みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

二万人

2022-04-17 09:12:31 | 生死
長谷川櫂(1954~)は著名な俳人だけれど、歌人でもあるらしい。
     
     かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを

3/11大震災に関しての、この長谷川櫂の歌を引用して、高野ムツオ(1947~)が一文を書いている。

情報社会への怒りがストレートに吐露されている。確かに一人一人に一人一人の生があり死がある。安易に一語で括ってはならない。だが、死者二万人という現実もまた動かしがたいのだ。
(高野ムツオ著「あの時」から抜粋)

一人の死が、その親、その子、その兄弟姉妹等々、縁ある人々を悲嘆に陥れる。悲嘆の輪が大きければ、その死の意味も大きくなるかのようだ。
それでは、親なく、子なく、兄弟姉妹もなく、友と言える人もいない人の死は? そういう人の死も、少なくなかっただろう。いやむしろ、そういう人こそ、惨事に巻き込まれやすいのではないか?
悲嘆の輪がない人の死・・その死の意味は、はたして小さいと言えるだろうか?



高野ムツオ著「あの時」から、2句を引用する。
     
     春光の泥ことごとく死者の声
     車にも仰臥という死春の月




彼岸参り

2022-03-21 22:51:15 | 生死
1ヶ月ぶりに明圓寺【遊心庵】の樹木葬地へ寄った。小さな山寺のささやかなエリアで、いつもは風の音と野鳥の声が聞こえるぐらい。お彼岸の中日に当たる今日は、お参りのご家族と一緒の少女が春草の花でも見つけたのか、小さな歓声を上げていた。



白木蓮の蕾は、急がず焦らず、ゆっくり膨らんで満を持している。その幾つかは緩やかにほころび始めている。
昨年末、この樹の根元近くに亡父の遺骨を改葬した。

侘助椿の一枝を供えて合掌した。目を閉じても彼岸に至る境地には程遠い私である。
あの世に行けば亡父に会える、とは思わない。死は無だから。それでも、この同じ樹木葬エリアに生前予約していることに申し訳のような満足感があるのは欺瞞だろうか。欺瞞も一つの有用な思考方法かも知れない。

夢のはなし

2022-01-20 06:35:04 | 生死
夢を見ても大概の夢は、目が醒めると直ぐに忘れる。僅かな時間だけ思い出せても、気にならないから忘れてしまう。

何処かの街角で、芳子(仮名)さんと別れた私は、真直ぐの道を歩き始めていた。振り返ると、芳子さんは微笑みながら私に手を振っていた。
私はまた歩き始めた。真直ぐの道なのだが、何処へ向かっているのかは分からない。そして・・・振り返らなくても、芳子さんが微笑みながら私に手を振ってくれているのが分かるのだった。

そんな夢を今朝の寝覚め前に見た。

芳子さんは或る老人病棟の看護助手だった。大勢の患者さんたちのオムツ交換・入浴介助・食事介助・掃除・洗濯物の仕分け等々の雑用すべて。
低賃金で汚れものを扱い、神経と体力の両方を酷使する仕事だ。患者さんに対しても自分に対しても優しくしている暇は無い。大方の看護助手の面々は患者さんに対しても自分に対しても厳しくならざるを得ないのだ。

そういう職場で芳子さんだけは優しかった。不思議だった。駆け回るような忙しさの中の一瞬、ほんのひとひらだが、花びらのような優しい視線や言葉を患者さんへ投げかけるのだった。看護助手の仲間たちにも、仕事の僅かな狭間に美しい微笑を贈ってくれた。

独身時代の芳子さんは、都心のデパートのエレベーターガールだったそうだ。あの優雅な手つきで「上へ参ります」などと、口調も優雅な仕事。当時の娘たちの憧れの職業の一つだった。
芳子さんに惚れてしまった男性客は、さぞ多かったことだろう。その一人があまりにも熱心だったので、芳子さんは「根負け」して結婚した。誠実な人だが、生活能力はイマイチだったらしく、芳子さんの美しい肩に生活の重みが掛かり続けてきたのだ。

20年近く前、芳子さんは癌を患った。容姿も心も美しい芳子さんを癌が蝕むという運命を私は呪った。回復を祈った。
それから10年ほど経って、「再発も無く、無事に術後10年を迎えました」という便りが届いた。10年経てばもう大丈夫だ、と私は思った。
ただ、便りに添えられたご家族の写真の中で、芳子さんだけ、影が薄く見えるのが妙に気になった。
それから1年も経たない或る日、芳子さんの訃報が届いたのだ。

今でも芳子さんの美しい微笑みが、花びらのように私の心の中へ届く。美しい手つきで手を振ってくれているように思う。

苦の根源

2021-07-30 14:16:17 | 生死
人生が長かろうが短かろうが、生と死について考え抜いたあげく、安らかな死などどこにもないという深い諦念の中で最期を迎える。これが人間らしい唯一の死に方ではないか。

重いテーマなのに文章のリズムが軽いのは、長谷川櫂が俳人だからか。

     

人間にとって生まれないのが最大の幸福であるという考え方は人類が誕生したときからあった。仏教は人間の苦しみを生老病死の四苦に分類する。そのうち老、病、死はわかるとしても、なぜ生、生まれることが苦しみなのか、しかも四苦の筆頭に置かれるのか。それは生こそ人間のあらゆる苦しみの根源であるという遠大な思想に基づいている。

南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネター(1966~)は、人間は害悪そのものであるという。苦痛、失望、不安、悲嘆、死は存在する人間にだけ起こる。存在しない、生まれなかった人間には起きない。だから子ども自身のことを考えるなら子どもは産むべきでない。さらに人間という害悪の総計である人口について理想的な人口はゼロであり、人類絶滅へ向かってまず段階的絶滅を提唱する(『生まれてこないほうが良かった』2006年)。

岡林信康の新曲「復活の朝」をも連想する。

私が産んだ第1子は、よく飲みよく寝た。母乳を一心に飲む赤ん坊を抱いているとき、母となった喜びが胸の中に広がった。しかしある時、スヤスヤと寝ている赤ん坊を見ていた私に深い悲しみが襲ってきた。あぁ・・この子も、いつかは死ななければならない運命なのだ・・・と。暗く悲しい思いに囚われた私を、傍らにいた男は睨みつけて癇癪を起こした。

ただ(ベネターの主張は)理路整然としていて、それゆえに人間(そしてその社会)を見誤っているのではないか。というのは人間自体が論理的にできておらず、矛盾や破綻や飛躍だらけの愚かな存在だからである。



どこへゆく、「葬儀」と「死」

2020-09-01 11:01:39 | 生死
葬儀もコロナ禍の影響を受けている。

本年4月、当地の知人が亡くなった。特に親しかった訳ではないが、近隣の御縁でお世話になったことがある。葬儀の日、マスクを着用した喪服姿で会場に出向くと、村の世話役の人たちもマスクを着用した喪服姿で対応されていた。平常時には参会者が着席するホール内には一般参会者は立ち入らず、ロビーで焼香・合掌するだけ、という方式だった。

いつもだったら奥まった祭壇のやや高いところに掲げられる遺影がロビーに、焼香・合掌する目の前に置かれていて、大きく見えた。その輝く目が私を見詰めて、生きている人と再会したようだった。

退出しながら、いつもだったら正直なところ退屈な僧侶の読経を聞くことが出来なかったことを、妙に物足りない感じがしたのは、吾ながら不思議だった。

1カ月余り前には、長く深いご縁のある人が亡くなった。遺族はこの死を公表せず、僅かに漏れた訃報が回りまわって私の耳に届くまでに数日を経ていた。既に「家族葬」を済ませられていた。御香典の類も拒否されている、という。

コロナ禍の中で葬儀に多人数が集まることは避けるべきだろう。形式ばかりで内実の無い大きな儀式は好ましくないだろう。悲嘆に暮れている遺族の心情を乱さないで、そっとしておいてほしいだろう。

しかし・・・私は、あんなに御縁があった人から遠ざけられてしまったようで、茫然とした気持になった。

そんなとき、東京新聞 8/24・31の記事に目がとまった。筆者は蒲池勢至(がまいけせいし 1951~ 真宗大谷派長善寺前住職)氏。

あっという間に「家族葬」が増えた。散骨や直葬、通夜をしない一日葬もある。ほとんどは葬祭業者がつくりだした用語だ。

「家族葬」という表現は魅力的である。
世間的な見栄や義理を捨て、本当に愛する者の死を悲しみ悼む儀礼である。異論はないが、その実態には別の課題もある。

地域と人とのつながりの中で生きてきた人の死が、家族葬によって閉ざされてしまう。 
死にゆく人の死は誰のものか。「死の社会性」がなくなり「私化」(個人化)されて「閉ざされた死」になっている。

葬儀はシンプルでよい。しかし、死を閉ざしてはいけない。

葬送儀礼の表面は仏教的であるが、核心は日本人の民俗信仰である。これが葬儀の歴史であり、また日本仏教の歴史でもあった。しかし、今、この二つは分離しようとしているのかもしれない。

家観念や儀礼がなくなったとき、先祖も墓も仏壇も「終い」になった。しかし、死と死者は目の前にある。

人はどこから生まれて、どう生きて、どこへゆくのか。生と死の意味が分からなくなり、死者と「死」は、現世に引き寄せられて世俗化してしまったのではないか。

葬送墓制の変容

2020-02-18 13:49:37 | 生死
先年、私は当地の山寺に散骨葬を予約した。
死期を自覚したからではない。自分の死を受容できたからでもない。

自骨が土へ直接に撒かれるというイメージは悪くはないが、是非ともそうでなければ困るというほどでもない。
私の場合、家族関係がやや複雑なので(しかし、複雑でない家族関係の人がどれだけいるだろうか?)、後に遺された関係者が気を煩わせることの少ない方が私自身にとっても、生きている今、気を安んじられるからだ。

『あんじゃり』(編集・発行:親鸞仏教センター)第38号に、山田慎也(国立歴史民俗博物館教授)氏が「社会に適合した葬送墓制の構築へ」と題した一文を寄せている。


1990年代以降の葬送墓制の変容は、まず墓制から生じており、継承の必要のない合葬式共同墓や散骨、樹木葬などの新たな葬法が登場した。さらに墓じまいという言葉も生まれ、墓の承継者がいない人だけでなく、いる人でも子孫に負担をかけたくないということで、墓を廃止する人が出てきている。

つまり祖先との繋がりを絶ち、子孫との関係性も切れていくことから、いうなれば通時的紐帯の断絶であり、縦の個人化ということができよう。

また葬制も、家族葬や一日葬、直葬といった葬儀の小規模化、簡略化が進んでいった。
このような同時代の人々との関係の切断や消滅は、共時的紐帯の断絶であり、横の個人化ということができる。


人々の意識において、縦方向と横方向の両方において個人化が進んでいるが、にも拘わらず、戦後の日本社会は・・・

社会構造の歪みを抱えながらも、従来の家的葬儀と墓を継続してきたのである。

1980年代までは、その歪みを人々があまり意識せずに済んだのは、地域共同体に代わって職場など会社共同体がそれを補完し、経済的に成長していたため実務は葬儀産業に依存し、また近隣寺院や霊園で新規に墓地を購入することができたからであり、戦後の成長の中で家的葬儀が当たり前のものとして肥大化していったからである。

しかし、1990年代になるとその歪みがさらに増大して顕在化し、また経済的にも停滞してくると、従来の葬送墓制が負担となって現在のような状況を迎えることとなった。

確かに、新聞・テレビ・ラジオでも、身の回りの世間話でも、家族葬や樹木葬や散骨、そして墓じまいなどが普通に語られるようになった昨今だ。

さて、人は死後、死への対処を自らが行うことはできない。よって他者の存在は不可欠なのである。そもそも自己の死を認識することができたのも、他者の死を通して概念化されたものであり、高度なコミュニケーションと抽象的思考をもっていたゆえのことである。つまり、死を社会として受け止めてゆくことは人間ゆえに行われてきたことであり、非常時は別としてあらゆる時代、また、あらゆる文化において一定の葬送墓制が形成されてきたのも、このような背景があったからである。

自己の死をおろそかにすることは他者の死をおろそかにすることにつながり、他者の死をおろそかにすることは自己の死をおろそかにすることにつながるだろう。そして死をおろそかにすることは生をおろそかにすることにつながるだろう。

社会の一員として生きてきた人が尊厳をもって死を迎え、それを関わりをもった人によって送り出され、追悼されていく仕組みを、現在の社会に適合したかたちで構築していく時期に来ていると考えられる。

と著者は言うが、はたしてどのような葬送墓制の構築が考えられ得るのだろうか?





「死者」論

2019-10-12 14:18:43 | 生死
加藤秀一(1963~)という社会学者が、「あんじゃり 37号」(親鸞仏教センター 2019.6月発行)に一稿を寄せている。冒頭から直球を投げ付けられた。

 「死者」という言葉は誰を指すのだろうか。死んだ人はもうどこにもいないのに。だからこそ「死者」と呼ばれるはずなのに。

確かに「死者」という言葉は矛盾で成り立っている。しかし、およそ矛盾でない言葉なんて在り得るだろうか?



霊魂や幽霊の実在を本気で信じているオカルティストたちは別としても、英語圏の分析哲学者のなかにも、人は死後にも実在しうると主張する人がいる。
 
日本におけるその代表格は、仏教学者の末木文美士(1949~ 仏教学)である。過去十数年の「死者」論を精力的に領導してきた末木は、「<死者>と<死者の記憶>はまったく違う」ものであり、「死者は<経験>される」ことを力説する。

この<死=生>という胡乱な等式の源泉というべき京都学派の哲学者・田辺元の「死者」論を概観してみたい。

<死=生>という等式こそは、田辺がその生涯の後半に追究した「死の哲学」の核心に位置するものである。

たしかに戦後の田辺は、もはや『歴史的現実』(<国のために死ぬこと>を宣揚した1939年の講義)のように「国家」のための死を鼓舞することはなかったけれども、個としての死を経てより大いなるものの一部へと転移し永遠の生を得るという構想そのものを手放すこともまたなかったのである。
この思想的核心において、田辺は微塵も「懺悔」などしていなかった。

死こそが永遠の生への道であるというこの種の思想は、しかし独り田辺だけのものではないだろう。むしろそれは、今も私たちの多くが心の底で希求する境地ですらあるかもしれない。

死者が「共同体」の--田辺なら「実存共同」というだろう--なかで永遠に生きるという教説は、死者に対する喪失感や罪悪感を慰撫し、おのれの死への不安を鎮めてくれるものであるのかもしれない。

そのようにして死を讃えるとき、その話者自身は紛う方なき生者である。かれらはしばしば死者に成り代わってその「無念」を語り、そうすることで生者たちをさらなる死へと呪縛しようとするが、自らは一度も「共同体」のために死んだことなどない以上、それは「死者」という非在者を傀儡としておのれの呪詛に権威づけする<非在者の騙り>でしかありえない。

ただひとつの顔と声をもつ近しい人々との束の間の生よりも、「生死を超えた」「永遠」の方が優れているという奇妙な価値観は、いったいどこから来るのだろう。いや、それは人々のほんとうの願いなのだろうか。少なくともこの私がほしいのは、喰い、貪り、愛し、触れ合い、憎み、励まし、去る、そんなありふれた日々だけだ。そこには顔のない「死者」のための場所などはない。


ちなみに浄土真宗の教義は、「霊魂」の存在を否定している。このことが、浄土真宗へ私が心を寄せている理由の一つだ。だからと言って、「<死者>のための場所などはない」などと言われると、ちょっと待って! と言わざるを得ない。

魂の美しさ

2018-02-23 17:22:04 | 生死
石牟礼道子さんが亡くなって、寂聴さんが追悼文(と名付けられるような定型的なものではもちろんないが)を寄せている。東京新聞2月23日号。その記事に添えられた故人の、横尾忠則氏による肖像画を見て、オヤ・・と思いました。



似ているのです、あの彼女に。澄んだ眼差。慎ましい微笑。強い意志を表す太い鼻。未来を望む眉。何もかも似ています。

その彼女のことを私はまだ少ししか知らないのではないかと思います。ご自分の事を自分から語るということをしないひとです。生年は1930年代のようです。主婦として、食の安全を求め、当時は未だ稀だった有機無農薬の農畜産業を求め、消費者と生産者との絆を築いた先駆者です。彼女が種を蒔き、有志と共に育てた安全な農畜産業は、八郷を一つの拠点として、紆余曲折を経ながらも発展してきています。

しかし彼女は、表舞台には立とうとしなかったようです。社会的地位もなく、財産もなく、学歴もありません。無名のひとです。それでも、否、それだからこそ、彼女の発する言葉は、しばしば詩語のように聞こえます。声は小さくとも真実の力があります。人の心を動かします。

彼女の魂の美しさが、石牟礼道子さんに共通しているように感じます。

敗戦忌に読む言葉

2017-08-15 06:27:20 | 生死
柳澤桂子さん(1938~)の、静かな、優しくも確かな言葉(岩波書店「図書」8月号 P.7)に出会いました。

 私は戦争の悲惨さをこの目で見ました。いま、生命科学を学んできたからこそ、長い時間を病と共に過ごしてきたからこそ、一人ひとりが奇跡的ないのちであることを実感しています。
 だから、若い人たちに伝えたいのです。
 いのちを大切に。戦争ほどばからしいことはありません。

筧次郎 著 「死を超えるということ」

2015-12-04 17:18:02 | 生死
異様な家庭で抑圧され、幼いなりに苦悩の日々だった7歳頃、私は「死ねば、この苦しみを感じないで済む・・」という「死への憧憬」を抱いていた。しかし10代初めの頃から、自分がいずれ死ぬことへの恐怖に見舞われるようになった。満天の星空を仰いでいて、宇宙の中の一点に過ぎない自分という存在を感じたときが最初の契機だったと思う。以来、自分の死への恐怖は、私の精神の基底に日夜うづくまり、時に暴れだして抑えようがないテーマとなった。



 著者は 「死が怖ろしい」という思いをもちながら生きている人たちに、何がしかの力になることを願って この本を書いたという。

長く暮らしていた首都圏から八郷への移住を私が決意したのは15年ほど前。筧さんの存在は、その決意の推進力の一つだった。彼の著書「百姓入門」と、ご夫婦の八郷での実生活で示されている「百姓暮らし」には、私を深く頷かせるものがあった。

死の恐怖を超えるには、感性を変えなければならないのではないか。そのためには、私の感性を培ってきた「生活」を変える必要があるのではないか、と思った。

私にも同じ思いがあった。死の恐怖を超えることは出来ないとしても、せめて、生きているとはどういうことなのか、本当の生を生きたい、生きている実感を得たい、という思いが私にはあった。都会での生が虚構に感じられてならなかった。

自分の死への恐怖は、自分とは何かという問いと自分が生きているこの世界とは何かという問いに結びつく。

・・実在世界自身は個物の集まりではなく、未分化であり、多様な構造化を許している。私たちは、幼児期に身につけた民族語の構造に基づいて世界を構造化して見ているのである。

・・人間の新生児だけが未熟な脳を持って生まれてくる。・・子供の言語習得の過程は、・・大脳皮質の神経細胞が外からの刺激を指針としてネットワークを作り、自己を構造化する過程である。


人類は二足歩行によって重い頭脳を載せることが出来た。発達した大きな頭による難産を出来るだけ防ぐために、未発達の頭脳の段階で人間は誕生する。このことこそが、人間と他の動物との決定的な違い、即ち言語体系の伝承をもたらしたことに、著者は着目する。

外界の個物・・は、・・「私にとって何のためのものか」という基準で区画されるので、その「私」はいつも世界の中心にいる。・・分別作用の主体としての「私」は、・・個物を見る眼差しの奥に存在しているように思われている。しかしながら、眼差しの奥の「私」の座にあるのは言語についての体系的な知(生理学的に言えば大脳の神経回路)であって、・・「私」は、言語についての体系的な知そのものであり、・・分別作用の主体としての「私」は、世界を構成している個物の一つであり・・同時に「世界の全体」という性格も帯びている。

・・私たちが認識している世界は個性のあるものであって、それぞれ「私の世界」というべきものである。
消滅を怖れる「愛しい私」とは、私が幼児のときからその中心であって慣れ親しんできた「私の世界」のことであると思われる。

この認識の仕方は文明世界を作っただけでなく、私と他者を区別し、我欲を生みだし、我欲がぶつかり合う弱肉強食の世界を作った。・・そしてまた、我欲は「私の死を怖れる」という辛い感情も生み出した・・


怖れている主体の「私」とは、私の言語体系であり、死によって消滅する客体の「世界」もまた私の言語体系なのだ。

哲学的な省察は記憶されている世界についての知を対象とするのであり、それゆえに言語が介入する以前の実在世界自身には至れない・・科学がもたらす知も、・・同じ限界をもっている。

霊魂や死後の世界を説く教説は、信じさえすれば深く考えないですむ解決方法であり、修行もいらない解決方法である。それで、仏教も世間に流布していくうちに歪められて、そうした教説の一つになってしまうのだが、それは歪曲であって仏陀の教えではない。

仏教では分別知によって把捉されるのが「人間のこの世」であり、無分別智によって把捉されるのが「もう一つのこの世」であるといわれる。
・・仏陀は言語の支配から解放され、分別的な認識を停止し、「もう一つのこの世」を経験したのである。これが悟りと言われる体験である。・・分別的な認識がなければ、個体の命もない。したがって死もない。・・「もう一つのこの世」には空間も時間もない。それに気づいて、仏陀は不死を得た。「死が怖ろしい」という思いを超えることができたのである。


分別的な認識を超えて「もう一つのこの世」を悟れば、生死を超えることが出来るだろう。だが、仏陀ならいざ知らず、私たちに「悟る」ことが出来るだろうか?

・・人間は言語の働きを超えて、つまり無分別の認識で「もう一つの世界」を把捉することができる。・・言語は脳の神経回路網として獲得されるので、何の修行もせずに言語の働きを超えることは難しい。・・しかし、悟りと言われる仏陀の体験は、・・他の人間が共有できるものであり、何ら神秘的な事柄ではないのである。

・・人間の認識の仕方は、言語の習得とともに後天的に身に着けたものであり、それゆえに、それが脳の神経回路網として私たちを支配しているとしても、超えられないものではない・・・人間だけが「迷う」とも言えるが、人間だけが真実を覚って、その迷いを自覚するのである。


悟るための修行の実践は厳しく難しい。著者の「百姓暮らし」は修行でもある、という。

・・私の百姓暮らしは社会的な行動であるとともに、修行でもあると自覚された。・・私の百姓暮らしも工業社会では「外から我欲の制御を強いる」生活になる・・百姓が自然から教えられるこの「任せる心」が、自我意識を薄め、ストレスを洗い流してくれる・・

しかし、百姓暮らしも厳しいものだ。

・・百姓暮らしは老人が始めるには困難が多い。肉体を鍛えなければならないだけでなく、身につけている利養と名声(財産と地位)が妨げるからである。「死が怖ろしい」という思いを抱いているあなたが老人なら、あるいはすでに死病を得た人なら、私は親鸞が説いている道を勧める。・・百姓暮らしの道も念仏の道も、同じ場所に私たちを連れていくと私は信じている。

阿弥陀仏の工夫・・は、教えの仕組みによって巧みに「私」の視座を離れさせようとする。・・「私」のはからいを捨てて、「南無阿弥陀仏」と任せるなら、一挙に視野の逆転が生じよう。・・実際には一心に任せることもけっして容易ではない。

「私」のはからいの虚しさが、心底から解ればよいのである。

田辺元の「懺悔道」もまさにこれだと思う。
「この世」についての著者の以下の記述も貴重だ。


しかし仏陀は・・「人間のこの世」を否定したのではない。・・私たちの喜びも悲しみも、「人間のこの世」の中で持たれるのであり、それは人間にとってかけがえのない現実である。私たちは分別的な認識に現れるこの世界で、互いに愛し合い、自然の美しさに感動し、生きたいと切実に願うのだ。