対話(ネット上を含む)について考えさせられることが続いた。手元にある「歎異抄のこころ」(高史明:コサミョン)を開いた。
第9章に親鸞聖人と唯円との対話が記されている。唯円は、己れの信心に張り付く不安を次のように訴える。「念仏申しそうらえども、踊躍歓喜の心おろそかにそうろうこと、また急ぎ浄土へ参りたき心のそうらわぬは、如何にとそうろうべきことにてそうろうやらん」
高史明が書いているように、「唯円房は、その身の事実をさらして、親鸞さまに尋ねている」。
並みの師だったら、「そんなことは○○経典の△△章にちゃんと書いてある」とか、「おまえの信心が中途半端だからだ。信心には疑問のカケラもあってはならない」などと答えそうな場面だ。
親鸞聖人はどう答えたか。「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心にてありけり。」
高史明が書いているように、「親鸞さまは、唯円房の問いを、まずその身のありのままを以って受け止め、そのままそっと唯円房の方へと、身を寄せていかれている」。「あなたの問いは、私の問いでもあった」と。
「他力(他人まかせという意味ではない、仏に拠って救われること)の悲願は、かくのごとき(煩悩具足)の吾等が為なりけり」と親鸞聖人は言う。この対話によって唯円の心は温かい涙で潤ったのではないか、と私は思う。
更に親鸞聖人は言う、「踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたくそうらわんには、煩悩の無きやらんと、怪しくそうらいなまし」と。信心が完璧で煩悩も無いかに見える人は、却って怪しく思われるだろう、というのである。
世間では、偉そうに振舞う人は偉いと思われ、断定的にものを言う人には信頼を寄せがちだが・・ 不安、不審、動揺、それらこそ私達の心の真実だ、と歎異抄は語りかけてくれる。