到着すると、ご住職が駆けつけてお迎え下さったので、恐縮してしまいました。そのご住職はお若くて、歌舞伎役者になれそうな美形でいらっしゃるんですよ! 何事にも御尽力下さる方なので、檀家の皆さまの信頼を集めていらっしゃるようです。

かっては「観音寺城」と呼ばれるお城でもあった高台で、周りには大冬田が広がり、その向こうに筑波連山を望めます。

寺域の一角に公民館があり、「町民憩いの家」という看板が掛かっていました。合併で石岡市になる前の八郷町の時代に開設されたんですね。句会場として利用させて頂きました。灯油ストーブも焚かせてもらい、身体を温めることが出来て本当に有難かったです。

寺域内外の梢から梢へ、小さな野鳥の群れが飛び移っていました。

         名を知らぬ寒禽こぼれさうに飛び







晴れ舞台と見切り発車

2016-01-07 16:45:33 | 暮らし
年が明けてからも耳を塞ぎたくなるような事件が国の内外で頻発していますが、お天気だけは穏やかな日和が続いています。



当庭の栴檀(センダン )の木は落葉し尽くして、沢山の小鈴のような実の房が冬晴の空を背景に目立つようになりました。10年ほど前に芽生えてからスクスクと生長し、昨夏に薄紫色の花が初めて咲いてくれました。そして結実の頃は同じ緑色の複葉に紛れていたのですが、愈々晴れ舞台に登場したという次第です。



切干作りは厳寒期が適しています。当菜園には立派に?育った沢山の大根が切干になるのを待っているのだけれど、暖冬のために躊躇していた私ですが、もう待ち切れない。見切り発車しました。旧鶏舎で使用していた金網扉を洗って、干し台に転用しました。天日で干した切干はホント美味しいんですよ!

亡娘の縁

2016-01-02 16:39:56 | 家族
亡娘の祥月命日です。私に似ていなくて顔立ちが整った嬰だった。が、その顔は病苦で歪んでいることが多かった。思い出すと息が詰まりそうになる。あの頃の私は、毎日が切羽詰まったような気持だった・・ 周りの人々にとっては、さぞ迷惑なことだったろう。

久しぶりに電車に乗り、降車駅から40分ほど(以前は30分ほどだったけれど、年々足が遅くなる・・)歩いて墓地へ。亡娘とその亡父と亡祖父母のお墓。近づいてハッとしました。水洗いされたばかりの様子! 供えられたばかりらしい小菊などの花とカップ酒。毎年この日に来ているけれど、初めての事です。

どなたがお参りされたのか・・・亡娘を介して私とも繋がりのある人だろうけれど、私と出会う機会は少なくとも今までは無かった人だろう。こういう関係も「縁」ではある。一度お会いしたいような、でもやはり会いたくないような。当庵の庭に咲いていた水仙花と実南天を持参してきたので、少々躊躇いながらも供花として加えました。





氏神様へ初詣

2016-01-01 14:47:15 | 暮らし
年が明けて霜の朝でしたが、弱霜で穏やかな日和です。犬と鶏の世話などが一段落してから、初詣へ出掛けました。と言っても、普段着のままの徒歩圏内です。先ず当庵から徒歩数分の祠へお詣りしたのは例年通りでしたが、それから本田(ほんでん)の天神様へ向かったのは初挑戦!です。

当庵は新田(しんでん 戦後の開墾による)に位置しています。新田の氏神様も本田のお社だということは以前から聞いていて、そのうち機会があればお詣りしたいと思っていましたが、徒歩では少々遠いし、本田の道にはあまり馴染んでいないこともあり、億劫な気持が先だって、まだ行ったことがありませんでした。しかし、加齢による身体の故障が増えているので、歩けるうちに行こう!と今日は決めたのです。移住して十余年経ち、この土地と村への愛着が増してきたことも後押ししているようです。

背中や腰の不調を庇いながら、ゆっくりゆっくり歩いていきました。日陰に霜が残っていますが日差しはほんのり温かく、緩い坂を上っていると汗ばみそうになり、マフラーを外してリュックに仕舞いました。畑の間の道の向こうから車が走ってきました。新田の長老の車でした。助手席の奥様と共に新年の挨拶を交わしました。お社の場所がはっきり分からない私に、長老が車を下りて丁寧に道順を教えて下さいました。「途中でバテてしまうかも・・」と弱気な私に、「大丈夫だよ、行けるよ!」と励ましのお言葉も貰いました。おかげで私の脚に元気が出てきました。やがて・・右手に鳥居が見えてきました。

     

鳥居を潜ると、鬱蒼とした森の中に参道が伸びています。お詣りを済ませられた御婦人と行き合いましたので、知らない同士でしたが新年の挨拶とお喋り。本田の方でした。拝殿の前には、お餅や蜜柑や飾米が供えられていました。

        

拝殿の脇に大きな石碑が立っていました。菅原道真公(845~903)1千年忌の明治35年(1902年)には、全国各地で記念の大祭が催されたようですね。天神信仰の広さと厚みを感じます。

 

氏神様お詣りの念願が果たせて鳥居を出ると、左手に筑波山。新田から見る筑波山より心なしか逞しく感じられます。