みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

中島義道著 「死」を哲学する <第7日 「無」という名の無・死の超克>

2013-01-29 10:11:26 | 哲学

私が言語を学ぶとは、自分と他者との溝を越えること、その無という溝を無視することだということ・・無は人間存在が他者との差異性を抹消して言語を学ぶところに故郷をもつのです。

文中の「無」を「有」に換えても同様に思われます。

 他者とは、私がそれを「無」という名の無としてとらえることに挫折することによってそれ自体が「無」という名の無であることを表わす。

「とらえること」が出来ないからこそ、「無」と言われるのでしょうけれど。

 私が死ぬと、私は私と他者とのあいだにそびえていた壁を打ち破って無それ自体へと越境するのです。しかし、同時に私は人間の言葉を失う。私の死とは、・・言葉の境界を越えることなのです。

私の死とは・・言葉の境界を超えること・・これはかなり常識的な結論になりました。世間の諺にも「死人に口無し」と言いますものね。著者の思惑を外れた感想でしょうけれど。

ところがまた唐突に、常識的ではない?希望が提起されます。

 ・・(私の死は)私の側からは完全な無ですが、境界の向こうに位置する死の側からの言葉があるなら、その言葉は私の死を語ることができるのかもしれない。・・その言葉によって、・・私の死にはまったく新しい意味が与えられるかもしれないのです。

藁にも縋りたい読者および著者自身には、藁(死の側からの言葉)を与えるべし、というのが哲学者を名乗る著者の精神、ということなのかしら?

 


中島義道著 「死」を哲学する <第6日 「無という名の有>

2013-01-29 10:09:04 | 哲学

われわれは・・「無」という名の有として無を理解した後に、それでは表せない無にきづくのだとして、著者は大哲学者たちの諸説(正直なところ、あまり私は興味を感じませんでした。体系的な哲学は特に苦手ですし、そもそも哲学とは、やはり相性がよくないんですね・・)を概観?し、その中で、サルトルの無の理論は・・「無という名の有論」の最も完成された形態であると言っても過言ではない としています。 

 しかし・・「無」としての無には進みえないのでしょうか? 哲学はここで沈黙するしかないのでしょうか? そして、すべてを宗教にゆだねるしかないのでしょうか?

・・最後の講義において、哲学が「無」という名の無を語り出す可能性を探ってみます と著者は約束するのですが、語れないものを語ることが可能とは、私には思えないのですけれど。


中島義道著 「死」を哲学する <第5日 不在と無>

2013-01-29 06:04:50 | 哲学

・・無は表現された瞬間に・・有という相貌をもってしまい、われわれを騙す・・と著者は言います。

・・私固有の死は不在ではなく無なのですが、これを・・他人の視点から不在であると思い込んでしまう。そして・・私の死をその後ずっと死に続けなければならない永遠の不在として理解してしまうのです。 ・・宇宙の終焉まで死ななければならないとは大変なことに思われますが、それはすべて錯覚です。これだけでも一つ肩の荷が下りたのではないでしょうか。

たしかに錯覚であり誤謬かも知れませんが、「肩の荷」が下りた感じは一向にしません。

 ・・私は死んだあとで何らかの仕方で「私は死んでいた」と語れる視点をもちうるのではないか。・・死後の新たな視点が獲得されれば、私が生きていたときに体験したことを・・想起できる という希望?を著者は提起します。唐突な提起に思われますが、「希望」ではあります。

 ここで私が死後獲得する新たな視点の代わりに、ある絶対的な他者(神?)の視点を置くと、・・「私が体験したこと」を現前化する通路を開くかもしれない。・・こうした思考経路をたどって、自然に神という視点が要求されるのかもしれません。

著者の師である大森荘蔵は、この問題を生涯考え抜いたそうです。そして・・現象は誰によって呼び覚まされるわけでもなく(神によってではなく)、ただ「立ち現れる」だけなのだ、と。

 ・・どこから(立ち現れるの)か徹底的に考え抜かねばならない・・と著者は呟いて<第5日>の頁を終えてしまいます。

神を否定する理由も、現象がどこから立ち現れるかも示されず、読者は「希望」の指をくわえたまま置いてきぼりにされましたが、「あとは自分で考えろ!」ということでしょうか?


光悦寺垣

2013-01-28 17:49:12 | 八郷の自然と風景

午前中は雲に覆われて、底冷えの厳寒。午後は早春めく日差しに包まれました。

Dscn3118昨日に引き続き庭師さんが来て、建仁寺垣の袖に光悦寺垣(竹材はクロチク)を設えて下さいました。空間の奥行が深くなりました。茶庭は私の心の友です。庭師さん、有難う!

珍しくキセキレイが飛んできて、茶庭の周りを行ったり来たり。姿も色もとても美しい野鳥です。頭上の天高くには鷹が舞っていました。


早春の兆しの中で

2013-01-27 18:08:44 | 暮らし

とても寒いけれど、スカッと晴れ渡った青空と早春の兆しを思わせる日差しに、凛とした快さを感じる今日は、まさに野焼き日和です。

村の田んぼの畔や土手の枯草に、火が点けられて炎が立ち上がり、枯れ色の景色へ黒炭色が広がってゆきます。風上から火を点けると、火勢が大きくなって危険なため、風下の方から、順次進められます。休耕田のところは丈高い枯草が密集しているので、激しい炎になりやすく緊張感が走ります。

女性陣は、燃え跡に転がっている空き缶などを拾います。燃え終わってすぐは熱いので、区長(村長)さんが「冷めてからお願いしますね」と優しい声を掛けて下さいました。作業の合間の世間話も楽しく、また貴重な情報を得ることも出来ます。

Dscn3112昼前に野焼き&空き缶拾いが無事終了し、帰庵。朝から茶庭の補修に取り組んで下さっていた庭師さんが、「終わったかい? 野焼きの煙が威勢よく上がっていたなあ。」  

茶庭を造ってもらってから6年ほど経ちますが、まだまだしっかりしているので、全面的な改修はせずに、枝折戸の調整や樹木の一部剪定、そして竹垣を結んでいる棕櫚縄が傷んでいるのを取り換えてもらったり、です。

Dscn3110建仁寺垣の玉縁(垣の上部に立ち上がっている黒い縄結び)は、鴉のイタズラで全滅していたので、新たに結んでもらいました。

明日は、建仁寺垣の横に、短いながら光悦垣を造ってくださるそうです。


空を見上げて

2013-01-26 17:27:00 | 八郷の自然と風景

ヤマガラが庭を訪ねてくれました。珍しいことです。形はシジュウカラに似て、色はジョウビタキに似ていますが、鳴き方が ミー ミー と個性的です。人への警戒心が強くない個体らしく、私の3メートル近くまで飛来して、その美しい姿にうっとりすることが出来ました。

昼下がりに友人が来庵、悲しかったことも嬉しいことも、たくさんのお喋りをすることが出来ました。

Dscn3099菜園で昨年末に発芽したエンドウの芽は、連日の強霜と寒風に耐えています。Dscn3107
花壇の水仙の蕾が、例年より遅いながら膨らんできました。

裏山の木々たちは冬芽をしっかり用意して空を見上げているようです。厳寒の日々ですが、日脚が確実に伸びてきたのを感じます。夕方4時を回っても、空にはまだまだ光が満ちています。
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中島義道著 「死」を哲学する <第4日 私の死・他人の死>

2013-01-24 07:20:41 | 哲学

他人の死には比較的冷淡でいられることについては、倫理的な問題の前に問い直すべきことがあるようです。

 死が無意識と違うのは、死からは覚めることがないというただ一点だけなのです。・・死が恐ろしいのは、無になるからではなく、「あとから」それを確認する視点をもちえないからなのです。

 他人Fが死んでしまっても、私は「Fは死んでしまった」と語る視点をもてるけれども、・・私が死ぬということは「私は死んでいる」と語れる視点を失うのみならず、「私は死んでいた」と語れる視点さえも失うということなのです。

 他人の死は私にとって単なる不在なのですが、私の死は私にとって不在ではなく、正真正銘の無なのです。

恐怖の由来は 語れる視点を失う ことにある・・・この指摘には頷かされました。

 


中島義道著 「死」を哲学する <第3日 死ぬ時としての未来(二)>

2013-01-24 07:15:44 | 哲学

 ・・まだ何も現に起こっておらず、次の未来に何が起こるか原理的に知らないにもかかわらず、それに対して予測し、予想し、意思し・・・・・というあり方、実現される前のあり方こそ、未来のみならず時間そのもののモデルとする道が開かれうるかもしれない。

時間とは時間意識だ、と著者は言っているのでしょうか? 同義反復のようにも思えるのですが・・

  しかも、次の未来は、私が死ぬときかもしれない。私は死ぬと完全な無になるのかもしれない。よって、次の未来は完全な無なのかもしれない。「無」と言っても、まだ私が死んでいない「いま」においては、単なる概念です。しかし、死んで私が無になるということは、明らかに私が概念としての無になるということではない。とすると、それはどういうことか? こうして、まったく新しい時としての未来は「私の死」と重なって、あらためて浮かび上がってくるのです。

時間とは、未来とは、死とは、無とは、どういうことなのか、人知は及び得ないことを深く了解するところに、宗教心が芽生えるのではないかと思います。

哲学者を名乗る著者は、あくまでも知によって探究しようとしていますが、まったく新しい時としての未来は、本当に浮かび上がってきているのでしょうか?

 


中島義道著 「死」を哲学する 第2日<死ぬ時としての未来(一)>

2013-01-23 06:27:13 | 哲学

生者にとって「死」は未来にありますが、その「未来」とは何かを、著者は問うています。

物理学は過去・現在・未来という時間様相を等質化します。これは時間の空間化(数直線化)と言えますが、同時に・・現在や未来の「過去化」と言っていいでしょう。なぜなら、時間とその上に位置づけられていてもはや変えようのない諸現象という図式を、われわれはもっぱら過去のあり方から理解しているからです。

・・現在とは未来であった時であり・・過去における未来こそ未来という時制の原型なのです。

 ・・宇宙が滅んでも明日の朝8時は実現されるという人は、何を言っているか分かっているのでしょうか? その場合の「明日の朝8時」とは時間ではなく単なる概念であることを忘れているのです。

真木悠介は著書「時間の比較社会学」において、時間の空間化(数直線化)は近代人特有の感覚であることを説いています。時間意識は、時代により民族により異なっていて相対的なものである、と。

私たちの世界は四次元の時空として理解されていますが、相対性理論と量子力学を統合しようとする「超ひも理論」によれば、本当は十次元の時空だそうです。十次元の時間&空間を実感を以て了解することは、私なぞには不可能です。

未来とは単なる概念であるのか否か、人知では測り難いことのように思います。


中島義道著 「死」を哲学する <第1日 死と人生の意味>

2013-01-23 06:07:11 | 哲学

死に対する感受性は、人によってかなり異なっているようです。

すべての人は人生という監獄で死刑を待っているのです。・・人類もやがて全滅するのです。・・地球そのものだって、あと数十億年したら膨張する太陽に呑み込まれてしまうらしい。

みんなこんなことは知っている。しかし、不思議なことに、ほとんどの人はこうしたことを頭の片隅に追いやって生きることができるようです。でも小学生のころより、この構図は私の脳髄の中心を占拠して動こうとしません。それは、しばしば私を怖ろしい不安に陥れ、絶叫したくなるほどの虚しさに引き込みました。そして何の「解決」も見いだせないまま、60歳を超えもうじき死ぬというわけです。

著者が告白する「死に対する恐怖」は、そのまま私の恐怖でもあります。著者ほどの一貫性・継続性はありませんが。

しかしこの恐怖は心身を確実に傷めるので、最近の私は、「頭の片隅に」追いやるよう努めています。

・・私の場合、死に対する恐怖とは、まったくの無になるのが恐ろしいというストレートな感じというより、ずっと無であったのに、1瞬間だけ存在して、また永遠に無になる、という途方もなく残酷な「あり方」に対する虚しさです。

振り返って考えてみれば、今、生きていること、存在していること、そのことも恐怖なのです。

著者は、(「死」の)構図そのものを徹底的に探究し、この構図にどこまで揺さぶりをかけられるか、こうした特異な目的に一生を費やそうと決め・・叫び出したくなるほどの虚しさにもかかわらず、ようやくそこにしがみついて生きている・・のだといいます。悲惨なようで、自嘲的なようで、そしてどこかしら得意気なようでもあります。