みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

日なたぼこ

2015-12-27 19:10:46 | 俳句
今年最後の俳句の会に参加しました。

この地球上には、同じ人間でありながら戦禍や飢餓に苛まれている人々や、安住の地の無い避難・放浪の人々がいます。ささやかな句会であっても参加できることは、申し訳ないほど勿体ないことに思われます。

会の仲間だったけれど逝去した方や、老病で欠席が続いている方もいます。加齢と共に身体の故障が増えてきた私も、あとどのくらい続けられるか・・・ まさに一期一会であることを心しなければ!



今日の吟行先は瓦会の雲照寺(真言宗)。寺域の清掃が行き届いているのはいつものことですが、今回は五色幕が張られ、注連飾りも掲げられていて、新年の用意がもう整っていました。空気は冷たいけれど日差しは暖かく、本堂の入口階段に腰掛けさせてもらって、お喋りしたり句を考えたりして穏やかなひとときを過ごしました。

          嘆き合ふことも癒しや日なたぼこ



やさと農場40年の物語

2015-12-21 06:51:41 | 


本書は、70年代初めに誕生し今に続く「やさと農場」のものがたりである。その農場作り・運営という市民活動に関わってきた人たちの記念文集だ。(P.2 茨木泰貴)

執筆したのは20代の若者から後期高齢者まで総勢50余名。やさと農場40年の物語、それは文明を問い、各々の人生を問う物語にもなっていると思う。

40年以上前、都会の消費者が安全安心な卵を求めて、ついに自分たちで鶏を飼う農場を作ることを決意した。この農場が「たまごの会」として発足したのが1974年。その後、紆余曲折を経て、2007年から「暮らしの実験室」として再スタートし、農場スタッフと多くの都市会員等によって支えられている。有機農業と畜産の複合で循環型の農業を行い、今では毎年500名以上の人が農体験などで訪れている、という。

都市の衛星農場として農場は、食べ物を生産するだけでなく、都市生活者が違う視野を獲得するための装置であり学び舎なのだと思います。(P.39 茨木泰貴)

たまごの会から暮らしの実験室への移行は、「墜落」直前に若者たちが登場したという偶然の幸運によって実現したと言えようが、こうして会の歴史をたどってみると、必然であったという気もする。それは、言葉通りの自給農場運動の終わりを意味するかも知れないが、その精神は受け継がれ、新しい質を獲得しつつあると感じる。たまごの会の思想と実践を若者たちに伝える上で、鈴木文樹さんが果たした役割はとても大きい。(P.279 井野博満)

その鈴木文樹氏が紡ぐ言葉には、人の目を見開かせ、心を深める真実を感じる。
まず、当初の農場「たまごの会」がやがて分裂し、そして消滅の危機的状況に陥ったことに関し、農場をコミューンに喩えて

自由、平等、贈与、相互扶助のコミューンは失敗を宿命づけられている。しかしコミューンの夢なく生きることもまたあらかじめ失敗を宿命づけられていると言えるのではないか?(P.217)

近代文明と農的課題について

1965年前後の頃どうして自然と人間はよそよそしい関係となり、あるいは自然はただ客体となってしまったのか。経済発展を至上の価値とした戦後、科学や技術の無条件の信頼、古いものは迷信とか封建的とかいうコトバで捨て去った進歩主義、電話やテレビの普及、モータリゼーションの発達による地域性の希薄化、都市への人の移動、機械化・化学化・大規模化する農業の生産現場等々。これらの価値を是とすることにおいて右も左もなかった。戦後はそういう時代であった。(P.223)

農的課題とは「戦後化」し近代化を果たした人間が再び自然とのコミュニケーションを回復することは可能か、それはどのような筋道で可能となるかということであり、1965年以降日本の人々の前に出現した文明史的課題である。(P.224)

農業の課題というのは有機農業であれ何であれコトバにし易いし分かり易い。それに比べ農という課題はとらえどころがない。しかしその深さと射程範囲を見定めておかなければ昨今の農的思考も斜陽化著しい農業や過疎化して消滅さえささやかれる田舎の穴埋めに(自ら進んで)使われて歴史のモクズとなるのが関の山ということになるだろう。ボクたちが直面していのは農業問題でも田舎問題でもなく、もっと文明史的な問なのだから。(P.225)

農の現場には二つの贈与の原理が働いている。卵や米は自然からの「贈り物(もらいもの)」という意識は人も自然の中では何ら特別な存在ではなく、在り方として虫や鳥や獣と同じだという謙虚さを生むだろう。自然の中で生かされている、あるいは分をわきまえるという意識である。他方「飼う・育てる」は動物や植物との戯れの中で親しみや可愛さの感情を生み、一体感をもたらすだろう。

そこには自然から自己を疎外した人間が再び自然と一体化しようとする願望が潜んでいる気がする。「飼う・育てる」は経済よりずっと深い地層に根ざしている。

こうして「農」の現場に二つの贈与の原理が働くことでそこに人と自然を結ぶ通路が開かれる。それが農業の世界が持つ基本的な明朗さや楽しさの根拠であり、農業が直接には自然破壊や生命操作にもかかわらず人間原初の営みのように思えてしまうのではなかろうか。

1965年以前の農業にはおおむねこの贈与の原理と経済の論理が矛盾しつつ併存していた。
「飼う・育てる」という農の現場に働く根源的な贈与の原理をベースとして伝統共同体は非交換経済的な活動にあふれていた。
(P.232~)

伝統共同体(ムラ)は解体したと言われて久しい。
むろん今もムラはあるし祭りもある。しかしそれは地縁、血縁でつながった人たちの近所付き合いに近いもので、すでに彼らは個々の暮らしと人生を生きていて基本的には都市民と変わらない。若い人は特にそうだろう。

ムラ共同体を律していた価値や人生観、世界観は戦後精神と真逆だったのであり、それ故戦後精神の中に生きた人にはそれは”見えなかった”ということなのであろう。共同体の解体とは何か、それによって私たちは何を失ったのかという問いは立てようがなかったのである。

”風土”といわれるものが人間の営みとその土地の自然との合作だということからいえば共同体とは”生きられた風土”だと言ってもあながち間違いではない気がする。その共同体が歴史からフェイドアウトしたということは要するに私たちが「暮らし」という身体性のレベルでの自然とのコミュニケーション回路を失った、あるいは社会の土台から人間と自然の共生装置が失われたということになる。

かって日本の田舎はどこへ行ってもムラであり共同体であった。日本近代を牽引したのは工業であり都市であったとはいえ、その発展を支えたのはそのムラであった。
都市の暮らしもまた”根っこ”があったのである。
都市の暮らしから生き物や自然の手触りや息吹が失われ、人々は”裸の個”として生きざるを得なくなった。都市が自然から浮遊するようになったのである。
(P.242~245)

そして農場40周年については

40周年などというと私たちはついひとつの組織なり実体としての農場が40年続いてきたと考えがちである。だがそれは違う。実体としての農場など実はどこにもないのである。

多くの人が来て、また去る、その絶えざる流れの中でその時その時にからくも現出する現象としての農場。
ここは農場メンバーが自由な空間にしようと意識しているから自由なのではなく、開かれた「場所」、動的平衡というこの農場のありよう自体が自由の根拠なのである。
(P.218)

「たまごの会」、そして「暮らしの実験室」については、私は関係する知人がいるし、やさと農場を見学したこともあるので、一応知っているつもりでしたが、こんなにも豊かで深い言葉が生まれているところだとは知りませんでした。本書に感謝!


炎の色

2015-12-15 16:45:33 | 暮らし
当庵の暖房の主役は灯油ストーブで、コロナの石油ファンヒーター。今朝、点火操作したときに発生音を異様に感じた。14年前に16800円で購入し愛用してきたが、買い替え時と判断した。

庵内でも重ね着して出来るだけ暖房に頼らず、暖房時の設定温度も(来客のときは別として)高くて15度ぐらいに抑えてきたから、この石油ファンヒーターの使用頻度は一般家庭に比べると相当に低いだろう。それでも14年間の経過は諸機能の劣化を齎しただろう。

愛車で30分弱のケーズデンキへ行き、アラジン(日本エーアイシー株式会社)の石油ストーブを購入した。消費税込みで1万円(端数を値引きしてくれた)。ファンヒーターは便利だったけれど、3.11大震災時の停電の経験で電気に頼る暮らしの危うさを痛感したので、電気コード不要を大前提に選んだ。電子点火方式で乾電池を使うが、乾電池が無くてもマッチ等で点火することも出来る。

暖房出力は2.40kWで、木造家屋なら7畳までが適室。展示販売されていた同種のストーブの中では最小型だった。小さい当庵にはバランス上も小型がいいし、暖め過ぎるつもりもないから。そして加齢による体力の衰えも自覚している。油タンク容量が、今までのファンヒーターは5Lで満タンにすると腰痛の身に負担感があった。新しいのは3.2L。給油の手間は増えるけれど、老体に優しい方が良い。

今日はあまり寒くないけれど、早速試してみた。点火後数分で燃焼筒が赤熱してくる。燃焼筒全体が炎の色になったとき、私の心も炎の色になったような感覚があった。理屈の介在しない喜びの感覚だった。炎が見えるストーブのこんな効果を、一般論としては私も知っていたが、今回の体感には不可思議なものがあった。人類と火との永い歴史の反映だろうか。



冬菊の花束

2015-12-12 09:10:48 | 八郷の自然と風景
何年前だったか、当地の畏友が根分けして下さった冬菊が庭に咲いています。木々は落葉が進み、野や庭先に花らしい花は見られなくなるこの季節になると、小さいながら香りよく咲く花です。

      

もういなくなったと思っていた蜂などが何処からか飛んできて、冬菊に取り付いています。同じ冬菊でも白いのは紅いのより開花期がすこし早く、もう萎れ始めているのですが、蜂たちにはまだ十分に魅力?があるようです。紅い冬菊には小さな・・体長は6~7ミリ程度でしょうか・・蛾が訪ねていました。

紅白の冬菊を10本ほど剪り、小さな花束にしました。連れ合いを亡くされて淋しそうな村人へ届けることにしました。

柏原池公園

2015-12-08 17:09:48 | 俳句
俳句の会で石岡地区の柏原池公園に行きました。かなり大きな池ですが、昔はもっともっと大きくて灌漑用だったそうです。



「石岡の昔ばなし」(仲田保夫著 ふるさと文庫)によれば、この池には美少女伝説があるそうです。月の美しい晩になると、近くの龍神山の竜が美しい娘に変身して池のほとりを歩くのを常としていた。或る夜、そこへ笛を吹く若侍が現われて恋し合い愛を語り合う。ところが翌朝、冷たくなった若侍が池面に浮いていた。龍神山の竜は悲しんで、それ以来、美少女の姿で池に現れることはしなくなった・・・といいます。

そんな美しくも悲しい伝説など知らぬげに、沢山の鴨たちが泳いだり浮寝したりしていました。

        
     
池の周りにはウォーキング専用に舗装されたコースもあって、老若男女が速足で歩いたり、若い母親が幼児を遊ばせながら穏やかなひとときを過ごしたりしていました。

           後になり先になり児の冬帽子

筧次郎 著 「死を超えるということ」

2015-12-04 17:18:02 | 生死
異様な家庭で抑圧され、幼いなりに苦悩の日々だった7歳頃、私は「死ねば、この苦しみを感じないで済む・・」という「死への憧憬」を抱いていた。しかし10代初めの頃から、自分がいずれ死ぬことへの恐怖に見舞われるようになった。満天の星空を仰いでいて、宇宙の中の一点に過ぎない自分という存在を感じたときが最初の契機だったと思う。以来、自分の死への恐怖は、私の精神の基底に日夜うづくまり、時に暴れだして抑えようがないテーマとなった。



 著者は 「死が怖ろしい」という思いをもちながら生きている人たちに、何がしかの力になることを願って この本を書いたという。

長く暮らしていた首都圏から八郷への移住を私が決意したのは15年ほど前。筧さんの存在は、その決意の推進力の一つだった。彼の著書「百姓入門」と、ご夫婦の八郷での実生活で示されている「百姓暮らし」には、私を深く頷かせるものがあった。

死の恐怖を超えるには、感性を変えなければならないのではないか。そのためには、私の感性を培ってきた「生活」を変える必要があるのではないか、と思った。

私にも同じ思いがあった。死の恐怖を超えることは出来ないとしても、せめて、生きているとはどういうことなのか、本当の生を生きたい、生きている実感を得たい、という思いが私にはあった。都会での生が虚構に感じられてならなかった。

自分の死への恐怖は、自分とは何かという問いと自分が生きているこの世界とは何かという問いに結びつく。

・・実在世界自身は個物の集まりではなく、未分化であり、多様な構造化を許している。私たちは、幼児期に身につけた民族語の構造に基づいて世界を構造化して見ているのである。

・・人間の新生児だけが未熟な脳を持って生まれてくる。・・子供の言語習得の過程は、・・大脳皮質の神経細胞が外からの刺激を指針としてネットワークを作り、自己を構造化する過程である。


人類は二足歩行によって重い頭脳を載せることが出来た。発達した大きな頭による難産を出来るだけ防ぐために、未発達の頭脳の段階で人間は誕生する。このことこそが、人間と他の動物との決定的な違い、即ち言語体系の伝承をもたらしたことに、著者は着目する。

外界の個物・・は、・・「私にとって何のためのものか」という基準で区画されるので、その「私」はいつも世界の中心にいる。・・分別作用の主体としての「私」は、・・個物を見る眼差しの奥に存在しているように思われている。しかしながら、眼差しの奥の「私」の座にあるのは言語についての体系的な知(生理学的に言えば大脳の神経回路)であって、・・「私」は、言語についての体系的な知そのものであり、・・分別作用の主体としての「私」は、世界を構成している個物の一つであり・・同時に「世界の全体」という性格も帯びている。

・・私たちが認識している世界は個性のあるものであって、それぞれ「私の世界」というべきものである。
消滅を怖れる「愛しい私」とは、私が幼児のときからその中心であって慣れ親しんできた「私の世界」のことであると思われる。

この認識の仕方は文明世界を作っただけでなく、私と他者を区別し、我欲を生みだし、我欲がぶつかり合う弱肉強食の世界を作った。・・そしてまた、我欲は「私の死を怖れる」という辛い感情も生み出した・・


怖れている主体の「私」とは、私の言語体系であり、死によって消滅する客体の「世界」もまた私の言語体系なのだ。

哲学的な省察は記憶されている世界についての知を対象とするのであり、それゆえに言語が介入する以前の実在世界自身には至れない・・科学がもたらす知も、・・同じ限界をもっている。

霊魂や死後の世界を説く教説は、信じさえすれば深く考えないですむ解決方法であり、修行もいらない解決方法である。それで、仏教も世間に流布していくうちに歪められて、そうした教説の一つになってしまうのだが、それは歪曲であって仏陀の教えではない。

仏教では分別知によって把捉されるのが「人間のこの世」であり、無分別智によって把捉されるのが「もう一つのこの世」であるといわれる。
・・仏陀は言語の支配から解放され、分別的な認識を停止し、「もう一つのこの世」を経験したのである。これが悟りと言われる体験である。・・分別的な認識がなければ、個体の命もない。したがって死もない。・・「もう一つのこの世」には空間も時間もない。それに気づいて、仏陀は不死を得た。「死が怖ろしい」という思いを超えることができたのである。


分別的な認識を超えて「もう一つのこの世」を悟れば、生死を超えることが出来るだろう。だが、仏陀ならいざ知らず、私たちに「悟る」ことが出来るだろうか?

・・人間は言語の働きを超えて、つまり無分別の認識で「もう一つの世界」を把捉することができる。・・言語は脳の神経回路網として獲得されるので、何の修行もせずに言語の働きを超えることは難しい。・・しかし、悟りと言われる仏陀の体験は、・・他の人間が共有できるものであり、何ら神秘的な事柄ではないのである。

・・人間の認識の仕方は、言語の習得とともに後天的に身に着けたものであり、それゆえに、それが脳の神経回路網として私たちを支配しているとしても、超えられないものではない・・・人間だけが「迷う」とも言えるが、人間だけが真実を覚って、その迷いを自覚するのである。


悟るための修行の実践は厳しく難しい。著者の「百姓暮らし」は修行でもある、という。

・・私の百姓暮らしは社会的な行動であるとともに、修行でもあると自覚された。・・私の百姓暮らしも工業社会では「外から我欲の制御を強いる」生活になる・・百姓が自然から教えられるこの「任せる心」が、自我意識を薄め、ストレスを洗い流してくれる・・

しかし、百姓暮らしも厳しいものだ。

・・百姓暮らしは老人が始めるには困難が多い。肉体を鍛えなければならないだけでなく、身につけている利養と名声(財産と地位)が妨げるからである。「死が怖ろしい」という思いを抱いているあなたが老人なら、あるいはすでに死病を得た人なら、私は親鸞が説いている道を勧める。・・百姓暮らしの道も念仏の道も、同じ場所に私たちを連れていくと私は信じている。

阿弥陀仏の工夫・・は、教えの仕組みによって巧みに「私」の視座を離れさせようとする。・・「私」のはからいを捨てて、「南無阿弥陀仏」と任せるなら、一挙に視野の逆転が生じよう。・・実際には一心に任せることもけっして容易ではない。

「私」のはからいの虚しさが、心底から解ればよいのである。

田辺元の「懺悔道」もまさにこれだと思う。
「この世」についての著者の以下の記述も貴重だ。


しかし仏陀は・・「人間のこの世」を否定したのではない。・・私たちの喜びも悲しみも、「人間のこの世」の中で持たれるのであり、それは人間にとってかけがえのない現実である。私たちは分別的な認識に現れるこの世界で、互いに愛し合い、自然の美しさに感動し、生きたいと切実に願うのだ。