私が言語を学ぶとは、自分と他者との溝を越えること、その無という溝を無視することだということ・・無は人間存在が他者との差異性を抹消して言語を学ぶところに故郷をもつのです。
文中の「無」を「有」に換えても同様に思われます。
他者とは、私がそれを「無」という名の無としてとらえることに挫折することによってそれ自体が「無」という名の無であることを表わす。
「とらえること」が出来ないからこそ、「無」と言われるのでしょうけれど。
私が死ぬと、私は私と他者とのあいだにそびえていた壁を打ち破って無それ自体へと越境するのです。しかし、同時に私は人間の言葉を失う。私の死とは、・・言葉の境界を越えることなのです。
私の死とは・・言葉の境界を超えること・・これはかなり常識的な結論になりました。世間の諺にも「死人に口無し」と言いますものね。著者の思惑を外れた感想でしょうけれど。
ところがまた唐突に、常識的ではない?希望が提起されます。
・・(私の死は)私の側からは完全な無ですが、境界の向こうに位置する死の側からの言葉があるなら、その言葉は私の死を語ることができるのかもしれない。・・その言葉によって、・・私の死にはまったく新しい意味が与えられるかもしれないのです。
藁にも縋りたい読者および著者自身には、藁(死の側からの言葉)を与えるべし、というのが哲学者を名乗る著者の精神、ということなのかしら?