みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

父の自転車の荷台

2022-11-21 13:35:37 | 自分史
3ヶ月ぶりに亡父の樹木葬地へお参りした。夜来の雨も上がり、空はまだどんよりと曇っているけれど、空気が洗われていて快い。



傍らの白木蓮はすっかり黄葉になって、散る前のひとときを惜しんでいるような気配がしていた。
仏花を供え、合掌して南無阿弥陀仏を唱え、そして心の中で「父さん!」と呼び掛けると、ちょっと臆病そうな小さい両目を少し輝かせながら私を見詰めてくれる父の顔が目の前にありありと浮かぶ。

先日の俳句の会で霞ヶ浦の湖岸を吟行したとき、二人連れの釣人が並んで糸を垂らしていた。「子供のとき、釣りに行く父の自転車の荷台に乗せてもらって海辺で遊んでいたのを思い出す」と、私が呟いたら、俳友から「自転車で行けるところに海があったなんて、羨ましいなあ」と言われた。そんな風に思ったことがなかったので、意外だったけれど、確かに当地は海まで遠くて、霞ヶ浦まででも乗用車で1時間以上を要する。

母の異常な性格に怯えていた子供の私にとって、父と二人で過ごす海辺の時間はとても貴重だったことに、今更ながら気が付く。


母校

2022-11-06 09:23:05 | 自分史
郷里が遠いこともあって、出身校の同窓会には無沙汰を続けている。

高校の同窓会から珍しく郵便物が届いたのは2年位前だったろうか。コロナ禍等により家計が逼迫して進学が困難な学生が増加している、ついては同窓会として進学を支援する基金を設立するので、寄付をお願いしたい、という趣旨だった。

貧困家庭が増加している状況には、日頃、身につまされる思いでいたので、共感を覚えた。とはいえ、慎ましい年金暮らしなので、気持だけの本当にささやかな額を送金した。この進学支援基金は、昨年、一般財団法人となり、本年、公益財団法人になったそうだ。先日、再びささやかな寄付金を送った。

この財団の理事長となられた方の名前を見て驚いた。お笑いタレントとして超有名な人物である。「お笑いタレント」という呼称には違和感を覚えるほど濃厚な個性の持主だ。いわゆる「タレント」には関心の薄い私だが、この人物が高校の同窓生だということに気付く前から好感を抱いていた。母校の進学支援に積極的に協力してくださって、有難いことだと思うし、敬意を覚える。

高校時代の私は、全く「井の中の蛙」だったと思う。異常な家庭環境が、見えない檻となって私を拘束していたように思う。外界を知らず、自由を知らず、そして何故か学業成績は良かったので、いろんな人から「ガリベン」(ガリガリと勉強ばかりしているのを揶揄する言葉)しているんだろう、と言われた。勉強は嫌いではなかったが、自分に鞭打って夜遅くまで勉強したという記憶はない。睡眠時間は8時間以上とらないとダメな体質でもあった。

あれは期末試験の類だったろうか、数学の試験の最中の出来事だった。同級生の一人が身体の不調を訴えて立ち上がった。担任の教師は保健室へ行くように指示し、同級生は廊下に出た。ふらついている同級生を見た教師は、「誰か、附いていってくれませんか。」と私たち生徒に呼びかけた。しかし、試験中のことだ。皆、懸命に問題に取り組んでいる。試験問題は4問あった。この時、私は既に3問を解き終わっていた。あとの1問を解けなくても構わない、と思って、私は立ち上がり、廊下の彼女に付き添った。

後日、別のクラスの同級生に、前夜にガリベンした私が睡眠不足で具合が悪くなったのだろう、と言われて呆れた。私の身体は貧弱で、不調の彼女の方が大柄だったから、そう見えたのだろうか?

母校は、今では県内屈指の進学校になっているらしい。少し嬉しいような、でも少し寂しいような気がする。在校当時の母校は、「準」進学校、といったところで、むしろ、個性派の多い校風で知られていた。「財団理事長」となった彼も、そんな校風に馴染んでいたのではなかろうか。

もしあの頃に戻れるのであれば、彼と友だちになって、井の中から飛び出したかった、などと、夢想する。

無になった人の遺骨

2021-11-13 10:14:38 | 自分史
死んだら「無」だから、お墓のことは遺族の勝手に任せていいのかも知れない。
しかし、自分の遺骨が墓石の下に閉じ込められるのを想像すると、あまりにも不本意だ、と思ってしまう。
第一、私には、先祖代々の墓とか、入るべきお墓が無い。

当地の小さな山寺に「樹木葬」(散骨)の受入れ用地が整備されたので、私は生前予約した。5年ほど前のことだ。

亡父の遺骨は、行き場が無くて、隣県の納骨堂に預けられっぱなしだった。
亡父は死んだのだから、「無」の筈なのだが、ロッカーのような小さな空間に閉じ込められている遺骨のことを思うと、何だか可哀そうでならなかった。

私が生前予約している樹木葬の地へ、亡父の遺骨を散骨しよう・・・  私の体がまだ何とか動く内に。
先の夏の終わりに決意して、他の遺族の了解も得て、お役所から「改葬許可証」を交付してもらった。
隣県の納骨堂から亡父の遺骨を引き取ったときは、安堵して、不覚にも涙がこみ上げた。亡父は「無」なのに。



樹木葬(散骨)するまで暫くの間、当庵内に安置している。遺骨の前に座ると、亡父に関する記憶が働いて、昔のことが様々に思い出されて、胸が一杯になる。
遺骨の前に飾っている小さなお地蔵さん2体は、親友の手作り。 お地蔵さんと一緒に亡父も微笑んでいるような錯覚を覚える。


遡る人生

2021-01-11 14:53:51 | 自分史
年明けの先日、押入の中の手が届きにくいところに仕舞っていた古い手紙や写真などを、思い立って整理した。

今となってはもう用がないものでも、未練?多々のものは廃棄出来ない。当時を思い出して心和むものもあったが、胸の底が深く沈み込むようなものも多い。整理を終えるのに日数を要した。

端正な字の一通の手紙が出てきた。私の心は一挙に30年ほど遡った。この手紙によって、当時の私の精神がどんなに救われたか・・・今更のように痛感する。それなのに今まで感謝の一言も伝えないままだ。

30年ほども無沙汰を続けておいて、今頃になって突然に御礼を言うなんて、非常識かも知れない。でもこのまま無沙汰を続けたままにするのは申し訳なさ過ぎる。感謝の気持を伝えるなら、まだ何とか元気が残っている今のうちだ。

手紙を書いた。投函するか否か、数日間迷った。思い切って、今日投函した。

特需景気

2018-04-28 08:37:09 | 自分史
私たちは「戦争を知らない子供たち」とも言われた。しかし、ものごころが付きはじめた頃、隣の半島では戦争が始まっていたのだ。

本が読める年齢となってから、半島の戦争に係る特需によって、この国の経済が格段に景気よくなったのを知った。少女時代の私は、特需って、魔法のようなもので、この国にとって大変有難いものだ、と思っていた。

当時の半島の人口約3500万人のうち、約350万の人々が戦争で殺された。子供心とはいえ、「隣の戦争は有難いもの」と思っていた自分を許せない。



昨日は本当にいい日だった。今日も緑が輝く明るい日だ。


どう生きるか

2018-01-01 07:38:27 | 自分史
姉さんに描いてもらった色紙を掲げたら、お正月らしい庵室になりました。 緑内障にもめげない姉さん、有難うございます。



吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」を、年末から読んでいる。昨11月初め頃、公民館図書室で、市の中央図書館所蔵のこの本の取り寄せを申し込んだところ、担当職員の女性が呟くように「これは名著ですよねぇ」・・しみじみとしたお声だった。本は貸出し中だった。しかも貸出予約者が2名。私は3人目となった。この図書室でこんな経験は初めてだ。

この本の内容を元にした漫画本が人気だとは聞いていたけれど、当地にも影響が及んでいたんですね。宮崎駿がアニメ映画化を企図していることも、ブームを大きくしたらしい。

1カ月余り待たされたけれど、無事、借りることが出来た。



懐かしいこの本のタイトル。教科書で、この本の主人公のコペル君がビルから眺める一節を読んだのは、中学2年生のときだったと思う。他のビルのどこかから誰かに眺められているかも知れない自分を意識したコペル君の不思議な気持・・あの一節を読んだときの私自身の気持は、60年近く経った今でも思い出せる。

私が通っていた中学校の木造校舎の廊下の突き当りに、図書「室」とも言えないような、ささやかなコーナーがあった。いつも誰もいない、物置のようなところだった。そこで私は、吉野源三郎の著書を何冊か見つけて、次々に読んだ。子どもなりに「吉野源三郎さんの本は良書だ」とおもったのを覚えている。

夏休みの宿題の読書感想文に、そんな吉野源三郎の本の一冊を選んだ。そのタイトルをどうしても思い出せない。金と銀と銅とを比較する話があって、銅には、金や銀には無い独自の使途があり価値があるのだ、という一節に、強い印象を持ち、「私は銅のように生きたい」とか、書いて提出した。

夏の暑さがまだ少し残っている頃、先生が私を呼んで、「みんなの前で、この本の感想を話してくれないか」と言う。人前で話をするのが非常に苦手だった私は戸惑ってしまった。しかし、感想文をそのまま読むだけでよい、と言われたので、どうしてこんなことを先生に頼まれるのか、事態が呑み込めないまま、承諾した。

校庭の一角の木陰のあるところに、沢山の生徒たちが集まった。子どもの数が多い時代だった。二百人近くいたように思う。先生方も何人もいらっしゃった。私は頼まれた通り、感想文を読み上げただけだった。終わったら、先生から「有難う」とか、お礼の言葉を言われて、何故、お礼を言われるのか、やはり事態が呑み込めないままだったように思う。

60年近く経った今、あの時の先生の思いがようやく分かるようになった気がする。

今回、「君たちはどう生きるか」を読んで、名著と言われる所以を再認識させられた。特に強い印象を受けたのは、豆腐屋の浦川君の姿だ。貧者として苦労させられ、差別される一方で、生産者として社会に貢献し、誇りを持ち、人を心の底から思いやることが出来る真の正義漢たりうる人物像。

小学校の高学年時代の私の友人に、豆腐屋の娘さんがいた。朝早く、親と一緒にリヤカーを引きながら、豆腐を売り歩いていた。浦川君と同様に、おそらく暗いうちから、土間で豆腐作りや油揚げ作りを手伝っていたに違いない。彼女は今、どんな正月を迎えているのだろうか・・

私は、今までの人生を顧みると、恥じ入るようなことが多い。残された人生を「どう生きるか」・・吉野源三郎の心に寄り添って考えてみたい。




同窓会名簿

2017-09-24 08:35:34 | 自分史
高校の同窓会名簿が送られてきた。角張った校章が表紙に掲げられている。表紙裏には漢文調の校歌。同窓会には御無沙汰しっ放しの私だけれど、さすがに、こそばゆいような懐かしさを覚える。

ページを捲ると、左ページには当時の1組のメンバーの現況名簿。右ページの上段には、卒業アルバムに掲載されていた、1組の集合写真。下段には、昨秋開催の古希同窓会(出席率は4分の1~3分の1ぐらい)で撮影された、同じ1組のメンバー。以下、8組まで続く。



高校3年生と古希とを対比させた構成は、編集して下さった幹事の皆様の粋な計らいだと思いつつも、上段と下段とのあまりの落差に、愕然とする。

現住所欄の所々が空欄になっていて、「逝去」の記し。古希ともなれば、何ら不思議ではない筈だけれど、心の波が震える。「逝去」は、男性の割合が、女性よりずっと高い。男女の平均寿命が違うとはいえ、差があり過ぎる。その理由は分からない。

高校生の頃の私は、男子生徒と話を交わすことさえ、めったになかった。いわゆる「ウブ」だったのだろう。異性の前では緊張して、顔もまともに見れなかった。その上、近眼なのにメガネを掛けなかったから、よく見えない。という訳で、私が顔を覚えることができた男子生徒は、ごく少数だ。

その少数のうちの一人の欄に「逝去」の記しを見つけたときは、胸を射抜かれたようだった。特に交際していた訳でもない、片恋の対象でさえなかったのだけれど、独特の個性を湛えた表情が想い出されてならない。





出穂期の水管理

2016-07-24 13:07:37 | 自分史
田んぼ用水ポンプ機場の担当は、相棒と1週間交代。今日から1週間は私です。体調が悪くても機場には行かねばならないし、是非とも行きたいと思う。いつからか、生き甲斐のようになっている。

朝、機場に着いて先ず用水路を覗くと、流量が少ない。梅雨明けは延びているけれど降雨が少ない今季。これからシーズン末まで厳しい水管理になるかもしれない。

ポンプを稼働させ、取水口付近の流れの様子を見守っていたら、なんと、上流から大量のゴミ=刈られた草(かなり丈の高い草ばかり!)が次から次に来るではないか! ただでさえ流量が少なくて流れが緩いから、ゴミは堰の下流には行かず、取水口の前に集まり溜まっていく。取水口が詰まったら、ポンプは運転できなくなる。私は竹箒を使って水路のゴミを下流の方へ押しやる。何度も何度も何度も。体力が極端に低下し、体のあちこちが不調の我が身のことは何処かへ吹っ飛んでいた。ゴミの襲来が一段落したときは、疲労で身体が溶けそうになっていた。

機場のそばの田んぼを見たら、もう穂がずいぶん出てきている。この出穂を見るのも私の無二の楽しみだ。田んぼにとって水が十分に必要な時期でもある。



穂に付いている白い粉のように見えるのが稲の花の雄蕊。自家受粉で風媒花。稲の1つの花が開いてから閉じるまで2時間足らずだという。その間に良い風に出会って、雄蕊の花粉が雌蕊(籾の奥に隠れている)に付かねばならない。生命って本当に神秘的・・


雨の午後に思う

2015-09-06 17:48:34 | 自分史
雨がしとしと降る午後、20余年前に他界した父のことが思い出されてならない。

勉強好きの子供だった筈の父だが、故あって上級学校へは進めず、小学校卒で丁稚奉公へやられたらしい。その後は下級官吏として地道に勤め続け、係長級で退職した。その結婚生活は・・少なくとも精神的には悲惨だったと思う。妻(私の母)がムチャクチャなヒトだったから。特に晩年は、妻から虐待に近い扱いを受けていた。

私の性格は父によく似ている。小心で、良くも悪くも生真面目なところがある。ただ私の場合は、生真面目なクセに時折り無鉄砲な行為に及ぶところがあって、良く言えば勇気があり、悪く言えば浅薄軽率だ。この父とは異なる性格と時代や環境の違いから、私の人生は父のそれとはかなり違う趣のものとなったのだと思う。

父も内心では、たまには無鉄砲なことをしたかったのではないだろうか。父がしたかったのに出来なかったことを、私はしてきたのだ・・と今更ながら気付く。だから父よりも私の方が幸せだったと言える面もあるけれど、一方では、父が味わわなかった不幸を私は背負ってきた、とも言える。

幸不幸はともかく、父の人生を私は引き継いでいるのだ・・と思わせられた雨の午後だ。

秘密

2015-07-19 19:52:32 | 自分史
ほとんど誰にもあることだと思うが、自分の経験や思考や感覚などの内、人に話すことが出来ない部分が私にもあって、それは齢を重ねると共に増えていき、或いは自覚化する。もちろんブログにもその内容は書けない。要するに「秘密」ということだが、甘ったるいような遊戯的な語感のある「秘密」では表現しきれない場合が多いが、他に適当な語が思い浮かばないので、取り敢えず「秘密」と言っておく。

そうした「秘密」が最近になってまた一つ生じた。全く予期していなかったことだ。毎日、幾度もその「秘密」のことを考える。考える、と言っても、その考えはほとんど発展しない。同じことを幾度も幾度も考えている。繰り返し繰り返し感じている。必然的に他のことを考えたり感じたりすることが少なくなっている。ブログの更新も進まなくなった。

「秘密」に囚われてしまったような心身を、無理にでも整えなければ・・みたいな気持で、今日は茶道の稽古に出掛けた。代稽古の先生は「卯の花点前」(茶箱点前の一種)と「茶碗荘(かざり)」を指導して下さった。御指導の内容は厳格なのだが、先生の雰囲気は優しくて根気強い。尊敬の念を私は深めている。このほど水屋周りなどの改修工事も実現され、稽古をするのに便利で快適な環境を整えて下さった。

いつものことながら、茶道の世界に入っているひとときは別世界だ。例の「秘密」のことも暫し忘れることが出来た。