みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

滅びゆく住宅地

2018-09-28 14:11:41 | 暮らし
近所に15軒ほどの住宅地がある。どの家も30坪ほどの土地に2階建て、延べ20坪ほどだ。しかし、人が住んでいる気配がするのは1軒だけ。数軒は荒れ放題で、庭は大藪、窓は割れっ放しだ。その外の家は時折訪れる人がいたり、どうにかかろうじて管理されているという感じだ。

おそらく30年以上前に、まとまった土地を区画して都会人向けに売り出したのだろう。一戸建ての家を持つのが夢だったけれども、都会の地価では退職金をはたいても夢は到底かなわない。田舎暮らしへの憧れもあって、この住宅地との縁を結んだのではないか。

周りの田園風景は穏やかな眺めだけれど、そこだけ窮屈な住宅地での生活は「田舎暮らし」の良さを実感できたかどうか・・・

やがて寄る年波で、一人欠け、二人欠け、ついには空き家だらけになったらしい。

今朝、ユキの散歩でこの住宅地を通った。荒れ放題だった家のところに車を止めて片付け作業をしている人がいたので、「おはようございます」と声を掛けた。伸び放題、絡まり放題だった庭木や草藪が最近、きれいに片付けられてきた、と思っていたら、この人が作業していらっしゃったんですね。70歳ぐらいにお見受けした。「きれいにしていらっしゃいますね。」と言ったら、「いやー・・・市役所から注意されたもんですから。今、空き家が問題になっていますからねぇ。仕方ないですよ。」とのこと。ご自宅から車で1時間余りかけて来た、という。この家は、姉が住んでいたんですけれどねえ・・・と。

この美しい八郷の風景の一角で、人知れず滅びてゆく住宅地があるのだ、と思う。これも一種の「限界集落」の果てか。住人が元都会人だったというところに、虚しさを感じてしまう。

さて、当庵は私の死後どうなるのだろう?



白鵬関!

2018-09-22 19:13:56 | 社会
41回目の優勝、おめでとうございます! 幕内1000勝、おめでとうございます!

心無いバッシングに耐え、怪我にも耐えての偉業、本当に素晴らしいです!

白鵬関を負けさせたい観客たちの、手拍子合わせながらの相手力士への声援、いわゆる「コール」が今日も起こった。大相撲の伝統にふさわしからぬ「コール」に対して、ラジオ実況のアナウンサーが「行司の呼び上げがコールでかき消されて、よく聞こえません。観客の皆さんには相撲のことをもっと知って頂いて、せめて行司の呼び上げは聞くようにしてもらいたいものです。」と言ってくれた。NHKにしては珍しくホネのあるアナウンサーだ。お名前は聞き逃した。




八郷で怖ろしいもの

2018-09-15 08:49:46 | 暮らし
八郷で怖ろしいもの、それはマムシとスズメバチと雷。大都会にも雷は落ちるが、避雷針で守られていることが多い。

1ヶ月ほど前、飼犬のユキと散歩していたら、古い落葉が積もっているところをユキが盛んに引っ掻く。見ると、その先をスルスルと小太りの蛇が鎌首を擡げながら行く。銭形模様を身に着けて。マムシだ! こちらに向かってこないうちにと、足早に通り過ぎたが、冷や汗を掻いた。

今月6日の夕方5時頃、自家用菜園の脇で草を刈っていた。隣地境が崖になっていて、崖を覆うように繁っている草が這い上がってくるところだ。崖っぷちに植えているクチナシの低木に絡んでいる草を取り始めたら、クチナシの向こうからハチが2匹飛び出てきた。コガタスズメバチのようだ。

スズメバチに出会ったら、払ったり急に動いたりしないで、姿勢を低くしてじっとして、やり過ごした方がいい、と聞いていたので、直ぐにうづくまってじっとしていたら、ハチは私の野良作業用帽子にバンバンとぶつかってくる。それでもじっとしていたら、お尻に痛みが走った。刺された!

これではダメだと判断して、うづくまるのを止め、ほうほうのていで逃げ出した。逃げ出したときに左足のふくらはぎを刺された。今度はかなり痛かった。木綿のモンペを2枚重ねていたのだが、スズメバチの針は容易に貫いたのだ。お尻の方はメリヤス地の下着も履いていたので、多少は刺す深さを抑えたのかも知れない。20メートルほど先の庵まで走って振り返ったら、もう追ってはきていなかった。

スズメバチが刺すのは、巣に危険が及びそうなとき。巣から10~20メートル離れれば、もう追ってはこないらしい。動かないでじっとしていた方がいい、と言っても、巣のそばにうずくまっていたのでは、危険な奴として攻撃される、ということが後で分かったが、もう後の祭り。

スズメバチに刺されたとき、最も恐ろしいのはアナフィラキシーショック。もしショック症状が出たらどうしよう・・と思いつつも、とりあえず、風呂場で刺されたところを洗い流した。30~40分経ってもショックは起こらず、とりあえず胸をなでおろした。

アナフィラキシーショックは、2回目に刺されたときに一番起こりやすい、という。私は10年ほど前にアシナガバチに刺されたことがある。アシナガバチもスズメバチの仲間なので、それなりにショックの怖れもあった、と言える。ただし、1回目でもなる人もいるし、3回目、4回目でなる人もいるそうだ。

夕刻のことでもあり、病院に行くか否かは翌日の状態を見て決めることにした。

翌日、つまり7日の朝、刺された場所を見て驚いた。左足ふくらはぎの半分以上が真っ赤に腫れ上がっている。左足先は赤くはないが、むくんでいる。臀部右側も真っ赤に腫れている。迷わず皮膚科へ行った。 ステロイド系のダイアコートという塗り薬と、タリオンという抗ヒスタミン系の飲み薬を処方された。

真っ赤な腫れは、日毎に少しずつ薄らいでいったが、意外だったのは、左足先のむくみだ。7日より8日、8日より9日とひどくなった。浮腫みの正体はリンパ液らしい。パンパンに膨らんで、一回りサイズが大きい長靴でも窮屈だ。ただでさえ、脊柱管狭窄症等でヨタヨタなのに、全く泣きっ面にハチとはこのことか? ユキの散歩はしないわけにはいかないし、辛かった・・・

10日の午後ぐらいから、ようやく浮腫みが引き始めた。ほぼ完全に引いたのは13日頃。 それまで不自由な生活を強いられた。スズメバチ恐るべし!

この件を近所の友人に話したら、「今度また刺されたら、すぐに電話をください、駆け付けるから。」と言われた。「アナフィラキシーショックは、10~15分でアウト。意識不明になったら119番を呼ぶこともできないでしょ。」と。有難くて、胸がジーンとした。






存在の深淵

2018-09-09 10:21:46 | 
若松英輔(1968~)の「『こころ』論~語られざる遺言」(岩波書店の「図書」に連載中)に触発されて、夏目漱石著「こころ」を、半世紀ぶりに読んだ。公民館図書室から借りた「昭和46年1月20日 五版発行」の本は、老眼の私にも読みやすい字の大きさで、行間も適度に空いている。古い本の手触りって、いいですね。



半世紀前は、内容は重いが文章は優しくてさらりと読んだような記憶がある。ところが今回は・・・文章も重い。これもあれも暗喩のような気がしてくる。幾層もの暗喩の重なりがまるで泥沼のようだ。それでも進まずにはいられなかった。


・・・私はKの死因を繰り返し繰り返し考へたのです。 (中略) 私は仕舞にKが私のやうにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、所決したのではなからうかと疑ひ出しました。さうして又慄(ぞっ)としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じやうに辿ってゐるのだといふ予覚が、折々風のやうに私の胸を横過り始めたからです。

この一節は『こころ』の核心だ、と若松英輔は言う。

かって「K」が、そして「先生」が感じていた孤立を底にして見てみると、意見の相違も、信仰の違いも、あるいは恋愛をめぐる出来事も上澄みの出来事に映る、というのである。

失恋も友情の崩壊も、あることの契機だった可能性がある。このとき「K」は、常人がかいま見ることのない、存在の深層にふれたのかもしれない。その死は、実存の割れ目から湧出する熾烈な出来事に、彼の心身が耐えられなかったゆえの帰結だったのかもしれないのである。

詩人(ロシアの詩人フョードル・チュッチェフ)の魂は、人間の眼が本来見てはならないもの、宇宙の根源的暗黒、かの太古のカオスを目撃する。一切の存在の最も深い根底にひそむ、絶対に非合理的な存在の根源、「神」とは正反対の恐ろしい「何ものか」を見てしまうのだ。(井筒俊彦著「露西亜文学」より)


「先生」は自己への絶望を契機に、存在の深淵の暗黒を見たのだろうか? その「暗黒」は、「先生」の生きる力を奪ったのだろうか?

親鸞聖人も自己へ絶望し切っていた。「愚禿悲嘆述懐(ぐとくひたんじゅっかい)」に、「虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり」などと、血を吐くように語っている。そして、その絶望の底から、「暗黒」ではなく、阿弥陀仏という「光明」を見出している。この違いは何なのか?

「先生」は、誠実な人物だが、思い込みが強い。静かな人格であるとも感じられるが、「K」に劣らず、内に燃えるものは熱く、その心の扉の奥に入ることはできない。入ることができないのは彼自身も例外ではなかったのである。

そして次のように断じることが出来るのは、若松英輔がキリスト者だからだろうか?

彼(=「先生」)は、自分が見えていない世界があることに充分に気がつけていない。


季節はそれなりに

2018-09-06 19:55:29 | 八郷の自然と風景
前代未聞の猛暑の上に台風と雷も多くて、全く酷い夏だった。そして今日未明の北海道の震度7・・・ 

この国の酷い体制と天変地異。それでも季節はそれなりに巡っている。黄金色の田んぼにコンバイン(稲刈と脱穀と稲藁の細断を同時進行する)が入ると、風景の色合いがみるみる変わっていく。



       

野道を歩くと、ツユクサ、ミズヒキ、イヌタデ、ツリガネニンジン、ユウガギク、オミナエシ 等々、秋草たちが慎ましい花を咲かせている。 今朝は、暗紫色の個性的な花を見つけた。図鑑で見たことがある花だけれど、名前を思い出せない。帰庵してから図鑑を1ページずつめくって探したが、なかなか分からない。ずいぶんめくって、もう諦めようかと思い始めたとき、ありました! ノダケ でした! 花火のように花を咲かせるのはセリ科の特徴だそうです。

ブルーベリーの実

2018-09-02 11:43:51 | 暮らし
荒れ気味の雨が昨夕から断続的に降った。かなりの雨量だ。気象情報では秋雨前線の影響だとか言っていたが、とても秋雨とは言い難い。深夜までは雷も伴っていた。旱で泣いていた菜園には降雨は有難いとはいえ、荒れた降り方をされると、野菜たちが傷ついたり、畑土が流れ崩れたりしてしまう。

ブルーベリーの実も濡れている。コナラの木立の手前に小さな苗木のブルーベリーを植えてからもう10数年になる。落葉樹のコナラの葉陰はブルーベリーにとってほどよい環境だったらしく、すくすくと成長して毎年たくさんの実をつけてくれる。



野良仕事の途中にこのブルーベリーの実を一つ二つ摘まんで口に放り込むと、滅法うまい! ところが、この実をたくさん摘んで、冷蔵庫に保管してから後で食べると、一応おいしくはあるけれど、口の中で味が弾けるような、うまい!という感動がない。この違いは何なのだろう? 野良仕事の途中か否かによって、心身の調子が違うからか? とも思ったが、どうも、それよりも時間の経過、特に冷蔵すると味の由来の何か、生気のようなものが死んでしまうような感じがするのだ。