みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

有難うございました

2023-07-26 14:15:25 | ブログ
私は、このブログ上で自分の思いを幾人になりともお届けしたいと、長い間、折々に発信してまいりました。
しかし、世の中は思わぬ方向へ様変わりし、私の思いも言葉に表わし難いことが多くなってまいりました。
そんな次第で、ブログの更新が数カ月間途絶えた次第です。
そして、今に至るも再開の気力を失ったままですので、このブログを一旦、閉じることに致しました。
これまで拙い記事を覗いて下さった皆様に、深く御礼申し上げます。

初音と地鳴き

2023-03-04 08:57:00 | 野鳥
今朝7時頃、ヨタヨタしながら野良仕事をしていたら、裏山の木立から鶯が初音を聞かせてくれた。 オケキョ ケッ ケッ ケッキョ キョケッ たどたどしいが、まぎれもない囀りだ。でも暫くしてから今度は藪の中で ジャッ ジャッ と地鳴き。鶯も私も、冬と春を行ったり来たりの気分だ。

戦争やら環境破壊やらで人類は遠からず自滅するだろうけれど、野鳥たちにとって最悪の天敵である人間どもがいなくなったら、まさにこの世の春で、囀りも一段と美しく高らかに賑やかになることだろう。恐竜から進化したという野鳥たちは、多少の環境変化にも対応出来る生命力が備わっているのかも知れない。それでもいつか太陽系が滅びるときまでには、野鳥たちも他のあらゆる生物種も亡びる宿命ではあろう。

それにしても不思議に思うのは、恐竜の姿として想像されている絵などを見て「美しい」とは感じないのに、恐竜から進化したという野鳥たちの姿を見ると何故「美しい!」と感じるのだろうか? 美しいという感情の由来が不思議だ。



棄権の理由

2023-02-23 14:46:38 | 社会
マスメディアは「気球」で大騒ぎし、「ガーシー議員」で大騒ぎ。
政治はお祭りではない。

暮しを直撃する国家予算の審議もろくにされていないというのに、今日はガーシー議員の懲罰決定のために本会議が開かれたそうだ。この本会議で「れいわ新選組」は「棄権」したという報道が目を引いた。

棄権の理由を説明する「れいわ新選組」の声明文を読んで、深く頷かされた。さすがは「れいわ新選組」!
確固たる政治理念が貫かれている。深くて整然とした理論的な思考がある。大局的な観点と繊細な配慮がある。何よりも庶民の暮しの現実からの視点に揺らぎがない。政治の「哲学」を感じる。

浅はかさをぶら下げたような既成野党に、「れいわ新選組」の爪の垢でも呑ませたい。


内面と外面

2023-02-04 10:08:29 | 仏教
冬籠の間に本棚の整理を少しずつ進めている。
当庵は小坪。家具類は最小限。本棚は1基(前後2重式)のみ。本だけでなく、資料類もファイルに綴じたり封筒に入れたりして納めている。

仏教関係の資料や記録類を整理しながら、1990年代後半頃から浄土真宗の通信教育を受講したり、有志主宰の勉強会に参加する等、私なりに仏教を一所懸命学んでいたことを今更ながら想起した。2010年代半ば頃からは、勉強会主宰者及び参加者の高齢化や他界等で、学ぶ機会が無くなっていった。私自身も気力、体力の衰えが進み、コロナ禍がダメ押しになった感がある。

この20年余の間に、私自身の考え方ないし感じ方がいつの間にか変わってきていることにも改めて気付かされた。

中央仏教学院(西本願寺系)通信教育を卒業後、中原寺(市川市)の「教行信証(親鸞聖人の主著)勉強会」に参加した。門徒でもないのに、通り掛かりの寺の掲示板の表示を見て、いきなり飛び込んだようなものだった。その会で或る日、「私のような信心の無い者が念仏する(=南無阿弥陀仏を称える)ことに意味があるのか?」という質問をしたところ、講師の住職(当時)は少し間を置いてから返答した。「形から入る、ということもありますからね・・」と。

人間は内面(思考)こそ肝心なのであって、外面(形式)に拘るのは無意味、というような価値観が若い頃からの私の脳裏に染み付いていた。だから「形から入る」というテーゼ(?)は意外に感じられたが、逆の言い方をすれば新鮮で、心に残った。

そして今、形とか、様式とか、習慣とか、外面的なことが内面に影響を与えること、場合によっては内面を左右することを実感するようになってきたのだ。例えば故人を追悼するのは、日常生活のどんな場面でもその気になれば(内面で)出来る筈だけれども、故人の墓前で掌を合わせるときに追悼の思いが最も深くなるのが現実だ。

「南無阿弥陀仏」と称える念仏は、仏教(浄土宗系)の伝統文化が育んできた様式である。その様式に親しむことは、内面的にも仏教の伝統へ繋がる働きを齎すのではないか。

「我思う、ゆえに我あり」と、近世哲学の祖デカルトが述べたそうだ。このテーゼにほとんど疑問を抱かなかった私だが、現在の私は、このテーゼは実態の一面に過ぎず、「我あり、ゆえに我思う」ことこそ、根源的な事実ではないか、と思うのだ。




女正月

2023-01-15 10:06:51 | 俳句
きょうⅠ月15日は小正月、女正月ともいうことにあやかって、と言っても今日ではなく近日中なのだが、地元の親友2人を誘って新年昼食会(女子ならぬ婆?会)を予定している。お二人とも農繁期は超多忙だし、お正月は家族と来客のお世話等で忙しい筈。比較的落着いた日々を過ごせるのは今頃ぐらいだろう。私自身も、お二人ほどではないが農繁期はそれなりに忙しい。「女正月」という言葉を親しく感じる。

今日は、年初に頂いた年賀状の整理をしている。たとえ一言であっても手書きの文字が添えられているのは嬉しい。就中、私が深く敬愛する某先輩御婦人の文面は、毎年そうなのだが今年の賀状でも私の心を捉えて離さないものだった。曰く、「俳句は日本語ならではの文学、天は人間(日本人)に俳句という心の糧を与えて下さったのかも知れません」と。

「生きている」つもりが、実は「生かされている」のだ、とは時折聞かされるが、俳句を「やっている」つもりが、実は「与えてもらっている」のだ、という認識を示してもらって、目が醒めるような思いがしている。



上の写真は、常陸総社宮の花手水です。1/6 俳句の会で吟行したときに撮りました。

          餅花も生花も溢れ手水鉢

コチョウゲンボウの激突

2023-01-03 14:01:20 | 野鳥
朝七時頃、ドッーンという物凄い打撃音に驚いて見たら、外縁側に野鳥が一羽うずくまっている。どうやらガラス戸に写った自分を敵あるいは獲物の鳥と誤認識して、猛烈な勢いでガラス戸にぶつかったらしい。 

昨春だったか、同様に当庵のガラス戸にぶつかったホオジロが、衝撃により一命を落としてしまったので、土葬したことがある。
今回はキジバト大ぐらいの中型の野鳥で、命は大丈夫そうだったが、打撃音の凄さから推測すると、翼などにかなりの痛手を受けたのではないかと心配しながら、暫し観察した。

一見してオオタカを小さくしたような猛禽類だが、可愛らしい丸い眼でガラス戸の内側の私を見上げている。写真を撮っておこうかと思った途端、パッと飛び立って林の方へ消えた。ガラス戸激突が致命傷にはならなかったのであれば、よかった!

小型の猛禽類なので、チョウゲンボウかな?とも思ったけれど、図鑑とよく見較べてみたら、更に小型のコチョウゲンボウの雌らしいことが分かった。

八郷で出会った野鳥は、これで69種となりました。

それなりに歳末らしい日々

2022-12-29 14:50:46 | 暮らし
1年365日、独居老人には同じような日々だが、この時期になるとそれなりに歳末らしくなる。
昨日は御近所から搗きたてのお餅と新鮮なレンコンを貰った。レンコンは早速2節を酢レンコンに調理済み。
今日は当部落の区長さん宅へ御挨拶に伺ったら、奥様手作りの奈良漬を頂いた。地元の銘酒の酒粕の匂いが鼻をくすぐる。

御挨拶から帰庵後、右手に杖、左手に竹箒を持ち、2本杖のように使いながら、裏山のお社へ向かった。
雑木林の中にひっそりと佇むこのお社は、隣の部落の氏神様らしいのだが、当庵からは直近の距離で、今の私には10分位、健脚なら3分位の距離だ。
以前は、歳末になると隣部落の人がお社の周りや参道等を落葉掃きして綺麗にして下さっていた。しかしやがて、歳末になっても落葉だらけのまま放置されるようになったので、氏子でもない私が差し出がましいかも・・と躊らいながらも、掃くようになってから10年位経つだろうか。



最近は体の痛みと痺れが酷いので、今回は(小さいお社で参道も短いのに)2日がかりで掃除しようと思いながら、お社に着いた。着いてみて驚いた。なんと、もうすっかり綺麗に掃かれていたのだ!
ホッとした。嬉しかった。隣の部落のどなたかが、思い立って下さったのだろう。来年も次の年も、きっとやって下さることだろう。安心だ。

冬野菜たちに感謝!

2022-12-17 10:12:47 | 菜園
もうすっかり戦時のような気分が世間の人々の心にまで侵蝕していて、鉛を呑み込まされたようなこの頃だ。それでも当菜園の冬野菜たちは、例年以上に元気に育ってくれていて、私の気持を少し穏やかにしてくれる。

          

ほうれん草の栽培が下手な私だが、今年はまあまあの出来。
寒さに強いほうれん草よりももっと寒さに強いターサイは大輪のような葉を広げている。世間ではあまり見向きされない中国野菜だが、炒めると甘味も出て、食べ慣れてくるとなかなかの味わいだ。
やはり中国野菜のコウサイタイは、年明け頃から盛んに伸び出す赤紫色の花茎を食用にする。
真夏に種蒔きして発芽前後の管理に神経を使った人参の葉は、これから少しずつ枯れ気味になるが、掘り上げると色よく形よく美味の人参が採れる。来年の早春まで地中にそのままで大丈夫。
大根は晩夏から初秋が種蒔き時期だけれど、今年は虫害が酷そうな予想をして秋彼岸の頃に蒔いた。従って成長が遅く、例年より細身だけれど、虫害はほとんど無く、味はとびきり上等だ。
赤ネギも、かよわかった苗がいつしか立派に生長して、一株ずつ収穫し、重宝している。

野菜たちに感謝!
この地球上の全ての人々が、こんな野菜たちを栽培し食することが出来る、そんな平和が訪れてほしいのだけれど・・・

句集「無音の火」

2022-12-04 09:22:39 | 俳句
福島の俳人、大河原真青さん(1950~ 『桔槹』同人・『小熊座』同人)の句集「無音の火」(2021.7.21発行)との出会いを得た。
この句集の世界の大きさと奥深さに圧倒され、衝撃に近い感銘を受けた。たった五七五の言葉によって、こんなにも大きく深い世界が開かれるのだ。



高野ムツオ先生(『小熊座』主宰)は、序文でこの句集への大いなる賛辞を送られている。そして、「変化流動そのもののうちに事象の姿を捉えようとするところに真青俳句の独自性が存在する」「時空の向こう側を凝視しようとする意思のまなざしが確かである」等と評されている。

高野ムツオ先生による15句選を以下に引用する。

          荒星や日ごと崩るる火口壁
          被曝の星龍の玉より深き青
          手のひらの川蜷恋のうすみどり
          根の国の底を奔れる雪解水
          窓を打つ火蛾となりては戻り来る
          夏果ての海士のこぼせる雫なり
          七種や膨らみやまぬ銀河系
          沫雪や野生にもどる棄牛の眼
          水草生ふ被曝史のまだ一頁
          野鯉走る青水無月の底を博ち
          骨片の砂となりゆく晩夏かな
          わが町は人住めぬ町椋鳥うねる
          白鳥来タイガの色を眸に湛へ
          凍餅や第三の火の無音なる
          被曝して花の奈落を漂泊す

以上の15句以外も、どの句もどの句も私の心に確かな響きをもたらす。その中から敢えて、おこがましくも私なりに10句選を以下に挙げる。

          影のなき津波の跡も蝶の昼
          死者阿形生者吽形桃の花
          蛍の夜おのが未来に泣く赤子
          原子炉を囲ひて冬の闇無辺
          海鼠切るさびしき穴の次次に
          虚無の縁すれすれを飛ぶ冬の蝶
          影連れて幾人とほる春障子
          魂の寄りそふかたち夜の桃
          皓々と膝頭ある初湯かな
          眸なき石膏の像夏を追ふ

父の自転車の荷台

2022-11-21 13:35:37 | 自分史
3ヶ月ぶりに亡父の樹木葬地へお参りした。夜来の雨も上がり、空はまだどんよりと曇っているけれど、空気が洗われていて快い。



傍らの白木蓮はすっかり黄葉になって、散る前のひとときを惜しんでいるような気配がしていた。
仏花を供え、合掌して南無阿弥陀仏を唱え、そして心の中で「父さん!」と呼び掛けると、ちょっと臆病そうな小さい両目を少し輝かせながら私を見詰めてくれる父の顔が目の前にありありと浮かぶ。

先日の俳句の会で霞ヶ浦の湖岸を吟行したとき、二人連れの釣人が並んで糸を垂らしていた。「子供のとき、釣りに行く父の自転車の荷台に乗せてもらって海辺で遊んでいたのを思い出す」と、私が呟いたら、俳友から「自転車で行けるところに海があったなんて、羨ましいなあ」と言われた。そんな風に思ったことがなかったので、意外だったけれど、確かに当地は海まで遠くて、霞ヶ浦まででも乗用車で1時間以上を要する。

母の異常な性格に怯えていた子供の私にとって、父と二人で過ごす海辺の時間はとても貴重だったことに、今更ながら気が付く。