みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

生きる力

2020-08-20 09:56:21 | 老病
側弯症が進行し、日常生活を営むのが辛いので、この秋に手術を受けよう・・と、内心では覚悟を決めかけていた。

2年ほど前に地元の病院で勧められ、紹介状を貰って某大学附属病院へ半年毎に通院してきた。これまで数回受診したが、診察の医師はレントゲン撮影結果を眺めて感想を短く言い、手術を受ける意志が私にあるかどうかを問うだけだった。私は「この齢で手術を受けるなんてとんでもない」と答えてきた。

しかし今回は本気で「手術」を考えた。しかし決断するには考える材料が無さ過ぎる。医師への相談事項をA4のペーパー2枚に箇条書きで整理して受診に臨んだ

医師は開口一番で何を言ったか・・・「こういう相談は御家族にも来て頂きたいんですよね」  私は唖然とした。一人暮らしだということは既に伝えてあるのに。しかも手術について極めて大雑把に語りながら、「素人には分からないでしょうが・・」などと言う。しかも説明内容に一貫性が無い。

若くて経験が少ないらしいのは仕方がないが、医療と患者に対して誠実でない態度には愕然とした。それなりに権威?が認められている大学附属病院の医師なのに。

いい加減な説明だったが、手術は予想していた以上に極めて大きな負担がかかるものであること、手術をしたからといって、日常生活能力の向上に繋がるかどうか疑問があること、は間違いなさそうだ。

覚悟を決め掛けていた手術を、私は受けないことにした。辛いけれどこの体で、残された人生を頑張って生きていこう、と。妙に意外な力が体内に芽生えてきた。

     

当菜園のツルムラサキは、連日の猛暑にもめげず元気いっぱいに脇芽を次々に出し、勢いよく伸びている。昨年までは地這いで栽培していたが、今季は支柱を立てた。そうしたら、地這いの時の数倍ほどの収穫が得られている。

菜園の傍らのモミジアオイは鮮やかな深紅の花を炎帝に差し出している。ツルムラサキもモミジアオイも、私に元気のお裾分けをしてくれているようだ。



昭和の木造校舎で

2020-08-12 22:22:12 | 俳句
コロナ禍のため、私たちの小さな俳句の会も大きな影響を受けている。3~6月は中断した。7月から吟行を再開したが、公民館での午後の句会は行わず、投句・選句は郵便等によることにした。

乗合タクシーで吟行へ向かう私たちは、まさに「老童」という言葉が相応しい。楽しくて、はしゃいで、お喋りする。

運転席と客席の間には透明幕が張られている。車窓の一部は換気のため常に開けられている。二人用の席に一人ずつ乗り、運転者も客の私たちも皆マスクを着用している。

今日の吟行先は朝日里山学校。昭和の木造校舎だ。朝日小学校が廃校となり、その後、社会教育活動等に利用されている。現役の小学校だった時の黒板や掲示物なども残されている。教室の出入口の引戸がガタピシ鳴るのも郷愁を誘う。

郷愁、と言っても私の小学校時代の記憶の多くには暗い影が射している。特に低学年のとき。いつも教室の隅で怯えるようにじっとしていた。教師は私を無視したり差別したりした。同級生は校庭の砂を掴んで私めがけて投げ付けた。

夏になると母はソウメンしか食べさせてくれず、栄養失調だった。校庭での朝礼の時、脳貧血で意識を失って倒れ、固い校庭に顎を打って怪我をした。また教室や廊下の床を生徒たちが雑巾掛けしている時、やはり脳貧血を起こして、汚れた水の入ったバケツの中へ頭を突っ込むように倒れたこともある。そんな私を同級生たちは嘲笑った。

通信簿には下位の評価が並んでいた。日頃のテストの成績は良かったのだが、たまに減点されたテスト結果を持って帰宅すると、母は激高して私を殴った。 (母は何につけてもよく殴るヒトだった) 大人になってから、そのとき減点されたのは、質問の方がおかしかったからだということに気付いた。


    
          

          蕎麦切の音無き刻み冷房裡

朝日里山学校の職員さんに蕎麦を打って頂いた。まるで手品を見ているような名人芸だ。出来上がった蕎麦の束が美しかった。
女性の職員さんが揚げて下さった野菜天ぷらとお漬物も付いて九百円。



コロナ感染防止策のアクリル板衝立が取り付けられた机で、美味しく戴いた。ボリュウーム満点で、日頃の私の食事量の5割増しぐらいだったが、アクリル板越しにお喋りしながら完食した。