みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

東日本大震災

2011-03-28 20:46:05 | 原発

3/11のその時、激しく長い揺さぶりに為すすべもなかった。本震が納まらない内から強い余震が次々に来た。

当庵の被害は軽微だった。最初の数日間は精神が高揚して妙に元気だった。ところが、大津波の悲惨な被害や被災者の窮状の報道に触れるごとに胸が潰れるような苦痛が生じてきた。更に福島原発の危機が深刻化するにつれて、食事が喉を通らなくなり、夜は睡眠障害が高じてきた。今にして思えば、急性の鬱症状だったのだ。なんと弱い私であることか・・

心臓が異様な動悸を打ち始めた17日夜、関西の息子へSOS発信。18日未明に庵を出た。向うの駅でお嫁ちゃんが待っていて、その実家に案内してくれた。お母様が優しい笑顔で憔悴の私を労わって下さった。地獄から極楽へ移った思いだった。

気力体力を急速に回復した私は、昨日27日に帰庵した。帰路の交通事情の不安を心配して下さった友人夫婦が、東京駅から当庵まで私を送って下さった。犬のジュンとウコッケイたちは、近所の方が世話して下さっていた。そして、少なからぬ縁ある方々が、私のことを気遣って下さった。人の優しさが身に沁みる・・

2万人をはるかに超えた死者・行方不明者、そして震災と放射能被害で避難生活を強いられている人々のことを思うと、錘のような罪悪感がある。

どんな言葉も軽すぎて虚しい事実の中で、人は、私は、どう変わっていくのだろうか・・


野菜の生命

2011-03-11 13:16:27 | 生死

Dscn1887Dscn1883_2 ナップエンドウに勢いが出てきた。

今朝は霜が降りたけれど、日差しは明るい。今季初めての野菜の種を蒔いた。小さな畝だから、一袋分の種は時期を数回にずDscn1884_3 らして蒔く。覆土の後、ビニールを被せた。霜除けと地温上昇が目的だけれど、無事に発芽してくれるかどうか・・

菜園では野菜の生命と触れ合う喜びがある。でも結局は収穫して生命を奪うのが目的だ。生命は他の生命を奪うことによって生きることが出来る。そして生命は、その死によって他の生命の糧となる。

Dscn1890 種蒔きを終えて庵内で寛いでいたら、花瓶に挿していた椿の花が音を立てて落ちた。活けてから日数が経ち、落ちるべくして落ちたのだが、その音の重さに暫くの間、胸が騒いだ。


風景の危うさ

2011-03-06 17:54:56 | 八郷の自然と風景

霜の朝は寒かったけれど、日が上るにつれて麗かな光が溢れる中、友人と共に探梅を兼ねて山路を歩いた。二人とも小さなリュックを背に、お喋りに興じながら。村の事情に詳しい友人の話題は豊かだ。

バブル景気に日本中が沸いていた頃、この村の山野にゴルフ場を計画した業者が大々的に土地を買収した。林業経営は既に成り立たない時代だったから、対象となった山林は次々に業者の手に渡った。しかし農地の場合は、札束を積まれても買収に応じない農家もあった。

バブルが弾けてゴルフ場計画は頓挫した。業者は、買収価格を大幅に下回る価格での買戻しを元の所有者たちに交渉した。第三者の手に渡った土地もある。

当初の買収に応じた家、応じなかった家・・ 買戻しに応じた家、応じなかった家・・ それぞれの家の中が揺れ、村中が大揺れに揺れた時期だったのだ。柄谷行人が言う 資本=ネーショDscn1881 ン=国家 のボロメオの環の中で、農業共同体(ネーション)が資本によって揺さぶられたのだ。

山は芽吹の季節。目的地の梅林は八分咲き。草地に腰を下ろして友人と一緒に寛ぎながら、穏やかな風景の危うさを思った。梅の向こうに見える建物は老人ホーム。農村においても需要急増の施設だ。


柄谷行人著「世界史の構造」へのつぶやき③

2011-03-03 20:17:49 | 国際・政治

「世界史の構造」を私が読んでいることを知った友人が、関連資料を送ってくれた。その中に「文学界」昨年10月号掲載の、「世界史の構造」をめぐっての鼎談があった。この鼎談での柄谷の発言の一部を以下に写す。

~ソ連崩壊以後、社会主義への望みもなく、かといって、ナショナリズムも機能しない。人々に訴えるのは、イスラム主義の革命だけになった。イスラム主義以外に、近代世界システムに対抗できるものがない。確かに、イスラム主義には、資本=ネーション=国家を否定する要素があります。~無論このようなイスラム革命は聖職者支配の教権国家に帰着するだけだと僕は考えていますが、だからといって、簡単に斥けることはできない~

~僕は世界戦争が切迫していると思います。たとえば、日本の国内で、経済的格差が目立ってきて、それに対して苛立つ人たちが増えている。それでも何とか無事に済んでいます。が、世界的なレベルでは、南北格差が凄まじい。そして、それが無事に済むはずがない。先進国ではぶつぶつ言いながら脳天気に暮すことが出来ますが、他方では、宗教という形であろうが何であろうが、格差からの解放を目指すに決まっています。また、先進国・中進国の間の抗争は激化している。今日の経済において、領土や資源といった考え方は古いというような経済学者がいましたが、そんなことはないですね。再び領土を奪う種類の戦争が起こると思います。僕はそれを阻止すべきだと思いますが~

今日の中東情勢を予見していたかのような発言、そして今日の世界情勢を再認識させられる発言だと思う。日本の国内が無事に済んでいられるのも長くはないようだ。

それにしても、この国のマスコミ報道の異常の加速に唖然とする。たかが試験のカンニングぐらいのことを連日かくも大々的に取り上げる。八百長問題も然り。パンダが来たとか、たかが電波塔が600メートルを越えたと言って騒ぐ。ニュージーランド地震も、上っ面だけの情報をどうしてこんなに繰り返すのか。ここまで異常が徹底しているところを見ると、これは何らかの意図があって国民を愚弄している、としか思えない。本当は私たちが最も関心を持つべき事実を隠したいのか。


柄谷行人著「世界史の構造」へのつぶやき②

2011-03-02 19:15:57 | 

本書は、交換様式から社会構成体の歴史を見直すことによって、現在の資本=ネーション=国家を越える展望を開こうとする企てである。

序文の初めに置かれたこの文言が読者を真正面に捉えて、揺るぎない精神の輝きの中へ誘う。(ネーションとは「共同体」だが、凡人の私は「国民」と解している。)

Dscn1878 資本もネーションも国家も異なるものであり、それぞれ異なる原理に根ざしているのだが、ここでは、それらがボロメオの環のごとく、どの一つを欠いても成り立たないように結合されている。

いずれか1つの輪を消すと、残り2つの輪はバラバラになるが、3つの輪がいったん絡み合うと、がんじがらめに結合する。

ボロメオの環のいずれの輪も単なる受動体ではなく、それぞれに独自の主体性がある。国民は管理社会の一方的な犠牲者というわけではなく、自らその一翼を担っていることにも気付かされる。

現代社会の枠組の根本が呈示されているのだが、これは暮らしの実感と符合する。私たちがどんなに藻掻いても、変えられず、脱け出せないような社会・・

この三位一体の環を越える展望を、柄谷行人は 開こう と言うのだ。