みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

富谷観音

2015-03-29 17:59:41 | 俳句
今日の俳句の会の吟行先は、岩瀬の富谷観音。あまり知られていない観音様ですが、なかなかどうして見どころがあるらしい・・ということで、ウキウキドキドキしながら皆と一緒にバス(国民宿舎「つくばね」専用)に乗りました。

目的地に着いて降り立つと、見晴しが良くて穏やかな風景が一望できました。説明板の雰囲気も好印象です。



このお寺の正式名称は「施無畏山宝樹院小山寺(おやまじ)」というんですね。本尊の十一面観音が「富谷観音」と呼ばれているようです。本堂を覗きましたが、御本尊がいらっしゃる筈の奥は暗くて見えませんでした。でも、白い天女が舞うレリーフが手前に見えて素敵でしたよ。

     しらぎぬの天女を掲げ寺の春

三重塔は期待に違わぬ見事な姿を見せてくれました。室町時代の作で、国指定の重要文化財です。

  

     春天へ舞ひ立つ反りや三重の塔

楼門の仁王様もなかなか見応えがあります。

     

寺域の片隅に、軍用に供出させられた馬たちを悼む碑が立っているのを見て、胸が疼きました。

     堂裏に出征軍馬碑よなぐもり     (よな=霾:黄砂のこと)

吟行の後は再びバスに乗って、国民宿舎「つくばね」へ。皆と一緒に賑やかな昼食をとり、その後の句会も賑やかでしたが、卒寿を越えた俳友の、<今日は花日和だが、余生には死ぬという一仕事がある>という趣旨の作句には胸を突かれました。


小鳥たちと老獣

2015-03-28 07:56:57 | 八郷の自然と風景
春は囀りの季節だ。小鳥たちが奏でる音風景は暫しの至福感を齎してくれる。今朝もホオジロが、当菜園の傍らの桑の裸枝でひとしきり囀ってくれた。



昨朝も小鳥たちの声を聞きながら山道をユキと散歩していると、数メートルほど先を見慣れぬ獣が横切った。やや小さめの中型犬ぐらいの大きさで、頭部は小さく上半身が細く、下半身は大き目で尾が長い。犬でも猫でも狸でもない。イタチにしては大き過ぎる。ハクビシンだろうか? 顔が向こうで鼻が白いかどうか見えなかった。

藪が迫る山道とはいえ、明るくなった時間に人前へ姿を現すようなことは滅多にない獣だろう。右側の藪から左側の藪へ、頭部を下げてトボトボ歩いていった。長い尾は力無く垂れ、毛並は荒れているようだった。年老いて死に場所を求め彷徨っていたのかも知れない・・・ 他人事、いや他獣事とは思えず、しんみりしてしまう。

他の獣に遭遇すると猛烈に興奮するユキが、このときは呆然とした表情で見送っていた。

八木誠一著 「イエスと現代」  その2 

2015-03-25 08:51:58 | 
愛するものは神を知る と著者はいう。愛は自己を超えたところに由来しているから  という。 私はここで躓く。愛は執着であり煩悩でもある、という仏教の教えに馴染んでいるからだろう。

超越的なもの(=神)を客観的に確かめることはできない。だから神を知るとは、知でありながら信である。「信知」である。 これは私も納得できる。神を仏とか無とかに言い換えても同様だと思う。

神を対象として見ることはできない。自己が自己を対象として観察するときにも、神は姿を隠してしまう。 この箇所を読んだとき、私はスメルジャコフ(「カラマーゾフの兄弟」の登場人物)のセリフを想起した。イワンとの3度目の対面のときだ。

神さまが今わたしたちのそばにいるんです。ただ、探してもだめですよ、見つかりゃしません。(原卓也訳 新潮文庫 下巻P291)

「神さまが今わたしたちのそばにいるんです。」と言われたとき、イワンは思わず辺りを見回したに違いない。イワンは「観察」する人だから。この場面の少し前にイワンはアリョーシャへ、こんな問いを発している。 自分が発狂してゆくのを、観察できると思うか?(P230) と。

スメルジャコフは憎悪と復讐と嘲笑で生きてきた。だがイワンとの3度目の対面のとき、スメルジャコフに劇的な変化が訪れていた。 すっかり顔が変り、ひどくやつれて、色が黄ばんでいた。目は落ちくぼみ、下まぶたが青かった。(P285) 死相に近い顔だ。このとき彼は神を「信知」するに至っていたのだろうか・・


ヤマガラもノスリも

2015-03-24 13:09:19 | 野鳥
昨朝も今朝もヤマガラが来てくれた。当庵の庭先の木立にまで来たのは初めて見る。ヴィーヴィー 個性的な声を発しながら忙しく飛び回る。梢から中ほどの枝へ、下枝から地面に下りたと思うとまた枝へ飛び上がる。黒・白・オレンジ色の組み合わせの羽色が朝日を受けると鮮やかで、見とれてしまう。

  

近縁種のシジュウカラは群れで行動しているけれど、このヤマガラは単独行動。写真が拙くてごめんなさい。実際のヤマガラはもっともっと鮮やかに美しいんです!

そばの高い梢に別の小鳥もやってきました。逆光でよく見えなかったけれど、撮った写真をよく見たら・・



アオジでした。こんなに明るいところにアオジが出てくるのを見たのは珍しい。繁殖期だからでしょうか。

野の向こうに目を移すと、鷹が中空を舞っていました。背色が淡めの茶系でしたから、たぶん ノスリ でしょう。カラスが近付いて暫し空中つばぜり合い。

裏山には今日も鷽(ウソ)が3羽やってきていました。内1羽は雄で、頬の紅がゾッとするほど美しかった・・

色々な野鳥たちに出会えた朝でした。

スミレの名まえ

2015-03-22 12:50:13 | 八郷の自然と風景
日毎に増えてきた草たちを相手に、むしったり鎌で刈ったりしていたら、縁先の踏石近くにスミレが数株咲いているのに気付いた。庇の下だから乾燥して土がパラパラ状態のところだ。他の草は生えていない。


普通(?)の「スミレ」より小さいから「コスミレ」とかいう種類かしらん・・と思っていたが、手元の小図鑑を見ると葉の形が違う。コスミレの葉は短いのだ。このスミレの葉の形は長めで「スミレ」と同様だけれど、花柄の途中にスミレ特有のヒレ状のものが付いていない。

ネット検索して「ヒメスミレ」と判断しました。とても小さくて可憐な花だけれど、苛酷な環境が好きなんですね。少々踏みつけられても立ち直っています。都会でもアスファルトの隙間に咲いていたりするらしいけれど、首都圏に住んでいた頃に出会った記憶がありません。都会の喧騒に身も心も煩わされていたから、「見れども見えず」だったのでしょうか?

すてきなところ

2015-03-17 08:07:58 | 野鳥
春暁の森から鵺(ヌエ=トラツグミ)の幽かながら鋭い笛のような声が聞こえる。日が上ってくると、鶯の ホー ホロロロ ホケッキョ 修飾音符付きの上手になった囀りが始まる。

飼犬ユキと散歩する頃は、身近な梢でホオジロが イッピツケイジョウ ツカマツリソウロ 早口で賑やかに囀る。黒白の顔化粧が鮮やか。囀っている間は止まり木を変えないけれど、あっちの空を見上げたり、こっちの空を見上げたり、まるで小躍りしているかのような全身で歌う。脇腹の茶系の地味な筈の羽色が朝日を受けて艶やかに輝いている。



下藪にアオジが撥ね、森の中空をカケスが飛翔する。コゲラが樹幹を叩く音も混じる。下草に紛れるように春蘭がひっそりと花開き始めていた。当庵の裏山はさほど大きな森ではないけれど、「森ほどすてきなところはほかに知りません」(「カラマーゾフの兄弟」に登場する或る青年の言葉から)

フィ フィ 鷽(ウソ)の声だ! この声に私は片恋状態。三羽が見えた。梢に近い枝から枝へゆっくりと飛び移っている。内一羽は頬が紅の雄だ。

  

憧れの鷽(ウソ)の姿をどうにかカメラに捉えることが出来ました。雌のようですけれど。

お幸せに

2015-03-15 14:26:19 | 茶道
茶道の稽古仲間のお一人が、もうじきお引越し予定で、稽古を御一緒できるのは今日が最後。という訳で、代稽古の先生にも並んで座って頂いて、記念の写真を撮らせてもらいました。



短いお付き合いでしたが、爽やかで美しい所作とお人柄との出会いは、私にとって年齢差を超えた貴重な思い出となりそうです。お引越し先で新居を営まれるとのこと。お幸せに!

桃花酔

2015-03-14 18:14:23 | 書道
月に一度の書道の稽古日でした。春らしい字に出会うだけでも何だか嬉しくなってしまう・・ アルファベットでは、こうはいかない。「漢字」っていいなあ!



筆に気持を込めて書いていると、魑魅魍魎の雑念が少しばかり遠のいてくれるような感じがします。筆を置いたら元の木阿弥ですけれど。


浄土寺と光安寺橋

2015-03-10 13:50:17 | 俳句
当地の俳句の会を長く指導されていた恩師が逝去されたのは、東日本大震災の年の夏。お彼岸の季節だから、との長老の提案に従って、今日の吟行は墓参を兼ねることになりました。


菩提寺の浄土寺は火災焼失後に恩師等の尽力を得て再建されたものだそうで、なかなか立派な構えなのだけれど無住寺で、常住の御住職はいらっしゃらない、というのは残念です。



恩師の御墓は旧家らしい歴史を感じさせるものです。お人柄も俳句も上品で穏やか、しかも気さくな方で、慕う方が多かったと思います。優秀な御家族にも恵まれていらっしゃいましたが、最愛の御家族に早世されるお悲しみも秘めておられたこと・・等々、皆で偲びました。



墓参の後、近くの恋瀬川岸へ歩き、光安寺橋を渡って右へ少し入ったところに囲われている虚無僧の墓碑(文化15年=文政元年)を訪ねました。この辺りは、虚無僧寺の光安寺の跡だったんですね。



       虚無僧の塚を掠めり春疾風(はやて)

八郷町民文化誌「ゆう」№4に、「往古の虚無僧が作曲し吹き伝えてきた尺八本曲を吹嘯して」おられる、という斉藤孝介氏の『簫籟(しょうらい)~普化宗小史と虚無僧寺「光安寺」に就いて』の記事があります。


尺八についての専門的な内容は私の理解を超えていますが、綿密な調査を経て泥土に埋もれていた虚無僧塚を見出された氏の深い思いに感銘を受けました。







移り白

2015-03-08 17:15:07 | 茶道
雨催いだったけれど今朝は鬱(春愁?)気分が抜けていた。腰痛に顔を顰めることもなく、ユキとの散歩の足取りももたつかない。茶道の稽古に出掛ける予定があるということが、こんなにも私の心身に影響するとは!

茶道の稽古には、程よい緊張感と静かな感動の蓄積がある。

今日の稽古は台天目(だいてんもく)。久しぶりの四ケ伝(しかでん)で、老脳のぼやけた記憶をまさぐりながら、とんでもない間違いを幾つか交えながら、まあそれでも自分では案外それなりに出来たつもりだけれど、この「つもり」というのが一番怪しいかも?

病気療養中の恩師に代わって御指導下さっている先生は、茶道を習得されているのみならず、本当に素晴らしいお人柄の方で、この先生や、良き弟子仲間と共にひとときの時空間を過すことの有難さを改めて思います。

床の間に飾られた花椿の「移り白」という名前も心に残りました。微かに桃色がかった美しさに見とれました。咲いているうちにだんだん白くなるそうです。