みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

晩秋とも初冬とも

2017-11-28 16:56:41 | 八郷の自然と風景
晩秋も初冬も、どちらも素敵な言葉。八郷の風景が好きな私ですが、晩秋とも初冬とも言えるこの季節は格別!

当庵へアクセスする山路は、コナラやクヌギなどの雑木黄葉で飾られています。


当庵南側の外縁から望む黄葉山の向こうの遠山は、筑波連山の南端に当たります。右手前の紅葉はブルーベリーです。


西側も雑木黄葉。南天の実は、野鳥が啄んで疎らになっています。


木立の下のあちこちに万両が増えているのは、野鳥が種を運んでくれているからでしょうね。


裏庭の八ツ手は今が花盛り。地味な花ですが、虫たちが次々にやってきています。花が少ない季節ですし、蜜も上等なのでしょうね。
   

   


八ツ手の花は、見るときによって何故か感じが少し違うような気はしていましたが、「野の博物誌」(朝日新聞水戸支局編 P.166・167)を読んで、謎が解けました。

5枚の白い花弁が開くと、つぼみの中に折り曲げられていた雄蕊は反り返るように伸びて花粉を出す。このとき花床は盛んに蜜を出して最後の花を求めてやってくるハナアブなどを呼び寄せる。

4~5日すると、花弁と雄蕊はさっさと散ってしまう。数日後にこの花を見ると、また盛んに昆虫がやってきている。今度は雄蕊も花弁もなくなった丸坊主の花から5本の雌蕊が伸びて花床からはまた蜜が出ているのだ。


上の写真3組のうち、上左は蕾の花球。上右は雄蕊が伸びている花球。下は雌蕊が伸びている花球。劣性遺伝子を出現しやすい同花受粉を避けるための巧妙な仕組みを知って、自然の神秘に改めて感嘆しました。




中島義道著 「観念的生活」 その10

2017-11-23 09:49:16 | 哲学
第12章は「共通感覚」

共通感覚によって条件づけられた共同体においては、武士道や茶道に典型的であるように、礼儀作法にかなったしぐさは道徳的にも善くかつ美学的にもよい(美しい)とみなされる。 (P.189)

白鵬が嫌われる原因の一つ。私は白鵬が気の毒でならない。

美とは対象に付着しているものではない (P.188)

善と美を互いにまったく異なるもの(異質なもの)とみなす間違いに加えて、カントは快をその両者と対立させるという間違いを犯している。 (P.189)

共同体において確立している共通感覚という根拠のない想定、すなわちある事柄に対して圧倒的な多数が共通に快・不快を覚えているという想定が、絶大な威力をもって個人を縛り上げる。共同体の構成員は共通感覚とずれた独特の快・不快を抱いていても、それを表明しない。死に物狂いで共通感覚に合わせようとする。なぜなら、そうしないと彼(女)自身が倫理的かつ美学的さらには生理的に不快であるという烙印を押され、共同体から排除されてしまうからである。 (P.191)

中島義道の容赦ない刃、得意の刃が、世間の闇を暴いている。誰しも身に覚えがあることだろう。ただし、中島義道は、共通感覚を「根拠のない想定」としているが、私は、仏教でいう「宿業」が、共通感覚の根拠ではないかと思う。

筧次郎氏は、著書 「ことばのニルヴァーナ」 で、次のように説明している。

私たちのものの見方や考え方、行動の仕方は、私たちの自由意志で作るのではなく、遠い過去世からの祖先の営みによって作られている (P.89)

ものの見方や考え方、行動の仕方の枠組は、伝承されてきた言語とイメージの対体系に拠っている。

(言語とイメージの)対体系(=名色:みょうしき)は、一方では「私」というものの内実をなしながら、他方では「世界」の全体でもあるという両義性を帯びています。 (P.94)

名色の側から見れば、名色は私たちの肉体に宿り、私たちの分別作用によって維持され、構造を少しずつ変化させながら、私たちの肉体の死によって滅びることなく、肉体の死を超えて次の世代へと転生していきます。 (P.95)

私たちは、宿業によって全てを運命づけられているわけではない。筧次郎氏は、「私たちは宿業を受け取るだけでなく、自分たちの営みによってその構造を幾分か変えて、言語(とイメージの対体系)を次の世代に伝える」「私たちはどんな宿業を次の世代にもたらすか、責任がある」とも語っている。


大相撲の「事件」

2017-11-20 06:50:19 | 社会
日馬富士も白鵬も、率直に謝罪し、説明している。この「事件」で、もっとも不信感と憤りを覚えるのは貴乃花親方の言動だ。協会の理事として、巡業部長として、そして、非礼な「貴ノ岩」の指導者としての責任もあるのに。

柿岡城まつり

2017-11-19 22:02:21 | 文化
八郷の中心地である柿岡には、かって平城があったそうです。その柿岡の商店街で毎年開催される「柿岡城まつり」。昨年は所用のついでに一人で、ちょっとのつもりで覗きに行ったところ、東京の高円寺から迎えたという阿波踊りに出会って、その迫力に魅せられました。

今日は近所の方を誘って出掛けました。日頃は閑散とした商店街なのですが、大勢の人出に目を見張りました。家族連れが多くて、小さな子供たちがたくさん! 私を含めて年寄りばかりが目立つ八郷の筈なのに、湧き出たような子供たちの様子を見ているだけで元気が貰えました。

歩行者天国の道路の真ん中で、車上からの「餅まき」が始まると、黒山の人だかり。たくさんのお餅が撒かれましたが、私たちは残念ながらキャッチ出来ず。

地元の手打ちそば同好会のテントで、刻みネギをたっぷり載せてくれた蕎麦(400円)で腹ごしらえ。10割蕎麦で噛み応えがあるのに固くない。つけ汁も薄からず濃からず。いい味でしたねぇ。次は、昨年頂いて美味しかった商工会女性部の「けんちん汁」へ向ったのですが、途中のテントの「みそ田楽」に食指が動き、1本100円を賞味。何だかおなかが一杯になってしまい、けんちん汁は後で・・ということになりました。

野外舞台では、キッズダンスが演じられていました。可愛くてカッコいいですね。続いて、いよいよ「高円寺の阿波踊り」が登場しました。



   

   

阿波踊りは舞台から通りへ繰り出し、子供踊りは可愛く、女踊りは色っぽくて素敵でしたが、何といっても「天水連」を名乗る一団の男たちの大太鼓踊りが最高でしたね! 柿岡の大地と空気を揺るがすような迫力! 写真を撮るのも忘れて見惚れてしまいました。

阿波踊りを見送って、ようやく小腹が空いてきたから「けんちん汁」食べようか、と相談していたら、某商店の娘さん(と言っても既婚らしく、ハンサムな青年が連れ添っていました)から声を掛けられました。「けんちん汁、もう売り切れましたよ。」と。この方のお母様が、商工会女性部の担当なのです。残念・・ けんちん汁は来年まで持ち越しです。







「憲法第九条をめぐる若干の考察」(丸山真男)

2017-11-17 07:08:33 | 
昭和30年代の学校教育の中で初めて日本国憲法に出会ったとき、その崇高な理想に、子供ながら感動した私としては、カイケン、カイケン と声高な昨今の世相が心外でならない。

自衛隊という軍隊が現実に存在するのだから、9条は無意味あるいは現実離れしていて不適切、という声に人心は靡きそうになるけれども、この声に対して、既に半世紀ほど前、あの丸山真男が平易な言葉ながら確固たる思想を以て反論している。

     

私は、第九条の規定には、それ(=静態的な理解)よりもう一歩進めた思想的意味が含まれているのではないか、と思うのです。ということは、第九条、あるいはこれと関連する前文の精神は政策決定の 方向づけ を示しているということです。 (P.36)

自衛隊が現にあるということ、その現にあるという事実をなんぴとも否定することはできません。しかしこれをますます増強する方向に向うか、あるいはそれをできる限り漸減したり、あるいは平和的機能に転換させる方向に向うか、によって、現実は非常に違ってきます。その場合における方向性を決定する現実的な規定として第九条というものが生きてくる。 (P.36・37)

したがって憲法遵守の義務をもつ政府としては、防衛力を増強する方向ではなく、それを漸減する方向に今後も不断に義務づけられているわけです。根本としてはただ自衛隊の人員を減らすというようなことよりも、むしろ外交政策として国際緊張を激化させる方向へのコミットを一歩でも避け、逆にそれを緩和する方向に、個々の政策なり措置なりを積み重ねてゆき、すすんでは国際的な全面軍縮への積極的な努力を不断に行うことを政府は義務づけられていることになる。 (P.38・39)

国際緊張を激化させる方向へのコミットを繰り返しているのが今のアベだ。不安が募る時代になってしまった。

秋深む柏原池公園

2017-11-14 18:35:25 | 俳句
俳句の会で、石岡の柏原池公園へ行きました。夜来の雨もどうにか止んでくれて、風も無く、寒くもなく、時が止まったかのように穏やかです。大きな欅の紅葉や銀杏の黄葉が池面に映り、その池には、沢山のカルガモが浮き寝。時々数羽が飛び立ったり着水したり。



池の傍らには、新島から戴いたというモヤイ像が配されています。モヤイとは、助け合いのことだそうです。「結い(ユイ)」と同じですね。私はこのモヤイ像の、哀しいような、ほほ笑んでいるような、考えに沈んでいるような表情が好きです。

          モヤイ像の目の底深し霧の中


中島義道著 「観念的生活」 その9

2017-11-09 09:20:21 | 哲学
世界が  に開始したのだとすれば、その前は「空虚な時間」であるが、それは実は時間なのではなく、「その前」という言葉によって導かれた概念に過ぎない。そして、単なる概念は時間的実在へと移行しうる力を自らの内に持っていないから、世界はある時に開始したのではないのである。 (P.120)

上記の論法で言えば・・・宇宙に果てが有るのだとすれば、その外は「空虚な空間」であるが、それは実は空間なのではなく、「その外」という言葉によって導かれた概念に過ぎない。従って、宇宙には果ては無い・・・ のだろうか?

カントによれば、「人間は、言葉を直ちに実体化しようとする」。「私」という言葉が単数であって、いつも主語であることから、その独特の実体的存在が誤って推理されてしまう、という。 私=自我意識とは、意識の「過ち」であり、「自我」は「仮象」ということか?

しかし中島義道は、 私にとって他者とは私の表象の束に過ぎず、その存在は単なる概念である。だが、私にとって私の存在だけは単なる概念ではない。それこそ、超越論的観念論を語り出す主体として、超越論的観念論を根底で支えている実在である。 (P.127)という。 そうだろうか?